カバラの流れを見ていると至るところでグノーシス主義が顔を出す。三〇〇〇年〜四〇〇〇年間を通してグノーシス主義はそれほどまでに諸宗教の内部へ浸透していったという証拠である。だがその場合でいうグノーシス主義は広い意味でのグノーシス的傾向を含めてのものだ。厳密な意味ではどうだったろうか。エリアーデは紀元後しばらくして登場してきたウァレンティウスの教義に注目する。
「厳密な意味でのグノーシス主義を規定するのは、本質的に異なる要素を多少なりとも有機的に統合したものではなく、当時、広範囲に流布していた神話や思想や神観念に対する、大胆で、奇妙なほど悲観的な再解釈なのである」(エリアーデ「世界宗教史4・P.230」ちくま学芸文庫)
悲観的だからといって終末論・救世主待望論(メシアニズム)からほど遠いわけではなくむしろ逆に急接近する。
「アレキサンドリアのクレメンスによって伝えられているウァレンティヌスの信条は、人は『われわれが何であり、われわれが何になったか、われわれがどこにいて、われわれはどこに投げこまれているのか、われわれはどのような目標へ向かって急いでおり、われわれはどこから救い出されているのか、誕生とは何か、そして再生とは何か』を学ぶことによって、救いを得ると説いている(ウァレンティヌス派グノーシス文書からの抄録七八、二)」(エリアーデ「世界宗教史4・P.230~231」ちくま学芸文庫)
二〇二〇年の今なお問われて止まない課題を明確化させたといえる内容だ。すなわち「人間はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか」。
「グノーシス派によって教えられた救いを得るための知恵は、とくに『秘密の歴史』(より正確には、イニシエーションを経ていない者には明かされない歴史)、すなわち世界の起源と創造、悪の源、人間を救うためにこの世に下った聖なる救済者の物語、超越的な神の最終的な勝利ーーー歴史の結末と宇宙の消滅のなかに表現されるであろう勝利ーーーの啓示の内に存在するのである。これはひとつの《全体的な神話》であり、世界の起源から現在にいたるまでのすべての決定的要素を記し、その相互依存を示すことによって、終末が確実であることを保証する」(エリアーデ「世界宗教史4・P.231」ちくま学芸文庫)
ウァレンティヌスの主張は、第一に「真の存在」(霊的存在)は肉体という牢獄に捕われているという点。第二に、誕生するということは物質への堕落であるという点。第三に、肉体化し堕落した霊魂を霊知(グノーシス)によって解放・救済するというドラマである。魂とその牢獄たる肉体という思想はプラトンがすでに提出していた。
「われわれは現在死んでいるのであり、身体(ソーマ)がわれわれの墓(セーマ)なのである」(プラトン「ゴルギアス・P.145」岩波文庫)
しかしウァレンティヌスがグノーシス主義者の中でずば抜けた頭角を現わすのは司教の地位を巡る権力闘争に敗北し、ローマを去ってからである。一三五年から一六〇年にかけてウァレンティヌスは神学者として教壇に立っていた。エリアーデは要約することはできないとしながらも次に文章でウァレンティヌスの思想にイエス・キリストの存在が色濃く反映されたものになっていると指摘する。
「ウァレンティヌスによると、父、すなわち絶対的で超越的な第一原理は不可視であり、理解できないものである。父は仲間である思考(エンノケイア)と結合し、ともにプレーローマ〔充満〕を構成することになる十五対のアイオーン〔生ける神的原理〕を生む。最後のアイオーンである知(ソフィア)は、父を知りたいという欲望のために目を曇らされて危機を招き、その結果、悪と情欲があらわれた。プレーローマから突き落とされて、ソフィアとそれがひき起こした常軌を逸した被造物は、劣った知恵(サジェス)を生んだ。そのうえに、キリストと伴侶の女性としての聖霊という新しいカップルが創造された。最後に、プレーローマは最初の完全性を回復して、イエスともよばれる救世主を生む。救世主は低次の領域に下って、より低次の知恵から生じた質料的な要素で『目に見えない物質』を形成し、心的な要素で造物主、すなわち『創世記』の神を造る。『創世記』の神は高次の世界の存在を何も知らず、自分自身を唯一の神であると考えているのである。彼は物質世界を創造し、息でそれに生気を与え、『質料的な人間』と『心魂的な人間』という二種類の人間を形成する。しかし、霊的な要素はより高次の知から生まれて、造物主に知られずにその息のなかに入りこみ、『霊的存在』の階級を生むのである。物質に捕らわれたこれらの霊的な分子を救うために、キリストはこの世に降臨し、厳密な意味では受肉することなく解放をもたらす知識を示す。このように、霊的存在《だけが》霊知(グノーシス)によって覚醒され、父のもとへ昇っていく」(エリアーデ「世界宗教史4・P.239」ちくま学芸文庫)
