白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部13

2020年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム
ネルヴァルの主人公化はすでに果たされている。さらに主人公化したネルヴァルの皇帝ネロ化への過程。観客と民衆との同一視もほとんど達成されていて動かない模様だ。次の一節でネルヴァルは激情に駆られた主人公を装いながら、観客と民衆の同一視、とりわけ民衆というものがどれほど自分勝手なものかを巧みに説明する。

「私は夜ごと熱に浮かされ、そして昼間は悔し涙に暮れたものです!なんと!そうしようと思えばできたのに、その気にならなかったのかとおっしゃる?これはしたり!あなたがたはなおも私を侮辱するのですか、私が恐れたからではなく、憐れをもよおしたからこそ命を救われたくせに!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.27』岩波文庫)

よくあることであって、言うまでもなく個々別々に飛び交う野次にいちいち対応していては芝居の脚本家は務まらない。しかしネルヴァルは根気よく反論している。というのは、野次が飛び交う状況は、十八世紀末から十九世紀前半のフランスでは当たり前だったからである。その五十年ばかりのあいだでどれほど多くの事件が発生したか。ヘーゲルは次のように述べる。

「例えばフランス革命においては、ほとんどあらゆる市民的関係が崩壊することによって多くの人間が狂気になった。同じ結果はしばしばきわめておそろしい仕方で宗教的原因によって引き起こされる。ただしそれは人間が自分は神からひいきにされているかどうかに関して絶対的不確実におちいった場合のことである」(ヘーゲル「精神哲学・上・第一篇・三二・P.288~289」岩波文庫)

神の死(絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、中心的なものの分散転移、変動相場制)という事態。にもかかわらず、ただちにそれを受け入れられず既成の宗教的観念にしがみついている人々は「絶対的不確実」に陥るほかない。世の中はすでに新興ブルジョア階級の支配に移っている。生成期の資本主義が眼前に出現している。資本主義は何もかもを決定不可能性へ叩き込む諸力がひしめき合う動的運動である。厳密に確実なものは何一つなくなる。だがヘーゲルはこのような状態が一定程度の落ち着きを見せるのはナポレオン体制の樹立によってであると述べる。一方マルクスはナポレオン体制の少し後にやってきた「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」という世界史的茶番劇に注目する。歴史的大事件の周囲には無数の茶番劇がまとわりついているのだ常だがとりわけ「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」はその見本のようなものだ。しかしマルクスにそれが見えたのは、マルクスにあってヘーゲルにないものをマルクスが自分のものにしていたからである。自己二重化から生じるユーモアのセンスがそれだ。ボードレールはいう。

「笑いは悪魔的である。ゆえにこれは深く人間的である。これは人間にあって、自らの優越性の観念の帰結である。そして事実、笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴(しるし)であると同時に無限な悲惨の徴であって、人間が頭で知っている<絶対存在者>との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの《自我》の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話は別だが」(ボードレール「笑いの本質について、および一般に造型芸術における滑稽について」『ボードレール批評1・P.227』ちくま学芸文庫)

ネルヴァルの場合、だいたい一八五四〜一八五五年にかけて、演劇一つ取ってもただ単にフィクションだからというだけでは済まされず、或る程度現実的な「説明」が要求されるわけだ。ネルヴァルは政治家ではないのでそれら様々な質問に答える義務はないのだがわざわざ説明している。性格ゆえということもあったのかもしれない。だがそれ以上に、フィクションと現実的状況とをいったん切り離して論じなければならない場合にはそうする、という義務感にも似た意識が明晰にあったのだろう。

「だれもかれも、焼き殺してしまうことだってできたのです!考えてみてください。P劇場に出口は一つしかありません。私たちの出口は確かに、裏の小路に面していましたが、あなたがたみんながいた楽屋は舞台の反対側でした。私としては、幕に火をつけるにはカンケ灯を一個外すだけでよかったのです。番人からはこちらが見えませんから」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.27』岩波文庫)

明晰な意識を保ちつつ、さらに一方で、ネルヴァルは本格的に皇帝ネロ化する。

「ふたたび舞台に登場したとき、私は拾い上げた手袋を指に巻きつけていました。皇帝の心になりきって受け止めた侮辱に、皇帝その人よりも気高く復讐してやろうと待ち構えていたのですーーー。ところが、卑怯なやつらはそれきり黙りこんでしまったではありませんか!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.27~28』岩波文庫)

