白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部9

2020年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム
夢の中で登場している人物は同じでも、或る場面と次の場面との間に何年が経過したか。それを知ることは大事なことなのだろうか。大事なのは日付なのだろうか。違うとすれば、夢の中の回想の場合、なぜ日付は大事でないのか。あるいは逆にとても大事な場合があるのか。もっとも、日付を思い出すことが大事な場合、思い出という形式では往々にして日付はたいへん混み入った場面展開の中へ溶け込んでしまっている。根拠にならない。

「人間は日付よりも動作や笑い声を鮮明に記憶しているものです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.169」河出文庫)

その通りというほかない。ネルヴィルは日付よりも周辺の環境の変化に敏感だ。

「シルヴィはお嬢さん風の身なりをしていて、ほとんど町の流行と変わりがなかった」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.253』岩波文庫)

シルヴィはもはや地方都市にわんさといるただ単なる「田舎娘」ではない。身にまとっている衣装が「お嬢さん風」だからというわけではない。すでに「職を身につけている」だけでなく、他の女工以上に巧みに仕事をこなせる技術を身につけていたからである。シルヴィの部屋も衣装を取り換えている。ネルヴァルは過去と現在との比較においてその時間の経過について語る。まず「鏡」の種類が変わっている。かつての「牧歌的」な装飾はもはやない。

「昔の窓間飾りの鏡にかわって金めっきの縁(ふち)の鏡が置かれていた。昔の鏡には牧歌風の羊飼いが、青と薔薇色に彩られた羊飼いの娘に、鳥の巣を差し出している絵が描かれていたのだが」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.253』岩波文庫)

大時代的なしつらえのベッドは合理的で簡素なものに置き換えられている。カーテンの導入はたいへん近代的だ。カーテン=プライバシー保護のための仕切り。それは戦争経験を通してその後に一般化された社会的配慮ではなく、市民社会の中ですでに発展しつつあったプライバシー意識を利用して戦地の衛生管理体制へ有効活用するための軍事的医学的配慮である。クリミア戦争に従軍したナイチンゲールが最も気を配ったのは戦地で蔓延する感染症についてであって、仕切りの設置は第一に感染症対策という意識から、それが同時にプライバシー保護という意味を持ったということになる。

「枝葉模様入りの古いインド更紗のシーツでつつましく覆われた柱つきのベッドは、矢印模様のカーテンの掛かったくるみ材の小さな寝台にかわっていた」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.253』岩波文庫)

さらに「鳥かご」は同じでも中身が変わった。

「窓辺の鳥かごにいるのは、かつては鶯(うぐいす)だったが、いまはカナリアだった」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.253』岩波文庫)

鶯はどこにでもいるありふれた鳥。もっとも、日本の首都圏ではもはや鶯の生活環境じたいが成り立たず、東京がまだ江戸だった頃は「春告げ鳥」として江戸庶民とともにおおらかに暮らしていた鶯だが、今や絶滅危惧種入りを果たした。よく知られているように啼き声がよく通りよく響くため、鶯の意味だけが横すべりを起こし日本全国で「ウグイス嬢」という言葉が定着した。逆にカナリアはかつて「籠の鳥」の比喩としてしばしば用いられてきた。というのは、十七世紀にカナリア諸島からヨーロッパへ持ち込まれて以降、外へ出ることが許されなくなったから。さらに資本主義の発展にともなう炭鉱労働の世界化とともに毒ガス検知に用いられるようになる。苛酷な労働現場で予期せぬ事故が生じないか。多くのカナリアが犠牲になったわけだが、その現実とともに労働環境や社会環境の変化をまともに告げる役割を担うようになったことから、恐慌の予兆を告げる鳥としての意味を持つに至っている。

そんなふうに一人の人間の部屋もまた仮面であって仮面に過ぎない。部屋は無機物なのだが、しかし、部屋は同時に演じもする。考えてもみてほしい。部屋に《素顔》というものがあるだろうか。あればむしろホラーだ。ところが部屋は演じる。とすればホラーというより、もっと別の何か重要な社会的変化を物語っているに違いない。村の女工たちのあいだでシルヴィは模範的労働者として頭角を現わしていたことは数十頁前に出ている。

「繊細なレースを編めるようになってこのかた、彼女はほとんどひとかどのお嬢様なのだ」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.230』岩波文庫)

