白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー143

2020年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
ミニョンの放屁。前にも触れた。彼は屁をするとき、「俺は真珠をひとつ放つ」と、一人で言う。音を立てずにそっと放つわけだがその臭いを消すことはできない。特に獄中では。

「私は、彼の屁(真珠)がミニョンのやわらかいお尻から噴射されるように、ヒモたちの唇から噴射されるあれらの隠語の話題に戻らないわけにはいかない」(ジュネ「花のノートルダム・P.288」河出文庫)

このエピソードは彼らに特有の隠語と隠語の共有による仲間意識に関わる。たとえば「『三十六のタイル』」は「スルシエールの独房のひとつ」を意味する。

「それは、恐らくどんなものよりも私を仰天させーーーあるいはミニョンがいつも言うように、残酷であるが故に、私を悩ませるーーー隠語のうちのひとつが、スルシエールの独房のひとつで発せられたという話なのだが、その独房をわれわれは『三十六のタイル』と呼んでいて、あまりに狭い独房なので船の通路に思えるほどである」(ジュネ「花のノートルダム・P.288」河出文庫)

隠語が巧みに用いられるときジュネたちは仲間意識で一杯になる。だが隠語の使用は巧みさを要求する。隠語はただそれだけでは何もしない。それが巧みに用いられた場合に限り、隠語は隠語本来の効力を隠語自体の力で最大限まで発揮する。言語に力を与えるのはただ単なる道具としての言語ではなく言語の使用法である。だから隠語はいつも巧みに周囲の雰囲気を操作するとは限らない。逆に巧みに用いられる場合のみ出現する隠語という現象があるだけなのだ。

「私は、ひとつの頑丈な看守について、誰かが『カマ掘られ野郎』と、それからすぐ後に『串刺し帆桁野郎』と呟くのを聞いた。ところで、たまたまそれを口にした男は自分は七年間船乗りをしたとわれわれに言ったのである。このような営みーーー帆桁による串刺し刑ーーーの壮麗さは私を頭のてっぺんから足の先まで震えさせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.288」河出文庫)

看守について二つの隠語が出現している。「『カマ掘られ野郎』」と「『串刺し帆桁野郎』」との二つ。前者はありがちで余り効果的とは思えないが、後者は実に的を得る機会を携えていることと相まっている点で隠語ならでは力を発揮しているといえる。「それを口にした男は自分は七年間船乗りをしたとわれわれに言った」。ただちに想起される「帆桁による串刺し刑」という「営み」。その「壮麗さは」はジュネの「頭のてっぺんから足の先まで震えさせ」る。ところがその直後、また別の囚人が重層的な詩的表現でなくただ単なる日常会話で用いられる誹謗中傷の言葉を用いて罵る。そのため隠語の乱舞は一気に終息しその場は白けてしまう。仲間意識はたちまち消え失せジュネたちは獄中であるにもかかわらず路頭に迷うことになる。場の状況の変化はほんの一言で一変してしまうことがよくある。だから犯罪者生活を送って生きている彼らの場合、特に言語の使用法には気配り目配りを怠らないのが通例だ。しかしそれを重視するジュネ自身、自分自ら超越論的思考に溺れていることに気づかない場合があり、仲間の一人にからかわれたりしている。

「ふつうその用途が正反対と思われている物同士が、組み合わさることをわたしに申出るので、わたしの会話はユーモアたっぷりなものになるのだった。『お前さん、この頃だいぶいかれているぜ、まったく』『いかれてるだって!』と、わたしは眼を丸くしながら繰返した。『いかれてる』。それで思い出すが、そう言えば、わたしはその頃、今述べたような精神の贅沢(ぜいたく)きわまる超脱の結果、針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟(ばさ)みを見たとき、ある絶対的な認識について啓示を受けたと思ったのだった。この誰でも知っている小さな物品の優雅さと奇異さが、《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)

このときジュネは何を思っていたのだろう。世俗的感覚に戻っていなくてはならないときにジュネは、「精神の贅沢(ぜいたく)きわまる超脱の結果」、超越論的思考の中を、超越論的思考として生きており、「洗濯挟(ばさ)み」から「啓示を受けた」と思い込み、その場をそのままの状態で受け入れてしまっている。「針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟(ばさ)み」でしかないほとんどどうでもよいようなものが「優雅さと奇異さ」を帯びて「《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」というのはいかにも不用意な態度なのだ。しかし「針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟(ばさ)み」が「優雅さと奇異さ」を帯びて「《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」と形容するに値するものとは何か。この文章の前後から察するにそれは三島由紀夫がいっているようになるほどスティリターノのことかもしれない。ところがジュネの周囲にいる人物で襤褸(ぼろ)を纏いつつ様々なパッチワークを施してお洒落を気取る工夫を身に付けている仲間はたくさんいた。だからこの洗濯挟みはただ単にスティリターノ一人を象徴しているというより、スティリターノをその内に含むジュネたちの身体の各部分からなるモンタージュ(奇妙な合成物)ではないかとおもうのである。いずれにせよ、そのことをすっかり忘れ去ってしまっていつまでも超越論的思考自身として想像の翼に身を委ねているのは危険である。それこそ「イカロスの飛翔」にほかならない。だから超越論的思考に耽るのはたいへん結構なのだが、そればかりでなくジュネは、「絶えず目ざめていなければならず、いろいろな物品の世間的な意味を見失えば直ちに捕まるおそれ」を同時に感覚していなくてはいけないという背反傾向に置かれている。

