主人公の皇帝ネロ化と同時にネルヴァルの皇帝ネロ化を描いてみせたところでいったん区切りを付け、アレクサンドル・デュマに判断を仰ぎたいとする書簡はほぼ終わる。しかしネルヴァルは後々の評論家からの指摘を待つまでもなくこの創作について「ほかならぬ自分自身の物語を綴っているのである」という自覚がある。
「ほかならぬ自分自身の物語を綴っているのであると確信するやいなや、私はわが夢、わが感情のすべてを表現しにかかり、運命の夜の中に私一人を捨てていった逃げ去る《星》への恋に胸を打たれ、涙を流し、眠りのもたらす虚しい幻におののいたのでした」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.32~33』岩波文庫)
ネルヴァルが「逃げ去る《星》への恋」と述べている箇所の「《星》」については後で簡略に述べるとして、書簡の中で付け加えている「『冥府下り』の物語」についてもう少し触れておきたいとおもう。ネルヴァルにとって「夢、幻想、人生」はそう簡単に切り離して語るわけには到底できないものであって、とりわけ「『冥府下り』の物語」はいかなる小説家にとっても避けて通るわけにはいかない重大問題であるという深い認識がある。だからといってあたかも指導者の身振りで他の小説家にもそういう方向を目指すべきだというような傲慢さはまったくない。勝手にすればいいというような突き放した態度もない。どんな創作家も自由に振る舞って当然という意識があるわけだが、しかし、それは読者の目に触れるやいなやいつどこでどんな変容あるいは誤解をこうむることも覚悟の上で言っている自負ゆえにである。
「いつの日か、私はこの『冥府下り』の物語を書くでしょう」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.33』岩波文庫)
この種に属する物語は無数にあるが、その代表的な古典は十九世紀前半すでに決まっていた。今なお比較的手に入れやすいものではホメロス「オデュッセイア」やダンテ「新曲」などが上げられる。そしてそれ以外にはほとんどないか、あるにはあるのだが日本では極めて手に入りにくい状況である。しかし「冥府下り」という点でホメロス「オデュッセイア」は今なお世界随一の座に君臨する。それは世界が紀元前からそれほど変わっていないからではなく、逆に随分変わったということを証拠立てるからでもなく、全然変わっていない領域と随分変わった領域との両方を一挙に見せつける驚くべき古典としての意義を有するからだ。
さて、ヘルメスの忠告を聞き入れて魔女キルケを制したオデュッセウス。おどろおどろしい魔薬を調合して世の男たちを豚に変えたりベッドに誘い籠絡してもてあそんでいたキルケだが、そもそもキルケはおどろおどろしさにもかかわらずドラマや映画に出てくるような老婆でもなんでもなく「世にも美しい女神」である。憑き物が落ちたからというのではなく始めから「世にも美しい女神」だ。女神にもいろいろいると言ってしまえばそれまでのことだが、オデュッセウスに完膚なきまで敗北を喫してしまったキルケはもはや「世にも美しい女神」としてしかほとんど出る幕がない。それでも神々のうちの一人ではある。そして神々しか知らない「冥府行」の方法をオデュッセウスに教えて送り出す。「冥府行」の場面でオデュッセウスが始めに出会うのはかつての部下エルペノル。次にオデュッセウスの母アンティクレイアである。アンティクレイアはいう。
「『人間はひとたび死ねば、こうなるのが定法なのです。もはや肉と骨とを繋ぎとめる筋もなく、命の力が白い骨を離れるやいなや、これらのものは燃えさかる火に焼き尽され、魂は夢の如く飛び去って、ひらひらと虚空(こくう)を舞うばかり。さあ、そなたは急いで一刻も早く光ある世界へお帰り、そして後になってそなたの妻に語り聞かせることのできるよう、ここの一切を見知っておきなさい』」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十一歌・P.287」岩波文庫)
アンティクレイアが語っているのは、人間が解体するとはどういうことか、でなくてはならない。言い換えれば、人間は生きているうちはなるほど一つの身体のうちに固まっているように見えているけれども、魂=強度を失うと同時にいともたやすく支離滅裂になり、ばらばらに解体して「虚空(こくう)を舞うばかり」であると。そして人間にとって冥府とはそのような世界だというわけである。フロイトのいう「エス」に近い。
