村のそこらじゅうに溢れているのは一九一〇年代から一九三〇年代のフランスにかけて蔓延していた「男らしさ」という男性像と「女らしさ」という女性像ばかりだった。ニーチェのいうようにそれらは人為的な慣習化から徐々に社会の中に定着するに至った一時的な流行に過ぎず、一滴の「真実」も含んでいない。それゆえディヴィーヌは男性同性愛者の女方として「女性」とはどういうものなのか、時おり苦痛とともに考え込まざるを得ないときがある。少年時代の思い出の中にはキュラフロワ(彼)だった頃の記憶がたんまり蓄積されて残っている。それら記憶の中には「女性」を志向する象徴的なものも目一杯含まれているが、後にディヴィーヌ(彼女)になるに当たって周囲の人間の中から参照したものとは何だったか。
「女性のすべてはキュラフロワが村で知ったひとりの小さな少女のなかにあった。彼女はソランジュと呼ばれていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.263」河出文庫)
ソランジュは同級生というに等しい村の少女である。村の中では珍しくキュラフロワに似た怪物的想像力に恵まれていた。ジュネはいったん小説からはずれ、詩(ポエジー)とは何かについて述べる。それはたまたま出現するものなのだが、いつも能動的な態度を取っていなければ捉えることができない。能動的態度で《欲して》いなくてはならない。しかし欲するという言葉が人々に与えている一般的なイメージとはずいぶん違い、途方もない繊細さを要する能動性なのだ。
「ポエジーは、緊張して、ふんばった意志の、時にはひどくつらい努力によって獲得される世界のヴィジョンである。ポエジーは自発的なものである。それは放棄ではなく、感覚による自由で無償の開口部ではない。それは官能性とは混同されないが、それと対立しつつ、例えば土曜日に、部屋を掃除するために、肘掛け椅子と赤いビロードの椅子を金ぴかの鏡とマホガニーのテーブルをすぐ近くの緑の草地に出すときに生まれていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.264」河出文庫)
詩(ポエジー)を獲得するにあたって、その能動的態度にもかかわらず、何らの「闘争」も必要としない。闘争による力の増大はむしろ凡庸なものでしかない。詩(ポエジー)は平凡な暴力とはまったく関係がない。だが極めて先鋭的で敏感で能動的な《力》に溢れていなくてはならない。そのようなとき、様々な事物とのたまたまの出会いがたちどころに詩(ポエジー)を発生させ、同時に十分に「《高揚された感情》、《より強くなる》という感情」として意識される。こうニーチェがいっている通りだ。
「私には、《高揚された感情》、《より強くなる》という感情がすでに、闘争における有用さをまったく別としても、本来の《進歩》であると思われる」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六四九・P.174」ちくま学芸文庫)
ソランジュは一年間の修道院生活から返ってくる。幼少期の人間はことのほか変わりやすい。大人から見ればいともたやすく加工しやすい。返ってきたソランジュはもはやかつてのソランジュではなくなっており、村のどこにでもいる平板単調な小娘の一人でしかなくなっていた。その様子を見てキュラフロワはおもう。身振り物腰の変化一つだけで人間は容易に性差を越えて「『自分の姿とは違うように演じることができる」と。年少ではあってもほかならぬ女性を体現していたソランジュがたった一年でこれほど一般化し、記号化し、群畜化し、愚劣化することができたのだ。キュラフロワはキュラフロワの側が赤面するほど凡庸で低俗な小娘になって返ってきたソランジュを見てこう考える。
「『自分以外の連中にも』、と彼は考えた、『自分の姿とは違うように演じることができる。つまり僕は例外的な存在ではないのだ』。ついで彼は、結局、女性的なきらめきの切り子面のひとつをはからずも発見していた」(ジュネ「花のノートルダム・P.267~268」河出文庫)
男性器を持たないソランジュが村で唯一「女性」に見えていたのは彼女が男性器を持たないからではなく、ソランジュだったからだ。他の小娘と同一化したソランジュはもはやかつての「女性」ではない。ただ単にどこにでもいる小娘の一人に過ぎない。彼女がかつて持っていた怪物的想像力はもう失われていた。キュラフロワはがっかりするほかない。ソランジュは失われた。村の外に出て地方都市に行けば有り余るほどいるだろうような小娘の一人でしかなくなってしまった。さらに首都パリに出ればもはやソランジュは無数の小娘の群れの中に消滅するだろう。だがしかしすべての夢が消え去ってしまったわけでもない。代わって村で唯一の女性として輝いて見えていた頃のソランジュを、しかも新しいソランジュがうようよしている光景を、目くるめく大都市のあちこちで見出すに違いないと気づくのだ。
