ゴッホが生きていた時代。一八五三年(嘉永六年)〜一八九〇年(明治二三年)。当時のフランス国家-社会の階級主義的整流器は二つの機関によって集中的に代表されていた。第一に警察機構であり第二に精神医学である。差し当たりアルトーが問題とするのは精神科医である。警察が用いるのはあからさまに目に見える暴力だが精神科医が用いるのはいともやさしげに見える言葉である。暴力という点ではどちらも共通しているが後者の場合、目に見えているのは「やさしげな言葉」であって、そのぶん、よりいっそう狡猾に機能する。次の箇所では性行為が問題とされている。
「性交の際にあなたがご存じの何らかのやり方で、声門から雌鳥のようなコッコという声を出してもらえなかったのであれば、そして同時に咽頭と食道と尿道と肛門からごぼごぼと音を立ててもらえなかったのであれば、あなたは自分が満足していると明言することはできない」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.113~114』河出文庫)
同性愛を含む性行為が問題視され、取り締まりの対象として公然と取り扱われ出したのは近代社会に入ってからのことだ。もっとも、キリスト教保守派は長いあいだ、それを「呪われたもの」として弾劾し続けてはきた。ところが一方、古代ギリシア以来のヨーロッパの伝統として同性愛を含む性行為はまた暗黙の裡に了解されてもいた。キリスト教の教義に則って「祝福」されない同性愛を含む性行為が精神病院送りの対象となったのは古代からすれば意想外に最近のことだ。それはヨーロッパ近代社会の成立とともに始まる。次の文章はアルトーが性行為についてさらに述べた箇所だが弾劾する調子が高まっている。
「そしてあなたの内的器官のびくっとする身震いのうちには、あなたが身につけたある癖があり、それは汚らわしい破廉恥行為の受肉した証拠であって、しかもあなたはその癖を年毎にますます培っている」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.114』河出文庫)
アルトーに言わせれば「汚らわしい破廉恥行為」を連日連夜行なっているのはほかでもないキリスト教徒で溢れかえっている市民社会の側であってキリスト教徒としてのゴッホではない。むしろ実際のゴッホは市民社会の「破廉恥ぶり」と比較すれば比較にならないほど極めて禁欲的であった。しかしゴッホの絵画は違うのである。性行為が問題とされているのは、精神医学を用いて国家-社会が封じ込めようとした或る「破廉恥」、社会的な意味で見せてはならないものをゴッホの絵画は丸見えにさせていたからである。ゴッホの絵画は絵画の側から高度の次元で社会的有機体とは何かという問いを問いかける。社会的自明性を問いに掛ける。さらにその問いを加速的に推し進める。それは一般的な性行為とは何の関係もない。ところが慌てた警察-精神医学は、この危険な「問いかけ」の加速化を阻止し市民社会との接触を切断するためゴッホを精神病院送りにして問題を異常性愛という人為的に創設された次元へ閉じ込めてしまった。
「なぜなら、社会的に言ってそれは法に触れるものではないからであるが、しかしそれはもうひとつ別の法の罰を受ける立場にあり、そこで苦しんでいるのは傷ついた意識全体なのである、なぜならそんな風に振る舞うことによってあなたは意識が呼吸するのを妨げているからだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.114』河出文庫)
アルトーは「もうひとつ別の法の罰」という。それが「神の裁き」であり有機体としての身体への閉じ込めである。有機体というのは何も個々人の身体だけを指すのではない。それ以前に国家-社会体としての有機体が前提されていなくてはならない。その部分的構成要素として個々人の身体のあり方が決定されてくるのであって、その逆ではけっしてない。フーコーから二箇所引いておこう。第一に「獣性」について。近代社会成立以降の監禁社会において、見た目の「獣性」は移動するし実際に移動したという転倒について。
「クートンが狂人たちの動物性を定式化し、彼らがそこでふるまうのは自由にしておいたとき、彼は狂人(フウー)たちを動物性から解放したのではあったが、彼自身の動物性をさらけだし、そこに閉じこもってしまったのである。彼の狂暴さのほうが、狂人(デマン)たちの狂気よりもいっそう気違いじみ、いっそう非人間的だったわけである。こうして、狂気は狂人を見張る番人たちのほうへ移動した。狂人を動物として閉じこめる者のほうが、今や狂気の動物的な野蛮さを保持する者なのである。そうした人々においてこそ獣性は荒れくるうのであり、狂人たちに現われる獣性はその人々の獣性の混沌とした反映にほかならない。一つの秘密があらわになる。というのは、獣性は動物のなかにではなく、それを鎖につなぐ家畜化のなかにあったからである」(フーコー「狂気の歴史・P.499」新潮社)
