白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部21

2020年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム
ネルヴァルは改めていう。ライン河の畔りにかつて存在した叔父の家について。

「私のはいって行った家は、全く未知のものであった。その家は何時の頃にか存在したということと、その時訪れたこの世界では、事物の幻が身体の幻に伴っているということを、私は覚った」(ネルヴァル「オーレリア・P.19」岩波文庫)

一九八〇年代後半の日本でいっとき流行したポストモダン。その流れの中でほとんど瞬間的に浮き上がり消えていった言葉がある。「精神としての身体」。そのとき、二つの解釈が提出されたようにおもう。一つは言うまでもなく中上健次が描いた「厚み」のある作品群。エロティシズム、身体、死、といった次元を取り扱っていた点で途方もない「厚み」を得ていた。しかしただ単に、エロティシズム、身体、死、といった次元をテーマとしただけでは、その「厚み」が、一体どこへ接続されているがためにこれほどの「厚み」を伴って出現するのか、という問いに答えることはできないし見えてもこない。むしろただ単に、エロティシズム、身体、死、といった次元をテーマとしただけに過ぎない作品なら幾つもある。無数にある。ところがそれが著しく圧倒的な量感を伴って出現するのは極めて稀な場合に限られる。どういう場合かというと、これらの諸要素がとりわけ差別へ接続されて取り上げられる場合である。そしてまたこれらの諸要素は差別と接続される限りで始めて本来的な「厚み」を帯びて立ち現われるのであり、なおかつ差別とともにでなければまだ何ら、エロティシズム、身体、死、といった次元をテーマとした作品を描いたことにはならない。

もう一つはまた別種の解釈。ドゥルーズ=ガタリがアルトーを参照しつつ「器官なき身体」と述べたような意味であって、有機体であることをやめるという態度である。すべてが接続状態にある第一のスピノザ的世界。さらにそこへ情動が導入される第二のスピノザ的世界。そして人間身体は様々な様態を経つつ生成変化していくという第三のスピノザ的世界。強度と物質との絶えざる流動変化という脱コード化する身体についてである。だが「器官なき身体」については何度も述べているので、あえて「エロティシズム、身体、死、差別」の系列について引用しておく必要性がある。というのは、これ以上ネルヴァル「エミリー」を読み進めていくためには避けて通れない手続きにほかならないからだ。

「たとえば、さまよえるユダヤ人やミニョン、約束の異郷、情欲を呼び起す美女、雑婚を想わせるために忌むべきものとして放逐された獣。こういったものが、文明の痛ましい過程をけっして完全には押し進めえなかった文明人の破壊欲を呼び寄せる」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.359」岩波文庫)

ここで「さまよえるユダヤ人やミニョン、約束の異郷、情欲を呼び起す美女、雑婚を想わせるために忌むべきものとして放逐された獣」とある。「エミリー」でデロシュが包帯を解いたとき、顔面に刻み込まれていたものは何だったか。

「額から耳にかけて、斜めに走っている線はーーーそうです!それこそはベルクハイムの戦線でサーベルの一撃を受けた跡でした」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.443』岩波文庫)

一般的に「名誉の負傷」と呼ばれるものだ。たった今あげた系列にデロシュを付け加えることができる。「さまよえるユダヤ人やミニョン、約束の異郷、情欲を呼び起す美女、雑婚を想わせるために忌むべきものとして放逐された獣、顔面に傷跡のある軍人」と。傷跡=痕跡。しかしなぜこれら様々なものを一つの系列として接続することができるのか。要約すると、これらはすべて或る種の「制服」にほかならない。素顔はもはや問題でない。資本主義は素顔を問わない。資本主義が問題にするのはいつも仮面であり、それぞれ個々人の身体を通して配分された仮面の意味と変化とである。大都市の真ん中から始まってどんな地方都市の田舎へ行ってみてもなお裸で歩いている人間がどこにもいなくなったとき、すべては仮面となった。すべてが仮面となった瞬間、裸もまた一つの衣装〔=制服〕でしかなくなった。その証拠にポルノは商品として連日連夜社会の隅々まで激しく流通しているではないか。誰もがいつも何らかの制服をまとったのだ。そしてそれら制服の中でもずば抜けて魅惑的な制服をまとった姿で登場してきたのが彼ら「さまよえるユダヤ人やミニョン、約束の異郷、情欲を呼び起す美女、雑婚を想わせるために忌むべきものとして放逐された獣、顔面に傷跡のある軍人」という系列である。近代とはそういうことでもある。しかし「さまよえるユダヤ人やミニョン、約束の異郷、情欲を呼び起す美女、雑婚を想わせるために忌むべきものとして放逐された獣、顔面に傷跡のある軍人」という系列は常に「異端者」でなければならない。さらにこの異端者性なくして「エロティシズム、身体、死、差別」という系列は何らの「厚み」も持つことはできない。その意味で「エミリー」が提出している諸問題はかなり混み入っていてややこしい。ただ単なる反戦小説というカテゴリーではとてもではないがくくり切れない諸要素が詰まっている。

