白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義6

2020年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホの絵画はニーチェのいう「別様の感じ方」をした人間によって描かれたものだ。それは他の様々な意味で突出した芸術家の作品同様、社会の側から「手ひどい」攻撃にさらされる。というのも、「別様の感じ方」をした人間によるあらゆる作品は、最初、社会の側に「手ひどい混乱を与える」からである。ゴッホはしばしば精神的不調に苦悩する人間の一人ではあったもののアルトーのいうように「狂人ではなかった」ということができる。

「ヴァン・ゴッホは狂人ではなかった、だが彼の絵画はギリシアの火炎砲、原子爆弾であって、そのヴィジョンのアングルは、当時のさばっていた他のすべての絵画に比べて、第二帝政期のブルジョワジー、ならびにナポレオン三世のそれと同じく、ティエールやガンベッタやフェリックス・フォールのごろつきどもの芽生えたばかりの順応主義に手ひどい混乱を与えることができるようなものだった」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)

しかしゴッホにすれば、そう見えるものをその通りに描かずにはおれないし、ただそう思う通りに描いたに過ぎないわけだが。極めて自然に振る舞った。しかし社会の側はゴッホに何かを見抜かれたと感じた。ゴッホの絵画は社会風刺ではまったくない。社会を攻撃しようとしたわけではなおさらない。ゴッホは書簡の中でこう書いている。

「ミレーの複製を送ってくれてとてもうれしかった。熱心に製作中だ。芸術的なものを見ないと、僕はたるんでしまう、元気が出た。《夜なべ》を仕上げ、《土を掘る人》、《上着をきる男》はいずれも三十号画布だが、《種まき》はもっと小さい。《夜なべ》は紫色と柔らかいリラ色の色調だし、薄いレモン色のランプの光、それにオレンジ色の炎と、赤茶色(オークル・ルージュ)の男がいる。君にも見せたい。ミレーの素描から油絵にするのは、模写するというよりも他国の言葉に翻訳するようだ」(「ゴッホの手紙・下・P.216」岩波文庫)

ミレー「種まく人」は多くの人々に親しまれている。ゴッホもまた何度もミレー「種まく人」を模写し「油絵」に置き換えて反復している。しかし素材は同じでもミレーのそれは社会に容易に受け入れられていた一方、ゴッホのそれは誹謗中傷を浴びた。なぜだろう。

「というのも、ヴァン・ゴッホの絵画が攻撃するのは、何らかの風俗習慣の順応主義ではなく、まさに体制の順応主義そのものだからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)

しかしミレー「種まく人」が「体制の順応主義」に沿ったものだったわけではない。国家の許容範囲の内部に収まった、創成期の資本主義によって回収可能だったからである。ところがゴッホの場合、国家-社会はもとより、資本主義にとってはまだまだ回収不可能な領域を丸見えに晒してしまっていた。ゴッホ作品の中で何かを攻撃しようとして描かれたものなど一つもない。しかし一般大衆はともかく、国家-社会の側からみると、アルトーのいうように「体制の順応主義そのもの」を攻撃しているかのように映って見えた。ゴッホは社会の無理解に困惑した。

ゴッホの動作には二つの理由が認められる。第一に、ミレーやゴーギャンにはなるほどそう見えるかもしれない。だが自分には「別様に見える」という身振り仕ぐさ。この身振り仕ぐさは《他者》のものだ。国家-社会の側がゴッホの絵画を認めなかったのはゴッホの絵画が見えなかったからではなく逆に或る《他者性》を見たからである。当時のヨーロッパ中心主義から見れば明らかに危険なもの、アルトーの言葉にしたがえば「ギリシアの火炎砲」、「原子爆弾」に見えた。第二に、ゴッホが書簡で述べるのではなく、ゴッホの絵画を見る側に向けて、絵画が絵画自身で語りかけてくることだ。たとえば有名な「アルルの寝室」。ゴッホにはこう見える、だからこう描かれたというだけではない。むしろゴッホはこうであろうと《欲する》がゆえにこう描いた。ゴッホは知らず知らずのうちに絵画の世界に《欲望》を導入し《生産》したのだ。ゆがんで見えると人はいうかもしれない。そんなことは承知の上でこう描くことを欲した。ミレー「種まく人」は風景として受動的な態度に立って描かれているように見える。それを模写したゴッホ「種まく人」はミレーのただ単なるレプリカではなく能動的模写である。だからデジャヴュはあるものの、全然別ものに仕上がっている。ただそれだけのことに過ぎない。しかし国家-社会の側はこの、「ただそれだけ」であっても確実にそこにある《他者性》に関して我慢ならなかった。異端者には容赦のない社会だったというより、当時の国家-社会というものはそもそも、異端者に出くわすやいなや容赦のない迫害者へと急変し団結する。

「そして外部の自然でさえも、その気候風土、その潮汐、そしてその彼岸嵐ともども、ヴァン・ゴッホが地上を通過した後では、もはや同じ引力を保つことはできない」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)

そうアルトーは述べる。事実、その通りだとしよう。するとゴッホの絵画は欲望する諸機械の部分として極めて資本主義的な流れを形づくってはいないだろうか。流動してはいないだろうか。あちこちアナーキーな部分だらけであるがゆえにそのアナーキーをこそ自分の動力として見る者を次々と直撃し打ち倒しいつまでも吹き荒れる暴風あるいは稲妻のようではなかろうか。資本の人格化としての資本家が、ではなく、資本主義は一方でアナーキー(無政府性)しか知らないし、ところが他方でアナーキー(無政府的)なものの奇妙な統一性であるように。ゴッホは社会とかその構造を対象化しようとしたことなど一度もない。ところがゴッホは欲望の生産に成功した。その自画像は解体している、少なくとも歪んでいる、と言われる。それはゴッホがそう《欲した》からにほかならない。解体せずして再び循環し回帰することはできない。だからといってゴッホが永遠回帰を願ったなどと考えるとしたらそれもまた勘違いなのだ。ゴッホの絵画は欲望を導入しそれを生産再生産していく諸力の運動であり同時に実践である。ゴッホは引き裂かれたのではなく引き裂いた冒険者の中の一人であり、その意味で歴史的人物だといえる。引き裂いたがゆえに引き裂かれた人々の中の一人なのだ。だから民主主義はいつも後になって、少し遅れてやって来る。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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