白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー137

2020年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム
服装による選別。ジュネはキュラフロワに代わっていう。

「院児たちのズボンにはポケットがひとつしかない。これもまた彼らを世間から隔てるものである。左の、たったひとつのポケット。社会システム全体が服装におけるこの単なる細部によって乱される」(ジュネ「花のノートルダム・P.247」河出文庫)

少年犯罪者たちの中間施設での服装。その特徴の一つとして「ポケットがひとつしかない」ことを上げる。それはその服装のまま社会に解き放たれなくても、市民社会の側がそれを想像するだけで市民社会は心情を怪しくかき乱されてしまう。何かが過剰であったり逆に不足であったりするのは市民社会の常であり身近な現象でもあるのだが、しかしなぜ「ポケットがひとつしかない」という不足さは市民社会を慄かせるのだろうか。

「彼らのズボンにはポケットがひとつしかない、悪魔のぴったりしたキュロットにそれがひとつしかないように、水兵のズボンには前あきがないように、そしてそれによって彼らが恥をかいていることは疑いない、あたかも彼らが男性のひとつの性的属性の切断手術を受けたかのようにーーー問題となっているのはまさにこれである」(ジュネ「花のノートルダム・P.247」河出文庫)

ジュネのいう通り、問題は社会的「去勢手術」である。国策としての去勢手術が問題なのだ。しかし彼らはこの去勢手術によってより一層怪物化して社会に復帰してくる。

実際、ディヴィーヌ(彼女)となったキュラフロワ(彼)は、獄中での試練に何度も耐えた。耐えた末にディヴィーヌという不滅の地位を手に入れている。しかしジュネはさらに細部に分け入りこう問いかける。

「彼女が下している『女性』としてのすべての判断は、実際には詩的な結論だった。だからそのときしかほんとうのディヴィーヌではなかったのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.262~263」河出文庫)

身体は男性のまま精神は女性である。ところが屋根裏部屋で花のノートルダムとゴルギとの共同生活が始まると同時に花のノートルダムに対する保護者的意識が芽生えているのに気づいた。このときディヴィーヌは三十歳であり毎日夕刻になると客を取るために持ち場へ出かけていたし客はついた。その意味でディヴィーヌの同性愛者としての人生はまだまだ申し分ないように見える。が、花のノートルダムは余りにも若年者であり過ぎ、ディヴィーヌに年齢の差を気づかせないわけにはいかない。ディヴィーヌは一気に老いたと実感せざるを得ない。思えば化粧の乗りも思うように行かない。二人の違いについてノートルダムは特に気にしていない。若年者に多い不注意という特権的乱暴ぶりと思い上がりとが相まって障壁になり、三十歳になっているディヴィーヌに特有の心の傷に気づかせないのだ。前にも触れたが、他人の気持ちを慎重に計測できないしするつもりもないそのような粗暴な態度は、不意にディヴィーヌの心情を保護者的態度の側へ移行をさせる。一九三〇年代のフランスではまだ残っていた「男らしさ」という偏見に基づく身振り仕ぐさをディヴィーヌに思い起こさせるわけである。だからジュネは、ディヴィーヌが最もディヴィーヌとして光り輝くのは「女性」《としての》「詩」(ポエジー)を身に帯びた瞬間に限られるというのである。「女性」《としての》「詩」(ポエジー)を身に帯びた瞬間に限り、ディヴィーヌは「ほんとうのディヴィーヌ」でいられる。それは「泥棒日記」で描かれたジャヴァの身体に似ている。ジャヴァはいつもはただ単なる襤褸きれまみれの犯罪者でしかない。ところがその身振り仕ぐさが周囲の光景と融合し、ジャヴァにおける閃光として炸裂する瞬間がある。ジュネはそれを目の当たりに認める。それはほんの一瞬の「奇蹟」としてしか出現しない。その意味でジャヴァも「ほんとうのディヴィーヌ」も「詩」(ポエジー)なしに世に出ることはなかったし、ジュネがいたとしてもジュネにそれが見えていなければジャヴァも「ほんとうのディヴィーヌ」も登場することは一切できなかった貴重この上ない存在なのだ。
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さて、アルトー。一連のシグリの儀式を経験した後で、思索し、短い総括を書きつけている。

「私が言いたいことは、もしこれらの思索が新たに、そして最後にわたしの思考に再びのしかかってくるとしても、ペヨトル《そのもの》はあの悪臭のする霊的同一化に身を委ねることはないということだ」(アルトー『タラウマラ・P.40』河出文庫)

