孤独を深めるディヴィーヌ。外出時は好んで一人である。
「彼女はもう一人でしか外出したくなかった。この習慣はひとつの結果を生んだ。黒人と人殺しの親密さを深めることである」(ジュネ「花のノートルダム・P.280」河出文庫)
ディヴィーヌはわかりきった結果を生じさせている。無意識のうちにそうしているように見える。ノートルダムとゴルギとの情愛は日増しになおかつ露骨に深まる。ディヴィーヌの孤独の深まりと同様に。
「次に続く局面は激しい非難のそれだった。ディヴィーヌは自分を抑えるのにへとへとになっていた。憤激は速度と同じように彼女により鋭い明晰さを与えるのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.280」河出文庫)
嫉妬を発条(ばね)にした憤激の露出は誰もが知るように人によりけりで、限度を知らずありもしない想像力の領域へ踏み込みつつ爆発するケースと、その反対に憤激にもかかわらず非常に「鋭い明晰さ」で事態の構造を見抜くケースに大別される。ディヴィーヌは後者である。孤独になればなるほどより一層「鋭い明晰さ」を発揮する。彼女が彼(キュラフロワ)だった少年時代、その怪物的想像力はあらゆるところで発揮されたが、その際、ほとんどいつも孤独だったことは極めて重要な要素だろう。しかしそれだけでは憤激しながらも事態を明晰に区別する技術を手に入れるに至った根拠にはならない。
「彼女はいたるところで悪意を見抜いていた。それともノートルダムは、そうとは知らずに、彼女が命じていたゲームに従っていたのだろうか、彼女を孤独のほうへ、さらにもっと絶望のほうへ連れていくように命じていたゲームに?彼女は罵詈雑言でノートルダムをまいらせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.280」河出文庫)
ジュネはわざとのように「ゲーム」という鍵を与える。当事者自身が「そうとは知らずに」行ってしまう「ゲーム」。ディヴィーヌはあえて孤独を深めることでその返礼として花のノートルダムを責め立て吊し上げたいとおもっているというわけだ。無意識のうちに。実際そうする。とはいえ、ノートルダムは年少の殺人者として、美として、年長のディヴィーヌの上に君臨している。ノートルダムは好き好んで君臨しているわけではない。君臨させているのはほかならぬディヴィーヌの側だ。
「たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.111」国民文庫)
しかし貨幣はその位置を獲得するやいなやなぜ貨幣は貨幣として他の諸商品の上に君臨しているのかという全過程を覆い隠してしまう。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
マルクスは「資本論」冒頭で形態1〜形態4にいたる価値形態論を述べているが、その記述は形態4にあたる貨幣形態の出現とともに覆い隠されてしまい消えてしまうかのように見える。だが完全に消えてしまうわけではない。マルクスはごく当たり前の科学的手続きにしたがって完成した貨幣形態の側から研究を始めた。そして貨幣から逆にさかのぼることによって種々の価値形態の推移を発見した。それはそれで一つの研究結果である。なるほどマルクスもまたニーチェのいう「原因と結果の取り違え」を犯している。ところが価値形態論の意義は様々な形で見出すことができる。ニーチェの指摘にしたがって「原因と結果の取り違え」を受け入れ転倒させて改めて検討し直してみても他に有効な価値形態論を見出すことができないという事情は何を現わしているのか。現代経済学が不可避的に含み持つ欠点があらわに見えてくるのもその一例である。剰余価値など存在しないと現代経済学は述べる。ところが主に製造業の過程で剰余価値発生の余地が準備されていなければ、消費の現場で、商品交換の場で、あらかじめ準備されていたのとほぼ同じだけ増大した価値が実現されることがないのはなぜなのか。新しいテクノロジーの導入によってそれまでの労働力合理化が可能になるのはどうしてなのか。資本にとって消費者運動が著しいダメージを与えるのはなぜか。ニーチェはいう。
「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫)