しかしなぜネロ化することが可能なのか。ネロを書くことによってである。近現代の小説家がやっているように。カフカは主人公を通して「虫」になる。

「働き疲れてぐったりとしたこの家庭の中で、ぎりぎりのところ以上にグレーゴルの面倒を見る時間はだれももちあわせているはずがなかった。家政はますます切りつめられて行く。女中にも結局は暇が出て、そのかわりに、頭のまわりに白い髪の毛をばさばささせた骨ばった大女が朝晩やってきて、いちばん面倒な仕事をした。そのほかのいっさいは母親が針仕事のかたわらやってのけた。そればかりか、むかしは母親や妹が楽しみの集まりや祝い事などある折りに得意になって身を飾った種々雑多な服飾品なども売りに出されるようになった。これは晩方みんなが集まってどのくらいに売ったものだろうかと相談しあっているのを見聞きしてグレーゴルが知ったことである。しかしいちばんの頭痛のたねといえば、それはいつも住宅問題であった。現在の家族の事情ではこの住宅は広すぎる。しかし移転の方策はたたない。グレーゴルをどうしたら引っ越しさせるかがわからないのである。しかしグレーゴルにはちゃんとわかっていたが、引っ越しを妨げているのはグレーゴルへの顧慮ばかりではなかった。適当な箱をこしらえて、息抜きのために二つ三つ穴でも開ければ、グレーゴルなどは苦もなく運搬できるはずだ。移転を妨げていたおもな理由はむしろ完全な絶望感と、自分たちは親戚(しんせき)知人のあいだにもたえてその例を見ることのできないような不幸に見舞われているのだという考えとであった」(カフカ「変身・P70~71」新潮文庫)

ホフマンスタールは「鼠」になる。

「とつぜん心のなかに、鼠の群の断末魔の苦しみにみちた地下室の情景が浮かびあがったのです。心のなかにはすべてがありました。甘く鼻をつく毒薬の香にみちみちた、冷たく息づまるような地下室の空気、黴(かび)くさい壁にあたってくだける断末魔の鋭い叫び、気を失って絡みあい痙攣(けいれん)する肉体、すてばちになり入り乱れて走りまわり、狂ったように出口を探し求めるさま、行きどまりの隙間で出会った二匹の冷たい怒りの眼つきーーー。鼠の魂がわたしの心のなかでおそろしい運命にむかって歯をむきだしたーーーですが、わたしの心を満たしたのが憐憫の情であったとはお考えにならないでください。それはなりません。もしそうなら、選んだたとえがひどくまずかったのです。あれははるかに憐憫以上のもの、また憐憫以下のものでした。それは恐るべきかかわりあいであり、これらの生き物のうちへと流れこんでゆくこと、あるいは、生と死、夢と覚醒、それらを貫いてとおる流体が、一瞬、これらの生き物のうちへとーーーどこからかはわかりませんがーーー流れこんだ、という感覚でした」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙・P.113~115」岩波文庫)

もっとも、ホフマンスタールは自分で語ってしまっているが。

「ぼくらの奥底にある欲望は変身をめざす」(ホフマンスタール「美しき日々の思い出」『チャンドス卿の手紙・P.245』岩波文庫)

さらにヴァージニア・ウルフは登場人物を通して「植物」に、「石像の眼」になるだけでなく、「波」に、「ばらばらに砕け」たり、「泡」に、「魚」に、「猿」に、「虎」に、なったりする。

「『僕は茎だ』ーーー『僕は全く細い根だ』ーーー『僕の両眼は緑の葉だ』ーーー『僕は灰色のフランネルの着物を着た子供だ』ーーー『僕の眼はナイル河畔の沙漠に立つ石像の瞼のない眼だ』ーーー『僕は生垣の蔭で水松樹のように緑だ』ーーー『僕は土の真中へ根をおろしている』ーーー『身体は茎だ』ーーー」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.9~10」角川文庫)

「『この宇宙には、固定しているものやじっとしているものは何もないんだわ。みんな波打っていて、みんな踊っているの、なんでもかんでも敏捷に動いて勝利を狂喜しているわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.43」角川文庫)

「『皺くちゃの、いじけた、こんな拘束なんてものーーー時間、秩序、紀律、きまった時間に正確にあちこちへちゃんといなくてはならないことなんかはーーーばらばらに砕けてしまうわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.50~51」角川文庫)

「『僕は一つの単一ではなくて、複合した多数であることがはっきりする。バーナードは、公然としては泡だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.73」角川文庫)

「『キャノン、リセット、ピータス、ホーキンンズ、ラーベント、ネヴィルーーーこんな連中がみんな中流の魚だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.74」角川文庫)

「『僕たちはみんな異っている、全く真底からかもしれぬーーー僕は諸君のように単一でも十全でもないからだ。僕はもうすでに無数の人生を生きてきた。毎日毎日墓から蘇えりーーー掘りかえす。数千年の昔、女たちが作った砂丘の中に僕は己が屍を見出す。ーーー僕はアラビアの皇子ーーー僕はエリザベス朝の偉大な詩人ーーー十四世ルイ王朝の公爵ーーー僕は胡桃の上で喋る子猿だ。ーーー僕は檻に入れられた虎だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.124」角川文庫)

