白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー150

2020年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム
殺人を自白した花のノートルダム。マスコミは一斉に報じた。反応は二つに分かれる。

「一夜のうちに、花のノートルダムの名前がフランスじゅうに知れ渡ったが、フランスは混乱には慣れている。新聞にざっと目を通すだけの者たちは、いつまでもぐずぐずと花のノートルダムにかかずらったりはしなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.322」河出文庫)

いつまでもノートルダムの殺人報道に固着して離れない人々は明らかに暇を持て余している夢見る遊び人である。金銭的余裕のある人々である。とはいえ、俗世間の富裕層のことを差して言っているわけではない。ジュネ的感性から言えば、俗世間の富裕層は金銭面でいつも相場に振り回されている哀れな相場フェチに過ぎない。固定化不可能なフェチを追いかけていつか必ず自分に隷属させ徹底的に所有するつもりなのだろうが事情は必ず逆に転倒する。

「《所有が所有する》。ーーー或る程度までなら、所有は人間を独立的にし、いっそう自由にする。もう一段進むとーーー所有が主人になって、所有者が奴隷になる。彼はかかる奴隷として、所有のために己れの時間を、己れの省察を犠牲にしなければならない。そして以後は、自分が交際に拘束され、場所に釘づけにされ、国家に同化されてしまったように感じる、ーーーそれも、すべてはおそらく彼のいちばん内面的な、またいちばん本質的な欲求に反して」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・三一七・P.213」ちくま学芸文庫)

フロイトに言わせれば幼少期には誰にでも見られる「糞便嗜癖者」が大人になってなお「糞便=貨幣」を偏愛しているだけのことだ。ジュネは大人だがそのような贅沢なフェチとしての相場に振り回されてばかりいる極端に忙しい生活様式が気の毒に思えてならない。それは何らの音楽も降らせないし性的至高性も知らない。むしろ音楽的快感には耳をふさぐ。詩人になれずそもそも詩を理解できず従って美しい光景を次々と見逃していくことを《欲する》までに至っている暮らし。どういうことをいうのか。

「彼らは、まるで獣(けだもの)のように、鈍感に、そして汗をかきかき山を登る。途中に幾つもの美しい眺めのあることを彼らに言っておくことが忘れられたのだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二〇二・P.415」ちくま学芸文庫)

ジュネたちにすればその種の忙しさは滑稽に見える。見栄を張って言っているわけでは毛頭ない。逆に同情を覚えるのである。その種の忙しさは泥棒やごろつきたちの精神を甘美に誘惑する。ジュネたちの犯罪への意志を逆にかき立てずにはおかない。泥棒してくれと大声を張り上げているに等しい。では一体どのような層が花のノートルダム関連記事に付き合うことになるのか。暇を持て余しており金銭面で余裕があり遊び心で爆発したいと欲している人々。

「記事の核心にまで向かう者たちは、異常なものを嗅ぎつけ、そこに彼の足跡を見つけ出して、奇跡の大漁を再び白日のものとする」(ジュネ「花のノートルダム・P.322」河出文庫)

彼らは危険で充満したマスコミ報道の、とりわけ社会面の冒険者たちである。

「これらの読者たちとは、小学生であり、それと四歳で五十歳になったときの顔と身振りをもつユダヤの子供たちみたいに生まれながらの婆さんであるエルネスティーヌのように、田舎の奥に居続けたみすぼらしい老女たちである。ノートルダムが老人を殺したのはまさにエルネスティーヌのためであり、彼女の黄昏に魔法をかけるためである」(ジュネ「花のノートルダム・P.322~323」河出文庫)

というわけだ。ディヴィーヌ=キュラフロワの母エルネスティーヌもその輪の中にいる。

「エルネスティーヌも三面記事の小さな行に向かってまっすぐに出発したのだったが、それは新聞の『バリオ・チーノ』〔ならずものの巣窟だったバルセロナの中国人街〕ーーー殺人、盗み、強姦、凶器による襲撃ーーーである。彼女はそれらの行を夢見るのだった。それらの簡潔な暴力、それらの正確さが、浸透する時間も空間も夢に残しはしなかった。それらの行は彼女を打ちのめしていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.324」河出文庫)