ところが今回の訪問で、主人公が織物工場での様子について尋ねたとき、シルヴィの役割はすでに変わっている。

「『あら、レース編みはもうやらないわ。注文がこないんですもの。シャンチイでさえ工場は閉じてしまったわ』」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.253』岩波文庫)

では何をやっているのか。シルヴィは部屋の隅からなにやらごそごそと取り出してきて仕事道具を見せてくれた。具体的になんと呼ばれているのかわからないが、シルヴィはとりあえずこう言って紹介する。

「『機械って呼んでるわ』」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.254』岩波文庫)

労働装置が変わってもシルヴィは器用に上達していく。ますます模範的労働者になるだろう。少なくとも親族を食べさせていくことはできるまでになっている。

「親族はみんな元の身分のままでいたが、そのなかで彼女だけは器用な妖精のように、まわりに豊かさをもたらしながら暮らしている」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.256』岩波文庫)

しかしシルヴィに目を通していると今の世界の最前線、とりわけアメリカの労働者の多くが、最先端に位置する高度テクノロジーを用いて次々とノルマをこなしていくうちに精神的にも肉体的にも以前よりずっと早く疲弊してしまいアメリカのメンタルヘルス大国化に歯止めがかからない状態に陥っている現状を思わないわけにはいかない。高度テクノロジーはなるほど以前より便利な社会を作り出した。それと同じほど社会を自己破壊しもする。どんな歴史教科書にも載っていることがまたしても反復されている。当時、破格の勢いで労働現場に導入された新しい機械労働がもたらす自己破壊についてマルクスはこう述べている。

「機械労働は神経系統を極度に疲らせると同時に、筋肉の多面的な働きを抑圧し、心身のいっさいの自由な活動を封じてしまう。労働の緩和でさえも責め苦の手段になる。なぜならば、機械は労働者を労働から解放するのではなく、彼の労働を内容から解放するのだからである。資本主義的生産様式がただ労働過程であるだけではなく同時に資本の価値増殖過程でもあるかぎり、どんな資本主義的生産にも労働者が労働条件を使うのではなく逆に労働条件が労働者を使うのだということは共通であるが、しかし、この転倒は機械によってはじめて技術的に明瞭な現実性を受け取るのである。一つの自動装置に転化することによって、労働手段は労働過程そのもののなかでは資本として、生きている労働力を支配し吸い尽くす死んでいる労働として、労働者に相対するのである」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.331~332」国民文庫)

ところが一方、自己破壊に強烈な快感を覚える人々も中にはいる。

「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.212」岩波文庫)

こうして誰もが資本主義的生産様式の中に吸い込まれることによって、労賃を得、商品交換に参入し、絶えざる言語的流通の中に身を置くことができて、始めて人間は社会化される。資本主義は一方ですべての人間を均質化する。他方、均質化した上で改めて個人化する。「均質な人間」として認められるや「人間」という資格において或る人間は狂人でありまた別の人間は狂人でない、という区別がなされる。是が非でも最初に行われねばならなかった作業。それは人間というものを「算定されうる」ものに偽造=変造する作業である。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)

そうして始めて「人間」という一つのカテゴリーが誕生した。そしてこのカテゴリーはどういうわけでかさっぱりなのだが、成立するやいなや同時に規範としてすべての人間に適用され、規範からの逸脱はただちに狂気であると見なされるようになった。ネルヴァルは狂気の側へ編入された一人である。だがネルヴァル「オーレリア」を見ると、これまたなぜかはわからないのだが、編入した側とは逆の特徴が顕著に現われている。ネルヴァル自身は様々な人物や事物に生成変化するが、けっしてそれらを「所有」しない、という点がそうだ。「所有」するどころか「私を取巻く幻想の顔もしくは現実の顔が、直ぐと消え去る無数の形に砕けた」というのである。

