白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部10

2020年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム
主人公とシルヴィの二人はシャーリの「いくつも池がある辺りの端」まで歩いてきた。そこにはかつてアドリエンヌが寄宿生として入った「聖S修道院」がある。主人公は年少時代に村の子供たちがよく歌った歌を歌ってほしいという。ところがシルヴィはもはや子どもではない。女工の中でもとりわけ模範的労働者として毎日仕事に出ている身だ。さらにもともと学問に関心がなかったわけではなかったこともあるため、パリで流行りのオペラの一節を口ずさんで見せる。主人公は思わず動転する。 

「シルヴィは現代のオペラの堂々たるアリアを少しばかり口ずさんでみせたーーー。それも歌手みたいに《抑揚をつけて》」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.257』岩波文庫)

ネルヴァルは「《抑揚をつけて》」という部分を強調している。しかしそれだけが問題なら歌唱の技術面で片付く。けれども肝心の問題は歌唱力ではなくシルヴィの口ずさんだ歌が「現代のオペラ」の一節だった点であり、そのことに注意を向けたい。年少期の主人公にすれば生まれて始めて主人公の目の前にアドリエンヌが出現したのは、そもそも、主人公が住む地域の隣村から祭りに日に訪れた女性としてであり、その身振り仕ぐさが洗練されていた点において女優として映ったからだ。もっとも、女優というのはただ単に劇場に出ている舞台人という意味では全然なく、根本的次元において生活習慣が異なる世界の住人であることを明瞭に示している《他者》だということであり《他者》として出現したことで始めて主人公は性的欲望の内在化と充実とを経験したのである。そうでなかったら主人公はとうの昔にシルヴィに性的欲望を抱いていたに違いない。だが幼少期から顔見知りのシルヴィが相手では性的欲望は出現しない。それはシルヴィに魅力がないわけではなく幼少期から同一の共同体で一緒に暮らしているため《他者》に特有の《他者性》を持たないからである。逆に隣村の少年が始めてシルヴィに出会ったとしたらその少年はたちまちシルヴィのすべてに対して大いなる性的欲望を持ったかもしれない。もっとも、同一地域共同体内部であっても相手が「非行性」あるいは「逸脱性」の体現者であるような場合は例外的に性的魅力を発散する場合が今でも少なくない。ともかく、主人公はシルヴィが口ずさんだ歌の一節が村祭の際に歌われる民謡ではなく「現代のオペラ」だったことに動転した。今頃アドリエンヌは演劇人としてパリの劇場で華々しく活躍しているはずに違いないと主人公はおもう。そしてシルヴィに頼み込む。

「そのときぼくは、記憶に刻みこまれている、シャーリで見たまぼろしのことをつい彼女に話してしまった。アドリエンヌが歌うのを聴いた館の広間でシルヴィを連れて行った。ーーー『ああ!どうか歌ってくれないか!』とぼくは彼女にいった。『きみの懐かしい声をこのドームの下に響かせて、ぼくを苦しめている霊をここから追い払ってほしい。それが神聖な霊であれ、不吉な霊であれ!』」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.258』岩波文庫)

主人公は「ぼくを苦しめている霊をここから追い払ってほしい」とシルヴィに懇願する。シルヴィは幼なじみでもあるので、主人公が精神的不調に常から苦痛を感じていることを知らされている。だから驚きはしない。主人公は自分が抱えている精神的苦痛についてよりいっそう詳細に伝えようとするが、思うようにうまく言葉が見当たらない。

「なぜだか知らないが、平凡な言葉しか出てこない。そうかと思うと小説じみた大げさな文句が飛び出してくる」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.259』岩波文庫)

夢の中では誰しも経験があるに違いない。ここというときに適切な言葉を見つけることができない。そういうとき人間は「寝言」を発して自分で自分自身が夢の中で置かれている状況に対して苦しんでいることが少なくない。ところで、主人公の生活拠点はこの頃すでにパリに移っている。ネルヴァルの実際の人生と重なる部分だが、パリ大学医学部に入学したのち文学を志し十八歳という異例の若年ぶりでゲーテ「ファウスト」第一部を翻訳出版している。さらにこの翻訳はパリの文芸評論家からそこそこ高い評価を得た。だから俊才ネルヴァルの分身たる主人公が言葉につまるということはシルヴィにとってかえって意外に思える。もっと豊穣な言葉が「あふれ出すか」と期待したにもかかわらず主人公の言葉はしばしば「途切れる」。シルヴィはそれを「いぶかしく思う」。

