ネルヴァルによる精神病院入退院の繰り返し。一八四二年にデビューした頃に始めて入院している。その後、ほぼ順調な経過を辿った。執筆活動も軌道に乗ってきた。が、一八五三年、「シルヴィ」発表の少し前頃、再び不調を訴え入退院を繰り返すようになる。だからといってネルヴァルは心身の不調を理由に神格化されることを希望したりしない。ともすれば精神的不調が芸術家の条件であるかのように見なされていた時代。他の芸術家たちがそれをどう考えていようといまいとネルヴァルは自分で自分自身が目標とする方向を固めていく。
「おそらく最後まで私に残る狂気とは、自分は詩人であるという思いでしょう」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.33~34』岩波文庫)
逆説的な言葉だが、それがかえって他に例を見ない独自路線を確立することへ繋がった。「オーレリア」ではその自負というべき文章がある。
「もし私が、一作家の使命は人生で重大な事態の裡に己れを感ずる事柄を誠実に分析するに在ると考えぬならば、又もし私が自ら有用であると信ずる目的を立てなかったとしたら、私はここで止め、そして、自分が続いて恐らく分別を失った幻影、或いは俗にいえば病的な幻影の一種の裡に感じた事柄を、叙べようとは試みないであろう」(ネルヴァル「オーレリア・P.14」岩波文庫)
いったんアレクサンドル・デュマ宛書簡へ戻ろう。こうあった。
「私のことを運命の人と呼んでくれたあの芝居一座の美しき『星』(エトワール)を、私はいまなお信じているのです。エトワールとデスタンーーー詩人スカロンの小説の何と愛すべきカップル!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.17』岩波文庫)
で、「オーレリア」で「星」について改めて述べられる。
「あの星の中に、俺を待っている人々がいる。ーーー俺を彼等のところに行かせてくれ。俺の愛するひとは彼等の間にいるので、そこで二人が再会する筈になっているのだ!」(ネルヴァル「オーレリア・P.12」岩波文庫)
ところで「星」とは何か、と言いたいところかも知れないが、それはアリアドネのようなものだ。どこまで行っても、行けばいくほど、限りなく遠のいていくように見える恋愛対象。捕らえたと思うやいなやすでに手から離れて変化して見える恋愛対象。
「迷宮のような人間というものは、けっして真理をではなくて、つねにおのれのアリアドネだけを探し求める」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一七〇・P.101」ちくま学芸文庫)
もしネルヴァルがそのことに気づいていないと考えるとしたらそれこそ笑止というほかない。むしろネルヴァルはよりいっそう現実的な問題をアリアドネの系列というべき形で出現させる。「星」のある場所。そこにいるのは「彼」ではなく「彼等」とある。「一人かそれとも二人か」ではなく、無限に続くであろう系列が問題なのであり、人間の夢と幻想における「二重化」をテーマとする方法に取り組む。
「私が現実生活に於ける夢の氾濫と呼ぶようなものは、私にとって此処に始まった。この時以来、一切が時々二重の様子を帯びた、ーーーしかもそれは、推理が決して論理を欠くようなことなく、記憶が私の身の上に起る事柄の最も些細な細部をも逸することなくしてである」(ネルヴァル「オーレリア・P.13」岩波文庫)
そしてまた人間は、それが何であれもし何かを「見た」としたら、それがたとえ幻想に属するものであったとしても、現実に幻想を見たという資格において、何かを「見た」という現実を疑うことはできない。
「私は、人間の想像は嘗て此の世界に於いても他の諸世界に於いても、一つとして真ならざるものを考え出したことはないと信ずるのであり、そして自分がかくも明瞭に《見た》ものを、疑うことはできぬ」(ネルヴァル「オーレリア・P.41」岩波文庫)
もっとも、ネルヴァルやアルトーは別だとする見方もできる。しかしそうするとカフカやホフマン、さらにはダンテさえ別だということになってしまうだろう。では、より現代的で著名な小説家の場合、さらに普段から夢や幻想をテーマにしていない小説家の場合、ネルヴァルのような夢と幻想にしばしば見舞われる作者でない場合はどうか。例外ではない。
「とつぜん彼女は気づいた。彼は酒を求めているのではなかった。彼が見つめているのは、昨夜酒壜を投げつけた片隅だった。彼女は彼の弱々しい、反抗するような、整った顔を見つめたーーー半ば顔を向けることさえ恐ろしかった。彼が見つめている片隅には死があることを知っていたからだった。彼女は死というものを知ったーーーそれまで死のことを耳にしたり、まぎれもない死の匂いを嗅いだことはあったが、人間に入りこむ前の死を見たことはなかった。彼女はその男がバスルームの片隅に死を見ているのを知った。死はそこに立って、弱々しい咳をして唾をズボンのひも飾りにこすりつけている男を見つめているのだ。ひも飾りは、光っていたーーー彼の最後の動作の証拠として、しばらくの間きらきら輝いていた」(フィッツジェラルド「アル中患者」『フィッツジェラルド作品集3・P.131』荒地出版社)
