言語の価値について。言葉というものは常に流通していなければ死語化する。だが一方、いったん流通し出すと同時に価値〔意味部分〕が生じる。そしてこの価値〔意味部分〕は流通することで、移動することで、移動すればするほど、その価値〔意味部分〕を変動させていく。だからシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とは二分割されているといえる。さらにソシュールが論じたように、シニフィアンとシニフィエとのあいだは密着していない。差し当たり境界線を引いて分割することで説明することはできるが、そのあいだは、どこまで行っても或る《あいだ》が開いたままになっている。シニフィエ(意味)の変化は、この《あいだ》が、ただ「ある」というだけで起こるわけではなく、それが《動いた》瞬間に発生する。ただ単なるサインではなくなる。だから動植物が用いるただ単なるサインと人間が用いる言語とは似てはいるけれども全然違う必要物である。動植物もときおり失敗する。サインを読み違える。自然界ではしばしば起こりうる例外であって無視してよい。問題は動植物にはなく人間が言葉を使用するときに発生する。言語とはそういうものだ。そういう言語を用いて始めて或る人間と他の人間とのコミュニケーションは可能になるだけでなく言語を用いないかぎりコミュニケーションできているのかできていないのかわからないという事情から人間の可能性も不可能性もともに生じる。シニフィエ(価値〔意味部分〕)は運輸業の生産過程と似ている。次のように。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)
文学の場合、作者の創作態度の変化は作品の意味内容の変化として読者に読み取られる。読者によって読み取られないかぎり、作者の態度の変化あるいは作者が伝達したいと欲しているものの変化は読み取られることができない。それはほとんど多くの場合、作品の文体の変化となって固定されて出現する。たとえば夏目漱石のケースでは有力な読解方法が幾つかあるけれども、どれを選択するにしても大変わかりやすい。最も難解とされる柄谷行人の漱石論でさえ、一度その「ねた」に気づいてしまえば理解はいとも容易である。マルクス、ニーチェ、フロイトをほぼそのまま適用させれば設計図はもう見えたようなものだ。とはいえ批評として構築する作業はそれほど容易に実現できたわけではないだろう。フーコー、ドゥルーズ、デリダを経由していなかったとしたら後にも先にも批評家=柄谷行人はなかったと言える。いっとき、日本のネット社会で「柄谷行人を解体する」とかいうテーマが賑っていたことがあった。今では閑散としている。柄谷行人は今なお変化し続けているにもかかわらず。変化が可能なのは移動の《あいだ》で生じてこないわけにはいかない差異に依存している。この差異が何らかの価値を発生させる。増大であれ減少であれ。差し当たり量的な差異は一定程度を越えるやいなや質的に転化する。しばらくして振り返ってみて始めて一定程度とはどの程度だったのかを推測することができる。だから価値変化の分析はいつも事後的に始まるだけでなく事後的にでしか始めることはできない。このようにして、シニフィエ(意味されるもの)は移動中に変化する、あるいは価値を変動させるということができる。この種の作品は読者を生産する傾向を有する作品であり古典的価値を持つ。難解だからではなく逆に容易だからだ。社会の変容過程をそのままコピーしたような作品でありその意味では筋が通っていない箇所が続出している。それはそのまま明治近代国家の筋の通らなさ、複雑骨折ぶり、同時多発脱臼ならびに圧縮による。しかしそれらはどれもむき出しであって目に見えていた。暴力的だったが余りにもひどく目に見える暴力装置が猛威を振るっていたぶん、逆説的に言い換えれば「健全な/わかりやすい」暴力とでもいえたのも知れない。
漱石を読むとき、最初はなるほど意図がなかなか読みきれず戸惑いはする。けれども読んでいるうちになぜ読者はいずれかの方法論を手に入れることができるのだろうか。それは明治近代国家というものが極めて形式化しやすい、論理的にマッピングしやすい社会だったことを前提として、しかも全裸で横たわっていたからである。その意味ではラカンのいう「象徴界、想像界、現実界」という道具をうまく適用させて語ることすら容易に思えるほど見え見えの社会だったに違いない。帝国主義というシステムは前代未聞の怪物として出現したにもかかわらずその読解のための道具立てはその都度その都度ほぼ同時に出揃っており、社会自身がそれほど複雑でなかったとも言いうる。ところがネット社会はまた全然違っている。作品読解にもしラカン理論を適用するとすればせいぜい帝国主義崩壊までのことだ。そもそも現代社会というとき人々は何を頭に思い浮かべているのだろう。たとえば新型ウイルス問題で全面的に覆い隠されている「8050問題」など。なおこれまでも、あえて「コロナ」と省略しないのは、日本語にありがちな音韻のリズムから考えて、極端なマイナスイメージを与えられたまま差別語として定着してしまいそうな空気で充満しているからであることを断っておきたい。そんなわけで話は宙吊りのまま、今日は今日の風しか吹くことができない。