アルトーが「悪臭のする霊的同一化」といって指弾しているのはキリスト教とその巨大な宗教的勢力を脅しに用いて数々の少数民族を絶滅させてきた先進諸国である。それはそれとして、ペヨトルを食べた後、アルトーの身に何が起こったとしても、食べた植物が命じるままに行為したということができる。人間に行動を起こさせるものは食事だからだ。植物の場合、その植物が与える世界を身体が演じるだけのことに過ぎない。ただ、あえて「ペヨトル《そのもの》」と書く理由は、アルトーがそう感じるほかなかったという証言として捉えるほかない。ペヨトル摂取は、それを摂取した人間にとって、そう感じるほかなかったように感じさせる効果をも有するという証明でもある。多くの証言を参照するとLSDの効果に似ているように思われるかもしれない。けれどもLSDのようにものごとの区別を忘れさせるということはない。ペヨトルは逆にものごとの区別を明確化する。アルトーのようにタラウマラ族の儀式の伝統的な方法に従って用いた場合、その効果は西洋文明によってでっち上げられた「《神秘主義》」が要請する「偽善」の領域に踏み込まないよう作用する。

「なぜなら《神秘主義》とは、実に巧妙な、実に繊細な偽善の交尾以外のものでは決してなかったのであり、ペヨトルは全力でこれに抵抗するのだから」(アルトー『タラウマラ・P.40』河出文庫)

一九六〇年代から一九七〇年代にかけてアメリカの若年層の少なくない人々が様々な植物を目指して中南米を旅した。そこで当時の資料を見ていて思うのだが、上手く出会えた人々と下手に出会ってしまった人々に分かれてしまうところは、なぜか笑えてしまうのである。一方で上手く植物の知恵を食べることができた人々がいて、もう一方で下手に植物の知恵に溺れてしまった人々がいる。しかしこれは単なる人間模様といったレベルの芝居ではまるでない。大気や海洋や大陸に棲息する動植物から成る自然と人間との出会いは多くの場合、近代社会の発生を期に、出会いというよりむしろ逆に、徐々に崩壊し始めたという認識を伴うことなしに理解不可能だということになるだろう。

「なぜなら《ペヨトル》とともに《人間》はただ一人であり、絶望のうちに、父も母も家族も愛も神も、あるいは社会もないままに、彼に骸骨の音楽をかきならすからである」(アルトー『タラウマラ・P.40』河出文庫)

骸骨だとはいえ、骨はない。アルトーのいう器官なき身体に「骨」というものは存在しない。流動する流れがあるだけなのだ。
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なお、新型ウイルスについてさらに。電車の車内アナウンスが奇妙に聞こえたのは事実である。「時差出勤」を勧めるのはわからなくもない。けれども「テレワーク」まで同時に勧めるのはなぜなのか。「テレワーク」は日本政府の肝煎りでまずは大手のNTTが導入しようと懸命になっている「働き方改革」の一つである。また車内アナウンスでは「厚生労働省通達」としてアナウンスされている。しかしNTTを先頭として日本政府の政策を全国一律に推し進めるのは実質的「国策」というに等しい。政財界のそのような繋がりはNTTがまだ「電電公社」だった懐かしい時代に逆戻りしたばかりか一九七〇年代の高度成長期を無理やり反復しようとしているかのようだ。どの国家でも同様だが高度成長期というのは一度きりの経験である。それはもうヴァレリーが述べたあと、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、中国で証明された。

「大国の仲間入りをする国、より古く、より完全な大国がすでに存在する時代にその仲間入りを果たす国はーーー古くからの大国が何世紀もかけて築いたものを駆け足で模倣し、よく考えられた方法にしたがって、自らを組織しようとするーーーそれは人工的に作られた都市がつねに幾何学的な構造の上に建てられるのと似た理屈である。ドイツ、イタリア、日本はそのようにして、隣国の繁栄や現代の進歩の分析がもたらした科学的概念の上に作られた、後発の国家である。もし国土の広大さが全体計画の迅速な実施の障害とならなかったら、ロシアも同様の一例を示すものとなったであろう」(ヴァレリー「方法的制覇」『精神の危機・P.73~74』岩波文庫)

それ以降、欧米の先進諸国が再びかつての経済成長を目指して反復しようと試みた。ところがどれも「二度目は茶番」に終わった。イギリスによるEU離脱はその逃亡の記録として歴史に残るであろう。また、新型ウイルス報道に隠れてしまっている「モリカケ問題」、「老後資金二〇〇〇万円問題」、「IR収賄問題」、「原子力規制委問題」、「拉致問題」等々について、どれほど隠れてしまったとしても同時発生している以上、それらは同時期の記録として記憶装置に残される。スピノザの平面参照。

「もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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