アレクサンドル・デュマ宛書簡の中でネルヴァルは未公開の作品の冒頭部を披露して判断を仰ぎたいと述べている。この作品を見ていこうとおもう。主人公は始めから憤懣やるかたない気分に支配されている。作品はラシーヌ「イフィジェニー」であり、イフィジェニーの下敷きになっているエウリピデスのギリシア悲劇「アウリスのイピゲネイア」だからである。ネルヴァルの心情も役もアキレウスである。
最初に観客について二つの方向性が語られる。大筋でいえば、イフィジェニーの父アガメムノンを始めとして、国民は父アガメムノンが娘イフィジェニーを国家のために他国へ売ることに大賛成する。なぜかというと、一方で、イフィジェニーは美貌と優雅さにあふれた美女であり、観客の女性陣からすれば、国家の危機のためなら四の五の言わず身を挺して政略結婚に同意するとともに殺されるべきが正義だからである。もう一方、結婚相手とされたアキレウスは「海の神から生まれたペレウスの若殿」であり勇気にも肉体美にも恵まれている。観客の男性陣からすれば、美貌と優雅さにあふれた美女イフィジェニーを国民の手から持ち去る他国の男性であり許しがたい。もし結婚するならいっそのことアキレウスもイフィジェニーもともに国家のために死ぬのが妥当であると考えるからである。
ところが文学者ネルヴァルにすれば、そういう国民の体質というもの、国家存亡の危機というキャッチフレーズを大義名分としてはいるものの、本当は美男美女の結婚など許しがたいという国家的規模を持って二人に襲いかかる嫉妬心と卑劣極まりない一般大衆の自己保存本能とが許しがたいわけである。ニーチェが徹底的に批判するルサンチマン(復讐欲、劣等感)にまみれ果てた国民の体質というものが。しかし十九世紀になってなお古代悲劇を下敷きにしたラシーヌ「イフィジェニー」がそこまで熱狂的に観客受けするのは観客がそもそも「比類なき一族の栄光に対する復讐を欲する」からだとネルヴァルは述べる。この辺りからネルヴァルの主人公化が顕著になる。ネルヴァルはアキレウス役に甘んじていることを飽きたりなく思い始める。
「ブリタニキュスやバジャゼといった、囚われの身の臆病な恋人たちは、私にはふさわしからぬ役柄でした。それよりも皇帝の緋の衣にはるかに惹かれたものです!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.25』岩波文庫)
ネルヴァルはもはやアキレウスではなく「皇帝」を目指す。
「ところが皇帝役の場合、せりふは冷酷な裏切りの言葉ばかりとは情けない!何たることか!これがローマに名をとどろかせたネロンその人なのか?美しい闘志にして舞踏家、熱情的な詩人、万人に好まれることを唯一の望みとした人物だというのに?」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.25』岩波文庫)
フランス語で「ネロン」。ローマ皇帝「ネロ」のこと。ちなみにネロの評価は両義的である。芸術的なものだけでなく体育にもすぐれていたようだ。ネロの死後、歴史によれば、まったく逆に残虐非道の皇帝だったとして描かれてはいるが。
「そのネロンを歴史はこんな風に仕立て、歴史にもとづいて詩人たちはこんな風に夢想したのか!ああ!彼の憤怒であればぜひとも表現してみせよう」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.25』岩波文庫)
事実としてのネロの行為、それを観察したあとで言語化する歴史家の行為、それを下敷きにして劇作を作り上げる後々の作者たち。事実としてのネロがどうであったかより、ネロの意味だけがこのように次々と横滑りしていく。そしてネルヴァルは先に述べたように、一方でネロの人気が本当は高かったことを告げつつ、他方、残虐非道化されたネロとして変身しようと《欲する》。
「ネロン!あなたの名前を厚かましくも借り受けたとき、わたしはあなたを、残念ながらラシーヌに従ってではなく、引き裂かれたわが心のままに理解したのです!そう、あなたは一個の神だった、ローマを焼こうとしたネロンよ、あなたにはおそらく、その権利があった。何しろローマはあなたを侮辱したのだから!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.25~26』岩波文庫)
ネルヴァルの変身は一見矛盾に見える。しかし次々と新しく生成変化を遂げているというだけのことであって、その意味では目に見える無限に様々な個別的な姿形にとらわれず、むしろ《欲望そのもの》として、《力への意志》として、絶えざる移動を続けているという点に注目したい。ネルヴァルは次に劇場での公演中に「《彼女の目の前で》」野次られたことに怒り震える。