当時の新聞記事の社会面の文章といえばただ単に暴力的で扇情的な煽り記事の宝庫だったことは誰もが知っている。本当は貴族でないのだが、恵まれた育ちの良さと教養で自分を貴族的な身振り仕ぐさで装うことができるエルネスティーヌは、この種のマスコミの社会面が提供する余りにも暴力的な文章に耐えきれず「打ちのめ」されることがしばしばだった。
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さて、アルトー。部分的にではあれ古代の生活様式を保存している少数民族から学べることはたいへん多い。

「タラウマラ族のあるものたちは、髪を後ろ側に角のように垂らしている」(アルトー『タラウマラ・P.104』河出文庫)

かつて中国で見られた辮髪やミケランジェロ作「モーゼ像」を例に上げている。

「これはモーゼの石像とともに、ある種のマヤの、あるいはトトナックの仮面を想起させるが、それらは額に二つの突起または穴を刻んでおり、それは垂直方向に刻まれていて、まるで石化した眼球システムの記憶のようなのだ」(アルトー『タラウマラ・P.104~105』河出文庫)

モーゼ像に関する「角」なのか「光り輝き」なのかという有名な論争に関しては諸説ある。専門分野を参照したいところだが参照すればするほどますますわからなくなる。その理由は必ずしも宗教だからというのではなく個々の学者の解釈次第による。一方で「角」と解すると顔面あるいは頭蓋骨から動物の「角」が生え出ていたことになり、動物と人間との直接的繋がりを否定する多くの宗教学者は無言の裡に避ける傾向がある。さらに古代には身体障害者に対する偏見が蔓延していたこともあり、もし「角」が正解だったとしてもイエスと答える学者は恐らくほぼいないだろう。だがそのような事情は欧米でのエピソードである。だから欧米は別として考える必要性もあるだろうと思われる。より適切な研究のためにはしばしば距離を置くこと、そしてまた近づいてみること、その反復が必要であり、逆に一点固着主義は何もしないよりなお悪影響を与える。

そんなわけで近代化が比較的遅く古代の宗教的儀式を長く保存していた地域、あるいは北極圏と赤道直下とが違うように生活環境の違いから別の方法をたどって近代化したり、さらに宗教的価値観の多様性こそが特徴的な日本のような地域では一定の距離を置いて思考する研究環境があるため、あえて「角」説を支持する研究者もいる。創成期の資本主義社会を築き上げた欧米列強は急速な帝国主義化とともに宗教においても絶対主義的な教義の早期確立が目指された。するとそれは暴力的な政治的圧力のもとで行われるざるを得ない。戦前の日本も急速に近代化を推し進めていたわけだが実状は中途半端という最悪の状態に直面して例外ではいられない過程をたどった。だからその方向にしがみつくと当然のように研究というより遥かに絶対主義的カルト的解釈に急接近してしまう。ありもしない幻想を本気で信じ込み周囲を巻き込んで大破してしまう。東京大空襲だけでは理解できず原爆を一発だけに留まらず二発投下されてようやく憑き物が落ちたかのように我に帰ることができた始末である。

さてしかし、そもそも世界の古代文献や民族創世神話には多かれ少なかれ「角」を持った存在が登場する。それをどう呼ぶにせよ、神にせよ鬼にせよ悪魔にせよ、しかし彼らは何らかの形で神格化されている。人間ではない何かとして出現してくる。おそらく心身ともに同一的な部分だけを受け入れていた古代の小さな共同体の内部には存在しないか存在しても不安視されすぐに殺されるかした存在。平均的であるとは見なされずに疎外され拒絶された存在。さらに別様の生活様式を営んでいる別の共同体の構成員。翻訳可能な共通言語を持ち合わせていない共同体。ただちに肯定することができず、言い換えれば「超人的」に映って見えた「他者」のことを指して述べているのだろう。「角、鬼、畏怖」といったように。もっとも、相変わらず欧米の、とりわけキリスト教保守派の宗教者は「光り輝き」だけを採用しているらしいが。