ーーーーー
さて、アルトー。肝臓の機能については前回述べた。なぜ肝臓なのかについても。人間の身体構造からそう述べた。シグリの儀式の中でアルトーが肝臓を重視したことについて自分自身こう言っている。「少なくとも身体は十分栄養を得なければならない」と。これまでの記述に従って見ているとなぜかそこだけが奇妙に現実的に思える。だがペヨトルを用いたタラウマラ族の儀式において肝臓がいかに重要な機能を果たしているか。知らないわけにはいかない。さらにもっともなことなのだが、ペヨトル摂取以前、どの少数民族であっても、たとえどのような儀式であれ、「十分栄養を得なければ」、からだは動かない。どんな儀式であっても常日頃から十分な栄養を得ていなければ年に一度の儀式を執り行うことさえできない。肝臓という言葉の出現は唐突な事情の説明ではなく逆に自明の理として書かれている。
「しかし肝臓が自分の機能を満たすことができるためには、少なくとも身体は十分栄養を得なければならない」(アルトー『タラウマラ・P.45』河出文庫)
人間の身体は多様なものの流動性としてしか存在しない。次の一節でアルトーはペヨトル=植物が命じる特異的効果の中でたいへん有効な活用法について触れている。「ペヨトルは意識を《固定》」するというのだ。しかしペヨトルは意識を変容の流れの中へ流し込むことではなかっただろうか。というのも「固定」という言葉は同じでも、アルトーの主張は違っているのである。懸命に違いをアピールする必要性に迫られていた。
「私の見聞によれば、ペヨトルは意識を《固定》し、意識がさまようこと、偽の印象に身をゆだねることを阻止する」(アルトー『タラウマラ・P.47』河出文庫)
特定の動物の肉を食べると身体の特定の箇所により一層力が加わるように、特定の植物を食べて身体の特定の箇所に変容が起こることは数千年の昔からよく知られていた。ペヨトル摂取の場合、意識変容ということにこだわり過ぎると全体像が見えなくなる。タラウマラ族は少数民族のあいだだけに伝わる伝統的儀式としてペヨトルを用いていたに過ぎない。しかし経験の蓄積から、ペヨトルによる意識変容は身体全体に関わる現象であり、全身の変容がペヨトルを通してのみ出現する現実である限り、そのとき人間は同時にペヨトルであるという実に当たり前の事実が述べられているだけなのだ。タラウマラ族にとってペヨトルを用いる儀式(シグリ)は何千年も前から行われてきた伝統であり不思議なところなどまるでない。それは破壊したのはヨーロッパ近代社会である。アルトーがメキシコを訪れた頃、メキシコを始めとして中南米の多くの少数民族は欧米列強の植民地主義の犠牲となっていた。ペヨトルは人間を「錯乱」させるという理由で欧米近代社会はタラウマラ族からペヨトルを取り上げた。ペヨトルの代わりにずいぶん風変わりな宗教が与えられた。しかしタラウマラ族の歴史に耳を傾けているとペヨトルがタラウマラ族に経験させるものが何であるか深く記憶に刻み込まれていることがわかる。比較すれば容易にわかるように、本来この地にあった食物摂取から得られるイメージと外来の食物摂取から得られるイメージとを区別することはいつでも可能である。たとえば日本では「朝ご飯」、「味噌汁」、「すきやき」を食べる習慣が徐々になくなり代わりにマクドナルドやケンタッキーフライドチキンを食べる習慣が増大した。忙しいときはそれも構わないし仕方のない面もあるだろう。しかし結果的に危険水域を越えたアメリカ人の肥満化に続いて日本人の肥満化が起こってきただけでなく肥満防止のための非合法薬物摂取という習慣まで輸入されるに至ったことについては慎重でなくてはならない。日本のアメリカ化が急速に浸透した。非合法薬物を用いて痩せるより一般的な学校給食に含まれる成分表に注目してみよう。どれほど合理的に計算された食事かが大変よく分かる。依存性もない。タラウマラ族が失ったのもそれだ。ペヨトルによる意識「変容」にもかかわらず逆に意識の「固定化」が起こるのは、長いあいだ伝統のうちになかった何か奇妙な警戒すべき諸要素が紛れ込んできたからにほかならない。ペヨトルの作用はそこで「偽の印象に身をゆだねることを阻止する」方向へ働くのだ。