ウァレンティウスはグノーシス主義の練り上げにあたってユダヤ教のヤハウェよりもキリスト教のイエスをモデルとしたのである。その点で、プラトンのような二元論とはやや色合いの異なるものになっていく。絶対主義的霊的存在とでもいうべきものがグノーシス主義(霊知による救済)と結びつくのである。また、グノーシス主義が取り入れた教義の中でも大きなものに「記憶喪失、睡眠、酩酊、昏睡、捕囚、堕落、郷愁」の顕著な否定が上げられる。
「イメージとして好まれたものに、無知や死と同一視される眠りがある。グノーシス派は、人は眠るだけでなく、眠ることを好んでいると主張している。『ギンザ』は、『なぜあなたはいつも眠ることを好み、罪を犯すものとともに罪を犯すのか』という問いを発している」(エリアーデ「世界宗教史4・P.244」ちくま学芸文庫)
ところが実のところ、このような箇所は新約聖書に載っている部分をそのまま借用したものだ。
「わたしはあなた達に言うことをすべての人に言う、『目を覚ましておれ』と」(「新約聖書・マルコ福音書・第十三章・P.55」岩波文庫)
「たえず目を覚(さ)ましておれ」(「新約聖書・マタイ福音書・第二十四章・P.149」岩波文庫)
なぜ反-記憶喪失、反-睡眠なのか。また捕囚(捕われの身)は自分から自分自身のアイデンティティが失われた状態=睡眠の隠喩である。だから反-捕囚と主張する。
「これらのイメージーーー無知、記憶喪失、捕われの身、眠り、酩酊ーーーの大半は、グノーシス派の教えにおいては、《精神的な死》を意味する隠喩なのである。霊知(グノーシス)は《真の》生、すなわち救済と不死を授けるものなのである」(エリアーデ「世界宗教史4・P.246」ちくま学芸文庫)
グノーシス主義者にとって「記憶喪失、睡眠、酩酊、昏睡、捕囚、堕落、郷愁」は「《精神的な死》を意味する隠喩」と見なされるわけだ。では、聖書にあるイエスの言葉「目を覚ましておれ」、あるいはグノーシスにおける《精神的な死》の逆を目指すとは何のことなのか。要するに常に覚醒していることが大事だというのである。寝たり起きたりということではなくて、精神的な次元でいつも覚醒した状態を保ち、澄み切った緊張のうちに自分自身を律することが大事だという考え方だ。
ところがこういった「無知、記憶喪失、捕われの身、眠り、酩酊」を否定する態度は、霊知(グノーシス)の神秘性にもかかわらず極めて現実的な歴史性を宗教の名において大々的に補完するただ単なる政治的装置の役割をも果たす。それは惰性的歴史を延長させはするが新しく創造することはしない。だからニーチェは「反歴史的」な態度で新しく創造の事業に携わるために、キリスト=グノーシス的傾向に対してあえて「忘却の力」の必要性を説く。
「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・第二篇・P.127~128」ちくま学芸文庫)
そうでなくては新しい現実を慎重にアレンジして創造の事業を押し進めることは実質的に不可能だからである。キリスト教の聖書の中でもイエスの発言として、いったん与えられた所与の生活諸条件が「一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消(き)え失(う)せない」とある。イエスが用いるの無花果(いちじく)の比喩である。
「無花果(いちじく)の木で、枝がすでに柔(やわ)らかになって葉が出ると、夏が近いと知る。ーーーわたしは言う、これらのことが一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消(き)え失(う)せない」(「新約聖書・マルコ福音書・第十三章・P.54」岩波文庫)
「無花果(いちじく)の木で、枝がすでに柔(やわ)らかになって葉が出ると、夏が近いと知る。ーーーわたしは言う、これらのことが一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消(き)え失(う)せない」(「新約聖書・マタイ福音書・第二十四章・P.148~149」岩波文庫)
「無花果(いちじく)の木をはじめ、すべての木を見なさい。すでに芽(め)が出ると、それを見て、ひとりでにはや夏が近いと知る。ーーーわたしは言う、これらのことが一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消(き)え失(う)せない」「新約聖書・ルカ福音書・第二十一章・P.259」岩波文庫)
聖書にあるイエスの言葉とダイレクトに響き合うのはヘーゲルによるヘーゲル弁証法の規定だろう。
「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・P.246~247」岩波文庫)
さらに。
「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・P.248~249」岩波文庫)