「わたしは出来事でさえ、その一つ一つを完全に独立したものとして感受した。読者はこのような精神状態が、その頃わたしがしていたような生活、絶えず目ざめていなければならず、いろいろな物品の世間的な意味を見失えば直ちに捕まるおそれのあった生活では、どれほど危険であったかということは容易に想像していただけると思う」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)

巧みに発された隠語、時宜を得た隠語、仲間意識を呼び起こす隠語の系列が、ジュネたちのあいだを縫い合わせてたちどころに出現させる一時の快楽は詩的であるがゆえに世俗的「地面」を崩壊させる力を持つ。

「つねに詩は、あなたたちの足の裏の下で地面を崩れさせるのだし、不思議な夜の胸のなかにあなたたちを吸い込んでしまうというのに」(ジュネ「花のノートルダム・P.289」河出文庫)

詩人の多くがこの罠に自らはまって自滅していった。それは世間一般の中に放り込まれると一挙に「夜陰的」なものでしかなくなり社会から拒否され、非凡な詩人を浮浪者の群れの中へ溶け込ませ、流動する流れをぼやけた一般的なもの、凡庸なもの、記号的なもの、平板なもの、群畜社会へと変えてしまうからである。その意味で「非凡な詩人」と「浮浪者の群れ」とは極めて近い類縁性があるといえよう。しかし少し違っているのは、ジュネたちの場合、自ら好き好んで社会から拒否されるのであり、また世俗的観念を否定するのであり、否定者を肯定するのである。このようにしてジュネ的文章は幾らでも延長される可能性を獲得する。
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さて、アルトー。シグリの儀式に参加することができたアルトー。儀式そのものについて書かれた部分はあえて引用しない。それは近現代に強姦される前の儀式ではすでになく、かつて行われていた作法の擬似的反復でしかないからである。キリスト教の側から見ればオカルトに見え、タラウマラ族の伝統から見ればキリスト教の側こそオカルトに見える。どちらが偉い偉くないは問題外だ。ただタラウマラの儀式は奇妙におもえるほど数字に対するこだわりを見せている点には十分注目したいところである。他の無数の少数民族の儀式においても数字に対するこだわりには並々ならぬものが共通に見出される。メキシコのタラウマラの儀式では「二匹の子ヤギ」の「二」。「十字架」の「十」。「六百の釣鐘」の「六百」等々。なお、「十字架」の中の幾つかについてタラウマラ・インディアンは「聖イグナシオ」とか「聖ニコラス」とか呼んでいる。いつ頃からか判然としないが、すでにキリスト教の聖者の名も「ペヨトル神事」の際の<不可視の導者>の中に含まれるようになっていたようだ。だからといってペヨトル儀式の意義までがすっかり変わったとは言えない。「司祭が人間に戻ること」は「汚辱にまみれた有機体」へ戻ることでありただちに「洗浄」されなければならない。それは反復される。人間に戻ることは有機体へと戻ることである。そのとき神事参加者は汚辱にまみれた人間に戻る。そしてただ単なる〔汚辱にまみれた〕有機体へ復帰するやいなやさっそく「洗浄」される。だから「この儀式は洗浄のためのものだ」。

「司祭たちは突然人間に戻り、つまり汚辱にまみれた有機体となり洗浄される。この儀式は洗浄のためのものだ」(アルトー『タラウマラ・P.72』河出文庫)

タラウマラの聖職者たち。その動作は暗黒の儀式を司る動作だ。「《夜の上を歩む夜》」そのものである。強いられた身体という「神の裁き」から逃れるために行われる「《夜の上を歩む夜》」。そこでは、「排尿」、「放屁」、等々の「ぶちまけ」が聖性を証明する。

「彼ら、この聖職者たち、一種の暗黒の働き手たちは、井戸掘り人夫のようにふるまう。彼らの役割は排尿し、ぶちまけることである。彼らは排尿し、放屁し、恐るべき轟きとともにぶちまける」(アルトー『タラウマラ・P.72』河出文庫)

アルトーにとって人間の身体は「神の裁き」として強引に与えられた有機体だった。それは「むずがゆい」。アレルギー症状を引き起こす。アルトーの場合それは統合失調症として出現し身に引き受けることになった。とはいえアルトーはユーモアを失ったのだろうか。けっしてそうではない。むしろ「タラウマラ」はユーモアの勧めなのだ。あらかじめ決定づけられた有機的身体という「強制収容所」から逃走線を引き出すこと。ユーモア的態度を失わないこと。ボードレールがいっているように。

「笑いは悪魔的である。ゆえにこれは深く人間的である。これは人間にあって、自らの優越性の観念の帰結である。そして事実、笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴(しるし)であると同時に無限な悲惨の徴であって、人間が頭で知っている<絶対存在者>との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの《自我》の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話は別だが」(「笑いの本質について、および一般に造型芸術における滑稽について」『ボードレール批評1・P.227』ちくま学芸文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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