言語と貨幣とを置き換えてみても難解な部分など一つもない。「言語、貨幣、性」に関する研究は今なお、人間とは何かを「解く」というより、人間とは何かという「問い」であり続けている。次の文章は欧米キリスト教文化を知らないとさっぱりわからない箇所。
「彼女の矢はノートルダムをあまり苦しめなくなっていた、そして時おり、もっとやわらかい泣き所を見つけて、尖った切っ先が入り、ディヴィーヌが矢羽根にいたるまで矢を深く差し込んでも、それに彼女は縫合を促進するバルサム剤を塗っていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.281」河出文庫)
バルサム剤は植物由来の粘液状接着剤。だからディヴィーヌがノートルダムに向けて放つ「矢」は傷つけるとともに癒すことを目的とした二重の効果を狙っている。それはそれとして差し当たりディヴィーヌが放つ「矢」は数頁前に出てくる「聖セバスチャンの殉教」の絵画に描かれている「矢」のことを指して述べられている。いろいろな画家が描いていることもあるが、主題の一致という点ではまったく同様であって、だからどれが本物かは問題にならない。欧米ではLGBTでいうゲイの象徴として高い人気を誇っている。日本では山本周五郎の小説「さぶ」のタイトルを参照した男性同性愛者専門誌「さぶ」が有名。一九七〇年代の京都市で少年時代を送った立場から思えば町の小さな書店に行くと必ず並んでいた有名な専門誌である。書店のすぐ近くに祇園の場外馬券売場があった。女性が馬券売場をうろうろできる雰囲気はまだほとんどない時代、週末になるとたくさんの男性がひしめいていた。そんななか馬券が当たっても当たらなくても「さぶ」を買って帰る男性客の姿を何度も見かけた。その書店も今はもうない。また三島由紀夫「仮面の告白」ではグイド・レーニ「聖セバスチャンの殉教」に対する主人公の性欲そのものが描かれている。
「矢は彼の引緊(ひきしま)った・香り高い・青春の肉へと喰(く)い入り、彼の肉体を、無上の苦痛と歓喜の焔(ほのお)で、内部から焼こうとしていた。しかし流血はえがかれず、他のセバスチャン図のような無数の矢もえがかれず、ただ二本の矢が、その物静かな端麗な影を、あたかも石階に落ちている枝影のように、彼の大理石の肌(はだ)の上へ落としていた。ーーーその絵を見た刹那(せつな)、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰(ほんとう)し、私の器官は憤怒(ふんぬ)の色をたたえた。この巨大な・張り裂けるばかりになった私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤(いきどお)ろしく息づいていた。私の手はしらずしらず、誰(だれ)にも教えられぬ動きをはじめた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇って来る気配が感じられた。と思う間(ま)に、それはめくるめく酩酊(めいてい)を伴って迸(ほとばし)った。ーーーこれが私の最初のejaclatio(射精)であり、また、最初の不手際な・突発的な『悪習』だった」(三島由紀夫「仮面の告白・P.36~37」新潮文庫)
再びバルサム剤がもたらす二重の効果について。傷つけるとともに癒すこと。傷つけることが同時に快感を与えることであること。ディヴィーヌが目指しているのはジュネ的感性における背反傾向がもたらす固有の快感付与である。
ジュネ「葬儀」ではジャン・ドカルナンが対独独立義勇兵の機銃掃射によって射殺される。要するに「穴だらけ」にされる。ジュネは思わずジャンと同一化したかのように語る。
「機銃掃射の奇蹟によって、かくもいたいけなしろものに、一人の若者に変り果てた若者の姿を眺めるために、私は人々の肩ごしに身を乗り出すのだった。布につつまれた若者の貴重な遺骸」(ジュネ「葬儀・P.24~25」河出文庫)