ーーーーー
なお、連日報道されているアメリカ大統領選挙について。民主党予備選だが支持者は左派と中道派とに分かれている。ところが隠れ左派と言われる人々がいる。彼らはどこにいるかというと民主党ではなく主に共和党右派の背後にいて、その職業は大抵が政治学である。今のトランプ大統領が推し進める強硬路線を理論的にリードする技術に長けている。今のアメリカの新自由路線をもっと強力に加速させればさせるほど資本主義はたちまち自己破壊を起こすに違いないという計算のもとで精力的にトランプ陣営を後押ししている。実際、トランプ政権はアメリカ人有権者によってアメリカ人有権者自身が自分で自分自身を自己瞞着する感覚に慣れさせることに成功している。隠れ左派はそれを利用するためにあえてトランプ政権を支持するのである。条件が今のまま推移するとすればアメリカはほどなく自然に暴発し更地になるだろう。そのとき隠れ左派は民主党ではなく共和党の中からアメリカをもう一度新しく始めようと計画している。あるいはしていた。ところが民主党予備選でバイデン候補よりも社会福祉政策に熱心なサンダース候補がやや票を伸ばしている。とすればアメリカは新自由主義の加速化によって自己崩壊するのでなく、社会福祉政策が存続することにより現状維持が続くことになる。サンダース候補の社会福祉政策によってアメリカ型資本主義にブレーキがかかり自己崩壊しない可能性が出てきた。資本主義は公理系によって支えられているがゆえに自ら公理系を創出して脱コード化の運動を推進させることができる。ところが共和党の中でもトランプ政権は資本主義の世界性という意味について今なおよくわかっていない。さらにアメリカ大統領としてのドナルド・トランプは公理系を無視して脱コード化だけしか考えない馬鹿であるがゆえに、隠れ左派からすれば利用しやすいトランプ政権に入れ知恵することで新自由主義を徹底的に推し進めさせ、公理系なき資本主義が自然必然的にたどり着く末路としてアメリカ型資本主義を自己破壊させるという見通しを立てることもできた。だがここでもしサンダース候補が頭角を現し改めて公理系の整理整頓に着手したりすれば資本主義を内部から自己破壊させようとする隠れ左派の戦略は水泡に帰すことになるかもしれない。注視しておく必要性がある。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「女性のすべてはキュラフロワが村で知ったひとりの小さな少女のなかにあった。彼女はソランジュと呼ばれていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.263」河出文庫)
ソランジュは同級生というに等しい村の少女である。村の中では珍しくキュラフロワに似た怪物的想像力に恵まれていた。ジュネはいったん小説からはずれ、詩(ポエジー)とは何かについて述べる。それはたまたま出現するものなのだが、いつも能動的な態度を取っていなければ捉えることができない。能動的態度で《欲して》いなくてはならない。しかし欲するという言葉が人々に与えている一般的なイメージとはずいぶん違い、途方もない繊細さを要する能動性なのだ。
「ポエジーは、緊張して、ふんばった意志の、時にはひどくつらい努力によって獲得される世界のヴィジョンである。ポエジーは自発的なものである。それは放棄ではなく、感覚による自由で無償の開口部ではない。それは官能性とは混同されないが、それと対立しつつ、例えば土曜日に、部屋を掃除するために、肘掛け椅子と赤いビロードの椅子を金ぴかの鏡とマホガニーのテーブルをすぐ近くの緑の草地に出すときに生まれていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.264」河出文庫)
詩(ポエジー)を獲得するにあたって、その能動的態度にもかかわらず、何らの「闘争」も必要としない。闘争による力の増大はむしろ凡庸なものでしかない。詩(ポエジー)は平凡な暴力とはまったく関係がない。だが極めて先鋭的で敏感で能動的な《力》に溢れていなくてはならない。そのようなとき、様々な事物とのたまたまの出会いがたちどころに詩(ポエジー)を発生させ、同時に十分に「《高揚された感情》、《より強くなる》という感情」として意識される。こうニーチェがいっている通りだ。