「野次の口笛、それも《彼女の目の前で》、彼女のかたわらで、彼女ゆえに、卑劣な口笛を吹かれるとは!それを彼女は自分のせいにしたがーーー実は私に落ち度があったのです(どうかわかってください!)」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.26』岩波文庫)
ネルヴァルのいう「彼女」は一つの系列をなしている。「イフィジェニー=モニーム=ジェニー=ベレニス=シャンメレ嬢=サン・シモールの高貴な処女たち=オーレリー」という悲劇のヒロインの系列。さらにイフィジェニーのモデルはギリシア悲劇に出てくるイピゲネイア。主人公の役はアキレウス。父アガメムノンの政治的取引材料とされた娘イピゲネイアと結婚することになるが、この婚姻がそもそもアガメムノンの策略だったことを知る。激怒のあまり必ずイピゲネイアを救いに行くと約束する。エウリピデスから引用しよう。
「アガメムノン 兄の私が、メラネオスのため総大将に選ばれたが、この名誉は私よりも、他人が受けてくれればよかった。一つところに集合した軍隊も、船が出せずにここアウリスにとどまっている。予言者カルカスは、困りきった兵どもに、私の娘イピゲネイアをこの地をしろす女神アルテミスへと捧げるならば、船出はかない、プリュギア勢どもの滅ぼすこともできようが(さもなくば、それはなかわぬ)、というのだ」(エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」『ギリシア悲劇4・P.530』ちくま文庫)
予言者が権力を持っていた時代。予測不可能な時代にはよく出てくる。二〇二〇年の今なおしばしばうろうろ出てきてスキャンダルを巻き起こし、それを商品化して大儲けする。もっとも、名称は変わっていて「御用評論家」と呼ばれることも少なくない。
「アガメムノン 娘を殺さねばなるまい。/メネラオス どうして。誰が兄上に娘を殺せなどと言うものか。/アガメムノン 遠征へと集り寄った兵たちは。/メネラオス いや、あの子をアルゴスへ帰してしまえば。/アガメムノン これには隠せても、あれには隠せまい。/メネラオス 何のことだ。民衆をそんなに恐れることはない。/アガメムノン カルカスがアルゴス勢の兵士(つわもの)どもに告げるだろう。/メネラオス いやそれまでに死んでしまったら。わけはない。/アガメムノン 予言者というのは野心の強い厄介者だ。/メネラオス 居たところで、何の役にも立たない、食えぬ代物だ。/アガメムノン ちょっと気になることがあるのだが、あなたは何とも思わないか。/メネラオス 何だか言って下さらないことには、推量のしようもない。/アガメムノン オデュッセウスがすっかり知っているのだ/メネラオス オデュッセウスがあなたや私を痛い目にあわせるはずもないが。/アガメムノン 心変わりするやつなのだ。民衆の味方といって。/メネラオス 野心に眼がくらんでいる、恐ろしい病いだ」(エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」『ギリシア悲劇4・P.549』ちくま文庫)
ここではオデュセウスの「心変わり」が執拗に疑われている。それについては若干、別の場所から引いてみる。第一に「狂気」を装ったことは有名。
「アガメムノーンはそれで諸王に使いを遣(つか)わし、彼らが誓った誓言を思い出さしめ、ギリシアに対するこの侮辱はすべての者に共通であると言って、各人が自分の妻の安全を計るようにと勧告した。多くの者が出征に熱心であった。そしてある者がイタケーのオデュセウスの所に赴いた。しかし、彼は出征を欲せず、狂気を装った。しかし、ナウプリオスの子パラメーデースはその狂気が偽りであることを証した。そして狂気を装っているオデュセウスの後をつけ、ペーネローペーの懐よりテーレマコスを奪って、殺すかのごとくに剣を抜いた。オデュセウスは子供のことを心配して、偽りの狂気であることを白状して軍に従った」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.182」岩波文庫)
第二に「乞食」を装いもする。
「オデュセウスはディオメーデースとともに夜の間に市に赴き、ディオメーデースをその場に留め、自分はその身を損い、貧しい服装で人知れず市に乞食となって入った。そしてヘレネーに認められ、その手引きによってパラディオンを盗み、多くの番人を殺した後、ディオメーデースとともに船へ持って行った」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.193~194」岩波文庫)