ジュネはそれを「奇蹟」といっている。「機銃掃射の奇蹟」と。ディヴィーヌは「必要とあらば、自分が九つの穴から精液を流し込まれるそんな女であることを誇りにしたかもしれなかった」のだが、この数字が「九つ」である必要性は必ずしもない。数字はいつも手品を含んでいる。論理学の仮説が仮説でしかないにもかかわらずあえて「現実」として取り扱われていなかったとしたら数学も成立してはいなかっただろうとニーチェがいうように。ちなみに穴の数は「九つ」でなければならないわけではまったくない。欲望する人間はむしろもっと多くの穴の獲得を欲望している。事実、今のドラッグカルチャーの世界ではなぜかダウナー系のヘロインよりも逆にアッパー系の覚醒剤(アンフェタミン、メタンフェタミン)の側が圧倒的に人気である。世界的規模での需要上昇があるのだろう。ところで覚醒剤使用経験のある人々のあいだで、男性でなく、特に女性の場合、覚醒剤を断ち切ることはほとんど不可能に近いと言われるのはなぜだろう。日本国内でもアルコール・薬物依存者のための幾つかの自助グループがあることはよく知られている。そこで何度か耳にする機会があった。もっとも、自助グループでの発言以外の場所、会合が終わって時間を持て余しているような場合、近くの飲食店などでの会話でたまたま聞くわけだが、覚醒剤を使用しながらの性行為は女性にとって全身「穴だらけ」になっていて、身体のどこを刺激されてもあたかも女性器そのものに繰り返し男性器を挿入される快感におちいってしまったかのような感覚に変化しているという点が特徴的だと諦観混じりに聞かされることがあった。ディヴィーヌは「九つの穴」といいジュネが「機銃掃射の奇蹟」というのもそのような快感獲得のためのアナロジー(類似、類推)を用いた方便に過ぎない。とはいえしかし、方便であるとしても、それが陰惨過ぎる印象を拭い去ってしまっては逆に無意味になる。ジュネ作品でそれら陰惨なものはことごとく壮麗なものであるほかないからである。ゆえに常に注意深く繊細この上ない身振り仕ぐさが要求される。「泥棒日記」の中で「汚穢復権」のため、とジュネは主張する。身体は身振り仕ぐさにおいて始めてそこに出現する。ということは本来的な人間の身体はほとんど無に帰してしまっているということの反語的表現として受け取る態度こそ妥当なのだ。機械ばかりが幅を利かせる世の中になってきたことが二十世紀の問題だったが、人間の消滅はすでに近いというフーコーの言葉こそ、この際最も適切になったというべきかもしれない。高度テクノロジーによる新しい管理社会の出現(人間のサンプル化、データバンク化、マーケティング)はさらに、人間なしに世界の相続が可能となったことを意味してさえいる。
ーーーーー
さて、アルトー。ペヨトルのダンスはいつ始まるのか。始まればアルトーを苦しめ抜いている身体という名の「強制収容所」から逃れることが可能になるだろう。
「もちろん私は絵になるような思い出を求めて、これらのタラウマラ・インディアンの山奥深くにきたわけではない。少々の現実で報われるには、おそらくあまりにも私は苦しんできた」(アルトー『タラウマラ・P.66』河出文庫)
アルトーがふと目にするヴィジョンは「ヒエロニムス・ボッシュの<キリスト降誕>」である。「東方の三博士にそっくり」でもある。
「けれども日が落ちたとき、あるヴィジョンが私の目を覆ったのである。私はヒエロニムス・ボッシュの<キリスト降誕>の場面を目の前にしていた。それはすべて秩序にしたがって並べられ、配置されていた。ーーーそれはヒエロニムス・ボッシュの東方の三博士にそっくりなのだ」(アルトー『タラウマラ・P.66』河出文庫)
幻視者がアルトーでなくそもそも欧米文化のことを知らない日本人、たとえば中世の後醍醐天皇だったとしたらボッシュの絵画が出現するはずはない。そこでキリスト教会の礼拝堂に置かれた様々な装置の配置と比較して後醍醐天皇の身の周りに置かれた様々な装置に注目してみる。するとそこに見出されるのは数々の密教宝具である。世界には様々な神々が諸民族の頭の上に存在するけれども、どの諸民族においても同様に見られる傾向は、自分たちの頭上の神《のみ》が「真実」であるとする観念の怪物性である。
「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.356~357」ちくま学芸文庫)
というふうに。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
BGM3
BGM4
BGM5
BGM6
BGM7
BGM8
BGM9