「私には、《高揚された感情》、《より強くなる》という感情がすでに、闘争における有用さをまったく別としても、本来の《進歩》であると思われる」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六四九・P.174」ちくま学芸文庫)
ソランジュは一年間の修道院生活から返ってくる。幼少期の人間はことのほか変わりやすい。大人から見ればいともたやすく加工しやすい。返ってきたソランジュはもはやかつてのソランジュではなくなっており、村のどこにでもいる平板単調な小娘の一人でしかなくなっていた。その様子を見てキュラフロワはおもう。身振り物腰の変化一つだけで人間は容易に性差を越えて「『自分の姿とは違うように演じることができる」と。年少ではあってもほかならぬ女性を体現していたソランジュがたった一年でこれほど一般化し、記号化し、群畜化し、愚劣化することができたのだ。キュラフロワはキュラフロワの側が赤面するほど凡庸で低俗な小娘になって返ってきたソランジュを見てこう考える。
「『自分以外の連中にも』、と彼は考えた、『自分の姿とは違うように演じることができる。つまり僕は例外的な存在ではないのだ』。ついで彼は、結局、女性的なきらめきの切り子面のひとつをはからずも発見していた」(ジュネ「花のノートルダム・P.267~268」河出文庫)
男性器を持たないソランジュが村で唯一「女性」に見えていたのは彼女が男性器を持たないからではなく、ソランジュだったからだ。他の小娘と同一化したソランジュはもはやかつての「女性」ではない。ただ単にどこにでもいる小娘の一人に過ぎない。彼女がかつて持っていた怪物的想像力はもう失われていた。キュラフロワはがっかりするほかない。ソランジュは失われた。村の外に出て地方都市に行けば有り余るほどいるだろうような小娘の一人でしかなくなってしまった。さらに首都パリに出ればもはやソランジュは無数の小娘の群れの中に消滅するだろう。だがしかしすべての夢が消え去ってしまったわけでもない。代わって村で唯一の女性として輝いて見えていた頃のソランジュを、しかも新しいソランジュがうようよしている光景を、目くるめく大都市のあちこちで見出すに違いないと気づくのだ。
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さて、アルトー。肝臓の機能については前回述べた。なぜ肝臓なのかについても。人間の身体構造からそう述べた。シグリの儀式の中でアルトーが肝臓を重視したことについて自分自身こう言っている。「少なくとも身体は十分栄養を得なければならない」と。これまでの記述に従って見ているとなぜかそこだけが奇妙に現実的に思える。だがペヨトルを用いたタラウマラ族の儀式において肝臓がいかに重要な機能を果たしているか。知らないわけにはいかない。さらにもっともなことなのだが、ペヨトル摂取以前、どの少数民族であっても、たとえどのような儀式であれ、「十分栄養を得なければ」、からだは動かない。どんな儀式であっても常日頃から十分な栄養を得ていなければ年に一度の儀式を執り行うことさえできない。肝臓という言葉の出現は唐突な事情の説明ではなく逆に自明の理として書かれている。
「しかし肝臓が自分の機能を満たすことができるためには、少なくとも身体は十分栄養を得なければならない」(アルトー『タラウマラ・P.45』河出文庫)
人間の身体は多様なものの流動性としてしか存在しない。次の一節でアルトーはペヨトル=植物が命じる特異的効果の中でたいへん有効な活用法について触れている。「ペヨトルは意識を《固定》」するというのだ。しかしペヨトルは意識を変容の流れの中へ流し込むことではなかっただろうか。というのも「固定」という言葉は同じでも、アルトーの主張は違っているのである。懸命に違いをアピールする必要性に迫られていた。
「私の見聞によれば、ペヨトルは意識を《固定》し、意識がさまようこと、偽の印象に身をゆだねることを阻止する」(アルトー『タラウマラ・P.47』河出文庫)
