白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー140

2020年03月06日 | 日記・エッセイ・コラム
花のノートルダムとゴルギの二人は散々遊んだ後になってディヴィーヌの屋根裏部屋に戻ってくる。二人はそこでしばらく体を休める。徐々に体力が戻ってくる頃合いを見計らいつつディヴィーヌは二人の男性器を口一杯に頬張って勃起させる。すると転がり込んできた二人の男性器はディヴィーヌを目掛けてではなくまたしても二人の間で交雑し始める。ディヴィーヌは自分の欲望を叶えようとして失敗したわけだが、これでもう何度目の失敗になるだろうか。ディヴィーヌはしみじみと思う。

「『これが人生ね』、と考える余裕がディヴィーヌにあった。休止が、一種の揺れ動きがあった。肉体の足場が悔恨のなかに崩れ落ちた。ディヴィーヌは頭を枕まで再び上げた。彼女はひとりぼっちで、見捨てられたままだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.275」河出文庫)

男性同士の肉欲に溺れて性行為に没頭している若年の荒くれ男たちは、その場をわざわざ作り上げてくれた年長者のディヴィーヌのことなど振り向きもしない。ディヴィーヌにとって男性同性愛者の女方であるということはどういうことなのかという問いはいつも自分の頭上にぶら下がっている。とはいえディヴィーヌがもし仮に異性愛者であったとしても、世間一般の中に置いてみると容易にわかるように人一倍賢い人間の部類に属する。論理的頭脳の持ち主である。彼女の面前で臆面もなく繰り広げられている光景が指し示している意味が彼女にとってどれほど侮辱的か。ノートルダムとゴルギとの破廉恥な性行為が実はこれ見よがしの部分を持たされた行為でもあることにディヴィーヌは敏感に反応する。ディヴィーヌは許しがたい侮辱的行為が自分に向けて浴びせかけられていることを見抜いてもいる。

「彼女はもう興奮してはいなかったし、はじめて彼女はうってつけの愛を自分の手で終わらせに便所へ行く欲求を感じなかった。ディヴィーヌはセックとノートルダムが彼女に対して行った侮辱からきっと立ち直ったはずだった、もし侮辱が彼女の家で行われたのでなかったのなら。彼女はそれを忘れたはずだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.275」河出文庫)

ディヴィーヌは今後のことを考えなくてはならない。おもえばいつも今後のことばかり考えて一喜一憂していなくてはならない事態に追い込まれている。異性愛者の中に大量のタイプが存在するように、男性同性愛者の中にも大量の異種のタイプが存在する。ディヴィーヌは仲間たちのことを思い、にもかかわらず裏切られて落胆するが、しばらくすればまた信じ、そしてまた裏切られ一喜一憂しては気を取り直して生きていく。そういうタイプなのだ。それはそれとして三十歳を迎えているディヴィーヌには事態の成り行きを見て瞬時に対処する方法を多く学んでいる。ほんの一時の悪ふざけに見えていてもそれが侮辱的行為である以上、放置するとどういう経過をたどってしまうことになるか、ディヴィーヌはこれまでの経験上よく知っている。

「無礼な行為は慢性化する恐れがあった、三人全員が屋根裏部屋に永久に腰を落ち着けるように思えるのだから」(ジュネ「花のノートルダム・P.275」河出文庫)

ちなみに先日、日本でも似たような事例が報道されている。見た目は違うが構造的には同じである。「〔侮辱的〕無礼な行為は慢性化する恐れがあった」。兵庫県神戸市で発覚した「教員いじめ事件」の構造である。ジュネは或るシーンを描くにあたって汚辱の美を穢してしまうような表現を避け、極めて妥当と思える上品な語彙しか用いないので、わざわざ「屋根裏部屋」としている。しかし神戸市で発覚した教員いじめの陰湿さはジュネたちが常に細心の注意を払って避けるよう心がけている動作の範囲を越えてしまっているとしか言いようがない。ジュネたちはなるほど戦前戦中戦後を生き延びたごろつきどもの仲間たちに過ぎない。何度も刑務所に出入りしてきた連中がほとんどだ。そのような強者(つわもの)たちの目から見てもなお、度を越した、調子に乗り過ぎた、主な容疑者に対する粛清の断行こそがふさわしい事件に映って見えるだろうことは間違いない。一九三〇年代のナチスドイツを含む当時のフランスのごろつきどもの間に立ちまじり、それでもなおジュネが殺害されずに済んだのはひとえにジュネが刑務所内と戦時下のヨーロッパの路上で学んだ慎重さと注意深さとの賜物である。あれから、要するに戦後から、数えてみて七十年以上経つというのに逆に人権思想は後退していることを日本国中に見せつけた「いじめ加害者側」の驚くべき度胸は一体どこからやって来たのか。不可解である。神戸市「教員いじめ事件」の加害者側の態度はひとかけらの世界史からさえ何ら学んでいない点で十分注目するに値する。そしてなおマスコミに注目してみても、なぜか今以上の報道は差し控えられているかのように見える。なぜだろうか。今や神戸市教育委員会が掌握する神戸市立のすべての小学校の「教員室」と、銃や刃物で一杯のジュネたちの「屋根裏部屋」とが奇妙な一致を示しつつ実に丁寧に折り重なって見えるのである。またもしこの「教員いじめ事件」にそこそこ名の売れている「暴力団」が絡んでいない場合はもちろんだが、もし本当に絡んでいるとしても、警察が躊躇する必要性はないはずだと思われる。日本の暴力団はマフィア化に失敗した。込み入った話になるかのように見えるかもしれない。ところが国連が発行している広報誌に目を通してみれば一目瞭然。一九九〇年代末期にアメリカ主導で行われたNATOの空爆以来、中南米、バルカン半島、EU、アフリカ北部地域、等々のマフィアは素速く再編された。逆に日本の暴力団はフランスの外人部隊に食い込むことすらできなかった。日本は暴力においても反暴力においても世界的に宙吊り状態のまま置き去りにされているのである。次のディヴィーヌの判断は極めて速やかであり妥当でもある。