BGM10
「彼女はもう一人でしか外出したくなかった。この習慣はひとつの結果を生んだ。黒人と人殺しの親密さを深めることである」(ジュネ「花のノートルダム・P.280」河出文庫)
ディヴィーヌはわかりきった結果を生じさせている。無意識のうちにそうしているように見える。ノートルダムとゴルギとの情愛は日増しになおかつ露骨に深まる。ディヴィーヌの孤独の深まりと同様に。
「次に続く局面は激しい非難のそれだった。ディヴィーヌは自分を抑えるのにへとへとになっていた。憤激は速度と同じように彼女により鋭い明晰さを与えるのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.280」河出文庫)
嫉妬を発条(ばね)にした憤激の露出は誰もが知るように人によりけりで、限度を知らずありもしない想像力の領域へ踏み込みつつ爆発するケースと、その反対に憤激にもかかわらず非常に「鋭い明晰さ」で事態の構造を見抜くケースに大別される。ディヴィーヌは後者である。孤独になればなるほどより一層「鋭い明晰さ」を発揮する。彼女が彼(キュラフロワ)だった少年時代、その怪物的想像力はあらゆるところで発揮されたが、その際、ほとんどいつも孤独だったことは極めて重要な要素だろう。しかしそれだけでは憤激しながらも事態を明晰に区別する技術を手に入れるに至った根拠にはならない。
「彼女はいたるところで悪意を見抜いていた。それともノートルダムは、そうとは知らずに、彼女が命じていたゲームに従っていたのだろうか、彼女を孤独のほうへ、さらにもっと絶望のほうへ連れていくように命じていたゲームに?彼女は罵詈雑言でノートルダムをまいらせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.280」河出文庫)
ジュネはわざとのように「ゲーム」という鍵を与える。当事者自身が「そうとは知らずに」行ってしまう「ゲーム」。ディヴィーヌはあえて孤独を深めることでその返礼として花のノートルダムを責め立て吊し上げたいとおもっているというわけだ。無意識のうちに。実際そうする。とはいえ、ノートルダムは年少の殺人者として、美として、年長のディヴィーヌの上に君臨している。ノートルダムは好き好んで君臨しているわけではない。君臨させているのはほかならぬディヴィーヌの側だ。
「たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.111」国民文庫)
しかし貨幣はその位置を獲得するやいなやなぜ貨幣は貨幣として他の諸商品の上に君臨しているのかという全過程を覆い隠してしまう。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
マルクスは「資本論」冒頭で形態1〜形態4にいたる価値形態論を述べているが、その記述は形態4にあたる貨幣形態の出現とともに覆い隠されてしまい消えてしまうかのように見える。だが完全に消えてしまうわけではない。マルクスはごく当たり前の科学的手続きにしたがって完成した貨幣形態の側から研究を始めた。そして貨幣から逆にさかのぼることによって種々の価値形態の推移を発見した。それはそれで一つの研究結果である。なるほどマルクスもまたニーチェのいう「原因と結果の取り違え」を犯している。ところが価値形態論の意義は様々な形で見出すことができる。ニーチェの指摘にしたがって「原因と結果の取り違え」を受け入れ転倒させて改めて検討し直してみても他に有効な価値形態論を見出すことができないという事情は何を現わしているのか。現代経済学が不可避的に含み持つ欠点があらわに見えてくるのもその一例である。剰余価値など存在しないと現代経済学は述べる。ところが主に製造業の過程で剰余価値発生の余地が準備されていなければ、消費の現場で、商品交換の場で、あらかじめ準備されていたのとほぼ同じだけ増大した価値が実現されることがないのはなぜなのか。新しいテクノロジーの導入によってそれまでの労働力合理化が可能になるのはどうしてなのか。資本にとって消費者運動が著しいダメージを与えるのはなぜか。ニーチェはいう。
「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫)
