まだ事情がよく飲み込めない周囲の軍人らに向けてヴィレルムは回想を呼び覚ます。
「『九十三年十一月十七日でした。父は自分の中隊に戻るため、その前日、ピルマゼンスを出たのです。大胆な策を用いることで戦わずして要塞を奪取できるだろう、と母に話していたようです。その二十四時間後、息も絶え絶えの姿で運ばれてきました。父は小口で、母のそばについていることを私に誓わせると息を引き取りましたが、母も二週間後には亡くなりました。この夜の攻撃で、父が若い兵隊のサーベルの一撃を胸に喰らったことをあとで知りました。その兵隊はホーエンローエ公の軍隊きっての精鋭を一人倒したわけです』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.462~463』岩波文庫)
記憶の反復はもう一つの記憶を連鎖的に呼び起こさずにはおかない。
「『その話なら聞いたことがあるぞ』と准尉がいいましたーーー。『そうだ!』ヴァリエ大尉がいいました。『それはまさにデロシュに殺されたプロイセンの軍曹のことじゃないか』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.463』岩波文庫)
とうとう実名が明かされた。
「『デロシュ!』ヴィレルムが叫びました。『それはデロシュ中尉のことですか?』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.463』岩波文庫)
ヴィレルムはもはや心穏やかではいられない。
「ヴィレルムは夜どおしまんじりともできないまま、声を殺して泣いたり、デロシュが寝ながら夢を見て微笑んでいるのを憤怒の目でにらみつけたりしていました」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.464~465』岩波文庫)
翌日は夜明けを待たず、まだ眠っているデロシュを早々に起こして例の古い地下壕へ案内してほしいとうながす。しかしここでいったん或る種のセンテンスが挟まれる。語り手の言葉なのだが、この語り手について一度その位置を明確化しておこう。
語り手は社会的レベルにおいてあらかじめ去勢されている。キリスト教の神父だからだ。その意味で神父はほとんど言語としてしか登場してこない。語り手の役割とは往々にしてそういうものだが。神父はいう。
「人が予感と呼ぶものは、目がほとんど見えない巨大な鯨の先を泳いで、あそこに尖った岩が突き出ているとか、ここは砂の海底だとか教えてやる魚によく似ています。私たちはあまりに機械的に人生を歩んでいるので、とりわけ無頓着な人たちの場合、自分の幸福の表面に少しばかり泥がついたりしなければ、神を思い出すこともできないまま、壁にぶつかったり打ちのめされてしてしまうでしょう。鴉(からす)が飛んでいたからといって、あるいは何の理由もないのに暗い気持ちになる者もいれば、いやな夢を見たせいで目を覚ましてから、ベッドの上で不安をぬぐえない者もいます。こうしたすべては予感なのです。あなたは危険な目にあいますよ、と夢が告げます。用心なさい、と鴉が鳴きます。悲しみに浸りなさい、と疲れた頭脳がささやきます」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.465』岩波文庫)
なにやら意味ありげな言葉だ。神父は作者ネルヴァルによって、ただ単なる語り手としてだけでなく、あらかじめ予言者としての位置をも与えられている。二十頁ほどさかのぼってみよう。神父はとっとと自分の立場を次のように表明している。
「同情が恋に変わるといった、当節のオペラにあるような物語になるとはお思いになりませんよう」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.444』岩波文庫)
むしろもっと酷い話になるのだがそれはさておき。
「エミリー」に登場する神父の立場に相当するのが、たとえばギリシア悲劇「オイディプス」に登場する予言者テイレシアスだ。なぜ予言者なのか。テイレシアスは両眼が見えない。その意味で去勢された人物である。ソポクレス「オイディプス」では、眼が見えないことが特権化され予言者としての地位を与えられている。テイレシアスはいう。
「テイレシアス おれをめくらだと罵ったからには、おれは言うぞ。あなたは目明きでありながら、どんな禍いのうちにあるのか、どこにいるのかも、誰といっしょに住んでいるのかも見えないのだ」(ソポクレス「オイディプス王」『ギリシア悲劇2・P.321~322』ちくま文庫)
さらに。