特定の動物の肉を食べると身体の特定の箇所により一層力が加わるように、特定の植物を食べて身体の特定の箇所に変容が起こることは数千年の昔からよく知られていた。ペヨトル摂取の場合、意識変容ということにこだわり過ぎると全体像が見えなくなる。タラウマラ族は少数民族のあいだだけに伝わる伝統的儀式としてペヨトルを用いていたに過ぎない。しかし経験の蓄積から、ペヨトルによる意識変容は身体全体に関わる現象であり、全身の変容がペヨトルを通してのみ出現する現実である限り、そのとき人間は同時にペヨトルであるという実に当たり前の事実が述べられているだけなのだ。タラウマラ族にとってペヨトルを用いる儀式(シグリ)は何千年も前から行われてきた伝統であり不思議なところなどまるでない。それは破壊したのはヨーロッパ近代社会である。アルトーがメキシコを訪れた頃、メキシコを始めとして中南米の多くの少数民族は欧米列強の植民地主義の犠牲となっていた。ペヨトルは人間を「錯乱」させるという理由で欧米近代社会はタラウマラ族からペヨトルを取り上げた。ペヨトルの代わりにずいぶん風変わりな宗教が与えられた。しかしタラウマラ族の歴史に耳を傾けているとペヨトルがタラウマラ族に経験させるものが何であるか深く記憶に刻み込まれていることがわかる。比較すれば容易にわかるように、本来この地にあった食物摂取から得られるイメージと外来の食物摂取から得られるイメージとを区別することはいつでも可能である。たとえば日本では「朝ご飯」、「味噌汁」、「すきやき」を食べる習慣が徐々になくなり代わりにマクドナルドやケンタッキーフライドチキンを食べる習慣が増大した。忙しいときはそれも構わないし仕方のない面もあるだろう。しかし結果的に危険水域を越えたアメリカ人の肥満化に続いて日本人の肥満化が起こってきただけでなく肥満防止のための非合法薬物摂取という習慣まで輸入されるに至ったことについては慎重でなくてはならない。日本のアメリカ化が急速に浸透した。非合法薬物を用いて痩せるより一般的な学校給食に含まれる成分表に注目してみよう。どれほど合理的に計算された食事かが大変よく分かる。依存性もない。タラウマラ族が失ったのもそれだ。ペヨトルによる意識「変容」にもかかわらず逆に意識の「固定化」が起こるのは、長いあいだ伝統のうちになかった何か奇妙な警戒すべき諸要素が紛れ込んできたからにほかならない。ペヨトルの作用はそこで「偽の印象に身をゆだねることを阻止する」方向へ働くのだ。
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なお、連日報道されているアメリカ大統領選挙について。民主党予備選だが支持者は左派と中道派とに分かれている。ところが隠れ左派と言われる人々がいる。彼らはどこにいるかというと民主党ではなく主に共和党右派の背後にいて、その職業は大抵が政治学である。今のトランプ大統領が推し進める強硬路線を理論的にリードする技術に長けている。今のアメリカの新自由路線をもっと強力に加速させればさせるほど資本主義はたちまち自己破壊を起こすに違いないという計算のもとで精力的にトランプ陣営を後押ししている。実際、トランプ政権はアメリカ人有権者によってアメリカ人有権者自身が自分で自分自身を自己瞞着する感覚に慣れさせることに成功している。隠れ左派はそれを利用するためにあえてトランプ政権を支持するのである。条件が今のまま推移するとすればアメリカはほどなく自然に暴発し更地になるだろう。そのとき隠れ左派は民主党ではなく共和党の中からアメリカをもう一度新しく始めようと計画している。あるいはしていた。ところが民主党予備選でバイデン候補よりも社会福祉政策に熱心なサンダース候補がやや票を伸ばしている。とすればアメリカは新自由主義の加速化によって自己崩壊するのでなく、社会福祉政策が存続することにより現状維持が続くことになる。サンダース候補の社会福祉政策によってアメリカ型資本主義にブレーキがかかり自己崩壊しない可能性が出てきた。資本主義は公理系によって支えられているがゆえに自ら公理系を創出して脱コード化の運動を推進させることができる。ところが共和党の中でもトランプ政権は資本主義の世界性という意味について今なおよくわかっていない。さらにアメリカ大統領としてのドナルド・トランプは公理系を無視して脱コード化だけしか考えない馬鹿であるがゆえに、隠れ左派からすれば利用しやすいトランプ政権に入れ知恵することで新自由主義を徹底的に推し進めさせ、公理系なき資本主義が自然必然的にたどり着く末路としてアメリカ型資本主義を自己破壊させるという見通しを立てることもできた。だがここでもしサンダース候補が頭角を現し改めて公理系の整理整頓に着手したりすれば資本主義を内部から自己破壊させようとする隠れ左派の戦略は水泡に帰すことになるかもしれない。注視しておく必要性がある。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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