すべての樹木はもちろんのこと、欧米や中東でなくても日本のように四季折々の情景の反復から人間が身に付けるのは、一度動き出したものはすべて周期的に自分で自分自身をすっかり展開させずにはおかず、なおかつ全面的に展開させなくては次の段階に入っていくことはできないという認識である。そしてヘーゲル弁証法に備わっている可能性を最大限まで引き出したマルクスもまたこう語っている。
「一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない」(マルクス「序言」『経済学批判・P.14』岩波文庫)
マルクスの言葉の中には明らかに終末論的響きがある。「或る社会の終わりが新しい社会の始まりを意味する」という認識が。だからといってマルクスの場合、ヘーゲルのいう「ミネルヴァの梟(ふくろう)の飛翔」(歴史の終わり)においてキリスト教によって全人類が祝福されるといったありふれた統合論とは異なる。終末がやってきて新しい救世主(メシア)が登場するなどとは一言も言っていない。むしろマルクスは、終末論や救世主待望論が騒々しく世論を席巻するようなときこそ、あえて位置を変えてみること(移動の力/力の移動)の必要性を強調している。
「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)
ネルヴァルもまた大都会の中で様々な世界を、時代を超越して彷徨し見聞する。
「私は、非常に住民の多いそして未知の或る都の街路を彷徨していた。都には丘が起伏し、人家に埋まった一つの山が之を見下ろしているのを認めた。この首都の市民の中に、特別な国民に属しているように見える或る人々が見分けられた。彼等のきびきびした断乎たる様子、顔立ちの力強い調子は、私に、山国とか或いは外国人の余り訪れぬ或る島々の、独立自尊の好戦的民族を想わせた。しかしながら、今彼等は大都会の只中、混然として区別のない住民の只中で、かくの如く能く己が猛々しい個性を失わずにいるのである。一体これ等の人は何者であろう?」(ネルヴァル「オーレリア・P.23」岩波文庫)
ネット社会の世界化によって一九七〇年代型の高度経済成長は「もう発展の余地がないほどに発展」し、さらなるネット社会大規模化の「物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわ」ったと言うことはもはや十分にできる。だがネット社会は結果である。結果はいつも原因を覆い隠す。結果の出現に至ったすべての過程の多様性をともすれば実にしばしば忘れさせてしまう。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「厳密な意味でのグノーシス主義を規定するのは、本質的に異なる要素を多少なりとも有機的に統合したものではなく、当時、広範囲に流布していた神話や思想や神観念に対する、大胆で、奇妙なほど悲観的な再解釈なのである」(エリアーデ「世界宗教史4・P.230」ちくま学芸文庫)
悲観的だからといって終末論・救世主待望論(メシアニズム)からほど遠いわけではなくむしろ逆に急接近する。
「アレキサンドリアのクレメンスによって伝えられているウァレンティヌスの信条は、人は『われわれが何であり、われわれが何になったか、われわれがどこにいて、われわれはどこに投げこまれているのか、われわれはどのような目標へ向かって急いでおり、われわれはどこから救い出されているのか、誕生とは何か、そして再生とは何か』を学ぶことによって、救いを得ると説いている(ウァレンティヌス派グノーシス文書からの抄録七八、二)」(エリアーデ「世界宗教史4・P.230~231」ちくま学芸文庫)
二〇二〇年の今なお問われて止まない課題を明確化させたといえる内容だ。すなわち「人間はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか」。
「グノーシス派によって教えられた救いを得るための知恵は、とくに『秘密の歴史』(より正確には、イニシエーションを経ていない者には明かされない歴史)、すなわち世界の起源と創造、悪の源、人間を救うためにこの世に下った聖なる救済者の物語、超越的な神の最終的な勝利ーーー歴史の結末と宇宙の消滅のなかに表現されるであろう勝利ーーーの啓示の内に存在するのである。これはひとつの《全体的な神話》であり、世界の起源から現在にいたるまでのすべての決定的要素を記し、その相互依存を示すことによって、終末が確実であることを保証する」(エリアーデ「世界宗教史4・P.231」ちくま学芸文庫)
ウァレンティヌスの主張は、第一に「真の存在」(霊的存在)は肉体という牢獄に捕われているという点。第二に、誕生するということは物質への堕落であるという点。第三に、肉体化し堕落した霊魂を霊知(グノーシス)によって解放・救済するというドラマである。魂とその牢獄たる肉体という思想はプラトンがすでに提出していた。
「われわれは現在死んでいるのであり、身体(ソーマ)がわれわれの墓(セーマ)なのである」(プラトン「ゴルギアス・P.145」岩波文庫)