さらに物理的トリックをも用いる。
「オデュセウスは三匹の牡羊を一緒につないでーーー自分は大きいほうの下に入り込み、腹の下に隠れて羊とともに外へ出た。そして仲間を羊から解き、船に羊を追い行き、船でたち去るにあたって、彼がオデュセウスであり、彼の手を遁れたとキュクロープスにむかって怒鳴った」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.203~204」岩波文庫)
また、キルケが調合する謎の魔薬から身を守ったエピソードも。
「オデュセウスはヘルメースより『モーリュ』を受取って、キルケーの所へ行き、彼女の魔薬の中にモーリュを投げ入れ、彼のみは飲んでも魔法にかからなかった。そして刀を抜いてキルケーを殺そうとした。しかし彼女は彼の怒りを宥(なだ)めて、仲間を元に戻した。そしてオデュセウスは彼女が害をなさないという誓いを得て、床をともにし、彼に一子テーレゴノスが生まれた」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.205」岩波文庫)
ただしキルケに関する箇所で関心を引くのは薬草の効果だが、それ以上に古代ギリシア時代すでに「誓約=言語」がどれほど重要視されていたかということでなくてはならない。さて、この「モーリュ」について。薬草。ヘルメイアス(ヘルメス)からもらったもの。キルケの屋敷へ行けば「キュケオーン」を調合して飲むよう勧められるだろうけれども、その前にこのモーリュを飲んでおけばキルケに騙されずに済むと言って渡してくれた。さらになおキルケが性行為へ誘ってきた場合、「厳しい誓約」を誓わせなければならない、と助言する。
「根は黒く、花は乳のような色をしている。神々の間ではモーリュと呼んでおられ、人間の力ではなかなか掘り出すことが難しいが、神々に出来ぬことはなにもないのだ。そうしてからヘルメイアスは、樹林茂る島を舞い上がり、雲に聳えるオリュンポス指して立ち去られたので、わたしはキルケの屋敷に向かったのだが、道すがらさまざまの想いに、心は千々に乱れるばかり。やがて髪美わしい女神の屋敷の門口に立って案内を乞うと、女神はわたしの声を聞くや、直ぐに出て来て美しい扉を開き、中へ招じてくれ、わたしは不安な気持を抱きながら、その後に随(つ)いて入った。女神はわたしを中へ案内すると、銀の金具のついた高椅子をすすめてくれたーーー見事な細工を施した美しい椅子で、足下には足台が置いてある。それから、わたしに飲ませようと、金の盃でキュケオーンを調合し、心中に悪巧みをめぐらしながら、それに毒を混ぜた。しかし、彼女が飲物をわたしに手渡し、わたしがそれを飲み干した時ーーーわたしには魔法が利かなかったのだがーーーキルケは棒でわたしを打ち、こういった。『さあ、豚小屋へ行って、仲間と一緒に寝ておいで』。こういった途端に、わたしは腰の鋭い剣を抜き放ち、切り殺さんとの勢いを示して、キルケに踊りかかった。彼女は大声をあげてこちらの足許へ駆け込むと、わたしの膝にすがりおろおろと泣きながら、翼ある言葉をかけていうには、『そなたは一体、何処から来たどういうお人です。国はなんという町で、親御は何処におられる。そなたがこの薬を飲んで魔法が利かぬとは、全く驚くばかり、これまでこれを飲んで、ひとたび薬が歯の垣根を越えたが最後、薬の魔力に耐えた者は一人だになかった。そなたの胸には、魔法のかからぬ心が宿っているのであろう。思えば黄金の杖持つアルゴス殺しの神が常々わたしに、オデュッセウスなる者が船脚遠き黒塗りの船に乗って、トロイエからの帰途、ここへ立ち寄ると話していたが、そなたこそその智謀豊かなオデュッセウスに相違あるまい。さあ太刀は鞘におさめておくれ、そうしてから二人でわたしの寝台に上がり、愛の契りを交わして、互いに心を許し合おうではないか』。こういうキルケに、わたしは答えていうには、『キルケよ、優しくしてくれなどと、よくもわたしにいえたものだな、この屋敷で部下たちを豚に変え、またこのわたしをここに留め、裸にしておいて男子の精気を奪い、役立たずにしようなどと、善からぬ企みをめぐらし、寝所に入ってそなたの寝台に上がれと誘うようなあなたがだ。女神よ、あなたが今後わたしに危害を加えるようなことは一切考えぬと、敢えて堅い誓いをする気になって下さらぬ限り、あなたの閨に入るつもりは毛頭ない』。こうわたしがいうと、キルケは直ぐにわたしの望む通り、そのようなことはせぬと誓言した。キルケが誓い、誓い終えた時、始めてわたしは彼女の豪奢な寝台に上がった」(ホメロス「オデュッセイア・上・P.260~262」岩波文庫)