「比喩をもってエスのことを言い現わそうとするなら、エスは混沌(こんとん)、沸き立つ興奮に充ちた釜(かま)なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるのかはわれわれにはわからないのです。エスはもろもろの欲動から来るエネルギーで充満してはいます。しかしエスはいかなる組織をも持たず、いかなる全体的意志をも示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。そこには反対の動きが並び存していて、互いに差し引きゼロになったり、互いに譲り合ったりすることなく、せいぜいそれらは支配的な経済的強制のもとでエネルギーを放出させようとして妥協しているだけです。ーーーエスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。すなわち時の経過というものは承認されません。そして、これはきわめて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。エスの境界線を決してふみ越えることのなかった願望興奮や、同時にまた抑圧によってエスの中へ沈められてしまった諸印象は、潜在的には不死であって、数十年経った後でもまるで新たに生じたかのような状態にあるのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.290~291」新潮文庫)
続いて、テュロ、アンティオペ、アンピトリュオンの妻アルクメネ、メガレ(メガラ)、オイディポデス(オイディプス)の母エピカステ、クロリス、レデ(レダ)、イピメデイア、パイドレ(パイドラ)、プロクリス、アリアドネ、マイラ、クリュメネ、エリピュレ、アルキノオス、アガメムノン、アキレウス、パトロクレス(パトロクロス)、アンティロコス、タンタロス、シシュポス、ヘラクレスなどに会う。さらにアイアスにも再会する。当然ながらアイアスとの再会場面は苦い。かつて戦士として戦い合いオデュッセウスが勝利した相手なのだが、その勝敗にはあらかじめオデュッセウスが勝利するよう女神アテネが仕組んだ罠があったからである。ソポクレスは書いている。
「アテナ それはこのわたしがしたこと、破滅を喜ぶその思いを阻んだのは。容易に振り払うことのできない妄想をその眼に投げ込んで、羊の群れの方に、そしてまたまだ分配のすまぬままに番人たちが見張りをしている家畜の群れに向かうように、わたしが彼をそらせてしまったのです。するとあの男はその中に踊り込み、角もつ獣に斬りかかり、手当り次第に裂き殺す。しかもある時は、わが手に捕え殺したのは、獣ではなくアトレウスの子の二人の王であると信じ、またある時は他の将を襲って殺したつもりでいた。そこでこの狂気に苦しむ男を駆りたてて、わたしは運命の網の中に投げこんでいった。その後、この仕事にひと息ついたあとで、あの男はまた生き残った牛や羊を一匹残らずしばり合わせ、自分の家の方に連れて行く、それも自分では立派な角のある動物ではなく、人間を駆りたてているつもりで。そして今、家の中でこれらをしばったまま傷めつけているのです。さあお前にも、この狂乱の有様をはっきりと見せてあげよう。これを見てアルゴスの皆の人に告げるがよい。しっかりして、そのままじっとしていることです。この男からの危害をおそれることもない。わたしがその眼差をそらして、お前を見えないようにしてあげようから」(ソポクレス「アイアス」『ギリシア悲劇2・P.12~13』ちくま文庫)
こうもいう。
「アテナ 敵をあざ笑うてやるほど気持のよい笑いはありますまいに」(ソポクレス「アイアス」『ギリシア悲劇2・P.14』ちくま文庫)
すでに自殺して果てたアイアスでしかないが、オデュッセウスは語る。
「判者はトロイエ人の子らとパラス・アテネとであった」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十一歌・P.303」岩波文庫)
だからアテネは女神の持つ特権的力を用いてアイアスを狂気に陥れただけでなく競技の審判員としても登場している。そのためアイアスはさらに逆上してますます深く狂気へのめり込んでいってしまったわけだが。ともかく、自殺して果てたアイアスにオデュッセウスはいう。
「『無双の勇士テラモンの子アイアスよ、おぬしは死後もなお、かの呪うべき武具ゆえの怒りを忘れようとはしてくれぬのか。あの武具は神々が、アルゴス勢に禍いたれと設けられたものに相違ない』」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十一歌・P.303」岩波文庫)
ここでニーチェが問題にしている「神々と罪」というテーマがまたもや出てくる。またオデュッセウスは一連の試煉の旅の最後で本当に生きて帰ってきたオデュッセウスかどうか妻(ペーネロペー=ペネロペイア)にまで疑われる場面があるけれども、そこでも問題の所在は「神々」抜きに語ることはできない。まず第一に結婚した時の事情は次の通り。