小説の続きへ戻ろう。予期せず突発した白兵戦の中でデロシュが相手の心臓に銃剣を突き立てて殺傷したことをデロシュ自身がPTSD(心的外傷)として抱えていることについて、アルチュールは医師に「いささか人殺しじみてはいないでしょうか」と問いかけ、医師は「戦争なのだから、仕方がない」と答えたところだった。アルチュールはいう。

「『そうでしょうとも、戦争ですからね。三百歩離れた闇の中で、だれなのかわからない、姿も見えない相手を殺すんです。あるいは向かいあった相手の喉を猛然と掻き切るんだ、別段、憎んでいるわけでもない人々の視線を浴びながらね。そして戦争だから仕方がないと考えて自分を慰め、誇りにさえ思う!そんなことが、キリスト教国の国民同士で、名誉あることとして行われている』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.453』岩波文庫)

アルチュールはキリスト教批判をしているつもりだ。けれども結果的には別のことを支持している。キリスト教国として「名誉ある」国家の態度を取ろうではないか、というお説教でしかない。むしろこの戦争に関し、どこからも非難されないような新しい宗教的立場はないのかという「虫のいい」絶叫であるともいえる。もっとも、近代的戦争の形が不可避的に生み出した新しい問いを投げかけてはいる。このアルチュールの憤怒はどこから来ているかといえば、本来的なキリスト教徒として立派に見られるとともに、周囲に恥じないで済むような、世間一般で堂々と通用する新しい仮面が手元にないことに対する個人的「いらだち」からに過ぎない。しかし他方、なるほどアルチュールの個人的「いらだち」とはいえ、アルチュールの置かれた立場から生じる絶叫は当時に出現した様々な立場あるいは意志表示を通して表明されていたことは確かだ。その意味でアルチュールの「いらだち」は《個別的》であるにもかかわらず一般大衆の間でそうとう広がっていた《一般的》「いらだち」でもある。迷い、罵り合い、分裂するほかない市民社会。どういうことか。

「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)

その意味で、一九二九年アメリカ大恐慌後に大量発生した「ロスト・ジェネレーション」に近い。日本では一九九〇年代半ばから二〇二〇年の今に至るまでもはや不治の病の様相を呈しているわけだが。それだけを取り上げてみてもネルヴァルの精神錯乱を説明するに十分な状況だったろう。このような状況が前もって与えられている場合、ダブルバインド的な症例として改めて論じ直さねばならない。それはもう少し後のシーンで、別の人物の姿でもっと顕著に現われてくる。そのときに述べたい。ここでは注目すべきこととして、むしろネルヴァルはこの実際の戦闘が「地下壕」で起こったという事実に、よりいっそう深い関心を寄せた形跡が見られはしないだろうか、という点について述べる必要性があろう。事実の小説化にあたって夢と幻想という手法を取っていることはあらかじめ了承済みである。その上で、人間の意識に上ってこない身体の過程ではこのような暗い闘争が無数に演じられているのではないかという問いがネルヴァルにはある。三十年後にニーチェが全世界に向けてあからさまに問いかけることになる問題の一つなのだが。

ともかく、デロシュにとって抜くに抜けない罪の意識がトラウマとして、「傷跡=痕跡=制服」として、残されていることがデロシュ自身の口から暴露された。その夜、デロシュは窓の景色を眺めながらおもう。

「彼に与えられた小部屋からは、終夜灯で室内の照らされたドラゴン亭の一つの窓が、木々の茂みのあいだに見えたのです。そこには彼の未来がそっくり眠っていました。夜中に巡回や誰何(すいか)の声で起こされたとき、たとえ危急の際でも昔のように勇気凛々として全身を燃え立たせることはもうできまい、どうしても心残りや恐れが混じってしまうだろう」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.453』岩波文庫)

婚約相手であるエミリーとその母とが安心してぐっすり眠っている部屋が見える。ところで二人の婚約が決まって数日した或る日、エミリーの兄ヴィレルムは夕方の食堂で軍人たちにからかわれているうちに声を荒げた様子できっぱり言いきる。

「『何度もいいますが、私はアグノー生まれで、あそこは十年前まではドイツの町だったのが、いまではフランスの町になっているのです。でも私がドイツ人であることに変わりはありません。もしあなたの国がいつかドイツ人のものになっても、あなたが死ぬまでフランス人であり続けるように』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.461』岩波文庫)

史実をいえば、アグノーはドイツではなくフランス領。ほんの一時ドイツ領になったことはあった。しかし問題はそういうことではない。フランスとドイツとのあいだで百年以上に渡って生じた飽くなき闘争が物語っていることは、世界から国境線というものの確実性が失われてきたということだ。失われつつあるからこそ、両者ともどもアイデンティティというものがなおさら厳重に問われる事態を生じさせたのである。ライン河を挟んで両極に対立することで、両者ともに形式だけでもアイデンティティを保持する格好にはなる。この傾向はナチス時代のドイツで徹底的な身体検査や身元確認あるいは何度も繰り返し執拗に執り行われる忠誠の儀式などを通して頂点を迎えることになったが、それはまだもっと先のことであり、ナポレオン体制以降も延々と続いていく。というより、ナポレオンこそが自由貿易を達成したのであり、したがって資本主義を全世界に押し広げることで、ありとあらゆるものを商品化し流通させ交換可能にすることで地上に存在する何もかもを置き換え可能にし、よりいっそうアイデンティティの喪失を加速させることを可能にした。十九世紀いっぱいを通して、欧米では、アイデンティティというものはほとんど消滅したに等しい。