ーーーーー
なお現在、日本政府が必死になってやっていることについて。確実に言えることだけは言わねばならない。
「労働手段は大部分は産業の進歩によって絶えず変革される。したがって、それは、元の形でではなく変革された形で補填される。一方では、大量の固定資本が一定の現物形態で投下されていてその形態のままで一定の平均寿命だけもちこたえなければならないということが、新しい機械などが徐々にしか採用されないことの原因にもなっており、したがってまた、改良された労働手段の急速な一般的な採用を妨げる障害にもなっている。他方では、競争戦が、ことに決定的な変革にさいしては、古い労働手段が自然死の時期に達する前にそれを新しいものと取り替えることを強制する。このように事業設備をかなり大きな社会的規模で早期に更新することを強要するものは、おもに災害や恐慌である」(マルクス「資本論・第二部・第二篇・第八章・P.276~277」国民文庫)
そして地球環境問題だが、再生エネルギー開発だけを取り出せばそれはそれで悦ばしいことなのかもしれない。しかし最初に取り組むべき課題、原発をどうするのか。原発を廃止しないかぎり再生エネルギーという言葉ばかりを幾ら連呼してみたところで、所詮それは原発の補完装置として、原発の下請けとしての動作環境しか与えられないし、国策として開始された原発をいかに終息させるかということへ移動しなければ時間がない。
さらに。「ロシア革命」を「消化した」資本主義は自分で社会主義的政策を引き受けることでソ連解体に成功したわけだが、今回の新型ウイルス問題で新たな事実が発覚した。少なくとも日本では、国家が引き受けるべきであり引き受けたはずだった公理系の創設は、東京都はともかく、その他膨大な数の地方自治体では引き受けられていなかったことを認めなければならない。五十五年体制を支持した有権者が基礎をつくり、高度成長期に完成し、一九八〇年代バブルであっけなく瓦解した日本。その後、なぜ冷戦終結にもかかわらず公理系の必然的重要性から見る場合、他の先進諸国と比較して圧倒的に多い公理系の誤作動が続出してきたのか。その理由が暴露された。ロシアの脅威に怯えていたわりに、どこまで茶番だったのだろうか。社会福祉部門を資本主義自身が責任を持って公理系化し公理系化されることで資本主義は延々と延命していくことができる。ところが東京都を除く地方都市ではとてもではないが社会福祉部門もともに創設されたというにはほど遠い実態が世界中に知れ渡ってしまった。日本の市民社会は種子も仕掛けもある単なる手品を見せられてものの見事に騙され続けていたのだった。つい前日、滋賀県での実話なのだが、二人の女性高齢者が電車の車内で話しているのを耳にした。女性の夫が高熱のため救急車で病院へ搬送されて検査を願い出たが、出てきた医師がゴーグルと防護服で武装したかのような服装で登場し、検査はされず、問診だけで済ませ、後は保健所へ相談してくれと言われて保健所へ相談すると今は対応できないような話で実質的には検査待ちでありしかもいつになれば検査してもらえるのかわからないとのことだった。連れの女性からいったいどの病院なのかという問いを振られた女性は、病院の実名を口にすればもしかしたら知らないうちに襲撃されて殺害されただ単なる事故で処理されるかもしれないと考えてしまったのかもしれない。恐怖と不安が一挙につのってきたようで途端に無言になり、それきりずっと黙り通していた。肝心の救急搬送先が県内か県外かも言わない。東京都以外の他の地方自治体も似たようなものなのか、それとも滋賀県だけが取り残されているのか、さっぱりわからずただただNHKが政府を代弁していつ何を公式発表するのか、あるいはしないのか、高齢者、とりわけ後期高齢者は恐怖と不安に駆られて震えているばかりのようだった。