「ペーネロペーが求婚者たちにオデュセウスがかつてイーピトスよりもらった弓を持って来て、これを引いた者と結婚すると言った。誰も引き得なかった時に、オデュセウスはこれを受取り、エウマイオス、ピロイティオス、テーレマコスとともに求婚者どもを射殪した」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.209」岩波文庫)
なぜ「弓」なのかという点でどこか男根自慢の匂いがしなくもないが、それはまた別の話としておく。だが、オデュッセウスが長い旅を終えて帰ってきたときすでに何年も経っていたからというだけでペネロペイアは疑ったわけではない。ペネロペイアから見てオデュッセウスが本物かどうか疑ったのはオデュッセウスが国境線を越えるために知略を働かせ乞食姿に変装していてわからなかったからである。そこで有名なエピソードだが、オデュッセウスは二人しか知らない秘密について大いに語って見せる。要するに夫婦しか知らないベッドの様相についてこれでもかと語った。それでようやくペネロペイアはオデュッセウスが本物の夫であると認めた。しかし肝心の問題はペネロペイアの言葉にある。
「『オデュッセウス、お願いだから怒らないで頂戴、あなたは何事につけても、誰より聡明な方ですもの。わたしら二人が離れずに青春を楽しみ、老いの閾(しきい)に行き着くのを、快く思われなかった神様方が、こんな苦難を授けられたのです』」(ホメロス「オデュッセイア・下・第二十三歌・P.289」岩波文庫)
ここでもまた「快く思われなかった神様方が、こんな苦難を授けられた」とある。女神アテネの場合、アイアスを狂気に陥れただけでなく競技の審判員としても登場しアイアスを自殺に追い込む。ニーチェはいう。
「『愚かさ』・『無分別』・少しばかりの『頭の狂い』、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として《許した》ーーー愚かさであって、罪では《ない》のだ!諸君にはそれがわかるかーーーしかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーーー『そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。《われわれ》高貴な素性(すじょう)の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?』ーーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。『きっと《神》が瞞(だま)したのに違いない』とついに彼は頭を振りながら自分に言ったーーーこの遁辞はギリシア人にとって《典型的なもの》だーーーこのように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろ《より高貴なもの》を、すなわち罪を身に引き受けたのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.113」岩波文庫)
暴虐非道極まりない神々だがそれでもなお古代の神々は「罪を身に引き受け」ていた。十九世紀末、ニーチェは「神の死」を宣告した。近現代の神々(多国籍企業複合体、国家的責任者層、高級官僚)はどうだろう。自分たちで新しく法律=「罪と罰の体系」を設定したにもかかわらず、自分たち自身はほとんどまったくといっていいほど「罪も罰も」どちらとも「身に引き受け」ようとはしない。
ちなみに冥府にはティテュオスもいる。
「九プレトロン(約二七〇メートル)にわたって、長々と横たわっている。その両側には二羽の禿鷹がとまり、臓腑の中まで嘴(くちばし)を突込んで、肝臓を食い破っているが、彼は己れの手でこれを防ぐことができぬ。ゼウスの高貴な妃レトが、風光明媚なパノペウスを過ぎて、ピュト(デルポイ)に向かわれる折、彼女に狼藉を働いた報いであった」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十一歌・P.304」岩波文庫)