「衛兵用の寝台に寝ながら、私は兵隊達が一人の未知の男のことを話しているのを聞いた。矢張り私のように捕(つか)まって、その声が先程同じ室の中に鳴り響いたのであった。不思議な振動の作用で、その声は私の胸の中で反響し、そして私の霊魂は、幻と現実との間に截然と分たれて、ーーー謂わば両分されたように思えた。一瞬、私は努力してその問題の男の方に向いてみようと考えたが、次に、よく知られたドイツの伝説を思い出して、ぞっとした。各人は一つの副身(ダブル)を持っていて、それを見る時、死が近いというのである。ーーー私は眼を閉じて、そして朦朧とした精神状態に陥った。私を取巻く幻想の顔もしくは現実の顔が、直ぐと消え去る無数の形に砕けた」(ネルヴァル「オーレリア・P.15」岩波文庫)

統合されたと思われるやいなや解体している。所有があったかなかった、わかるはずもない。「所有/非所有」を超越している。ちなみに明らかな所有あるいはニーチェが忌み嫌う「所有への意志」とはどのようなことをいうのか。

「人間の差異は、単に彼らの財産目録の差異に示されているのみではない。すなわち、彼らがそれぞれ異なる財を追求するに値すると考え、また共通に承認する財の価値の多少、その順位について互いに意見を異にする、という点に見られるのみではない。ーーー人間の差異は更にむしろ、何が彼らにとって財の真の《所有》であり《占有》であると見なされるか、ということにおいて示される。例えば、女について言えば、比較的に控え目な者は、肉体を自由にし、性的享楽を味わうだけですでに、その所有・占有の十分な満足すべき徴(しるし)と認める。他の者はもっと邪推深く、もっと要求が多い占有欲をもっていて、そうした所有は『疑問符』を伴うもの、単に外見上のものであると見て、一層精細な試験をしようとし、わけても、女が彼に身を任(まか)せるだけではなく、更に彼女の持っているものや持ちたがっているものをも彼のために手放すかどうかを知ろうとする。ーーーそのようにして始めて、彼は女を『占有した』と認めるのである。しかし、それだけではまだ彼の不信と所有欲に結末をつけない者もある。彼は自ら女が一切を彼のために棄てても、言ってみれば彼の幻影のためにそうしているのではなかろうか、と疑う。彼はおよそ愛されうるためには、まず徹底的な、いな、どん底までよく知られたいものだと望む。彼は敢えて自分の正体を覗(のぞ)かせるのだ。ーーー彼女がもはや彼について錯覚をもたず、彼の親切や忍耐や聡明のためにと全く同じく、彼の魔性や秘(ひそ)かな貪婪(どんらん)のためにも彼を愛するとき、始めて彼は愛人を完全に自分が占有したと感じる。また、或る者は国民を占有したいと思う。そして、その目的のためには、あらゆるカリョストロ的、カティリーナ的な術策を弄してもよい、と彼には思われる。更に他の者は、もっと繊細な占有欲をもっていて、『所有せんと欲すれば、欺くべからず』と自分に言って聞かせる。ーーー彼は自分の仮面が民衆の心を支配しているのだと考え、そのため苛立(いらだ)って耐(た)え切れなくなり、『故にわれを知ら《しめ》ざるべからず。かつまた、まずもって、われ自らを知らざるべからず!』と思う。世話好きな慈善家の間には、彼らが助けてやるはずの者をまずもって支度してかかるといったあの愚かしい奸智が見いだされるのが殆ど通例である。例えば、あたかもその者が助けられるに『値し』ており、まさしく《彼らの》助けを求めていて、すべての助力に対して彼らに深い感謝と帰服と恭順を示すかの如く思ってそうするのだ。ーーーこのような自惚(うぬぼ)れをもって、彼らは困窮者を所有物を処理するが如くに取り扱う。彼らは所有物に対する欲求からして一般に慈善的で世話好きな人間だからである。彼らは助力が妨げられたり、出し抜かれたりすると嫉妬する。両親は識らず知らずに子供を自分たちに似たものにするーーー彼らはこれを『教育』と名づける。ーーー子供を産んで一つの所有物を産んだのだと心の底で信じない母親は一人もいないし、子供を《自分の》概念や評価に従わせる権利があることを疑う父親は一人もいない。それどころか、以前には新しく生れた子供の生殺の権を思うがままに揮(ふる)うことが(古代のドイツ人の間でそうであったように)、父親たちには当然のことと思われていた。そして、父親がそうであったように、今日でもなお教師・階級・僧職・君主などがあらゆる新しい人間において、躊躇なく新しい占有への機会を見るのである」(ニーチェ「善悪の彼岸・一九四・P.144~146」岩波文庫)