ネルヴァルは主人公化し、さらに皇帝ネロ化する。ネロ化にあたって、ネロの「寛衣が四肢に張り付」くと述べる。そしてその感覚は「ヘラクレスを苛(さいな)んだケンタウロスの肌着のよう」だと。

「あの晩から、私の狂気は自らをローマ人、皇帝であると信じることでした。自分の役柄が自分自身と一体になり、ネロンの寛衣が四肢に張り付いて身を焼くのです、まるで瀕死のヘラクレスを苛(さいな)んだケンタウロスの肌着のように」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.28』岩波文庫)

「身を焼く」ほどにネロ化する。どのような感覚か。ヘラクレスの肉の一部を「引き剥がした」ケンタウロスの「肌着」について。

「ヘーラクレースは法に従って追放されることを望み、トラーキースのケーユクスの所にたち去る決心をした。デーイアネイラを伴ってエウエーノス河に来た。この河にケンタウロスのネッソスが坐っていて、彼の正徳によって神々より渡しを授かったと称し、報酬を取って通行人を渡していた。それでヘーラクレースは自分で河を渡ったが、報酬を要求されたのでデーイアネイラを渡してくれるようにとネッソスに委せた。ところが彼は渡している間に彼女を犯そうとした。彼女の叫びを聞いてヘーラクレースはネッソスが河から出て来るところを心臓を射た。まさに死なんとする時にデーイアネイラを呼び寄せて、ヘーラクレースに媚薬(びやく)が欲しいならば、彼が地上に落した精液と鏃(やじり)の傷から流れ出る血とを混合するがよいと言った。彼女はその通りにして、自分の身につけて蔵った。

ヘーラクレースはドリュオプス人の地を通っている時に食糧がなくなって、牛追いのテイオダマースに出遭い、その片方の牛をはずし、殺して食った。トラーキースのケーユクスの所に来た時に、彼に迎えられてドリュオプス人を征服した。

その後そこより進んでドーリス人の王アイギミオスの味方となって戦った。というのはラピテースたちが土地の境界に関してコローノスを将として彼と戦い、王は囲まれて、土地を分かち与える条件でヘーラクレースに助けを求めたからである。ヘーラクレースは援助して、他の者とともにコローノスを殺し、全土を自由にして彼に与えた。彼はまたドリュオプス人の王で、無道な男、ラピテースらの味方であるラーオゴラースがアポローンの神域で宴を張っているところを、その息子どもと一緒に殺した。イトーノスを通過していると、アレースとペロピアーの子キュクノスが彼に一騎討ちを挑んだ。そこで矛を交え、この男をも殺した。オルメニオンに来た時に、アミュントール王が武力にうったえて彼の通過を許そうとしなかった。しかし通行のじゃまをされて、ヘーラクレースはこの男をも殺した。

トラーキースに着いて、エウリュトスに復讐せんものと、オイアカリアーを襲うべく軍を集めた。アルカディアー人、トラーキースのメーリス人、エピクメーミスの地のロクリス人を味方として、エウリュトスをその息子らとともに殺し、市を取った。そして彼とともに軍に加わったものの戦死者、すなわちケーユクスの子ヒッパソス、リキュムニオスの子アルゲイオスとメラースを葬り、市を略奪し、イオレーを捕虜としてひいて行った。エウボイアのケーナイオン岬に船を泊(と)めて、ケーナイオンのゼウスに祭壇を築いた。そして犠牲を捧げようと思って、使者の<リカース>に美々しい衣服を取りにトラーキースにやった。デーイアネイラは彼からイオレーのことを聞き、彼女をよけいに愛しはしまいかと心配し、ネッソスの流血を本当に媚薬だと信じて、これをその下着に塗った。そこでヘーラクレースはこれを着て犠牲を行なった。ところが下着が暖められるとともに水蛇(ヒュドラ)の毒が皮膚を腐蝕し始めた。そこでリカースをばその両足を以て持ち上げて〔ボイオーティアーの〕<岬から>投げ下し、肉にくっついてしまった下着を引き剥がした。そこで肉もまた一緒に引き剥がされた」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.109~111」岩波文庫)