「テイレシアス おれのあなたへの言葉はこうだ。嚇(おど)し文句を並べ立て、ライオス殿殺害の究明を布告して、以前からあなたが求めている男、そいつはまさしくここにいる。見せかけはよその国から移り住んだことになっているが、やがてテーバイ人なことが判明し、その運命のめぐり合わせを喜びはしないだろう。目明きがめくらに、富者が物乞いとなって、杖で足さきをまさぐりつつ、よその国を歩くことだろう。同じ一人の男が、共に住む自分の子供らの兄弟であり父となり、自分がその腹から生まれた女の息子で夫、自分の父親と同じ腹に種を播(ま)き、かつその殺害者たることが明らかとなるであろう」(ソポクレス「オイディプス王」『ギリシア悲劇2・P.323~324』ちくま文庫)
悲劇はどこから始まっているか。紛れもなくテイレシアスの言語からである。予言が的中するとかしないとかいった神秘主義などどこにも出る幕はない。テイレシアスの言語によって、それまでのとりとめのない物語にいきなり一定の方向性が与えられ、やおら悲劇が立ち現われていることに文字通り注目しなくてはならない。
さて、激昂したヴィレルム。デロシュに案内させて古びた地下壕にたどり着いた。父の戦死について生々しい事実を知ってしまった以上、ヴィレルムはデロシュを許すことができない。
「『兄ではなく、敵と呼んでもらおう!ーーーいいか、私はプロイセン人なんだ!私はあんたが虐殺したあの軍曹の息子だ』『虐殺だと!』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.469』岩波文庫)
白兵戦主体から銃撃戦主体へ移っていく過渡期の戦争。当時、銃剣による殺害はどのように考えられていたか。被害者側にとって、少なくとも「誇り高きドイツ人」を自負するヴィレルムにとっては「虐殺」としか考えようがない。同時にヴィレルムは上着を脱ぎ捨て「虐殺された側」の父親《として》登場する。ヴィレルムは父との同一化は果たす。父を反復する。それを可能にするのは制服によってである。
「ヴィレルムはコートを脱ぎ捨て、下に着込んでいた緑色の軍服の破れ目を指さしました。それはうやうやしく保管されてきた父親の軍服だったのです」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.469』岩波文庫)
このとき制服は貨幣の役割を演じている。互いに異なった異種の商品同士を置き換える役割を演じる。ヴィレルムは制服を介して、あたかも貨幣を介して商品交換がなされるように、父へ転化して見せる。
しかしおそらく、フロイトに言わせれば単純なことになってしまうだろう。ヴィレルムはデロシュによるかつての殺害行為を口実として、本当は父の立場になろうと欲した。すでに母は死んでいる。だから実の妹から見る限りで始めて父の立場に入ることができる空白の場所に自分を置くことがヴィレルムの隠された意志だ。この隠された意志は顕在化しなくてもよく、多くの場合、顕在化することはまずない。ところがそこに滑り込んできたのはデロシュである。「デロシュ=エミリー=ヴィレルム」の三角関係が出来上がる。もしデロシュがエミリーの婚約者として滑り込んでこなかったとしたらこのような三角関係は成立しない。三角関係が成立したとしてもそれが必ずしも義理の兄弟同士の殺し合いにまで発展するとは限らない。しかし事情は通例とは著しく異なる。デロシュはヴィレルムとエミリーとの実の親の殺害者《として》登場してきたからである。
しかしフロイトがいつも考えないのは、ヴィレルムとエミリーとの《あいだ》というものは、実際のところ、いったいいつ出現したのかという点だ。フロイトの場合、いつも単純かつアプリオリに家族関係を前提してしまっている。兄妹関係があるというだけで、そこにもう一人の男性が出現するやただちに三角関係も出現しないわけにはいかないかのように話が進んでいく。だが実際はそうではない。家族関係、この場合だと兄妹間の近親相関的な関係はアプリオリにあるわけではない。そこへ父の殺害者《としての》デロシュが滑り込んできた瞬間、性的欲望を伴う三角関係が始めて出現するのである。それ以前にアプリオリな性的欲望を伴う家族関係というものはほとんど存在しない。ドゥルーズ=ガタリが述べたように、逆に「欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからであるーーー欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである」。オイディプスは知-権力装置としての囮(おとり)であって、それは国家の側から支配のための合理的装置として家庭という形式で派遣される制度でしかない。むしろ問題はいつも言語によってもたらされる。この場合はかつて地下壕の白兵戦のさなかに起こったデロシュによるヴィレルムとエミリーとの父親殺害である。それについて語られた言語が、言語作用として何を狙っているか〔生産するか〕。それが問題にされなければならない。
