ジュネの詩論が述べられている部分。ポエジーとは何か。実にしばしば語られることだがジュネは恐らく難解に思われて敬遠されることへの不安から様々な語彙を動員して理解者を求めているかのようなのだ。
「ひとりの人間の偉大さは、ただ単に彼の能力や、彼の知性や、それが何であれ彼の天賦の才の作用ではない。それはまた諸々の状況からなっていて、それらの状況は自らにとって支えの役目を果たすために彼を選び取ったのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.346」河出文庫)
一人の人間が社会から或る種の才能を認められるとする。しかしそれはその人間が単独で手に入れたものだけで成立するわけではない。少なくとも二つある。内的条件と外的条件との二つである。周囲の人々あるいは社会自身の側から見れば、何らかの突出した才能を発揮する人間が出現した場合、それを本人の才能に基づいて賞賛することがほとんどである。ところが他方、そのときの外的諸条件、言い換えれば賞賛している側あるいは社会自身が本人を含んでいる以上、その人物の才能を創作し開花させたのはほかならなぬ外的諸条件の側でもある。ジュネは作品「花のノートルダム」において、このような機会に遭遇する人生を自分で自分自身に与えるとともに周囲の社会的環境から否定という形で与えられたことについて、二重化された「断絶の地点における出会い」であると考えており読者の側から見てそう思えることがもしあるとすれば「そのときそれは詩的である」と述べるのである。
「偉大な運命をもっているならば偉大であるが、この偉大さは、目に見える、測定できる大きさの領域にある。それは外から見た華麗さである。内側から見れば恐らく哀れなものだが、もしあなたたちにポエジーとは目に見えるものと見えないものとの断絶(というかむしろ断絶の地点における出会い)であると認めてもらえるならば、そのときそれは詩的である」(ジュネ「花のノートルダム・P.346」河出文庫)
言語表現はいつも作者を裏切るようにできている。それは或る種の詩を出現させると同時に一方で大変多くの他のものを覆い隠してしまうからである。作者は創作する側なのでいつもその事情について敏感にならざるを得ない。とりわけジュネのような書き手が小説に取り組んでみると思いのほか途切れることなく延々と引き続いていってしまうものだ。誤解を避けようとすればするほど文章は細かく文節されどこまでも長々と深くなる傾斜の縁ばかりをどんどん下っていく。この傾斜をもっと詳細に理解されるよう努力すればするほどかえって難解で長大な深淵の縁をぐるぐる廻り続けるといった悪循環へおちいってしまう。求めていた理解はなぜか急速に遠ざかることになるという逆説を出現させる。下っていくことを上がっていくという言葉へ置き換えてみても事情が変わるわけではない。言語はそもそも発明されるやいなやそのようなものとしてしか機能しないようにできている。ところが作者の内的な作業と社会的な外的諸条件とが「断絶の地点における出会い」という形を取ったとき、それは「詩」として出現することができる。ただそれがまさしく「詩」だと認識された瞬間、すでに両者の「断絶の地点における出会い」は一瞬の閃光として瞬発した後なのだ。ジュネはそれをポエジーと呼び、だからいつも瞬間における郷愁(ノスタルジー)としてしか出現することのないものへの愛しみを伴うかのような深い慈愛の情を滲ませた文体でのみ、それ(詩)は作品として描かれるという事情について述べることをしばしば繰り返すのである。ところで残されているのは作業はほとんどない。総括を残すばかりである。次が最後だ。「葬儀」、「ブレストの乱暴者」、「泥棒日記」といった代表作において共通している総括。それは個々の小説はばらばらなのだが総括というより総括者の質的一致において現れる。
ーーーーー
さて、アルトー。タラウマラ族について歌うことに忙しい。というのもアルトーはタラウマラへの旅を通して、さらに彼らの儀式に参加して、半分はタラウマラへ変化したからである。この事情は悲劇ではない。しかし喜劇ではなおさらない。身体の半分をタラウマラへ変化させたアルトーが語っている。アルトーの手がそう書かせるからだ。
「タラウマラ族が文明を持たないなどというのは嘘である。人はそのとき文明というものを単なる肉体的安逸、物質的便利さに還元しているが、タラウマラの種族はいつもこうしたことを軽蔑してきた」(アルトー『タラウマラ・P.106』河出文庫)
次に「観念の高度な生」という表現が出てくる。それは難解なものではない。「神の裁きと訣別するため」について述べられていることの最初の反復というべきだろう。生まれながらの俗世間の身体からの脱有機体運動というべき「器官なき身体」。強度しか残されていないが強度なしには動きもしないしとりわけ動くことはできない絶え間なく流動する力のことだ。アルトーは「観念」と呼ぶのでわかりにくいのだが。器官というものはそもそもばらばらであって死の別名でしかないが、流動する力と合体することで目に見える身体は様々な身振り仕ぐさを演じることができる。そこからあえて「文明」の名で枷を科された束縛に等しい器官をさらに振るい落とす作業に相当する脱有機体化を目指す。
「真実なのは、タラウマラ族が自分の肉体の生を軽蔑し、もっぱら彼らの観念によって生きているということである。彼らはこれらの観念の高度な生と、たえまない、ほとんど魔術的な交信状態にある、と私は言いたい」(アルトー『タラウマラ・P.107』河出文庫)
タラウマラ族の集落について少しばかり記述がある。
「タラウマラのそれぞれの村の入り口にはまず十字架があり、山の四方位に立つ十字架で囲まれている。これはキリスト教の十字架、カトリックの十字架ではなく、空間に分散した<人>の、両腕を開いた不可視の、四方位に釘付けされた<人>の十字架なのである」(アルトー『タラウマラ・P.107』河出文庫)
