ドゥルーズとガタリが麻薬の薦めを述べたことは一度もない。問題はどの薬物にしても、とりわけ現在の日本で違法とされている「ドラッグ」がかつて合法だった頃、アルトーが訪ね詩文へ変換して書き残したメキシコのタラウマラ族のような少数民族の伝統のように、生成変化である。
「運動、生成変化すなわち速さと遅さの純粋な関係、そして純粋な情動ーーーこれは知覚閾の手前か、その向こう側にある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.252」河出文庫)
とはいえ、「速さと遅さ」とはどういうことなのだろう。どのような知覚変容のことを取り上げて述べているのだろう。コクトーはこう述べた。
「すべてはスピードの問題だ(不動のスピードは即ちスピードそのものだ。《阿片》は即ち絹のスピードだ)。僕等のスピードと別なスピードを有し、僕等にとって、単に相対的不動性をしか示さない植物と、それ以上の相対的不動性を示す鉱物との次に位して、あまりにスピードが速い為、また遅(のろ)い為、僕等の眼にもとまらないさまざまな世界が始まる(喜望岬、天使、扇風機)」(コクトー「阿片・P.94」角川文庫)
しかしそれはいずれ、阿片なしに体感できるようになるだろうという。
「やがてシネマが、僕等の眼に見えないものを撮影して、見えるようにし、すでに今日花の身振りを僕等のリズムに置き換えて見せて呉(く)れたと同じく、それを僕等のリズムに置き換えて見せて呉れる日が来ることも不可能ではない」(コクトー「阿片・P.94」角川文庫)
実際、そんな時代が訪れた。映画という或る種の麻薬的装置の全盛期とともに。要するにニーチェ風にいうと、「別様の感じ方」で認識する方法の社会的規模での登場である。人々はただちに映画館へ殺到した。そこで次の事情に気づいた人間が居合わせていた。
「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)
そして、なぜか世界はネット社会の実現と同時にこの映画的世界を再び欲するようになっている。とはいえ事情はまったく変わった。社会的条件が異なると映画だけでなく映画を見ている観客の認識の仕方も変わってくる。差し当たり最も大きな違いについて第一に述べておかないといけない。人間はスマートフォンの普及によって屋外へ外出しつつ閉じこもる方法を覚えたということ。外へ出たわけでない。むしろ見た目には外出しているかのように映って見えるぶん、なおいっそう「たちが悪い」と言わねばならない。また今日の午前中、NHK報道を見ていた。けれども想定外の展開などどこにもなかった。ただひたすら政府見解の代理装置として機能したに留まっていた。この異様な状況をどのように判断するかは今この時も市民社会の側、視聴者の側、有権者の側に委ねられている。しかし市民社会の情報は、インターネットによって世界化された情報産業社会では、常に漏洩する危険と共にでなければ動くこと一つできないということはすでに確かだ。だからカフカの時代に戻ったともいえる。こうして再び日本は、今度はNHK報道というフィルターを通して管理社会化の一端を垣間見ることができる。カフカはいう。
「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)
まるでそのような具合なのだ。加速化しているのはトリップではなく、バッドトリップだと言われなくてはならないだろう。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「運動、生成変化すなわち速さと遅さの純粋な関係、そして純粋な情動ーーーこれは知覚閾の手前か、その向こう側にある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.252」河出文庫)
とはいえ、「速さと遅さ」とはどういうことなのだろう。どのような知覚変容のことを取り上げて述べているのだろう。コクトーはこう述べた。
「すべてはスピードの問題だ(不動のスピードは即ちスピードそのものだ。《阿片》は即ち絹のスピードだ)。僕等のスピードと別なスピードを有し、僕等にとって、単に相対的不動性をしか示さない植物と、それ以上の相対的不動性を示す鉱物との次に位して、あまりにスピードが速い為、また遅(のろ)い為、僕等の眼にもとまらないさまざまな世界が始まる(喜望岬、天使、扇風機)」(コクトー「阿片・P.94」角川文庫)
しかしそれはいずれ、阿片なしに体感できるようになるだろうという。
「やがてシネマが、僕等の眼に見えないものを撮影して、見えるようにし、すでに今日花の身振りを僕等のリズムに置き換えて見せて呉(く)れたと同じく、それを僕等のリズムに置き換えて見せて呉れる日が来ることも不可能ではない」(コクトー「阿片・P.94」角川文庫)
実際、そんな時代が訪れた。映画という或る種の麻薬的装置の全盛期とともに。要するにニーチェ風にいうと、「別様の感じ方」で認識する方法の社会的規模での登場である。人々はただちに映画館へ殺到した。そこで次の事情に気づいた人間が居合わせていた。
「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)
そして、なぜか世界はネット社会の実現と同時にこの映画的世界を再び欲するようになっている。とはいえ事情はまったく変わった。社会的条件が異なると映画だけでなく映画を見ている観客の認識の仕方も変わってくる。差し当たり最も大きな違いについて第一に述べておかないといけない。人間はスマートフォンの普及によって屋外へ外出しつつ閉じこもる方法を覚えたということ。外へ出たわけでない。むしろ見た目には外出しているかのように映って見えるぶん、なおいっそう「たちが悪い」と言わねばならない。また今日の午前中、NHK報道を見ていた。けれども想定外の展開などどこにもなかった。ただひたすら政府見解の代理装置として機能したに留まっていた。この異様な状況をどのように判断するかは今この時も市民社会の側、視聴者の側、有権者の側に委ねられている。しかし市民社会の情報は、インターネットによって世界化された情報産業社会では、常に漏洩する危険と共にでなければ動くこと一つできないということはすでに確かだ。だからカフカの時代に戻ったともいえる。こうして再び日本は、今度はNHK報道というフィルターを通して管理社会化の一端を垣間見ることができる。カフカはいう。
「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)
まるでそのような具合なのだ。加速化しているのはトリップではなく、バッドトリップだと言われなくてはならないだろう。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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