言語と貨幣とを置き換えてみても難解な部分など一つもない。「言語、貨幣、性」に関する研究は今なお、人間とは何かを「解く」というより、人間とは何かという「問い」であり続けている。次の文章は欧米キリスト教文化を知らないとさっぱりわからない箇所。
「彼女の矢はノートルダムをあまり苦しめなくなっていた、そして時おり、もっとやわらかい泣き所を見つけて、尖った切っ先が入り、ディヴィーヌが矢羽根にいたるまで矢を深く差し込んでも、それに彼女は縫合を促進するバルサム剤を塗っていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.281」河出文庫)
バルサム剤は植物由来の粘液状接着剤。だからディヴィーヌがノートルダムに向けて放つ「矢」は傷つけるとともに癒すことを目的とした二重の効果を狙っている。それはそれとして差し当たりディヴィーヌが放つ「矢」は数頁前に出てくる「聖セバスチャンの殉教」の絵画に描かれている「矢」のことを指して述べられている。いろいろな画家が描いていることもあるが、主題の一致という点ではまったく同様であって、だからどれが本物かは問題にならない。欧米ではLGBTでいうゲイの象徴として高い人気を誇っている。日本では山本周五郎の小説「さぶ」のタイトルを参照した男性同性愛者専門誌「さぶ」が有名。一九七〇年代の京都市で少年時代を送った立場から思えば町の小さな書店に行くと必ず並んでいた有名な専門誌である。書店のすぐ近くに祇園の場外馬券売場があった。女性が馬券売場をうろうろできる雰囲気はまだほとんどない時代、週末になるとたくさんの男性がひしめいていた。そんななか馬券が当たっても当たらなくても「さぶ」を買って帰る男性客の姿を何度も見かけた。その書店も今はもうない。また三島由紀夫「仮面の告白」ではグイド・レーニ「聖セバスチャンの殉教」に対する主人公の性欲そのものが描かれている。
「矢は彼の引緊(ひきしま)った・香り高い・青春の肉へと喰(く)い入り、彼の肉体を、無上の苦痛と歓喜の焔(ほのお)で、内部から焼こうとしていた。しかし流血はえがかれず、他のセバスチャン図のような無数の矢もえがかれず、ただ二本の矢が、その物静かな端麗な影を、あたかも石階に落ちている枝影のように、彼の大理石の肌(はだ)の上へ落としていた。ーーーその絵を見た刹那(せつな)、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰(ほんとう)し、私の器官は憤怒(ふんぬ)の色をたたえた。この巨大な・張り裂けるばかりになった私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤(いきどお)ろしく息づいていた。私の手はしらずしらず、誰(だれ)にも教えられぬ動きをはじめた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇って来る気配が感じられた。と思う間(ま)に、それはめくるめく酩酊(めいてい)を伴って迸(ほとばし)った。ーーーこれが私の最初のejaclatio(射精)であり、また、最初の不手際な・突発的な『悪習』だった」(三島由紀夫「仮面の告白・P.36~37」新潮文庫)
再びバルサム剤がもたらす二重の効果について。傷つけるとともに癒すこと。傷つけることが同時に快感を与えることであること。ディヴィーヌが目指しているのはジュネ的感性における背反傾向がもたらす固有の快感付与である。
ジュネ「葬儀」ではジャン・ドカルナンが対独独立義勇兵の機銃掃射によって射殺される。要するに「穴だらけ」にされる。ジュネは思わずジャンと同一化したかのように語る。
「機銃掃射の奇蹟によって、かくもいたいけなしろものに、一人の若者に変り果てた若者の姿を眺めるために、私は人々の肩ごしに身を乗り出すのだった。布につつまれた若者の貴重な遺骸」(ジュネ「葬儀・P.24~25」河出文庫)