しかしモーリュにしてもキュケオーンにしてもそれは実際には何だったのか、諸説様々あって一定しない。当時は今と違って幻覚症状を催すような極めて効果の強い薬草は世界中に幾らでもあったので。エウリピデスに戻ろう。次の会話は何を語っているのか。
「クリュタイメストラ いったい何、あからさまにお言い。/老人 お姫さまを、殿さまがお手ずからお殺(あや)めになるご様子なので。/クリュタイメストラ 何だって、お前、とんでもないこと、それは正気の話かえ。/老人 お可哀そうに、お姫さまの真白なお頸に刃をーーー。/クリュタイメストラ まあ、情けないこと、夫は気が狂ってしまったのか。/老人 ええ、本気のお沙汰で。ただ、あなたさまや、お姫さまに対しては気違いでしょうが。/クリュタイメストラ どういうわけです、何にとり憑かれたというの。/老人 カルカスが申したご神託の所為で、軍勢を出帆させるために」(エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」『ギリシア悲劇4・P.568』ちくま文庫)
要するに、「狂っているのは誰なのか」、本当のところはさっぱりわからない、ということだろう。なお、クリュタイメストラはアキレウスに向かって、夫アガメムノンについてほとんど期待できない男として語る。次のように。
「クリュタイメストラ なぜそんなことをおっしゃいます。仰せは何より伺いますのに。/アキレウス 父上にもういちどご意見なさっては、考えをお改めのよう。/クリュタイメストラ 臆病者で、いつも兵たちを怖がっていますもの。/アキレウス でも筋道だってお話すれば、恐れを負かしもできましょう。/クリュタイメストラ あまり希望はもてませんが」(エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」『ギリシア悲劇4・P.573』ちくま文庫)
さらに一人のときも。
「クリュタイメストラ 娘よ、異国の方々よ、ああ、お前が死ぬとは、何とあわれです。お父さまはお前を死神にゆだねて、お逃げになる」(エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」『ギリシア悲劇4・P.585』ちくま文庫)
しかし二〇二〇年の今、このようなやりとりは性別という壁を突破してもはや関係なくなったと言えるだろう。ありふれたエピソードとして市民社会全般へ拡大した。ネルヴァルの作品へ戻ろう。激怒したところだ。
「きっとあなたは、雷(いかずち)を握っているとき、人はいったいどういうふるまいに及ぶのかと問われるでしょう!ーーーああ!いいですか、わが友人諸君!板切れと幕とからなるあなたがたの舞台の上で、あなたがたの金ぴか芝居を演じながら、私は一瞬、自分が真実の偉大な存在となり、ついに不滅になるのだという考えを心に抱いたのです!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.26』岩波文庫)
と言うが早いか、すでにネルヴァルは皇帝ネロへ生成変化している。その意味で自在性を得ている。
「私は一瞬、心に抱いたのです。崇高な、ローマ皇帝その人にもふさわしいアイデア、偉大なラシーヌには及ばないなどと、今度ばかりはだれも思わないようなアイデアを。それは劇場と観客を、あなたがた全員もろとも燃やしてしまおう、そして役柄どおり、あるいは少なくともビュリュスの語る古典的な場面どおりに、髪を振り乱し、半裸の姿になった彼女だけを、炎をかいくぐって運び去ろうというおごそかな考えでした」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.26~27』岩波文庫)
ただネルヴァルが意識していないのは、自分の創作活動はそれじたいすでに流動する《力への意志》であり《生産》としての生成変化なのだという点だろう。
「狂気の最初の声がニーチェの傲慢、ヴァン・ゴッホの卑下のなかに、いつ忍びこんだかを知ることは重要ではない。狂気は創作活動の最終的な瞬間としてしか存在しない。創作活動こそは狂気をそのぎりぎりの境界にまで際限なく追いやっているのであり、《創作活動が存在するところには、狂気は存在しない》、けれども、狂気は創作活動と同時期のものである、それこそは創作活動の真実の時間を始めるのだから。創作活動と狂気がともに生れ完了する瞬間、それは、世界がこの創作活動によって設定された自分を、またこの創作活動の全面にあるものに責任を感じている自分を見出す、そうした時間の始まりである」(フーコー「狂気の歴史・P.559」新潮社)