ちなみにレヴィ=ストロースがナンビクワラ族の婚姻関係を分析して見せたとき、近親婚が巧妙に回避されているシステマティックな体系を見出した。しかしそれはナンビクワラ族が近親相姦を恐れて巧妙な婚姻の法則を作ったからではなく、部族の縮小を恐れたがゆえに、でき得る限り、部族の総員がいつも平均的な人数の平衡状態を保っておくために慣習的に編み出した婚姻の法に過ぎない。レヴィ=ストロースの失敗はヨーロッパ〔ロゴス〕中心主義というメタレベルに立って始めて見えてくる近親相姦の禁止であり、そのようなヨーロッパ〔ロゴス〕中心主義というメタレベルに立っている限り、いつまで経っても、ナンビクワラ族が近親婚を回避するためのシステマティックな婚姻体系をどのように作り出したのか、という誤った問いに縛りつけられてしまうのである。社会的諸条件の異なる地域では婚姻の体系もまた異なる。しかしレヴィ=ストロースにしてみれば、なるほどヨーロッパから見て「未開」の部族社会の中にも高度な法的体系が存在することを主張し、ヨーロッパ〔ロゴス〕中心主義を批判したかったのだろう。けれどもナンビクワラ族自身にしてみれば余計なお世話になってしまった。レヴィ=ストロース自身がヨーロッパ〔ロゴス〕中心主義というメタレベルの枠組みから出ることができなかったのだから。
「オーレリア」でネルヴァルは夢と幻想を手に、別段何らの恐れもなく暗い世界へ探究心を羽ばたかせる。場面は引き続きライン河の畔りにあった叔父の家だ。夢か現実かわからない地平にいる。ネルヴァルは「悼み悲んだ亡き両親の顔立ちは、他の人々の顔立ちの中に再現されてい」るというようなモンタージュ(奇妙な合成物)の系列に出会う。
「私は多勢の人の集まっている広い室にはいった。到る所に知っている顔に出会った。私の悼み悲んだ亡き両親の顔立ちは、他の人々の顔立ちの中に再現されていて、彼等はもっと昔風な衣裳を著けて、同じように親らしい態度で私を迎えた」(ネルヴァル「オーレリア・P.19」岩波文庫)
ニーチェはいう。
「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらあこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・一二・P.35~36」ちくま学芸文庫)
ネルヴァルは夢とも現実ともつかない地平を行ったり来たりする精神状態の中で、その精神状態《において》出現してくる現実を描いている。そしてそれはどこかアルトーとの奇妙な一致を示している。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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BGM2
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「『九十三年十一月十七日でした。父は自分の中隊に戻るため、その前日、ピルマゼンスを出たのです。大胆な策を用いることで戦わずして要塞を奪取できるだろう、と母に話していたようです。その二十四時間後、息も絶え絶えの姿で運ばれてきました。父は小口で、母のそばについていることを私に誓わせると息を引き取りましたが、母も二週間後には亡くなりました。この夜の攻撃で、父が若い兵隊のサーベルの一撃を胸に喰らったことをあとで知りました。その兵隊はホーエンローエ公の軍隊きっての精鋭を一人倒したわけです』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.462~463』岩波文庫)
記憶の反復はもう一つの記憶を連鎖的に呼び起こさずにはおかない。
「『その話なら聞いたことがあるぞ』と准尉がいいましたーーー。『そうだ!』ヴァリエ大尉がいいました。『それはまさにデロシュに殺されたプロイセンの軍曹のことじゃないか』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.463』岩波文庫)
とうとう実名が明かされた。
「『デロシュ!』ヴィレルムが叫びました。『それはデロシュ中尉のことですか?』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.463』岩波文庫)
ヴィレルムはもはや心穏やかではいられない。
「ヴィレルムは夜どおしまんじりともできないまま、声を殺して泣いたり、デロシュが寝ながら夢を見て微笑んでいるのを憤怒の目でにらみつけたりしていました」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.464~465』岩波文庫)
翌日は夜明けを待たず、まだ眠っているデロシュを早々に起こして例の古い地下壕へ案内してほしいとうながす。しかしここでいったん或る種のセンテンスが挟まれる。語り手の言葉なのだが、この語り手について一度その位置を明確化しておこう。
語り手は社会的レベルにおいてあらかじめ去勢されている。キリスト教の神父だからだ。その意味で神父はほとんど言語としてしか登場してこない。語り手の役割とは往々にしてそういうものだが。神父はいう。