ティテュオスはなるほど罰を受けている。しかし勘違いしてならないのはレイプされたのが神々の娘だからであって、奴隷や敵軍あるいは人間の女性の場合、何らの関心も示さないばかりか逆に狂喜乱舞しつつ、こみ上げてくる悦びを抑えることもできず天空から観戦しているのが常だ。さらに勘違いしてはならないことは、冥府で罰を受けている人々は「神々に対する傲慢さ」ゆえだとされているけれども、けっしてそうではないという点だろう。なぜなら、シシュポスが受けている罰にしても、神々を恐怖させたのはシシュポスの傲慢さという道徳的な意味でではなく、シシュポスの持つ怪力だからである。もし本当に道徳が問題なら女神アテネが犯している幾つかの所業はなぜ裁かれずに済まされているのか。不可解ではないだろうか。この不可解さにはオデュッセウスもただ絶句したまま。そしてシシュポス以上にさらなる怪力を発揮したヘラクレスは逆に神々から娘を与えられて神々の側に取り込まれようとしている。けれどもヘラクレスの顔色は「ぬばたまの夜の如き暗鬱な面持ち」であって、片時も周囲に油断できない立場に置かれてしまっている。しかし古代ギリシア人には知恵があった。オデュッセウスは神々が与えた数々の試煉を、神の身ではなく人間の身としてかいくぐって生き延びた。オデュッセウスの旅が市民社会の中で古典として定着したのは、ニーチェのいう「神の死」(絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、中心的なものの分散移動、変動相場制)以降、近現代の神々(多国籍企業複合体、国家的責任者層、高級官僚)はもはやただ単なる権力共同体としてしか動かず、ほとんどまったく何らの尊敬にも値しないという認識が世界中に打ち広がったからにほかならない。
さてようやくネルヴァルのいう「逃げ去る《星》への恋」について。
「私は自分で識っている積りの一つの星を、それが私の運命に何等かの影響を持つかのように、空に探し始めた。その星を見つけて、私はそれが見える方向に街路を辿りながら歩みを続けた、謂わば自分の運命に向って進み、そして死が私を襲う瞬間までこの星を見ていたいと思いながら」(ネルヴァル「オーレリア・P.11」岩波文庫)
それを夢と幻想という形を用いて描いていくことがネルヴァルの戦略である。
「私のことを運命の人と呼んでくれたあの芝居一座の美しき『星』(エトワール)を、私はいまなお信じているのです。エトワールとデスタンーーー詩人スカロンの小説の何と愛すべきカップル!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.17』岩波文庫)
ネルヴァルは「エトワールとデスタン」とデュマに述べている。しかし問題は「一人かそれとも二人か」ではない。ネルヴァルは詩人でもある。言うまでもなくネルヴァルは人間の夢と幻想における「二重化」を問題にする。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
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「ほかならぬ自分自身の物語を綴っているのであると確信するやいなや、私はわが夢、わが感情のすべてを表現しにかかり、運命の夜の中に私一人を捨てていった逃げ去る《星》への恋に胸を打たれ、涙を流し、眠りのもたらす虚しい幻におののいたのでした」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.32~33』岩波文庫)
ネルヴァルが「逃げ去る《星》への恋」と述べている箇所の「《星》」については後で簡略に述べるとして、書簡の中で付け加えている「『冥府下り』の物語」についてもう少し触れておきたいとおもう。ネルヴァルにとって「夢、幻想、人生」はそう簡単に切り離して語るわけには到底できないものであって、とりわけ「『冥府下り』の物語」はいかなる小説家にとっても避けて通るわけにはいかない重大問題であるという深い認識がある。だからといってあたかも指導者の身振りで他の小説家にもそういう方向を目指すべきだというような傲慢さはまったくない。勝手にすればいいというような突き放した態度もない。どんな創作家も自由に振る舞って当然という意識があるわけだが、しかし、それは読者の目に触れるやいなやいつどこでどんな変容あるいは誤解をこうむることも覚悟の上で言っている自負ゆえにである。
「いつの日か、私はこの『冥府下り』の物語を書くでしょう」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.33』岩波文庫)
この種に属する物語は無数にあるが、その代表的な古典は十九世紀前半すでに決まっていた。今なお比較的手に入れやすいものではホメロス「オデュッセイア」やダンテ「新曲」などが上げられる。そしてそれ以外にはほとんどないか、あるにはあるのだが日本では極めて手に入りにくい状況である。しかし「冥府下り」という点でホメロス「オデュッセイア」は今なお世界随一の座に君臨する。それは世界が紀元前からそれほど変わっていないからではなく、逆に随分変わったということを証拠立てるからでもなく、全然変わっていない領域と随分変わった領域との両方を一挙に見せつける驚くべき古典としての意義を有するからだ。