この頃ネルヴァルは精神病院入退院を繰り返している。ゴッホやアルトーの時代に至ってなおそうだったようにネルヴァルはよりいっそう不可能な次元をさまようほかない。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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最初に観客について二つの方向性が語られる。大筋でいえば、イフィジェニーの父アガメムノンを始めとして、国民は父アガメムノンが娘イフィジェニーを国家のために他国へ売ることに大賛成する。なぜかというと、一方で、イフィジェニーは美貌と優雅さにあふれた美女であり、観客の女性陣からすれば、国家の危機のためなら四の五の言わず身を挺して政略結婚に同意するとともに殺されるべきが正義だからである。もう一方、結婚相手とされたアキレウスは「海の神から生まれたペレウスの若殿」であり勇気にも肉体美にも恵まれている。観客の男性陣からすれば、美貌と優雅さにあふれた美女イフィジェニーを国民の手から持ち去る他国の男性であり許しがたい。もし結婚するならいっそのことアキレウスもイフィジェニーもともに国家のために死ぬのが妥当であると考えるからである。
ところが文学者ネルヴァルにすれば、そういう国民の体質というもの、国家存亡の危機というキャッチフレーズを大義名分としてはいるものの、本当は美男美女の結婚など許しがたいという国家的規模を持って二人に襲いかかる嫉妬心と卑劣極まりない一般大衆の自己保存本能とが許しがたいわけである。ニーチェが徹底的に批判するルサンチマン(復讐欲、劣等感)にまみれ果てた国民の体質というものが。しかし十九世紀になってなお古代悲劇を下敷きにしたラシーヌ「イフィジェニー」がそこまで熱狂的に観客受けするのは観客がそもそも「比類なき一族の栄光に対する復讐を欲する」からだとネルヴァルは述べる。この辺りからネルヴァルの主人公化が顕著になる。ネルヴァルはアキレウス役に甘んじていることを飽きたりなく思い始める。
「ブリタニキュスやバジャゼといった、囚われの身の臆病な恋人たちは、私にはふさわしからぬ役柄でした。それよりも皇帝の緋の衣にはるかに惹かれたものです!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.25』岩波文庫)
ネルヴァルはもはやアキレウスではなく「皇帝」を目指す。
「ところが皇帝役の場合、せりふは冷酷な裏切りの言葉ばかりとは情けない!何たることか!これがローマに名をとどろかせたネロンその人なのか?美しい闘志にして舞踏家、熱情的な詩人、万人に好まれることを唯一の望みとした人物だというのに?」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.25』岩波文庫)
フランス語で「ネロン」。ローマ皇帝「ネロ」のこと。ちなみにネロの評価は両義的である。芸術的なものだけでなく体育にもすぐれていたようだ。ネロの死後、歴史によれば、まったく逆に残虐非道の皇帝だったとして描かれてはいるが。
「そのネロンを歴史はこんな風に仕立て、歴史にもとづいて詩人たちはこんな風に夢想したのか!ああ!彼の憤怒であればぜひとも表現してみせよう」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.25』岩波文庫)
事実としてのネロの行為、それを観察したあとで言語化する歴史家の行為、それを下敷きにして劇作を作り上げる後々の作者たち。事実としてのネロがどうであったかより、ネロの意味だけがこのように次々と横滑りしていく。そしてネルヴァルは先に述べたように、一方でネロの人気が本当は高かったことを告げつつ、他方、残虐非道化されたネロとして変身しようと《欲する》。
「ネロン!あなたの名前を厚かましくも借り受けたとき、わたしはあなたを、残念ながらラシーヌに従ってではなく、引き裂かれたわが心のままに理解したのです!そう、あなたは一個の神だった、ローマを焼こうとしたネロンよ、あなたにはおそらく、その権利があった。何しろローマはあなたを侮辱したのだから!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.25~26』岩波文庫)
ネルヴァルの変身は一見矛盾に見える。しかし次々と新しく生成変化を遂げているというだけのことであって、その意味では目に見える無限に様々な個別的な姿形にとらわれず、むしろ《欲望そのもの》として、《力への意志》として、絶えざる移動を続けているという点に注目したい。ネルヴァルは次に劇場での公演中に「《彼女の目の前で》」野次られたことに怒り震える。