「人が予感と呼ぶものは、目がほとんど見えない巨大な鯨の先を泳いで、あそこに尖った岩が突き出ているとか、ここは砂の海底だとか教えてやる魚によく似ています。私たちはあまりに機械的に人生を歩んでいるので、とりわけ無頓着な人たちの場合、自分の幸福の表面に少しばかり泥がついたりしなければ、神を思い出すこともできないまま、壁にぶつかったり打ちのめされてしてしまうでしょう。鴉(からす)が飛んでいたからといって、あるいは何の理由もないのに暗い気持ちになる者もいれば、いやな夢を見たせいで目を覚ましてから、ベッドの上で不安をぬぐえない者もいます。こうしたすべては予感なのです。あなたは危険な目にあいますよ、と夢が告げます。用心なさい、と鴉が鳴きます。悲しみに浸りなさい、と疲れた頭脳がささやきます」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.465』岩波文庫)
なにやら意味ありげな言葉だ。神父は作者ネルヴァルによって、ただ単なる語り手としてだけでなく、あらかじめ予言者としての位置をも与えられている。二十頁ほどさかのぼってみよう。神父はとっとと自分の立場を次のように表明している。
「同情が恋に変わるといった、当節のオペラにあるような物語になるとはお思いになりませんよう」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.444』岩波文庫)
むしろもっと酷い話になるのだがそれはさておき。
「エミリー」に登場する神父の立場に相当するのが、たとえばギリシア悲劇「オイディプス」に登場する予言者テイレシアスだ。なぜ予言者なのか。テイレシアスは両眼が見えない。その意味で去勢された人物である。ソポクレス「オイディプス」では、眼が見えないことが特権化され予言者としての地位を与えられている。テイレシアスはいう。
「テイレシアス おれをめくらだと罵ったからには、おれは言うぞ。あなたは目明きでありながら、どんな禍いのうちにあるのか、どこにいるのかも、誰といっしょに住んでいるのかも見えないのだ」(ソポクレス「オイディプス王」『ギリシア悲劇2・P.321~322』ちくま文庫)
さらに。
「テイレシアス おれのあなたへの言葉はこうだ。嚇(おど)し文句を並べ立て、ライオス殿殺害の究明を布告して、以前からあなたが求めている男、そいつはまさしくここにいる。見せかけはよその国から移り住んだことになっているが、やがてテーバイ人なことが判明し、その運命のめぐり合わせを喜びはしないだろう。目明きがめくらに、富者が物乞いとなって、杖で足さきをまさぐりつつ、よその国を歩くことだろう。同じ一人の男が、共に住む自分の子供らの兄弟であり父となり、自分がその腹から生まれた女の息子で夫、自分の父親と同じ腹に種を播(ま)き、かつその殺害者たることが明らかとなるであろう」(ソポクレス「オイディプス王」『ギリシア悲劇2・P.323~324』ちくま文庫)
悲劇はどこから始まっているか。紛れもなくテイレシアスの言語からである。予言が的中するとかしないとかいった神秘主義などどこにも出る幕はない。テイレシアスの言語によって、それまでのとりとめのない物語にいきなり一定の方向性が与えられ、やおら悲劇が立ち現われていることに文字通り注目しなくてはならない。
さて、激昂したヴィレルム。デロシュに案内させて古びた地下壕にたどり着いた。父の戦死について生々しい事実を知ってしまった以上、ヴィレルムはデロシュを許すことができない。
「『兄ではなく、敵と呼んでもらおう!ーーーいいか、私はプロイセン人なんだ!私はあんたが虐殺したあの軍曹の息子だ』『虐殺だと!』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.469』岩波文庫)
白兵戦主体から銃撃戦主体へ移っていく過渡期の戦争。当時、銃剣による殺害はどのように考えられていたか。被害者側にとって、少なくとも「誇り高きドイツ人」を自負するヴィレルムにとっては「虐殺」としか考えようがない。同時にヴィレルムは上着を脱ぎ捨て「虐殺された側」の父親《として》登場する。ヴィレルムは父との同一化は果たす。父を反復する。それを可能にするのは制服によってである。
「ヴィレルムはコートを脱ぎ捨て、下に着込んでいた緑色の軍服の破れ目を指さしました。それはうやうやしく保管されてきた父親の軍服だったのです」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.469』岩波文庫)
このとき制服は貨幣の役割を演じている。互いに異なった異種の商品同士を置き換える役割を演じる。ヴィレルムは制服を介して、あたかも貨幣を介して商品交換がなされるように、父へ転化して見せる。