しかしウァレンティヌスがグノーシス主義者の中でずば抜けた頭角を現わすのは司教の地位を巡る権力闘争に敗北し、ローマを去ってからである。一三五年から一六〇年にかけてウァレンティヌスは神学者として教壇に立っていた。エリアーデは要約することはできないとしながらも次に文章でウァレンティヌスの思想にイエス・キリストの存在が色濃く反映されたものになっていると指摘する。
「ウァレンティヌスによると、父、すなわち絶対的で超越的な第一原理は不可視であり、理解できないものである。父は仲間である思考(エンノケイア)と結合し、ともにプレーローマ〔充満〕を構成することになる十五対のアイオーン〔生ける神的原理〕を生む。最後のアイオーンである知(ソフィア)は、父を知りたいという欲望のために目を曇らされて危機を招き、その結果、悪と情欲があらわれた。プレーローマから突き落とされて、ソフィアとそれがひき起こした常軌を逸した被造物は、劣った知恵(サジェス)を生んだ。そのうえに、キリストと伴侶の女性としての聖霊という新しいカップルが創造された。最後に、プレーローマは最初の完全性を回復して、イエスともよばれる救世主を生む。救世主は低次の領域に下って、より低次の知恵から生じた質料的な要素で『目に見えない物質』を形成し、心的な要素で造物主、すなわち『創世記』の神を造る。『創世記』の神は高次の世界の存在を何も知らず、自分自身を唯一の神であると考えているのである。彼は物質世界を創造し、息でそれに生気を与え、『質料的な人間』と『心魂的な人間』という二種類の人間を形成する。しかし、霊的な要素はより高次の知から生まれて、造物主に知られずにその息のなかに入りこみ、『霊的存在』の階級を生むのである。物質に捕らわれたこれらの霊的な分子を救うために、キリストはこの世に降臨し、厳密な意味では受肉することなく解放をもたらす知識を示す。このように、霊的存在《だけが》霊知(グノーシス)によって覚醒され、父のもとへ昇っていく」(エリアーデ「世界宗教史4・P.239」ちくま学芸文庫)
ウァレンティウスはグノーシス主義の練り上げにあたってユダヤ教のヤハウェよりもキリスト教のイエスをモデルとしたのである。その点で、プラトンのような二元論とはやや色合いの異なるものになっていく。絶対主義的霊的存在とでもいうべきものがグノーシス主義(霊知による救済)と結びつくのである。また、グノーシス主義が取り入れた教義の中でも大きなものに「記憶喪失、睡眠、酩酊、昏睡、捕囚、堕落、郷愁」の顕著な否定が上げられる。
「イメージとして好まれたものに、無知や死と同一視される眠りがある。グノーシス派は、人は眠るだけでなく、眠ることを好んでいると主張している。『ギンザ』は、『なぜあなたはいつも眠ることを好み、罪を犯すものとともに罪を犯すのか』という問いを発している」(エリアーデ「世界宗教史4・P.244」ちくま学芸文庫)
ところが実のところ、このような箇所は新約聖書に載っている部分をそのまま借用したものだ。
「わたしはあなた達に言うことをすべての人に言う、『目を覚ましておれ』と」(「新約聖書・マルコ福音書・第十三章・P.55」岩波文庫)
「たえず目を覚(さ)ましておれ」(「新約聖書・マタイ福音書・第二十四章・P.149」岩波文庫)
なぜ反-記憶喪失、反-睡眠なのか。また捕囚(捕われの身)は自分から自分自身のアイデンティティが失われた状態=睡眠の隠喩である。だから反-捕囚と主張する。
「これらのイメージーーー無知、記憶喪失、捕われの身、眠り、酩酊ーーーの大半は、グノーシス派の教えにおいては、《精神的な死》を意味する隠喩なのである。霊知(グノーシス)は《真の》生、すなわち救済と不死を授けるものなのである」(エリアーデ「世界宗教史4・P.246」ちくま学芸文庫)
グノーシス主義者にとって「記憶喪失、睡眠、酩酊、昏睡、捕囚、堕落、郷愁」は「《精神的な死》を意味する隠喩」と見なされるわけだ。では、聖書にあるイエスの言葉「目を覚ましておれ」、あるいはグノーシスにおける《精神的な死》の逆を目指すとは何のことなのか。要するに常に覚醒していることが大事だというのである。寝たり起きたりということではなくて、精神的な次元でいつも覚醒した状態を保ち、澄み切った緊張のうちに自分自身を律することが大事だという考え方だ。
ところがこういった「無知、記憶喪失、捕われの身、眠り、酩酊」を否定する態度は、霊知(グノーシス)の神秘性にもかかわらず極めて現実的な歴史性を宗教の名において大々的に補完するただ単なる政治的装置の役割をも果たす。それは惰性的歴史を延長させはするが新しく創造することはしない。だからニーチェは「反歴史的」な態度で新しく創造の事業に携わるために、キリスト=グノーシス的傾向に対してあえて「忘却の力」の必要性を説く。
「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・第二篇・P.127~128」ちくま学芸文庫)