「野次の口笛、それも《彼女の目の前で》、彼女のかたわらで、彼女ゆえに、卑劣な口笛を吹かれるとは!それを彼女は自分のせいにしたがーーー実は私に落ち度があったのです(どうかわかってください!)」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.26』岩波文庫)
ネルヴァルのいう「彼女」は一つの系列をなしている。「イフィジェニー=モニーム=ジェニー=ベレニス=シャンメレ嬢=サン・シモールの高貴な処女たち=オーレリー」という悲劇のヒロインの系列。さらにイフィジェニーのモデルはギリシア悲劇に出てくるイピゲネイア。主人公の役はアキレウス。父アガメムノンの政治的取引材料とされた娘イピゲネイアと結婚することになるが、この婚姻がそもそもアガメムノンの策略だったことを知る。激怒のあまり必ずイピゲネイアを救いに行くと約束する。エウリピデスから引用しよう。
「アガメムノン 兄の私が、メラネオスのため総大将に選ばれたが、この名誉は私よりも、他人が受けてくれればよかった。一つところに集合した軍隊も、船が出せずにここアウリスにとどまっている。予言者カルカスは、困りきった兵どもに、私の娘イピゲネイアをこの地をしろす女神アルテミスへと捧げるならば、船出はかない、プリュギア勢どもの滅ぼすこともできようが(さもなくば、それはなかわぬ)、というのだ」(エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」『ギリシア悲劇4・P.530』ちくま文庫)
予言者が権力を持っていた時代。予測不可能な時代にはよく出てくる。二〇二〇年の今なおしばしばうろうろ出てきてスキャンダルを巻き起こし、それを商品化して大儲けする。もっとも、名称は変わっていて「御用評論家」と呼ばれることも少なくない。
「アガメムノン 娘を殺さねばなるまい。/メネラオス どうして。誰が兄上に娘を殺せなどと言うものか。/アガメムノン 遠征へと集り寄った兵たちは。/メネラオス いや、あの子をアルゴスへ帰してしまえば。/アガメムノン これには隠せても、あれには隠せまい。/メネラオス 何のことだ。民衆をそんなに恐れることはない。/アガメムノン カルカスがアルゴス勢の兵士(つわもの)どもに告げるだろう。/メネラオス いやそれまでに死んでしまったら。わけはない。/アガメムノン 予言者というのは野心の強い厄介者だ。/メネラオス 居たところで、何の役にも立たない、食えぬ代物だ。/アガメムノン ちょっと気になることがあるのだが、あなたは何とも思わないか。/メネラオス 何だか言って下さらないことには、推量のしようもない。/アガメムノン オデュッセウスがすっかり知っているのだ/メネラオス オデュッセウスがあなたや私を痛い目にあわせるはずもないが。/アガメムノン 心変わりするやつなのだ。民衆の味方といって。/メネラオス 野心に眼がくらんでいる、恐ろしい病いだ」(エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」『ギリシア悲劇4・P.549』ちくま文庫)
ここではオデュセウスの「心変わり」が執拗に疑われている。それについては若干、別の場所から引いてみる。第一に「狂気」を装ったことは有名。
「アガメムノーンはそれで諸王に使いを遣(つか)わし、彼らが誓った誓言を思い出さしめ、ギリシアに対するこの侮辱はすべての者に共通であると言って、各人が自分の妻の安全を計るようにと勧告した。多くの者が出征に熱心であった。そしてある者がイタケーのオデュセウスの所に赴いた。しかし、彼は出征を欲せず、狂気を装った。しかし、ナウプリオスの子パラメーデースはその狂気が偽りであることを証した。そして狂気を装っているオデュセウスの後をつけ、ペーネローペーの懐よりテーレマコスを奪って、殺すかのごとくに剣を抜いた。オデュセウスは子供のことを心配して、偽りの狂気であることを白状して軍に従った」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.182」岩波文庫)
第二に「乞食」を装いもする。
「オデュセウスはディオメーデースとともに夜の間に市に赴き、ディオメーデースをその場に留め、自分はその身を損い、貧しい服装で人知れず市に乞食となって入った。そしてヘレネーに認められ、その手引きによってパラディオンを盗み、多くの番人を殺した後、ディオメーデースとともに船へ持って行った」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.193~194」岩波文庫)
さらに物理的トリックをも用いる。