しかしおそらく、フロイトに言わせれば単純なことになってしまうだろう。ヴィレルムはデロシュによるかつての殺害行為を口実として、本当は父の立場になろうと欲した。すでに母は死んでいる。だから実の妹から見る限りで始めて父の立場に入ることができる空白の場所に自分を置くことがヴィレルムの隠された意志だ。この隠された意志は顕在化しなくてもよく、多くの場合、顕在化することはまずない。ところがそこに滑り込んできたのはデロシュである。「デロシュ=エミリー=ヴィレルム」の三角関係が出来上がる。もしデロシュがエミリーの婚約者として滑り込んでこなかったとしたらこのような三角関係は成立しない。三角関係が成立したとしてもそれが必ずしも義理の兄弟同士の殺し合いにまで発展するとは限らない。しかし事情は通例とは著しく異なる。デロシュはヴィレルムとエミリーとの実の親の殺害者《として》登場してきたからである。
しかしフロイトがいつも考えないのは、ヴィレルムとエミリーとの《あいだ》というものは、実際のところ、いったいいつ出現したのかという点だ。フロイトの場合、いつも単純かつアプリオリに家族関係を前提してしまっている。兄妹関係があるというだけで、そこにもう一人の男性が出現するやただちに三角関係も出現しないわけにはいかないかのように話が進んでいく。だが実際はそうではない。家族関係、この場合だと兄妹間の近親相関的な関係はアプリオリにあるわけではない。そこへ父の殺害者《としての》デロシュが滑り込んできた瞬間、性的欲望を伴う三角関係が始めて出現するのである。それ以前にアプリオリな性的欲望を伴う家族関係というものはほとんど存在しない。ドゥルーズ=ガタリが述べたように、逆に「欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからであるーーー欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである」。オイディプスは知-権力装置としての囮(おとり)であって、それは国家の側から支配のための合理的装置として家庭という形式で派遣される制度でしかない。むしろ問題はいつも言語によってもたらされる。この場合はかつて地下壕の白兵戦のさなかに起こったデロシュによるヴィレルムとエミリーとの父親殺害である。それについて語られた言語が、言語作用として何を狙っているか〔生産するか〕。それが問題にされなければならない。
ちなみにレヴィ=ストロースがナンビクワラ族の婚姻関係を分析して見せたとき、近親婚が巧妙に回避されているシステマティックな体系を見出した。しかしそれはナンビクワラ族が近親相姦を恐れて巧妙な婚姻の法則を作ったからではなく、部族の縮小を恐れたがゆえに、でき得る限り、部族の総員がいつも平均的な人数の平衡状態を保っておくために慣習的に編み出した婚姻の法に過ぎない。レヴィ=ストロースの失敗はヨーロッパ〔ロゴス〕中心主義というメタレベルに立って始めて見えてくる近親相姦の禁止であり、そのようなヨーロッパ〔ロゴス〕中心主義というメタレベルに立っている限り、いつまで経っても、ナンビクワラ族が近親婚を回避するためのシステマティックな婚姻体系をどのように作り出したのか、という誤った問いに縛りつけられてしまうのである。社会的諸条件の異なる地域では婚姻の体系もまた異なる。しかしレヴィ=ストロースにしてみれば、なるほどヨーロッパから見て「未開」の部族社会の中にも高度な法的体系が存在することを主張し、ヨーロッパ〔ロゴス〕中心主義を批判したかったのだろう。けれどもナンビクワラ族自身にしてみれば余計なお世話になってしまった。レヴィ=ストロース自身がヨーロッパ〔ロゴス〕中心主義というメタレベルの枠組みから出ることができなかったのだから。
「オーレリア」でネルヴァルは夢と幻想を手に、別段何らの恐れもなく暗い世界へ探究心を羽ばたかせる。場面は引き続きライン河の畔りにあった叔父の家だ。夢か現実かわからない地平にいる。ネルヴァルは「悼み悲んだ亡き両親の顔立ちは、他の人々の顔立ちの中に再現されてい」るというようなモンタージュ(奇妙な合成物)の系列に出会う。
「私は多勢の人の集まっている広い室にはいった。到る所に知っている顔に出会った。私の悼み悲んだ亡き両親の顔立ちは、他の人々の顔立ちの中に再現されていて、彼等はもっと昔風な衣裳を著けて、同じように親らしい態度で私を迎えた」(ネルヴァル「オーレリア・P.19」岩波文庫)
ニーチェはいう。
「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらあこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・一二・P.35~36」ちくま学芸文庫)
ネルヴァルは夢とも現実ともつかない地平を行ったり来たりする精神状態の中で、その精神状態《において》出現してくる現実を描いている。そしてそれはどこかアルトーとの奇妙な一致を示している。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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