「彼女としてはあふれ出すかに見えたぼくの言葉が途切れるたびにいぶかしく思う」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.259』岩波文庫)

期待している言葉の流れが目の前で差し支えて座礁している。あるはずの「落ち」がいつまで経っても出てこない。シルヴィにすれば期待外れ以上の事態が発生している。シルヴィは文脈にしたがって出てくるに違いない言葉の流れを今か今かと待っている。或る一定した乱れのない文脈の連続性を信じている。だが主人公は思わず知らずのうちに他の文脈の中へ素早く身を移している。すると両者のあいだでは或るコード(基準)と別のコード(基準)とが齟齬を起こすことになる。それが表面化すると、たとえば日本でいう「漫才」になる。ベイトソンはその仕組みについてこう述べた。

「2《ユーモア》。ユーモアとは、思考や関係の奥に秘められたテーマの探索に関わるものであるようだ。その際、異なった論理レベル、または異なったコミュニケーション・モードをひとつに圧縮したメッセージを用いるというのが、ユーモアの方法である。比喩のはずだったメッセージが突然字句通りの意味において捉えられるとき、または字句通りの意味のはずだったものに突然比喩としての意味が生じるとき、ひとつの発見が起こる。このときーーーすなわちコミュニケーション様式のラベルづけが解体し、再統合されるときーーーがユーモアの沸き上がる瞬間だといえる。笑いを呼ぶ『オチ』の台詞というのは、応々にして、それまでメッセージを特定のモードに帰属させていたシグナル(コレハ字句通リノ言葉ダ、コレハ空想ダ、等)の裏をかいて、それを別様に解釈することを迫る。つまり笑わせる言葉というのは、それまでモードの分類に携わっていた高次の論理階型のメッセージを、なんらかのモードの《中に》引き入れる、という奇妙なはたらきをする」(ベイトソン「精神の生態学・精神分裂病の理論化に向けて・P.290~291」新思索社)

ベイトソンのいう「比喩のはずだったメッセージが突然字句通りの意味において捉えられる」というのはどのような場合だろうか。たとえば、或る人が田山花袋「蒲団」を想定して他の人に向かって「蒲団」を持ってきてほしいと言ったとする。頼まれた人はまさか小説作品「蒲団」のことだとは夢にも思わずごく普通に寝るための蒲団を持ってくる。そこに「笑い」が起こる。一方の思っているコード(文脈)と他方の思っているコード(文脈)とのあいだで生じる齟齬がこの種のユーモアを発生させるという仕組みだ。ところで主人公は、「現代のオペラ」、「アドリエンヌ」、「劇場」、「オーレリー」(女優)、と瞬時に連結された世界のうちに移っている。

「そのとき、まったく別の考えが浮かんだ。ーーーいつもなら、劇場にいる時間だーーー。オーレリー(それが女優の名前だった)は今夜はいったい、何の役だろう?」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.260』岩波文庫)

だからといって、主人公の連想は特に破綻しているようには思われない。むしろ二〇二〇年の日本の電車内で聞こえてくる人々の会話があちこちで脈略を欠き、飛んだり跳ねたりしてばかりいることを考えるまでもなく、むしろ現代人の頭の中はネルヴァルの時代よりもっと遥かに複雑怪奇で支離滅裂な連想に取り憑かれ、落ち着きを失っているようにさえ思えなくはないほどだからである。仮面の取り換えに忙殺されるあまり、かえって邪魔になる素顔の消失を加速させようということだろうか。だが人間は、素顔からしてすでに仮面だからこそ後々取り換え可能になるわけだが。ところで、主人公の気持ちを察したシルヴィは、子供時代に村の仲間と一緒に歌った古い歌の一節を口ずさむ。二人のあいだに会話が戻ってくる。

「『古い歌だって、まだちゃんと知ってるんじゃないか』。『あなたがもっとしょっちゅう戻ってきてくれるなら、思い出せる』」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.261』岩波文庫)

だからといって、シルヴィが主人公に恋愛の情を告白していると考えるとしたらそれこそとんでもない勘違いである。シルヴィが語っていることは一六七七年にスピノザが「エチカ」で述べたこととまるで同じだ。