広い意味ではタラウマラの山脈全体がこのような記号で処理され得るものとして古代から連綿と定義づけられているのだが。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「ひとりの人間の偉大さは、ただ単に彼の能力や、彼の知性や、それが何であれ彼の天賦の才の作用ではない。それはまた諸々の状況からなっていて、それらの状況は自らにとって支えの役目を果たすために彼を選び取ったのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.346」河出文庫)
一人の人間が社会から或る種の才能を認められるとする。しかしそれはその人間が単独で手に入れたものだけで成立するわけではない。少なくとも二つある。内的条件と外的条件との二つである。周囲の人々あるいは社会自身の側から見れば、何らかの突出した才能を発揮する人間が出現した場合、それを本人の才能に基づいて賞賛することがほとんどである。ところが他方、そのときの外的諸条件、言い換えれば賞賛している側あるいは社会自身が本人を含んでいる以上、その人物の才能を創作し開花させたのはほかならなぬ外的諸条件の側でもある。ジュネは作品「花のノートルダム」において、このような機会に遭遇する人生を自分で自分自身に与えるとともに周囲の社会的環境から否定という形で与えられたことについて、二重化された「断絶の地点における出会い」であると考えており読者の側から見てそう思えることがもしあるとすれば「そのときそれは詩的である」と述べるのである。
「偉大な運命をもっているならば偉大であるが、この偉大さは、目に見える、測定できる大きさの領域にある。それは外から見た華麗さである。内側から見れば恐らく哀れなものだが、もしあなたたちにポエジーとは目に見えるものと見えないものとの断絶(というかむしろ断絶の地点における出会い)であると認めてもらえるならば、そのときそれは詩的である」(ジュネ「花のノートルダム・P.346」河出文庫)
言語表現はいつも作者を裏切るようにできている。それは或る種の詩を出現させると同時に一方で大変多くの他のものを覆い隠してしまうからである。作者は創作する側なのでいつもその事情について敏感にならざるを得ない。とりわけジュネのような書き手が小説に取り組んでみると思いのほか途切れることなく延々と引き続いていってしまうものだ。誤解を避けようとすればするほど文章は細かく文節されどこまでも長々と深くなる傾斜の縁ばかりをどんどん下っていく。この傾斜をもっと詳細に理解されるよう努力すればするほどかえって難解で長大な深淵の縁をぐるぐる廻り続けるといった悪循環へおちいってしまう。求めていた理解はなぜか急速に遠ざかることになるという逆説を出現させる。下っていくことを上がっていくという言葉へ置き換えてみても事情が変わるわけではない。言語はそもそも発明されるやいなやそのようなものとしてしか機能しないようにできている。ところが作者の内的な作業と社会的な外的諸条件とが「断絶の地点における出会い」という形を取ったとき、それは「詩」として出現することができる。ただそれがまさしく「詩」だと認識された瞬間、すでに両者の「断絶の地点における出会い」は一瞬の閃光として瞬発した後なのだ。ジュネはそれをポエジーと呼び、だからいつも瞬間における郷愁(ノスタルジー)としてしか出現することのないものへの愛しみを伴うかのような深い慈愛の情を滲ませた文体でのみ、それ(詩)は作品として描かれるという事情について述べることをしばしば繰り返すのである。ところで残されているのは作業はほとんどない。総括を残すばかりである。次が最後だ。「葬儀」、「ブレストの乱暴者」、「泥棒日記」といった代表作において共通している総括。それは個々の小説はばらばらなのだが総括というより総括者の質的一致において現れる。
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さて、アルトー。タラウマラ族について歌うことに忙しい。というのもアルトーはタラウマラへの旅を通して、さらに彼らの儀式に参加して、半分はタラウマラへ変化したからである。この事情は悲劇ではない。しかし喜劇ではなおさらない。身体の半分をタラウマラへ変化させたアルトーが語っている。アルトーの手がそう書かせるからだ。
「タラウマラ族が文明を持たないなどというのは嘘である。人はそのとき文明というものを単なる肉体的安逸、物質的便利さに還元しているが、タラウマラの種族はいつもこうしたことを軽蔑してきた」(アルトー『タラウマラ・P.106』河出文庫)
次に「観念の高度な生」という表現が出てくる。それは難解なものではない。「神の裁きと訣別するため」について述べられていることの最初の反復というべきだろう。生まれながらの俗世間の身体からの脱有機体運動というべき「器官なき身体」。強度しか残されていないが強度なしには動きもしないしとりわけ動くことはできない絶え間なく流動する力のことだ。アルトーは「観念」と呼ぶのでわかりにくいのだが。器官というものはそもそもばらばらであって死の別名でしかないが、流動する力と合体することで目に見える身体は様々な身振り仕ぐさを演じることができる。そこからあえて「文明」の名で枷を科された束縛に等しい器官をさらに振るい落とす作業に相当する脱有機体化を目指す。
「真実なのは、タラウマラ族が自分の肉体の生を軽蔑し、もっぱら彼らの観念によって生きているということである。彼らはこれらの観念の高度な生と、たえまない、ほとんど魔術的な交信状態にある、と私は言いたい」(アルトー『タラウマラ・P.107』河出文庫)
タラウマラ族の集落について少しばかり記述がある。
「タラウマラのそれぞれの村の入り口にはまず十字架があり、山の四方位に立つ十字架で囲まれている。これはキリスト教の十字架、カトリックの十字架ではなく、空間に分散した<人>の、両腕を開いた不可視の、四方位に釘付けされた<人>の十字架なのである」(アルトー『タラウマラ・P.107』河出文庫)
広い意味ではタラウマラの山脈全体がこのような記号で処理され得るものとして古代から連綿と定義づけられているのだが。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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