「彼女は同じ程度にセックとノートルダムを憎んでいたし、もし彼らが別れてくれていたなら、この憎しみはおさまっただろうととてもはっきりと感じていた。だから、どんなことがあっても、彼女は二人を屋根裏部屋に残してはおかなかっただろう。『この二人の怠け者を肥え太らせるつまりなんかないわ』」(ジュネ「花のノートルダム・P.275」河出文庫)

ところがディヴィーヌは抜こうと考えても抜くに抜けない古風な気質の持ち主でもある。彼女は母エルネスティーヌの趣味嗜好を受け継いでいた。だからノートルダムとゴルギが情事に疲れ果てて眠り込み、やがて起きてくる頃になると彼女は「お茶の用意をしていた」ということになる。

「お茶の用意をしていたディヴィーヌは上の空でいるようにしたのだが、彼女はノートルダムのズボンの前あきにちらっと目をやらないではいられなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.276」河出文庫)

だからといって、ディヴィーヌはただ単なる「お人よし」ではない。ニーチェならいうだろう。見た目に「お人よし」に見えるからといって、それが「権力への意志」の一つの方法でないと誰にいえるだろうかと。
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さて、アルトー。タラウマラ族による一連の儀式をともにした後、アルトーはキリスト教が少数民族の間にもたらした近代というシステムを大いに批判する。列挙されているままに列挙してみる。特にキリスト教が犯した過ちは人間の欲望を「性的欲望」に一元化して資本主義的管理社会へ貢献したとことである。

「私は、『ペヨトルの儀式』を、回心の状態で書いたのであって、すでに体の中に一五〇あるいは二〇〇の真新しい聖体をかかえていた」(アルトー『タラウマラ・P.49』河出文庫)

「そのせいで、キリストに関して、またイエス-キリストと十字架について、あちこちで私は錯乱している」(アルトー『タラウマラ・P.49』河出文庫)

「というのも今では、十字架の多層からなる偏狭な記号ほど、死臭がして、死ぬほど忌まわしいものはない、と私には思われるからだ」(アルトー『タラウマラ・P.49』河出文庫)

「キリストほど猥雑な欲情をかきたてるもの、あらゆる心的な偽りの謎の、知性にまで浸透した身体的屑の卑劣な性的凝縮であるものはない」(アルトー『タラウマラ・P.49』河出文庫)

ところがアメリカCIAが用いたLSDにしても性的な欲望に関する自白などほとんど引き出すことはできなかった。ましてやタラウマラの儀式(シグリ)におけるペヨトル摂取に関してメシキコ当局はフランスの傀儡政権としてペヨトル栽培を破滅させたばかりか代わりにアルコール飲料を与え、だらだらした飲酒癖を慣習化させて堕落させ体よく下層階級に編入させたという国策というべき犯罪行為を敢行したのだった。事態はそうなるとタラウマラだけでなく他の多くの少数民族居住地はそもそも最初から植民地になるべくして植民地化したかのように見えるという倒錯が生じてくる。欧米列強はこうして密閉された階級社会を徹底的に打刻していった。しかしアルトーはその過程を告発することには余り意味を見出さない。アルトーの狙いはもはや消え去ったものを再現するのではなく、現在において新しい身体〔身振り、仕ぐさ、物腰〕を出現させることだからである。それはしばしば身体の解体でもある。さらにニーチェにならえば「別様の感じ方」という方法である。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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