というように、「狂人」が持ち合わせていると考えられてきた「獣性」というものは「狂人」を監禁するやいなや監禁した側でなく監禁された側の《身体において》ただ単に「そう見える」という形でしか出現しない。その瞬間、「狂気は狂人を見張る番人たちのほうへ移動した」わけである。と同時に監禁した側の「獣性」は覆い隠されてしまう。監禁というたった一つの動作は施されるやいなや二重の意味を出現させる。「狂人を動物として閉じこめる者のほうが、今や狂気の動物的な野蛮さを保持する者なのである」という意味で。ところが監禁における狂気は出現するにもかかわらずその二重性ゆえに監禁する側の「獣性」はたちまち覆い隠されてしまうのである。ドストエフスキー参照。
「フランス人が、いまから二世紀ほど前に、自分の国の最初の気違い病院を建てたとき、『あの連中は自分たちこそ利口な人間であると自分に納得させるために、その国の馬鹿な人間をひとり残らず特別な建物に閉じ込めてしまったのだ』と言ったという、スペイン人がフランス人を皮肉った言葉が思い出される。まさにそのとおりで、いくらほかの人間を気違い病院に閉じ込めたところで、自分の賢さを証明することにはならないのである。『Kが気違いになった、するとつまり、いまではわれわれは賢い人間ということになる』どういたしまして、すぐにそういうことにはならないのである」(ドストエフスキー「作家の日記1・P.124」」ちくま学芸文庫)
さらにパスカル参照。
「人間はもし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほどに、必然的に気が違っているものである」(パスカル「パンセ・四一四・P.255」中公文庫)
第二に監禁の非人道性から病人を解放したフロイトという名の機能について。
「十九世紀の精神医学全体が実際にフロイトという一点へ集中する。彼こそ、医師-病人の組み合せの現実をまじめに受けいれた最初の人であり、その現実から自分の視線と研究とをそらせないことに同意し、その現実を多少とも他の医学的認識と釣合いを保っている一つの精神医学理論のなかに隠そうと努めなかった最初の人、この現実のもたらす結論をきわめて厳密にたどってきた最初の人である。フロイトは、保護院の他のすべての構造の欺瞞を解いた。すなわち、例の沈黙と視線をなくしてしまい、自分自身の光景をうつす鏡のなかでの、狂気じたいによる狂気の認識をやめさせ、有罪宣告をおこなう審判を中止させた。だがそのかわりに、医学的人間をつつむ構造を充分に活用して、その人間の魔術師としての力を増加し、その全能の力にほとんど神のごとき地位をあたえた。この医学的人間のうえに、つまり、完全な現存であるのに不在という形をとって、病人のかげで、そして病人のうえに目をつかむようにしているこの唯一の現存のうえに彼が移しかえたのは、狂人保護院の集団生活のなかにばらばらに区分けされてきた、すべての力であった。彼はそれらを、絶対的な<視線>、純粋でいつも表に出さぬ<沈黙>、言語活動にまで達しない審判によって罰し償う<審判者>に化した。彼はそうした力を鏡、そこでは狂気がほとんど不動の動きのなかで自分に夢中となり、そして自分から離れる鏡と化した。ピネルとテュークが監禁のなかで模様替えしてしまったすべての構造を、フロイトは医師のほうへ移動させたのである。彼ら《解放者たち》が実は病人を疎外してきた保護院の生活から、フロイトは病人を解きはなった。とはいっても、この生活のなかにあった根本的なものから解きはなったのではない。彼はその生活のさまざまの力を集めなおし、それらを最大限に緊張させて、医師の手のなかで結びあわせた。彼は精神分析という状況をつくりだしたのであり、そこでは天才的な一種の短絡的手段によって、錯乱(=疎外)がその解消になるのである。なぜなら、医師において、それは主体となるのだから」(フーコー「狂気の歴史・P.530」新潮社)
フロイトは病者が語ろうとする散り散りばらばらな言語的破片を「結びあわせ」、或る種のモンタージュ(奇妙な合成物)を捏造する。言語化する。言語化なしに「治療」は不可能とされる。この場合問題となっている「治療」とは何か。国家-社会からの要請としての再領土化あるいは国家-社会が精神医学を用いて施す精神的整形手術であるといえる。というのも、言語化するのは病者ではなく、その目の前にいる精神医学者だからである。病者自身の言語は奪われてしまう。病者の振る舞いを押しのけ置き換え上に立ち、今度は精神医学者が病者の主体として語る。病者は《病者自身において》ではなく目の前にいる《医師において》主体化される。病者のすべての振る舞いは国家-社会から派遣された精神医学者が用いる言語によって別物へと変換されて始めて社会的承認を得るほかなくなる。ニーチェ、ゴッホ、アルトーらが生きた時代の精神医学はそのような役割を与えられた国家-社会の権力装置として機能していた。なぜそういうことが可能なのか。或る商品の価値は他の商品の《身体において》始めて出現することができるという不可避的事情を参照しなくてはわからない。