ジュネはそれを「奇蹟」といっている。「機銃掃射の奇蹟」と。ディヴィーヌは「必要とあらば、自分が九つの穴から精液を流し込まれるそんな女であることを誇りにしたかもしれなかった」のだが、この数字が「九つ」である必要性は必ずしもない。数字はいつも手品を含んでいる。論理学の仮説が仮説でしかないにもかかわらずあえて「現実」として取り扱われていなかったとしたら数学も成立してはいなかっただろうとニーチェがいうように。ちなみに穴の数は「九つ」でなければならないわけではまったくない。欲望する人間はむしろもっと多くの穴の獲得を欲望している。事実、今のドラッグカルチャーの世界ではなぜかダウナー系のヘロインよりも逆にアッパー系の覚醒剤(アンフェタミン、メタンフェタミン)の側が圧倒的に人気である。世界的規模での需要上昇があるのだろう。ところで覚醒剤使用経験のある人々のあいだで、男性でなく、特に女性の場合、覚醒剤を断ち切ることはほとんど不可能に近いと言われるのはなぜだろう。日本国内でもアルコール・薬物依存者のための幾つかの自助グループがあることはよく知られている。そこで何度か耳にする機会があった。もっとも、自助グループでの発言以外の場所、会合が終わって時間を持て余しているような場合、近くの飲食店などでの会話でたまたま聞くわけだが、覚醒剤を使用しながらの性行為は女性にとって全身「穴だらけ」になっていて、身体のどこを刺激されてもあたかも女性器そのものに繰り返し男性器を挿入される快感におちいってしまったかのような感覚に変化しているという点が特徴的だと諦観混じりに聞かされることがあった。ディヴィーヌは「九つの穴」といいジュネが「機銃掃射の奇蹟」というのもそのような快感獲得のためのアナロジー(類似、類推)を用いた方便に過ぎない。とはいえしかし、方便であるとしても、それが陰惨過ぎる印象を拭い去ってしまっては逆に無意味になる。ジュネ作品でそれら陰惨なものはことごとく壮麗なものであるほかないからである。ゆえに常に注意深く繊細この上ない身振り仕ぐさが要求される。「泥棒日記」の中で「汚穢復権」のため、とジュネは主張する。身体は身振り仕ぐさにおいて始めてそこに出現する。ということは本来的な人間の身体はほとんど無に帰してしまっているということの反語的表現として受け取る態度こそ妥当なのだ。機械ばかりが幅を利かせる世の中になってきたことが二十世紀の問題だったが、人間の消滅はすでに近いというフーコーの言葉こそ、この際最も適切になったというべきかもしれない。高度テクノロジーによる新しい管理社会の出現(人間のサンプル化、データバンク化、マーケティング)はさらに、人間なしに世界の相続が可能となったことを意味してさえいる。
ーーーーー
さて、アルトー。ペヨトルのダンスはいつ始まるのか。始まればアルトーを苦しめ抜いている身体という名の「強制収容所」から逃れることが可能になるだろう。
「もちろん私は絵になるような思い出を求めて、これらのタラウマラ・インディアンの山奥深くにきたわけではない。少々の現実で報われるには、おそらくあまりにも私は苦しんできた」(アルトー『タラウマラ・P.66』河出文庫)
アルトーがふと目にするヴィジョンは「ヒエロニムス・ボッシュの<キリスト降誕>」である。「東方の三博士にそっくり」でもある。
「けれども日が落ちたとき、あるヴィジョンが私の目を覆ったのである。私はヒエロニムス・ボッシュの<キリスト降誕>の場面を目の前にしていた。それはすべて秩序にしたがって並べられ、配置されていた。ーーーそれはヒエロニムス・ボッシュの東方の三博士にそっくりなのだ」(アルトー『タラウマラ・P.66』河出文庫)
幻視者がアルトーでなくそもそも欧米文化のことを知らない日本人、たとえば中世の後醍醐天皇だったとしたらボッシュの絵画が出現するはずはない。そこでキリスト教会の礼拝堂に置かれた様々な装置の配置と比較して後醍醐天皇の身の周りに置かれた様々な装置に注目してみる。するとそこに見出されるのは数々の密教宝具である。世界には様々な神々が諸民族の頭の上に存在するけれども、どの諸民族においても同様に見られる傾向は、自分たちの頭上の神《のみ》が「真実」であるとする観念の怪物性である。
「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.356~357」ちくま学芸文庫)
というふうに。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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