本当のところはわからない。しかし近代から、さらに現代になると、打ち続く戦争、いつもどこかで起きている宗教絡みの地域紛争、生物学的研究の飛躍的転回、そして本家本元ともいえるパレスチナの聖地を巡る宗教者たち自身による終わりの見えない戦争などに対する疑問が続出してきた。宗教そのもののあり方に対する疑問が世界を覆い尽くすような事態になってきた。資金があまりにもかかり過ぎていると感じる人々が何とかせねばと発言できる機会も増えた。もっとも、発言機会の増大は資本主義というシステムの自由自在性に含まれている成り行きであって、宗教者自身は自分から発言しているつもりを気取ることはできても実際は資本主義が宗教者の身体を借りてそう言わせているに過ぎない。でないと資本自身が自滅してしまう危険に近づくからであり同時に根本的に資本主義は閉鎖的動作環境を徹底的に嫌うからである。そうして一般的な市民の動向を見れば、一方で宗教から距離を置くようになった。しかし他方でカルト的信奉者やナショナリズム的指示団体が生まれてきた。資本主義は一方でナショナリズムを生み、もう一方でナショナリズムを破壊する。二律背反を常態として発展する。一貫しない一貫性を特徴として始めて稼働する諸力の運動である。そこから利潤が発生する。極めてアナーキーなものなのだが、そのような種々のアナーキーな流れを公理系化し上手く整流器で濾過した上で流れを速やかに流していく。脱コード化と条里化とを一度の同じ動作で行う。一度の同じ動作が脱コード化と条里化である。だから資本主義はいつも多様性そのものでなくては生きていけない。この傾向をもっと推し進めると世界中どこへ行ってもすべてが均一な平滑空間が完徹されて利子発生の余地もなくなる。けれども資本主義は器用にできており、平滑化と条理化とを常に同時に行うことで新しい利子発生の余地をさらに延長させていく。一つの壁が乗り越えられたと思ったら、その向こうではなく、まさしくそこにいきなり新しい壁が出現しているという試練。資本家は苦しむ。ところが資本主義はこれを楽しむのである。自己目的だからだ。

そのように古代神話解釈においても多様性が多様性のままばらばらに散在した状態で先にあると認めない限り宗教紛争は終わらないし終わるはずもない。にもかかわらず今の宗教紛争はなぜか我慢しきれず意図的に騒ぎ立て、どさくさ紛れに慌てて架空の会社を設立し何度も不動産取引を繰り返して利益を上げているようなものに見えてくる。地域紛争のためには軍事力が必要だが、それを作っている多国籍大手メーカーならどこにでもある。軍事産業依存症ともいうべき事態が勃発している。そうなってくると自然に世間は嫌気がさしてだんだん遠のいていく。どさくさ紛れの「箱もの、インフラ、ばらまき」行政がまかり通っている地方都市のような政財官界の死に引きずられて心中するなどまっぴら御免だからだ。地方都市の悲惨はマスコミ報道によってももたらされる。あたかもそれしか方法がないかのように。それ《のみ》が唯一の解決策であるかのように。まるで古代なのだ。地方行政とその放送局は。防災機能は必要だ。けれどもそれは同時に村の要塞都市化でもある。どこからどう見ても要塞都市になってしまえば常に二分割することが好きな世界のマスコミ報道によって自動的に誘導された空爆を浴びて再び更地になり、再土地化され、結局のところ不動産業者へ叩き売られ転売されることは目に見えている。

「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.356~357」ちくま学芸文庫)

そのうち、専門的な論争はともかく、一般のポピュラーな次元で受け入れられつつ残ったのは、あえて「角」の髪型を選択することで詩人あるいは芸術家のように「他者」として自己アピールあるいは自分の身体そのものをメッセージ化する方法である。

有名なのはドイツのKlaus Nomiの髪型。ヨーロッパのニューウェーヴを決定づけた貴重な映像。

The Cold Song

近年の流行ではポーランドのSarsaの髪型。

Tęskno Mi

アメリカでは多過ぎるので省略。そしてアルトーは自分の《文体において》何か大そうな宣言でもするかのような《身振り》を行使して見せる。

「私は、タラウマラの人々が、自分の鉢巻を縫うとき、突起が垂れ下がるようにしているのを見た」(アルトー『タラウマラ・P.105』河出文庫)

アルトーはその生涯を通して愚直なまでの演劇人でもあった。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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