「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)
というふうに。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「性交の際にあなたがご存じの何らかのやり方で、声門から雌鳥のようなコッコという声を出してもらえなかったのであれば、そして同時に咽頭と食道と尿道と肛門からごぼごぼと音を立ててもらえなかったのであれば、あなたは自分が満足していると明言することはできない」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.113~114』河出文庫)
同性愛を含む性行為が問題視され、取り締まりの対象として公然と取り扱われ出したのは近代社会に入ってからのことだ。もっとも、キリスト教保守派は長いあいだ、それを「呪われたもの」として弾劾し続けてはきた。ところが一方、古代ギリシア以来のヨーロッパの伝統として同性愛を含む性行為はまた暗黙の裡に了解されてもいた。キリスト教の教義に則って「祝福」されない同性愛を含む性行為が精神病院送りの対象となったのは古代からすれば意想外に最近のことだ。それはヨーロッパ近代社会の成立とともに始まる。次の文章はアルトーが性行為についてさらに述べた箇所だが弾劾する調子が高まっている。
「そしてあなたの内的器官のびくっとする身震いのうちには、あなたが身につけたある癖があり、それは汚らわしい破廉恥行為の受肉した証拠であって、しかもあなたはその癖を年毎にますます培っている」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.114』河出文庫)
アルトーに言わせれば「汚らわしい破廉恥行為」を連日連夜行なっているのはほかでもないキリスト教徒で溢れかえっている市民社会の側であってキリスト教徒としてのゴッホではない。むしろ実際のゴッホは市民社会の「破廉恥ぶり」と比較すれば比較にならないほど極めて禁欲的であった。しかしゴッホの絵画は違うのである。性行為が問題とされているのは、精神医学を用いて国家-社会が封じ込めようとした或る「破廉恥」、社会的な意味で見せてはならないものをゴッホの絵画は丸見えにさせていたからである。ゴッホの絵画は絵画の側から高度の次元で社会的有機体とは何かという問いを問いかける。社会的自明性を問いに掛ける。さらにその問いを加速的に推し進める。それは一般的な性行為とは何の関係もない。ところが慌てた警察-精神医学は、この危険な「問いかけ」の加速化を阻止し市民社会との接触を切断するためゴッホを精神病院送りにして問題を異常性愛という人為的に創設された次元へ閉じ込めてしまった。
「なぜなら、社会的に言ってそれは法に触れるものではないからであるが、しかしそれはもうひとつ別の法の罰を受ける立場にあり、そこで苦しんでいるのは傷ついた意識全体なのである、なぜならそんな風に振る舞うことによってあなたは意識が呼吸するのを妨げているからだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.114』河出文庫)
アルトーは「もうひとつ別の法の罰」という。それが「神の裁き」であり有機体としての身体への閉じ込めである。有機体というのは何も個々人の身体だけを指すのではない。それ以前に国家-社会体としての有機体が前提されていなくてはならない。その部分的構成要素として個々人の身体のあり方が決定されてくるのであって、その逆ではけっしてない。フーコーから二箇所引いておこう。第一に「獣性」について。近代社会成立以降の監禁社会において、見た目の「獣性」は移動するし実際に移動したという転倒について。
「クートンが狂人たちの動物性を定式化し、彼らがそこでふるまうのは自由にしておいたとき、彼は狂人(フウー)たちを動物性から解放したのではあったが、彼自身の動物性をさらけだし、そこに閉じこもってしまったのである。彼の狂暴さのほうが、狂人(デマン)たちの狂気よりもいっそう気違いじみ、いっそう非人間的だったわけである。こうして、狂気は狂人を見張る番人たちのほうへ移動した。狂人を動物として閉じこめる者のほうが、今や狂気の動物的な野蛮さを保持する者なのである。そうした人々においてこそ獣性は荒れくるうのであり、狂人たちに現われる獣性はその人々の獣性の混沌とした反映にほかならない。一つの秘密があらわになる。というのは、獣性は動物のなかにではなく、それを鎖につなぐ家畜化のなかにあったからである」(フーコー「狂気の歴史・P.499」新潮社)
というように、「狂人」が持ち合わせていると考えられてきた「獣性」というものは「狂人」を監禁するやいなや監禁した側でなく監禁された側の《身体において》ただ単に「そう見える」という形でしか出現しない。その瞬間、「狂気は狂人を見張る番人たちのほうへ移動した」わけである。と同時に監禁した側の「獣性」は覆い隠されてしまう。監禁というたった一つの動作は施されるやいなや二重の意味を出現させる。「狂人を動物として閉じこめる者のほうが、今や狂気の動物的な野蛮さを保持する者なのである」という意味で。ところが監禁における狂気は出現するにもかかわらずその二重性ゆえに監禁する側の「獣性」はたちまち覆い隠されてしまうのである。ドストエフスキー参照。