またヘーゲルは、人間の意識は二重に分裂する傾向をあらかじめ持っているのだが、第一にそれはどの個人にも可能性としてあるということと、第二にその可能性が可能性の領域に留まっていないで現実性として出現するとき始めて「病的なもの」として認知されると語っている。

「この独特な病気においては、私の《心的な》存在と私の《覚醒している》存在との間・私の《情感的な自然生命性》と私の《媒介された悟性的意識》との間に或る《決裂》が発生する《という》仕方で規定される。人間は各々自己内に上述の両側面を含んでいるから、この決裂はたしかに《可能性》の方から見て最も健全な人間のなかにも含まれている。しかしこの決裂はあらゆる個人のなかで実存するようになるのではなくて、ただそのことに対し或る《特殊な》素質をもっている個人のなかで実存するようになるだけである。そしてまたこの決裂は、可能性から抜け出て現実性の世界に入る限り始めて、或る病的なものになる」(ヘーゲル「精神哲学・上・P.245~246」岩波文庫)

ネルヴァルはアレクサンドル・デュマ宛書簡の中で自作「幻想詩篇」について少しばかり述べている。そこでヘーゲルについて触れた。

「ヘーゲルの形而上学や、スウェーデンボリの『メモラビリア』ほど難解というわけではありません」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.33』岩波文庫)

なお、ネルヴァルにはルソーに対する尊敬が随所に見られる。ルソー自身、十八世紀に頭角を現わした一群の人々の例に漏れずたいへん逆説的な思想家だった。「エミール」では乳母保育を批判し母乳保育を推奨した反面、「告白」では、自慰行為からママンの身体へ、ママンの身体からテレーズの身体へ、という性的対象の置き換え可能性が述べられている。もっとも、後者はルソーが思いがけず語ってしまっていることであり、戦後デリダ「グラマトロジー」によってその矛盾を徹底的に茶化されたわけだが。そして今の世界はどこへ行っても、ほとんどすべてというに等しいほどありとあらゆるものが置き換え可能になっている。しかしルソーは今の国連の原型(社会契約、基本的人権、一般意志、社会的結合)を最初に示した点で歴史上偉大な人物でもある。その進歩的な面と保守的な面との混在は、ヨーロッパ〔ロゴス〕中心主義という帝国主義的植民地化を世界中で展開させつつ、十八世紀以降のヨーロッパで何が起き、さらにそれはどんな矛盾撞着した事態を伴って轟然と推進されていったかをつぶさに見ることを可能にする。そしてその動きはもはやルソー、ゲーテ、モンテーニュらの手を離れ、十九世紀前半を経て、あの茶番劇「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」を経て、ニーチェが今なお行われていると指摘する「新しい占有」が規律・訓練を通して実現されていく過程と一致していく。

「『規律・訓練を国民的なものにする必要があるにちがいない』とはギベールの言葉であった。『私が述べる国家は、統治しやすい単純で強固な行政機構をもつべきだろう。あまり複雑でない《ばね》仕掛でもって著しい効果をあげるあの大規模な機械に似なければなるまい。この国家の力は自らの力から、その繁栄は自らの繁栄から生じなければなるまい。いっさいを破壊する時間が、その国家の力を増大するだろう。もろもろの帝国は衰亡破滅の鉄則に従うと信じこませるあの俗信を、この国家は打破するだろう』。ナポレオン体制の到来は遠くはないし、しかもその体制とともに、それ以上に生命を保つようになるこの国家形態の到来は遠くはないのであり、この国家形態にかんして忘れてならないのは、それを準備したのが法学者だけでなく、さらには兵士であり、国政参議と下級官吏であり、法律の人と陣営の人であった点である。こうした国家形成にともなって用いられた、ローマ帝国への指示関連には、まさしく、市民と兵士、法律と操練という指標が含まれるのだ。法学者ないしは哲学者たちが契約というもののなかに、社会体の建設もしくは再建のための原初的モデルを探求していた一方では、軍人は、さらには彼らとともに規律・訓練を旨とする技術家たちは、個人および集団にわたっての身体への強制権のための諸方式をみがきあげていたのである」(フーコー「監獄の誕生・P.171」新潮社)

というふうに。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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