「オデュセウスは三匹の牡羊を一緒につないでーーー自分は大きいほうの下に入り込み、腹の下に隠れて羊とともに外へ出た。そして仲間を羊から解き、船に羊を追い行き、船でたち去るにあたって、彼がオデュセウスであり、彼の手を遁れたとキュクロープスにむかって怒鳴った」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.203~204」岩波文庫)
また、キルケが調合する謎の魔薬から身を守ったエピソードも。
「オデュセウスはヘルメースより『モーリュ』を受取って、キルケーの所へ行き、彼女の魔薬の中にモーリュを投げ入れ、彼のみは飲んでも魔法にかからなかった。そして刀を抜いてキルケーを殺そうとした。しかし彼女は彼の怒りを宥(なだ)めて、仲間を元に戻した。そしてオデュセウスは彼女が害をなさないという誓いを得て、床をともにし、彼に一子テーレゴノスが生まれた」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.205」岩波文庫)
ただしキルケに関する箇所で関心を引くのは薬草の効果だが、それ以上に古代ギリシア時代すでに「誓約=言語」がどれほど重要視されていたかということでなくてはならない。さて、この「モーリュ」について。薬草。ヘルメイアス(ヘルメス)からもらったもの。キルケの屋敷へ行けば「キュケオーン」を調合して飲むよう勧められるだろうけれども、その前にこのモーリュを飲んでおけばキルケに騙されずに済むと言って渡してくれた。さらになおキルケが性行為へ誘ってきた場合、「厳しい誓約」を誓わせなければならない、と助言する。
「根は黒く、花は乳のような色をしている。神々の間ではモーリュと呼んでおられ、人間の力ではなかなか掘り出すことが難しいが、神々に出来ぬことはなにもないのだ。そうしてからヘルメイアスは、樹林茂る島を舞い上がり、雲に聳えるオリュンポス指して立ち去られたので、わたしはキルケの屋敷に向かったのだが、道すがらさまざまの想いに、心は千々に乱れるばかり。やがて髪美わしい女神の屋敷の門口に立って案内を乞うと、女神はわたしの声を聞くや、直ぐに出て来て美しい扉を開き、中へ招じてくれ、わたしは不安な気持を抱きながら、その後に随(つ)いて入った。女神はわたしを中へ案内すると、銀の金具のついた高椅子をすすめてくれたーーー見事な細工を施した美しい椅子で、足下には足台が置いてある。それから、わたしに飲ませようと、金の盃でキュケオーンを調合し、心中に悪巧みをめぐらしながら、それに毒を混ぜた。しかし、彼女が飲物をわたしに手渡し、わたしがそれを飲み干した時ーーーわたしには魔法が利かなかったのだがーーーキルケは棒でわたしを打ち、こういった。『さあ、豚小屋へ行って、仲間と一緒に寝ておいで』。こういった途端に、わたしは腰の鋭い剣を抜き放ち、切り殺さんとの勢いを示して、キルケに踊りかかった。彼女は大声をあげてこちらの足許へ駆け込むと、わたしの膝にすがりおろおろと泣きながら、翼ある言葉をかけていうには、『そなたは一体、何処から来たどういうお人です。国はなんという町で、親御は何処におられる。そなたがこの薬を飲んで魔法が利かぬとは、全く驚くばかり、これまでこれを飲んで、ひとたび薬が歯の垣根を越えたが最後、薬の魔力に耐えた者は一人だになかった。そなたの胸には、魔法のかからぬ心が宿っているのであろう。思えば黄金の杖持つアルゴス殺しの神が常々わたしに、オデュッセウスなる者が船脚遠き黒塗りの船に乗って、トロイエからの帰途、ここへ立ち寄ると話していたが、そなたこそその智謀豊かなオデュッセウスに相違あるまい。さあ太刀は鞘におさめておくれ、そうしてから二人でわたしの寝台に上がり、愛の契りを交わして、互いに心を許し合おうではないか』。こういうキルケに、わたしは答えていうには、『キルケよ、優しくしてくれなどと、よくもわたしにいえたものだな、この屋敷で部下たちを豚に変え、またこのわたしをここに留め、裸にしておいて男子の精気を奪い、役立たずにしようなどと、善からぬ企みをめぐらし、寝所に入ってそなたの寝台に上がれと誘うようなあなたがだ。女神よ、あなたが今後わたしに危害を加えるようなことは一切考えぬと、敢えて堅い誓いをする気になって下さらぬ限り、あなたの閨に入るつもりは毛頭ない』。こうわたしがいうと、キルケは直ぐにわたしの望む通り、そのようなことはせぬと誓言した。キルケが誓い、誓い終えた時、始めてわたしは彼女の豪奢な寝台に上がった」(ホメロス「オデュッセイア・上・P.260~262」岩波文庫)
しかしモーリュにしてもキュケオーンにしてもそれは実際には何だったのか、諸説様々あって一定しない。当時は今と違って幻覚症状を催すような極めて効果の強い薬草は世界中に幾らでもあったので。エウリピデスに戻ろう。次の会話は何を語っているのか。