「フランス人が、いまから二世紀ほど前に、自分の国の最初の気違い病院を建てたとき、『あの連中は自分たちこそ利口な人間であると自分に納得させるために、その国の馬鹿な人間をひとり残らず特別な建物に閉じ込めてしまったのだ』と言ったという、スペイン人がフランス人を皮肉った言葉が思い出される。まさにそのとおりで、いくらほかの人間を気違い病院に閉じ込めたところで、自分の賢さを証明することにはならないのである。『Kが気違いになった、するとつまり、いまではわれわれは賢い人間ということになる』どういたしまして、すぐにそういうことにはならないのである」(ドストエフスキー「作家の日記1・P.124」」ちくま学芸文庫)
さらにパスカル参照。
「人間はもし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほどに、必然的に気が違っているものである」(パスカル「パンセ・四一四・P.255」中公文庫)
第二に監禁の非人道性から病人を解放したフロイトという名の機能について。
「十九世紀の精神医学全体が実際にフロイトという一点へ集中する。彼こそ、医師-病人の組み合せの現実をまじめに受けいれた最初の人であり、その現実から自分の視線と研究とをそらせないことに同意し、その現実を多少とも他の医学的認識と釣合いを保っている一つの精神医学理論のなかに隠そうと努めなかった最初の人、この現実のもたらす結論をきわめて厳密にたどってきた最初の人である。フロイトは、保護院の他のすべての構造の欺瞞を解いた。すなわち、例の沈黙と視線をなくしてしまい、自分自身の光景をうつす鏡のなかでの、狂気じたいによる狂気の認識をやめさせ、有罪宣告をおこなう審判を中止させた。だがそのかわりに、医学的人間をつつむ構造を充分に活用して、その人間の魔術師としての力を増加し、その全能の力にほとんど神のごとき地位をあたえた。この医学的人間のうえに、つまり、完全な現存であるのに不在という形をとって、病人のかげで、そして病人のうえに目をつかむようにしているこの唯一の現存のうえに彼が移しかえたのは、狂人保護院の集団生活のなかにばらばらに区分けされてきた、すべての力であった。彼はそれらを、絶対的な<視線>、純粋でいつも表に出さぬ<沈黙>、言語活動にまで達しない審判によって罰し償う<審判者>に化した。彼はそうした力を鏡、そこでは狂気がほとんど不動の動きのなかで自分に夢中となり、そして自分から離れる鏡と化した。ピネルとテュークが監禁のなかで模様替えしてしまったすべての構造を、フロイトは医師のほうへ移動させたのである。彼ら《解放者たち》が実は病人を疎外してきた保護院の生活から、フロイトは病人を解きはなった。とはいっても、この生活のなかにあった根本的なものから解きはなったのではない。彼はその生活のさまざまの力を集めなおし、それらを最大限に緊張させて、医師の手のなかで結びあわせた。彼は精神分析という状況をつくりだしたのであり、そこでは天才的な一種の短絡的手段によって、錯乱(=疎外)がその解消になるのである。なぜなら、医師において、それは主体となるのだから」(フーコー「狂気の歴史・P.530」新潮社)
フロイトは病者が語ろうとする散り散りばらばらな言語的破片を「結びあわせ」、或る種のモンタージュ(奇妙な合成物)を捏造する。言語化する。言語化なしに「治療」は不可能とされる。この場合問題となっている「治療」とは何か。国家-社会からの要請としての再領土化あるいは国家-社会が精神医学を用いて施す精神的整形手術であるといえる。というのも、言語化するのは病者ではなく、その目の前にいる精神医学者だからである。病者自身の言語は奪われてしまう。病者の振る舞いを押しのけ置き換え上に立ち、今度は精神医学者が病者の主体として語る。病者は《病者自身において》ではなく目の前にいる《医師において》主体化される。病者のすべての振る舞いは国家-社会から派遣された精神医学者が用いる言語によって別物へと変換されて始めて社会的承認を得るほかなくなる。ニーチェ、ゴッホ、アルトーらが生きた時代の精神医学はそのような役割を与えられた国家-社会の権力装置として機能していた。なぜそういうことが可能なのか。或る商品の価値は他の商品の《身体において》始めて出現することができるという不可避的事情を参照しなくてはわからない。
「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)
というふうに。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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