さて、ヘルメスの忠告を聞き入れて魔女キルケを制したオデュッセウス。おどろおどろしい魔薬を調合して世の男たちを豚に変えたりベッドに誘い籠絡してもてあそんでいたキルケだが、そもそもキルケはおどろおどろしさにもかかわらずドラマや映画に出てくるような老婆でもなんでもなく「世にも美しい女神」である。憑き物が落ちたからというのではなく始めから「世にも美しい女神」だ。女神にもいろいろいると言ってしまえばそれまでのことだが、オデュッセウスに完膚なきまで敗北を喫してしまったキルケはもはや「世にも美しい女神」としてしかほとんど出る幕がない。それでも神々のうちの一人ではある。そして神々しか知らない「冥府行」の方法をオデュッセウスに教えて送り出す。「冥府行」の場面でオデュッセウスが始めに出会うのはかつての部下エルペノル。次にオデュッセウスの母アンティクレイアである。アンティクレイアはいう。
「『人間はひとたび死ねば、こうなるのが定法なのです。もはや肉と骨とを繋ぎとめる筋もなく、命の力が白い骨を離れるやいなや、これらのものは燃えさかる火に焼き尽され、魂は夢の如く飛び去って、ひらひらと虚空(こくう)を舞うばかり。さあ、そなたは急いで一刻も早く光ある世界へお帰り、そして後になってそなたの妻に語り聞かせることのできるよう、ここの一切を見知っておきなさい』」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十一歌・P.287」岩波文庫)
アンティクレイアが語っているのは、人間が解体するとはどういうことか、でなくてはならない。言い換えれば、人間は生きているうちはなるほど一つの身体のうちに固まっているように見えているけれども、魂=強度を失うと同時にいともたやすく支離滅裂になり、ばらばらに解体して「虚空(こくう)を舞うばかり」であると。そして人間にとって冥府とはそのような世界だというわけである。フロイトのいう「エス」に近い。
「比喩をもってエスのことを言い現わそうとするなら、エスは混沌(こんとん)、沸き立つ興奮に充ちた釜(かま)なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるのかはわれわれにはわからないのです。エスはもろもろの欲動から来るエネルギーで充満してはいます。しかしエスはいかなる組織をも持たず、いかなる全体的意志をも示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。そこには反対の動きが並び存していて、互いに差し引きゼロになったり、互いに譲り合ったりすることなく、せいぜいそれらは支配的な経済的強制のもとでエネルギーを放出させようとして妥協しているだけです。ーーーエスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。すなわち時の経過というものは承認されません。そして、これはきわめて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。エスの境界線を決してふみ越えることのなかった願望興奮や、同時にまた抑圧によってエスの中へ沈められてしまった諸印象は、潜在的には不死であって、数十年経った後でもまるで新たに生じたかのような状態にあるのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.290~291」新潮文庫)
続いて、テュロ、アンティオペ、アンピトリュオンの妻アルクメネ、メガレ(メガラ)、オイディポデス(オイディプス)の母エピカステ、クロリス、レデ(レダ)、イピメデイア、パイドレ(パイドラ)、プロクリス、アリアドネ、マイラ、クリュメネ、エリピュレ、アルキノオス、アガメムノン、アキレウス、パトロクレス(パトロクロス)、アンティロコス、タンタロス、シシュポス、ヘラクレスなどに会う。さらにアイアスにも再会する。当然ながらアイアスとの再会場面は苦い。かつて戦士として戦い合いオデュッセウスが勝利した相手なのだが、その勝敗にはあらかじめオデュッセウスが勝利するよう女神アテネが仕組んだ罠があったからである。ソポクレスは書いている。