主人公はアメリカ大恐慌前後に大量発生したアルコール依存症者の一人だ。症状は重篤に陥っている。そのとき主人公は見ていないだろうか。「人間に入りこむ前の死」を。「死はそこに立って」、病室の片隅から、「弱々しい咳をして唾をズボンのひも飾りにこすりつけている男を見つめている」。それを主人公自身、「見つめてい」ないだろうか。紛れもなくフィッツジェラルドは書いている。主人公は「見つめている」と。しかし、この場面に立ち会っている女性看護師は、別の意味でそれ以上に危険な情動に襲われている。
「『それは何とかできるものじゃありませんーーーいくら一生懸命やったって。あの患者さんはわたしの手首をねじって、くじいたかもしれないけど、そんなことは大したことじゃありません。ただ本当にあの人を助けてあげられないってことが問題なんです。それで張合いがなくなるんですーーー何をやっても空しいんです』」(フィッツジェラルド「アル中患者」『フィッツジェラルド作品集3・P.131』荒地出版社)
女性看護師は上司にいう。「何をやっても空しい」と。この危険な兆候、とニーチェならいうだろう。
「いったい何がおこったのか?『《目的》』という概念をもってしても、『《統一》』という概念をもってしても、『《真理》』という概念をもってしても、生存の総体的性格は解釈されえないとわかったとき、《無価値性》の感情がえられたのである。かくして、何ものもめざされ達成されず、生成という多様性をおおう統一は欠けている。すなわち、生存の性格は《真》ではなく《偽》なのであるーーー《真》の世界があるとおのれを説得する根拠は、もはやまったくなくなるーーー要するに、私たちが世界に価値を置き入れてきた《目的》、《統一》、《存在》という諸範疇(はんちゅう)は、ふたたび私たちによって《引きぬき去られ》ーーーいまや世界は《無価値のものにみえて》くるーーー」(ニーチェ「権力への意志・上巻・十二・P.29~30」ちくま学芸文庫)
この無価値感。ニヒリズムという精神的危機。だがネルヴァルの場合、夢と幻想とに重心を移動させることで逆に危険なニヒリズムから巧みに逃れることができた。ところが文学という分野はもはや早くもかつてのような社会的影響力あるいは政治性を低下させている。それと入れ換わるかのように、アメリカでもドイツでも、この時期、かつてない強力な政治性を帯びて台頭してきたのは音楽である。というより、音楽ゆえになおのこと政治的であるほかない社会状況が醸成されてきた。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
BGM3
BGM4
BGM5
BGM6
BGM7
BGM8
BGM9
BGM10
「おそらく最後まで私に残る狂気とは、自分は詩人であるという思いでしょう」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.33~34』岩波文庫)
逆説的な言葉だが、それがかえって他に例を見ない独自路線を確立することへ繋がった。「オーレリア」ではその自負というべき文章がある。
「もし私が、一作家の使命は人生で重大な事態の裡に己れを感ずる事柄を誠実に分析するに在ると考えぬならば、又もし私が自ら有用であると信ずる目的を立てなかったとしたら、私はここで止め、そして、自分が続いて恐らく分別を失った幻影、或いは俗にいえば病的な幻影の一種の裡に感じた事柄を、叙べようとは試みないであろう」(ネルヴァル「オーレリア・P.14」岩波文庫)
いったんアレクサンドル・デュマ宛書簡へ戻ろう。こうあった。
「私のことを運命の人と呼んでくれたあの芝居一座の美しき『星』(エトワール)を、私はいまなお信じているのです。エトワールとデスタンーーー詩人スカロンの小説の何と愛すべきカップル!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.17』岩波文庫)
で、「オーレリア」で「星」について改めて述べられる。
「あの星の中に、俺を待っている人々がいる。ーーー俺を彼等のところに行かせてくれ。俺の愛するひとは彼等の間にいるので、そこで二人が再会する筈になっているのだ!」(ネルヴァル「オーレリア・P.12」岩波文庫)
ところで「星」とは何か、と言いたいところかも知れないが、それはアリアドネのようなものだ。どこまで行っても、行けばいくほど、限りなく遠のいていくように見える恋愛対象。捕らえたと思うやいなやすでに手から離れて変化して見える恋愛対象。
「迷宮のような人間というものは、けっして真理をではなくて、つねにおのれのアリアドネだけを探し求める」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一七〇・P.101」ちくま学芸文庫)
もしネルヴァルがそのことに気づいていないと考えるとしたらそれこそ笑止というほかない。むしろネルヴァルはよりいっそう現実的な問題をアリアドネの系列というべき形で出現させる。「星」のある場所。そこにいるのは「彼」ではなく「彼等」とある。「一人かそれとも二人か」ではなく、無限に続くであろう系列が問題なのであり、人間の夢と幻想における「二重化」をテーマとする方法に取り組む。