「クリュタイメストラ いったい何、あからさまにお言い。/老人 お姫さまを、殿さまがお手ずからお殺(あや)めになるご様子なので。/クリュタイメストラ 何だって、お前、とんでもないこと、それは正気の話かえ。/老人 お可哀そうに、お姫さまの真白なお頸に刃をーーー。/クリュタイメストラ まあ、情けないこと、夫は気が狂ってしまったのか。/老人 ええ、本気のお沙汰で。ただ、あなたさまや、お姫さまに対しては気違いでしょうが。/クリュタイメストラ どういうわけです、何にとり憑かれたというの。/老人 カルカスが申したご神託の所為で、軍勢を出帆させるために」(エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」『ギリシア悲劇4・P.568』ちくま文庫)
要するに、「狂っているのは誰なのか」、本当のところはさっぱりわからない、ということだろう。なお、クリュタイメストラはアキレウスに向かって、夫アガメムノンについてほとんど期待できない男として語る。次のように。
「クリュタイメストラ なぜそんなことをおっしゃいます。仰せは何より伺いますのに。/アキレウス 父上にもういちどご意見なさっては、考えをお改めのよう。/クリュタイメストラ 臆病者で、いつも兵たちを怖がっていますもの。/アキレウス でも筋道だってお話すれば、恐れを負かしもできましょう。/クリュタイメストラ あまり希望はもてませんが」(エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」『ギリシア悲劇4・P.573』ちくま文庫)
さらに一人のときも。
「クリュタイメストラ 娘よ、異国の方々よ、ああ、お前が死ぬとは、何とあわれです。お父さまはお前を死神にゆだねて、お逃げになる」(エウリピデス「アウリスのイピゲネイア」『ギリシア悲劇4・P.585』ちくま文庫)
しかし二〇二〇年の今、このようなやりとりは性別という壁を突破してもはや関係なくなったと言えるだろう。ありふれたエピソードとして市民社会全般へ拡大した。ネルヴァルの作品へ戻ろう。激怒したところだ。
「きっとあなたは、雷(いかずち)を握っているとき、人はいったいどういうふるまいに及ぶのかと問われるでしょう!ーーーああ!いいですか、わが友人諸君!板切れと幕とからなるあなたがたの舞台の上で、あなたがたの金ぴか芝居を演じながら、私は一瞬、自分が真実の偉大な存在となり、ついに不滅になるのだという考えを心に抱いたのです!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.26』岩波文庫)
と言うが早いか、すでにネルヴァルは皇帝ネロへ生成変化している。その意味で自在性を得ている。
「私は一瞬、心に抱いたのです。崇高な、ローマ皇帝その人にもふさわしいアイデア、偉大なラシーヌには及ばないなどと、今度ばかりはだれも思わないようなアイデアを。それは劇場と観客を、あなたがた全員もろとも燃やしてしまおう、そして役柄どおり、あるいは少なくともビュリュスの語る古典的な場面どおりに、髪を振り乱し、半裸の姿になった彼女だけを、炎をかいくぐって運び去ろうというおごそかな考えでした」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.26~27』岩波文庫)
ただネルヴァルが意識していないのは、自分の創作活動はそれじたいすでに流動する《力への意志》であり《生産》としての生成変化なのだという点だろう。
「狂気の最初の声がニーチェの傲慢、ヴァン・ゴッホの卑下のなかに、いつ忍びこんだかを知ることは重要ではない。狂気は創作活動の最終的な瞬間としてしか存在しない。創作活動こそは狂気をそのぎりぎりの境界にまで際限なく追いやっているのであり、《創作活動が存在するところには、狂気は存在しない》、けれども、狂気は創作活動と同時期のものである、それこそは創作活動の真実の時間を始めるのだから。創作活動と狂気がともに生れ完了する瞬間、それは、世界がこの創作活動によって設定された自分を、またこの創作活動の全面にあるものに責任を感じている自分を見出す、そうした時間の始まりである」(フーコー「狂気の歴史・P.559」新潮社)
この頃ネルヴァルは精神病院入退院を繰り返している。ゴッホやアルトーの時代に至ってなおそうだったようにネルヴァルはよりいっそう不可能な次元をさまようほかない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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