「アテナ それはこのわたしがしたこと、破滅を喜ぶその思いを阻んだのは。容易に振り払うことのできない妄想をその眼に投げ込んで、羊の群れの方に、そしてまたまだ分配のすまぬままに番人たちが見張りをしている家畜の群れに向かうように、わたしが彼をそらせてしまったのです。するとあの男はその中に踊り込み、角もつ獣に斬りかかり、手当り次第に裂き殺す。しかもある時は、わが手に捕え殺したのは、獣ではなくアトレウスの子の二人の王であると信じ、またある時は他の将を襲って殺したつもりでいた。そこでこの狂気に苦しむ男を駆りたてて、わたしは運命の網の中に投げこんでいった。その後、この仕事にひと息ついたあとで、あの男はまた生き残った牛や羊を一匹残らずしばり合わせ、自分の家の方に連れて行く、それも自分では立派な角のある動物ではなく、人間を駆りたてているつもりで。そして今、家の中でこれらをしばったまま傷めつけているのです。さあお前にも、この狂乱の有様をはっきりと見せてあげよう。これを見てアルゴスの皆の人に告げるがよい。しっかりして、そのままじっとしていることです。この男からの危害をおそれることもない。わたしがその眼差をそらして、お前を見えないようにしてあげようから」(ソポクレス「アイアス」『ギリシア悲劇2・P.12~13』ちくま文庫)
こうもいう。
「アテナ 敵をあざ笑うてやるほど気持のよい笑いはありますまいに」(ソポクレス「アイアス」『ギリシア悲劇2・P.14』ちくま文庫)
すでに自殺して果てたアイアスでしかないが、オデュッセウスは語る。
「判者はトロイエ人の子らとパラス・アテネとであった」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十一歌・P.303」岩波文庫)
だからアテネは女神の持つ特権的力を用いてアイアスを狂気に陥れただけでなく競技の審判員としても登場している。そのためアイアスはさらに逆上してますます深く狂気へのめり込んでいってしまったわけだが。ともかく、自殺して果てたアイアスにオデュッセウスはいう。
「『無双の勇士テラモンの子アイアスよ、おぬしは死後もなお、かの呪うべき武具ゆえの怒りを忘れようとはしてくれぬのか。あの武具は神々が、アルゴス勢に禍いたれと設けられたものに相違ない』」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十一歌・P.303」岩波文庫)
ここでニーチェが問題にしている「神々と罪」というテーマがまたもや出てくる。またオデュッセウスは一連の試煉の旅の最後で本当に生きて帰ってきたオデュッセウスかどうか妻(ペーネロペー=ペネロペイア)にまで疑われる場面があるけれども、そこでも問題の所在は「神々」抜きに語ることはできない。まず第一に結婚した時の事情は次の通り。
「ペーネロペーが求婚者たちにオデュセウスがかつてイーピトスよりもらった弓を持って来て、これを引いた者と結婚すると言った。誰も引き得なかった時に、オデュセウスはこれを受取り、エウマイオス、ピロイティオス、テーレマコスとともに求婚者どもを射殪した」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.209」岩波文庫)
なぜ「弓」なのかという点でどこか男根自慢の匂いがしなくもないが、それはまた別の話としておく。だが、オデュッセウスが長い旅を終えて帰ってきたときすでに何年も経っていたからというだけでペネロペイアは疑ったわけではない。ペネロペイアから見てオデュッセウスが本物かどうか疑ったのはオデュッセウスが国境線を越えるために知略を働かせ乞食姿に変装していてわからなかったからである。そこで有名なエピソードだが、オデュッセウスは二人しか知らない秘密について大いに語って見せる。要するに夫婦しか知らないベッドの様相についてこれでもかと語った。それでようやくペネロペイアはオデュッセウスが本物の夫であると認めた。しかし肝心の問題はペネロペイアの言葉にある。
「『オデュッセウス、お願いだから怒らないで頂戴、あなたは何事につけても、誰より聡明な方ですもの。わたしら二人が離れずに青春を楽しみ、老いの閾(しきい)に行き着くのを、快く思われなかった神様方が、こんな苦難を授けられたのです』」(ホメロス「オデュッセイア・下・第二十三歌・P.289」岩波文庫)
ここでもまた「快く思われなかった神様方が、こんな苦難を授けられた」とある。女神アテネの場合、アイアスを狂気に陥れただけでなく競技の審判員としても登場しアイアスを自殺に追い込む。ニーチェはいう。
「『愚かさ』・『無分別』・少しばかりの『頭の狂い』、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として《許した》ーーー愚かさであって、罪では《ない》のだ!諸君にはそれがわかるかーーーしかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーーー『そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。《われわれ》高貴な素性(すじょう)の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?』ーーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。『きっと《神》が瞞(だま)したのに違いない』とついに彼は頭を振りながら自分に言ったーーーこの遁辞はギリシア人にとって《典型的なもの》だーーーこのように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろ《より高貴なもの》を、すなわち罪を身に引き受けたのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.113」岩波文庫)