「私が現実生活に於ける夢の氾濫と呼ぶようなものは、私にとって此処に始まった。この時以来、一切が時々二重の様子を帯びた、ーーーしかもそれは、推理が決して論理を欠くようなことなく、記憶が私の身の上に起る事柄の最も些細な細部をも逸することなくしてである」(ネルヴァル「オーレリア・P.13」岩波文庫)
そしてまた人間は、それが何であれもし何かを「見た」としたら、それがたとえ幻想に属するものであったとしても、現実に幻想を見たという資格において、何かを「見た」という現実を疑うことはできない。
「私は、人間の想像は嘗て此の世界に於いても他の諸世界に於いても、一つとして真ならざるものを考え出したことはないと信ずるのであり、そして自分がかくも明瞭に《見た》ものを、疑うことはできぬ」(ネルヴァル「オーレリア・P.41」岩波文庫)
もっとも、ネルヴァルやアルトーは別だとする見方もできる。しかしそうするとカフカやホフマン、さらにはダンテさえ別だということになってしまうだろう。では、より現代的で著名な小説家の場合、さらに普段から夢や幻想をテーマにしていない小説家の場合、ネルヴァルのような夢と幻想にしばしば見舞われる作者でない場合はどうか。例外ではない。
「とつぜん彼女は気づいた。彼は酒を求めているのではなかった。彼が見つめているのは、昨夜酒壜を投げつけた片隅だった。彼女は彼の弱々しい、反抗するような、整った顔を見つめたーーー半ば顔を向けることさえ恐ろしかった。彼が見つめている片隅には死があることを知っていたからだった。彼女は死というものを知ったーーーそれまで死のことを耳にしたり、まぎれもない死の匂いを嗅いだことはあったが、人間に入りこむ前の死を見たことはなかった。彼女はその男がバスルームの片隅に死を見ているのを知った。死はそこに立って、弱々しい咳をして唾をズボンのひも飾りにこすりつけている男を見つめているのだ。ひも飾りは、光っていたーーー彼の最後の動作の証拠として、しばらくの間きらきら輝いていた」(フィッツジェラルド「アル中患者」『フィッツジェラルド作品集3・P.131』荒地出版社)
主人公はアメリカ大恐慌前後に大量発生したアルコール依存症者の一人だ。症状は重篤に陥っている。そのとき主人公は見ていないだろうか。「人間に入りこむ前の死」を。「死はそこに立って」、病室の片隅から、「弱々しい咳をして唾をズボンのひも飾りにこすりつけている男を見つめている」。それを主人公自身、「見つめてい」ないだろうか。紛れもなくフィッツジェラルドは書いている。主人公は「見つめている」と。しかし、この場面に立ち会っている女性看護師は、別の意味でそれ以上に危険な情動に襲われている。
「『それは何とかできるものじゃありませんーーーいくら一生懸命やったって。あの患者さんはわたしの手首をねじって、くじいたかもしれないけど、そんなことは大したことじゃありません。ただ本当にあの人を助けてあげられないってことが問題なんです。それで張合いがなくなるんですーーー何をやっても空しいんです』」(フィッツジェラルド「アル中患者」『フィッツジェラルド作品集3・P.131』荒地出版社)
女性看護師は上司にいう。「何をやっても空しい」と。この危険な兆候、とニーチェならいうだろう。
「いったい何がおこったのか?『《目的》』という概念をもってしても、『《統一》』という概念をもってしても、『《真理》』という概念をもってしても、生存の総体的性格は解釈されえないとわかったとき、《無価値性》の感情がえられたのである。かくして、何ものもめざされ達成されず、生成という多様性をおおう統一は欠けている。すなわち、生存の性格は《真》ではなく《偽》なのであるーーー《真》の世界があるとおのれを説得する根拠は、もはやまったくなくなるーーー要するに、私たちが世界に価値を置き入れてきた《目的》、《統一》、《存在》という諸範疇(はんちゅう)は、ふたたび私たちによって《引きぬき去られ》ーーーいまや世界は《無価値のものにみえて》くるーーー」(ニーチェ「権力への意志・上巻・十二・P.29~30」ちくま学芸文庫)
この無価値感。ニヒリズムという精神的危機。だがネルヴァルの場合、夢と幻想とに重心を移動させることで逆に危険なニヒリズムから巧みに逃れることができた。ところが文学という分野はもはや早くもかつてのような社会的影響力あるいは政治性を低下させている。それと入れ換わるかのように、アメリカでもドイツでも、この時期、かつてない強力な政治性を帯びて台頭してきたのは音楽である。というより、音楽ゆえになおのこと政治的であるほかない社会状況が醸成されてきた。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
BGM3
BGM4
BGM5
BGM6
BGM7
BGM8
BGM9
BGM10
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/53/61a8d33083c4b01b03e09cf6f818779b.jpg)