そしてまた、経済学の一つの理論的分野として数学を基礎に置きこつこつと研究が続けられてきた「数理経済学」について。統計学上の数字をもとに独自に算出された数値を基礎として仮説を設定しそこから新しい経済学を構築する方法として出発した分野だが今なお経済学としては未完のままに自然消滅してしまう公算が高いらしい。その理由だが事情が込み入っているらしくよくわからない。東大/京大の研究室内部のことなので、ということもありはするけれども。それより遥かにこれまで算出されてきた数値というのはここ数年で一挙に明らかになったようにーーーたとえばつい最近発覚した「スルガ銀行」は有名だがーーー改竄まみれであることが判明したからである。改竄だらけの世界であったことが表面化した今、それらの統計を基礎に置いたすべての経済学研究はどのような数式を発明しても信用を維持できない状態のまま空っぽの研究に打ち込むほかなくなる。だからニーチェはすでにいっていた。
「《自称学問としての言語》。ーーー文化の発展に対する言語の意義は、言語において人間が他の世界に並ぶ一つの自分の世界をうちたてた、ほかの世界を土台から変えて自分がそれに君臨できるほど、それほど堅固であると考えたような一つの立脚点をうちたてた、という点にある。人間は、事物の概念や名称を《永遠の真理》であると長い期間を通じて信じてきたことによって、動物を眼下に見下ろしたあの誇りをも身につけてきたのである。じっさい彼は言語をもつことが世界の認識をもつことだと思いこんだ。言語の形成者は、自分が事物にほんの記号を与えているにすぎない、と信じるほどには謙虚でなく、むしろ彼は、事物に関する最高の知を言葉で表現したのだ、と妄想した。事実、言語は学問のための努力の第一段階なのである。ここでもまた、もっとも強い力の泉が湧きでてきた源は、《真理をみつけたという信仰》である。ずっと後になってーーー今やはじめてーーー言語を自分たちが信仰してきたためにとんでもない誤謬を流布してしまったということが、人々の意識にのぼってくる。さいわいにもあの信仰にもとづく理性の発展をふたたび逆行せしめるには、もう手遅れである。ーーー《論理学》もまた現実世界には決して相応じるもののない前提、たとえば諸事物の一致とか異なった時点における同じ事物の同一性とかいう前提にもとづいている、だがその学問は現実とは相反する信仰(そのようなものが現実世界にたしかにあるということ)によって成立したのである。《数学》に関しても事情は同様である。もしはじめから自然には決して精密な直線とかほんとうの円とか大きさの絶対的な尺度などはない、と知られていたら、数学はきっと成立していなかったであろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・第一章・十一・P.34~35」ちくま学芸文庫)
改竄の必要などない。数字は、したがって数学もまた、いつもすでに仮説でしかないと。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
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「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)
文学の場合、作者の創作態度の変化は作品の意味内容の変化として読者に読み取られる。読者によって読み取られないかぎり、作者の態度の変化あるいは作者が伝達したいと欲しているものの変化は読み取られることができない。それはほとんど多くの場合、作品の文体の変化となって固定されて出現する。たとえば夏目漱石のケースでは有力な読解方法が幾つかあるけれども、どれを選択するにしても大変わかりやすい。最も難解とされる柄谷行人の漱石論でさえ、一度その「ねた」に気づいてしまえば理解はいとも容易である。マルクス、ニーチェ、フロイトをほぼそのまま適用させれば設計図はもう見えたようなものだ。とはいえ批評として構築する作業はそれほど容易に実現できたわけではないだろう。フーコー、ドゥルーズ、デリダを経由していなかったとしたら後にも先にも批評家=柄谷行人はなかったと言える。いっとき、日本のネット社会で「柄谷行人を解体する」とかいうテーマが賑っていたことがあった。今では閑散としている。柄谷行人は今なお変化し続けているにもかかわらず。変化が可能なのは移動の《あいだ》で生じてこないわけにはいかない差異に依存している。この差異が何らかの価値を発生させる。増大であれ減少であれ。差し当たり量的な差異は一定程度を越えるやいなや質的に転化する。しばらくして振り返ってみて始めて一定程度とはどの程度だったのかを推測することができる。