暴虐非道極まりない神々だがそれでもなお古代の神々は「罪を身に引き受け」ていた。十九世紀末、ニーチェは「神の死」を宣告した。近現代の神々(多国籍企業複合体、国家的責任者層、高級官僚)はどうだろう。自分たちで新しく法律=「罪と罰の体系」を設定したにもかかわらず、自分たち自身はほとんどまったくといっていいほど「罪も罰も」どちらとも「身に引き受け」ようとはしない。
ちなみに冥府にはティテュオスもいる。
「九プレトロン(約二七〇メートル)にわたって、長々と横たわっている。その両側には二羽の禿鷹がとまり、臓腑の中まで嘴(くちばし)を突込んで、肝臓を食い破っているが、彼は己れの手でこれを防ぐことができぬ。ゼウスの高貴な妃レトが、風光明媚なパノペウスを過ぎて、ピュト(デルポイ)に向かわれる折、彼女に狼藉を働いた報いであった」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十一歌・P.304」岩波文庫)
ティテュオスはなるほど罰を受けている。しかし勘違いしてならないのはレイプされたのが神々の娘だからであって、奴隷や敵軍あるいは人間の女性の場合、何らの関心も示さないばかりか逆に狂喜乱舞しつつ、こみ上げてくる悦びを抑えることもできず天空から観戦しているのが常だ。さらに勘違いしてはならないことは、冥府で罰を受けている人々は「神々に対する傲慢さ」ゆえだとされているけれども、けっしてそうではないという点だろう。なぜなら、シシュポスが受けている罰にしても、神々を恐怖させたのはシシュポスの傲慢さという道徳的な意味でではなく、シシュポスの持つ怪力だからである。もし本当に道徳が問題なら女神アテネが犯している幾つかの所業はなぜ裁かれずに済まされているのか。不可解ではないだろうか。この不可解さにはオデュッセウスもただ絶句したまま。そしてシシュポス以上にさらなる怪力を発揮したヘラクレスは逆に神々から娘を与えられて神々の側に取り込まれようとしている。けれどもヘラクレスの顔色は「ぬばたまの夜の如き暗鬱な面持ち」であって、片時も周囲に油断できない立場に置かれてしまっている。しかし古代ギリシア人には知恵があった。オデュッセウスは神々が与えた数々の試煉を、神の身ではなく人間の身としてかいくぐって生き延びた。オデュッセウスの旅が市民社会の中で古典として定着したのは、ニーチェのいう「神の死」(絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、中心的なものの分散移動、変動相場制)以降、近現代の神々(多国籍企業複合体、国家的責任者層、高級官僚)はもはやただ単なる権力共同体としてしか動かず、ほとんどまったく何らの尊敬にも値しないという認識が世界中に打ち広がったからにほかならない。
さてようやくネルヴァルのいう「逃げ去る《星》への恋」について。
「私は自分で識っている積りの一つの星を、それが私の運命に何等かの影響を持つかのように、空に探し始めた。その星を見つけて、私はそれが見える方向に街路を辿りながら歩みを続けた、謂わば自分の運命に向って進み、そして死が私を襲う瞬間までこの星を見ていたいと思いながら」(ネルヴァル「オーレリア・P.11」岩波文庫)
それを夢と幻想という形を用いて描いていくことがネルヴァルの戦略である。
「私のことを運命の人と呼んでくれたあの芝居一座の美しき『星』(エトワール)を、私はいまなお信じているのです。エトワールとデスタンーーー詩人スカロンの小説の何と愛すべきカップル!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.17』岩波文庫)
ネルヴァルは「エトワールとデスタン」とデュマに述べている。しかし問題は「一人かそれとも二人か」ではない。ネルヴァルは詩人でもある。言うまでもなくネルヴァルは人間の夢と幻想における「二重化」を問題にする。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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