そうでなくては新しい現実を慎重にアレンジして創造の事業を押し進めることは実質的に不可能だからである。キリスト教の聖書の中でもイエスの発言として、いったん与えられた所与の生活諸条件が「一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消(き)え失(う)せない」とある。イエスが用いるの無花果(いちじく)の比喩である。
「無花果(いちじく)の木で、枝がすでに柔(やわ)らかになって葉が出ると、夏が近いと知る。ーーーわたしは言う、これらのことが一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消(き)え失(う)せない」(「新約聖書・マルコ福音書・第十三章・P.54」岩波文庫)
「無花果(いちじく)の木で、枝がすでに柔(やわ)らかになって葉が出ると、夏が近いと知る。ーーーわたしは言う、これらのことが一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消(き)え失(う)せない」(「新約聖書・マタイ福音書・第二十四章・P.148~149」岩波文庫)
「無花果(いちじく)の木をはじめ、すべての木を見なさい。すでに芽(め)が出ると、それを見て、ひとりでにはや夏が近いと知る。ーーーわたしは言う、これらのことが一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消(き)え失(う)せない」「新約聖書・ルカ福音書・第二十一章・P.259」岩波文庫)
聖書にあるイエスの言葉とダイレクトに響き合うのはヘーゲルによるヘーゲル弁証法の規定だろう。
「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・P.246~247」岩波文庫)
さらに。
「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・P.248~249」岩波文庫)
すべての樹木はもちろんのこと、欧米や中東でなくても日本のように四季折々の情景の反復から人間が身に付けるのは、一度動き出したものはすべて周期的に自分で自分自身をすっかり展開させずにはおかず、なおかつ全面的に展開させなくては次の段階に入っていくことはできないという認識である。そしてヘーゲル弁証法に備わっている可能性を最大限まで引き出したマルクスもまたこう語っている。
「一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない」(マルクス「序言」『経済学批判・P.14』岩波文庫)
マルクスの言葉の中には明らかに終末論的響きがある。「或る社会の終わりが新しい社会の始まりを意味する」という認識が。だからといってマルクスの場合、ヘーゲルのいう「ミネルヴァの梟(ふくろう)の飛翔」(歴史の終わり)においてキリスト教によって全人類が祝福されるといったありふれた統合論とは異なる。終末がやってきて新しい救世主(メシア)が登場するなどとは一言も言っていない。むしろマルクスは、終末論や救世主待望論が騒々しく世論を席巻するようなときこそ、あえて位置を変えてみること(移動の力/力の移動)の必要性を強調している。
「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)
ネルヴァルもまた大都会の中で様々な世界を、時代を超越して彷徨し見聞する。
「私は、非常に住民の多いそして未知の或る都の街路を彷徨していた。都には丘が起伏し、人家に埋まった一つの山が之を見下ろしているのを認めた。この首都の市民の中に、特別な国民に属しているように見える或る人々が見分けられた。彼等のきびきびした断乎たる様子、顔立ちの力強い調子は、私に、山国とか或いは外国人の余り訪れぬ或る島々の、独立自尊の好戦的民族を想わせた。しかしながら、今彼等は大都会の只中、混然として区別のない住民の只中で、かくの如く能く己が猛々しい個性を失わずにいるのである。一体これ等の人は何者であろう?」(ネルヴァル「オーレリア・P.23」岩波文庫)
ネット社会の世界化によって一九七〇年代型の高度経済成長は「もう発展の余地がないほどに発展」し、さらなるネット社会大規模化の「物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわ」ったと言うことはもはや十分にできる。だがネット社会は結果である。結果はいつも原因を覆い隠す。結果の出現に至ったすべての過程の多様性をともすれば実にしばしば忘れさせてしまう。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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