だから価値変化の分析はいつも事後的に始まるだけでなく事後的にでしか始めることはできない。このようにして、シニフィエ(意味されるもの)は移動中に変化する、あるいは価値を変動させるということができる。この種の作品は読者を生産する傾向を有する作品であり古典的価値を持つ。難解だからではなく逆に容易だからだ。社会の変容過程をそのままコピーしたような作品でありその意味では筋が通っていない箇所が続出している。それはそのまま明治近代国家の筋の通らなさ、複雑骨折ぶり、同時多発脱臼ならびに圧縮による。しかしそれらはどれもむき出しであって目に見えていた。暴力的だったが余りにもひどく目に見える暴力装置が猛威を振るっていたぶん、逆説的に言い換えれば「健全な/わかりやすい」暴力とでもいえたのも知れない。
漱石を読むとき、最初はなるほど意図がなかなか読みきれず戸惑いはする。けれども読んでいるうちになぜ読者はいずれかの方法論を手に入れることができるのだろうか。それは明治近代国家というものが極めて形式化しやすい、論理的にマッピングしやすい社会だったことを前提として、しかも全裸で横たわっていたからである。その意味ではラカンのいう「象徴界、想像界、現実界」という道具をうまく適用させて語ることすら容易に思えるほど見え見えの社会だったに違いない。帝国主義というシステムは前代未聞の怪物として出現したにもかかわらずその読解のための道具立てはその都度その都度ほぼ同時に出揃っており、社会自身がそれほど複雑でなかったとも言いうる。ところがネット社会はまた全然違っている。作品読解にもしラカン理論を適用するとすればせいぜい帝国主義崩壊までのことだ。そもそも現代社会というとき人々は何を頭に思い浮かべているのだろう。たとえば新型ウイルス問題で全面的に覆い隠されている「8050問題」など。なおこれまでも、あえて「コロナ」と省略しないのは、日本語にありがちな音韻のリズムから考えて、極端なマイナスイメージを与えられたまま差別語として定着してしまいそうな空気で充満しているからであることを断っておきたい。そんなわけで話は宙吊りのまま、今日は今日の風しか吹くことができない。
ーーーーー
なお現在、日本政府が必死になってやっていることについて。確実に言えることだけは言わねばならない。
「労働手段は大部分は産業の進歩によって絶えず変革される。したがって、それは、元の形でではなく変革された形で補填される。一方では、大量の固定資本が一定の現物形態で投下されていてその形態のままで一定の平均寿命だけもちこたえなければならないということが、新しい機械などが徐々にしか採用されないことの原因にもなっており、したがってまた、改良された労働手段の急速な一般的な採用を妨げる障害にもなっている。他方では、競争戦が、ことに決定的な変革にさいしては、古い労働手段が自然死の時期に達する前にそれを新しいものと取り替えることを強制する。このように事業設備をかなり大きな社会的規模で早期に更新することを強要するものは、おもに災害や恐慌である」(マルクス「資本論・第二部・第二篇・第八章・P.276~277」国民文庫)
そして地球環境問題だが、再生エネルギー開発だけを取り出せばそれはそれで悦ばしいことなのかもしれない。しかし最初に取り組むべき課題、原発をどうするのか。原発を廃止しないかぎり再生エネルギーという言葉ばかりを幾ら連呼してみたところで、所詮それは原発の補完装置として、原発の下請けとしての動作環境しか与えられないし、国策として開始された原発をいかに終息させるかということへ移動しなければ時間がない。
さらに。「ロシア革命」を「消化した」資本主義は自分で社会主義的政策を引き受けることでソ連解体に成功したわけだが、今回の新型ウイルス問題で新たな事実が発覚した。少なくとも日本では、国家が引き受けるべきであり引き受けたはずだった公理系の創設は、東京都はともかく、その他膨大な数の地方自治体では引き受けられていなかったことを認めなければならない。五十五年体制を支持した有権者が基礎をつくり、高度成長期に完成し、一九八〇年代バブルであっけなく瓦解した日本。その後、なぜ冷戦終結にもかかわらず公理系の必然的重要性から見る場合、他の先進諸国と比較して圧倒的に多い公理系の誤作動が続出してきたのか。その理由が暴露された。ロシアの脅威に怯えていたわりに、どこまで茶番だったのだろうか。社会福祉部門を資本主義自身が責任を持って公理系化し公理系化されることで資本主義は延々と延命していくことができる。