「定理一八 人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。ーーー人間はある物の表象像に刺激されている間は、たとえその物が存在していなくとも、それを現在するものとして観想するであろう、そしてその物の表象像が過去あるいは未来の時間の表象像と結合する限りにおいてでなくては、それを過去あるいは未来のものとして表象しない。だから物の表象像は、単にそれ自体において見れば、それが未来ないし過去の時間に関係したものであろうと現在に関係したものであろうと同じである。言いかえれば身体の状態あるいは感情は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。したがって喜びおよび悲しみの感情は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。

備考一 私がここで物を過去のものとか未来のものとか呼ぶのは、我々がその物によって刺激されたかあるいは刺激されるであろう限りにおいてである。例えば我々がある物を見たかあるいは見るであろう、ある物が我々を活気づけたかあるいは活気づけるであろう、ある物が我々を害したかあるいは害するであろうーーーなどなどの限りにおいて、私はその物を過去のものあるいは未来のものと呼ぶのである。なぜなら、物をそのようなふうに表象する限りにおいて、我々はその物の存在を肯定している。言いかえれば身体はその物の存在を排除するいかなる感情にも刺激されない。したがって身体はその物の表象像によってあたかもその物自身が現在したであろう場合と同じ仕方で刺激される」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一八・備考一・P.187~188」岩波文庫)

主人公がパリから戻ってくるということ。それが一方の「刺激」である。そしてシルヴィはそのときに限り「古い歌」を思い出す。すなわち「人間はある物の表象像に刺激されている間は、たとえその物が存在していなくとも、それを現在するものとして観想するであろう、そしてその物の表象像が過去あるいは未来の時間の表象像と結合する限りにおいてでなくては、それを過去あるいは未来のものとして表象しない」。さらに二人のあいだではすでに情動の動きが現われている。

「定理二二 ある人が我々の愛するものを喜びに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反して、その人が我々の愛するものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば、我々は反対にその人に対して憎しみに刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理二二・P.191」岩波文庫)

ところがこの情動の動きは、主人公にとってよりいっそう激しくますます脈略を喪失していくばかりであり、逆にシルヴィの側はますます冷静沈着な落ち着きを見せる。シルヴィはいう。

「『でも、分別をもたなければね。あなたにはパリで用事があるし、わたしだって仕事がある』」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.261』岩波文庫)

パリ時代の主人公はしばしば劇場で芝居を楽しむ仲間たちの一人でもある。芝居に登場する或る女優についてこう述べている場面がある。

「その姿はまるで、額を星で飾った時の女神たち(ホーライ)が、ヘルクラネウムのフレスコ画の茶色い地に浮かび上がるかのようだった」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.209』岩波文庫)

或る特定の女優だけを取り上げて「ホーライ」に喩えている。ホーライとは何か。ギリシア神話に登場する。

「ゼウスはヘーラーを娶って、ヘーベー、エイレイテュイア、アレースを生んだが、多くの神と人の子の女と交わった。天空(ウラノス)の娘テミスより娘の季節(ホーライ)の女神すなわち平和(エイレーネー)、秩序(エウノミアー)、正義(ディケー)を生み」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.32」岩波文庫)

さらに。

「ゼウスは輝かしいテミスを娶(めと)られた。彼女は季節女神(ホーラ)たち、すなわち、秩序(エウノミア)、正義(デイケ)、咲き匂う平和(エイレネ)を生まれた」(ヘシオドス「神統記・P.112」岩波文庫)

要するに、時間、季節、秩序、自然循環を司る女神たち(複数形)である。同時にすでに農耕生活が始まっていたことをうかがわせる。ホーライ(季節女神たち)は女性の生理から時間割、さらに社会秩序すなわち労働の配分を差配する役目を担っている。

だから主人公にとって何年も前から置き換え可能になっている「シルヴィ」、「アドリエンヌ」、「オーレリー」の系列において、シルヴィが「分別」と言い、同時に「あなたにはパリで用事があるし、わたしだって仕事がある」と秩序の女神然として振る舞うのは何ら不思議でもなんでもない。それぞれの女性はなるほど「シルヴィ」、「アドリエンヌ」、「オーレリー」、として個別的に分割されてはいる。にもかかわらず同時に流動し生成変化する「力への意志」としては一貫した強度として実在する。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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