「エミリー」に戻ろう。エミリーの兄、だからデロシュの義兄ヴィレルムはさらに、戦時にもかかわらず事務方に回されていることについて弁解しなくてはならないような立場に置かれている。

「『目に問題があり除隊になったのです。手っ取り早くいえば近視なのです』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.459』岩波文庫)

しかしなぜ目なのか。去勢の問題を見ることは安易に過ぎるかもしれない。ところが戦時には、少なくとも写真が残っている近代戦争ではそうだが、去勢はたいへん重大な問題になっている。それは「敵の首級を上げる」というように、制圧することと制圧されることとへ二分割して考えられていることとけっして無関係ではないだろう。極端な場合、すでに勝利が決した後もなお敵軍の兵士の首だけをわざわざ刀剣で誇らしげに斬首したりするのはどうしてなのか。なぜ戦時中は去勢が問題になるのか。なぜ男根でなければならず眼でなければならないのか。その本当の理由は誰も知らない。もっとも、フロイトはこの問いに最も近くまで接近したが、問題を逆に家族レベルへ還元してしまい、資本主義の脱コード化と国家の条里化というより高次の問題から目を外らせる方向へ加担することになった。

さて、冷やかされて激昂したヴィレルムはさらに主張する。

「『父はプロイセン軍の軍曹でした。今日ではあなたがたが占領しているこの土地を長いあいだ守っていたのです。そのあげく、ビッチェ要塞の最後の攻撃の際に戦死しました』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.462』岩波文庫)

この発言は極めて重要だ。ネルヴァルが選んだ夢と幻想という方法の有効性はこういうところで見ることができる。ニーチェはいう。

「《激しい変化のきざし》。ーーーながく忘れていた人たちや故人のことを夢に見るのは、自身の内部にすでに激しい変化を経験し、生活の地盤が完全に掘り返されたことのしるしである。つまり、そのとき死者がよみがえり、われわれの古代であったものが現代となる」ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・三六〇・P.237」ちくま学芸文庫)

しかし夢と幻想という方法で「死者がよみがえ」るとしてもなお「生活の地盤が完全に掘り返された」ことを認識するためにはもう一手間かかるのである。ネルヴァルは知ってか知らずか、そのために必要な操作、反復を用いる。
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なお、放送直後から問題視された日曜日のNHK報道番組について。アメリカでの黒人デモについての解説が、解説を利用する形で、むしろ黒人差別を助長するものになっているとの指摘を受けNHKは謝罪したらしい。問題とされた放送はたまたま見ていたので記憶している。いろいろ上げることはできる。しかしスペースの都合上、最も気になったことを一つだけ指摘しておく。在米支局長クラスのNHK職員による現地報告の中で、今回の黒人のデモについて白人に感想を尋ねたところ「白人なら警察官からあのような取り扱いを受けたとしてもデモを行ったりはしない」と「理性的な意見が聞かれた」と発言していた部分。「白人なら警察官からあのような取り扱いを受けたとしてもデモを行ったりはしない」という発言はアメリカ在住の任意の白人の一人の発言だろう。ところが「理性的な意見が聞かれた」というのは在米支局長クラスのNHK職員による発言である。「理性的な」という価値判断はNHKの、それも在米支局長クラスの正式な職員によるものであった。極めて重大な偏見に満ちた差別問題であると考える。日本を代表するマスコミの一つであるだけでなく在米支局長クラスの正式な職員が、視聴者には誰ともわからない白人の意見の側を「理性的」と明確に判断して平然とした様子で放送に及んだ点。では、デモを行っている黒人は「理性的でない」、むしろ「狂気である」とNHK職員自ら判断しているに等しい。現在のNHK上層部が価値判断を行う場合、「白人=理性的」、「黒人(非白人)=非理性的あるいは狂気」という判断基準が紛れ込んでいるかすでに定着している印象が明白であり、「NHKにはありがちな偏見だから」では済まされないかなりのショックを受けた。さらに現在のNHKの海外支局長クラスが常日頃からどのような人々とばかり付き合い、どのような人々とは付き合っていないか、よく見えたと思われる。ちなみにこのような方法で「理性的でない」と判断された人々がどんどん絶滅収容所や精神病院へ送り込まれ死に追いやられた実例はナチスのドイツならびにスターリンのロシアにおいてすでに一度発生している。どんな歴史教科書にも載っている。さらに言い換えれば「デモする人間=狂人」という偏見も成立するわけで、だから例えば今の香港で民主化要求している「デモする人間」は「頭がどうかしている」とでも言いたいのだろうか。現在のNHKはもはや自浄作用さえ失っているのかもしれない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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