ところが東京都を除く地方都市ではとてもではないが社会福祉部門もともに創設されたというにはほど遠い実態が世界中に知れ渡ってしまった。日本の市民社会は種子も仕掛けもある単なる手品を見せられてものの見事に騙され続けていたのだった。つい前日、滋賀県での実話なのだが、二人の女性高齢者が電車の車内で話しているのを耳にした。女性の夫が高熱のため救急車で病院へ搬送されて検査を願い出たが、出てきた医師がゴーグルと防護服で武装したかのような服装で登場し、検査はされず、問診だけで済ませ、後は保健所へ相談してくれと言われて保健所へ相談すると今は対応できないような話で実質的には検査待ちでありしかもいつになれば検査してもらえるのかわからないとのことだった。連れの女性からいったいどの病院なのかという問いを振られた女性は、病院の実名を口にすればもしかしたら知らないうちに襲撃されて殺害されただ単なる事故で処理されるかもしれないと考えてしまったのかもしれない。恐怖と不安が一挙につのってきたようで途端に無言になり、それきりずっと黙り通していた。肝心の救急搬送先が県内か県外かも言わない。東京都以外の他の地方自治体も似たようなものなのか、それとも滋賀県だけが取り残されているのか、さっぱりわからずただただNHKが政府を代弁していつ何を公式発表するのか、あるいはしないのか、高齢者、とりわけ後期高齢者は恐怖と不安に駆られて震えているばかりのようだった。
そしてまた、経済学の一つの理論的分野として数学を基礎に置きこつこつと研究が続けられてきた「数理経済学」について。統計学上の数字をもとに独自に算出された数値を基礎として仮説を設定しそこから新しい経済学を構築する方法として出発した分野だが今なお経済学としては未完のままに自然消滅してしまう公算が高いらしい。その理由だが事情が込み入っているらしくよくわからない。東大/京大の研究室内部のことなので、ということもありはするけれども。それより遥かにこれまで算出されてきた数値というのはここ数年で一挙に明らかになったようにーーーたとえばつい最近発覚した「スルガ銀行」は有名だがーーー改竄まみれであることが判明したからである。改竄だらけの世界であったことが表面化した今、それらの統計を基礎に置いたすべての経済学研究はどのような数式を発明しても信用を維持できない状態のまま空っぽの研究に打ち込むほかなくなる。だからニーチェはすでにいっていた。
「《自称学問としての言語》。ーーー文化の発展に対する言語の意義は、言語において人間が他の世界に並ぶ一つの自分の世界をうちたてた、ほかの世界を土台から変えて自分がそれに君臨できるほど、それほど堅固であると考えたような一つの立脚点をうちたてた、という点にある。人間は、事物の概念や名称を《永遠の真理》であると長い期間を通じて信じてきたことによって、動物を眼下に見下ろしたあの誇りをも身につけてきたのである。じっさい彼は言語をもつことが世界の認識をもつことだと思いこんだ。言語の形成者は、自分が事物にほんの記号を与えているにすぎない、と信じるほどには謙虚でなく、むしろ彼は、事物に関する最高の知を言葉で表現したのだ、と妄想した。事実、言語は学問のための努力の第一段階なのである。ここでもまた、もっとも強い力の泉が湧きでてきた源は、《真理をみつけたという信仰》である。ずっと後になってーーー今やはじめてーーー言語を自分たちが信仰してきたためにとんでもない誤謬を流布してしまったということが、人々の意識にのぼってくる。さいわいにもあの信仰にもとづく理性の発展をふたたび逆行せしめるには、もう手遅れである。ーーー《論理学》もまた現実世界には決して相応じるもののない前提、たとえば諸事物の一致とか異なった時点における同じ事物の同一性とかいう前提にもとづいている、だがその学問は現実とは相反する信仰(そのようなものが現実世界にたしかにあるということ)によって成立したのである。《数学》に関しても事情は同様である。もしはじめから自然には決して精密な直線とかほんとうの円とか大きさの絶対的な尺度などはない、と知られていたら、数学はきっと成立していなかったであろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・第一章・十一・P.34~35」ちくま学芸文庫)
改竄の必要などない。数字は、したがって数学もまた、いつもすでに仮説でしかないと。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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