たいへん痛かっただろうという気はする。ところでヘラクレスについてギリシア悲劇ではどのように描かれているだろうか。エウリピデス「ヘラクレス」に面白い場面がある。

「ヘラクレス 何を嘆いておられる、父上。どうしてあなたの息子から離れて眼を覆っておられるのか。/アムピトリュオン わが子よ、惨めな目にはあっても、やはりお前は私の息子だ。/ヘラクレス 私はあなたの嘆かれるようなどんな禍いにあったのですか。/アムピトリュオン 神ですら、そのような目にあわれたら嘆かれるであろう。/ヘラクレス 大袈裟なお言葉。だが私の身に起ったことはまだ言ってくださらない。/アムピトリュオン お前が正気ならわかることだ。/ヘラクレス 私の身に何か新たな禍いが起ったのなら話してください。/アムピトリュオン お前が狂気の踊りをやめたのなら話そう。/ヘラクレス おお父上、あなたはまた謎めいたことを言われる。アムピトリュオン お前が正気であるかどうか、今も疑っているのだ。/ヘラクレス 気が狂った覚えはありません。/アムピトリュオン 老人方、わが子の縛(いまし)めを解こうか、どうしよう。/ヘラクレス 私を縛ったのは誰です。このようなことはやめていただきたい。/アムピトリュオン 不幸についてはそれだけ知れば十分だ。それ以上のことは尋ねないがよい。/ヘラクレス 私の知りたいことは黙っていてもわかると言われるのですか。/アムピトリュオン おお、ゼウスよ、ヘラの降した禍いを見られたか。/ヘラクレス 私はまたヘラの憎しみを受けたのですか。/アムピトリュオン ヘラのことはそのままにして、お前は自分の不幸に心を向けるがよい。/ヘラクレス 私はもう駄目だ。あなたの言われる禍いとは何事です。/アムピトリュオン 見よ、子供達の亡骸(なきがら)を。/ヘラクレス おお、なんという有様を見ることか、この惨めな私は。/アムピトリュオン お前はわが子に向って戦さならぬ戦さをしたのだ。/ヘラクレス 何の戦さです。誰がこの子らを殺したのです。/アムピトリュオン お前と弓矢とそしていずれかの神の仕業なのだ。/ヘラクレス 何と言われます。私が何をしたのです。あなたは不吉なことを告げられる。/アムピトリュオン 気が狂ったのだ。お前は胸を押し潰すようなことを私から聞こうとしている。/ヘラクレス 妻を殺したのも私ですか。/アムピトリュオン すべてがお前の手の仕業だ。/ヘラクレス おお、嘆きの黒雲が私を押し包む。/アムピトリュオン それゆえ私はお前の運命を嘆いているのだ。/ヘラクレス 館を打ち砕いたのも、私の狂気の仕業ですか。/アムピトリュオン 私には一つのことしかわからない。お前が出会う運命はすべてが禍いだ。/ヘラクレス どこで狂気が私を襲い、私を滅ぼしたのです。/アムピトリュオン 祭壇のところでだ。お前が火で手を清めている時のことだ」(エウリピデス「ヘラクレス」『ギリシア悲劇3・P.524~526』ちくま文庫)

二人の会話は「狂気かそうでないか」を巡ってはいない。むしろ人間にとって狂気の出現は前提とされている。アムピトリュオンはこう言っている。

「そしていずれかの神の仕業なのだ」

ニーチェはいう。

「『愚かさ』・『無分別』・少しばかりの『頭の狂い』、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として《許した》ーーー愚かさであって、罪では《ない》のだ!諸君にはそれがわかるかーーーしかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーーー『そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。《われわれ》高貴な素性(すじょう)の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?』ーーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。『きっと《神》が瞞(だま)したのに違いない』とついに彼は頭を振りながら自分に言ったーーーこの遁辞はギリシア人にとって《典型的なもの》だーーーこのように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろ《より高貴なもの》を、すなわち罪を身に引き受けたのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.113」岩波文庫)

今ではどうか。人々の多くは口を揃えて人類は「進歩」したと喚き立てている。「神の死」とともに新しい神(資本主義)が出現したが、同時進行した市民社会の流れが本当に「進歩」というに値するというのなら、にもかかわらず今や「罪」は誰が引き受けているのか。

「《死刑》。ーーーどんな死刑も殺人よりもっとわれわれの感情を傷つけるのはどういうわけであろうか?それは裁判官の冷酷さ、たえがたい準備、その他の人をおどろかすためにここでひとりの人間が手段として利用されるのだという洞察、である。なぜなら、かりに或る罪が存在するにしても、その罪が罰せられるのではないからである。罪は教育者・両親・環境に、われわれにあって、殺人者にはないからであるーーーわたしのいうのはそうさせる事情のことである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・七〇・P.100~101」ちくま学芸文庫)

ニーチェが「そうさせる事情」というものの中には、ありとあらゆる規律・訓練とその技術者ならびに組織者が含まれている。だから、このような流れを組織化しようとする人々、とりわけ多国籍企業複合体、国家的責任者層、高級官僚、もまた問題とされなくてはならないだろう。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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