白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部35

2020年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
カバラに転機が訪れる。スペイン追放という事態。追放にしろ迫害にしろ脱出にしろ、それはユダヤ教徒にとって「選民思想」をよりいっそう高める効果を持つ。もともと「さまよえるユダヤ人」として出発した宗教である。迫害され放浪し続けることこそが、神によって選ばれた民の証拠なのだと考える教義が根付いている。

「一四九二年、ユダヤ教徒がスペインから追放された結果、カバラーにも変化がもたらされた。秘教的教説から民衆的教説への変貌である。一四九二年の大事件までは、カバリストたちは神の救済の業よりも、もっぱら創造の御業に関心を集中していた。世界と人間の歴史を知ることができれば、原初の完成状態に還ることも可能だと考えていたのである。しかるにスペイン追放以後は、救世主待望(メシアニズム)の情熱が新カバラーをあまねく支配するようになる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.272」ちくま学芸文庫)

さて、「魂と輪廻転生」についてさらに。

「ルリアやサフェードのカバリストたちーーーとくにハイム・ヴィタルーーーによって、ギルグル、すなわち魂の輪廻の教説とも結びつけられている」(エリアーデ「世界宗教史5・P.276」ちくま学芸文庫)

ユダヤ人は世界各地に「散在(ディアスポラ)」している。この事情は他の諸宗教にとっても団結と統一とを目指す原動力であり、とりわけ四〇〇〇年に渡って移動民として生きてきたユダヤ教徒にとっては何よりの強みである。

「一五五〇年以降、ギルグルの考えはユダヤ人の民間信仰、宗教民俗のなかに深く組み込まれていくようになっていったーーー。『ルリアのカバラーは散在(ディアスポラ)のユダヤ人のあらゆる地域、あらゆる社会に例外なく甚大な影響を及ぼした、ユダヤ教最後の宗教運動であった。それは、全ユダヤ教徒に共通の宗教的リアリティの世界を表現しえた、ラビ・ユダヤ教の歴史で最後の運動であった。ユダヤ教史の哲学者にとっては、これほどの成果を収めた教説がグノーシス主義と深い親近性を有している事実は、驚くべきことと思えるかもしれない。しかし、歴史の弁証法とはそういうものである』」(エリアーデ「世界宗教史5・P.276」ちくま学芸文庫)

ところが移動民としての強みは移動民であること自体にある。定住してしまうとまた事情はがらりと異なってくる。

「ユダヤ人がその気になるならば、ーーー或いは、反ユダヤ主義者たちが欲しているかのように見えるように、ユダヤ人をそうせずにいられないように強(し)いるならば、ーーーいますぐにもヨーロッパに優勢を占め、いな、全く言葉通りにヨーロッパを支配するように《なりうる》であろうことは確実である。彼らがそれを目差して努力したり計画したりして《いない》ということも同様に確実である。当座のところ、彼らは却って、多少の厚かましさをもってしてでも、ヨーロッパのうちへ、ヨーロッパによって吸い込まれ、吸い上げられることを望み願っている。彼らは結局はどこかに定着し、許容され、是認されて、『永遠のユダヤ人』という流浪生活に終止符を打ちたいと熱望しているのだ。ーーーそれで、この動向と渇望(これは恐らくそれ自体すでにユダヤ的本能の軟弱化を示すものであろう)によく注意して、その意を迎えるようにすべきであろう。そのためには恐らく、この国の反ユダヤ主義の絶叫者どもを追放することが有益であり、正当であろう」(ニーチェ「善悪の彼岸・二五一・P.249」岩波文庫)

なぜニーチェはユダヤ人の軟弱化を見抜くことができるのか。「流浪生活に終止符を打ちたいと熱望している」というのは、或る種の残忍さを享楽する力が衰亡してきたことの証拠に見えるからだ。どんな力か。

「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められているのである」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)

そしてとうとう戦後イスラエルは建国された。しかしそれはまた別の話である。ユダヤ人自身が「散在(ディアスポラ)」しており、なおかつ移動民ゆえに持っていた情報収集力が、カバラにおいても世界中の哲学思想から影響を受け続けた。問題は十九世紀までに発展してきたカバラである。

簡単に言ってしまえば、「魂と輪廻転生」という思想は別段特別なものではなく、逆にどうとでも解釈可能な宗教的特徴の一つである。プラトン哲学から何箇所か上げたように古代ギリシャから延々と議論されてきたテーマであり、それをどう解釈しようが自由であって実際無数の解釈がなされた。しかしここでもまた付いてくるのがグノーシス主義という思想である。グノーシス的なものというのはいつもシャーマニズム的な秘教的=秘儀的なものを伴っていて、それが原始社会の時代から受け継がれたものである点で、なぜ受け継がれなければならない部分なのか、その辺りに関心を持つわけでもある。何ら否定するつもりはないし、さらに言えることは宗教的なものが存在する限り人間はシャーマニズムへの関心を途絶えさせることはなく、むしろ途絶える必要性も感じないということだ。たとえば、グノーシス的なものの中で「二重のソフィア(娘にして花嫁)」という考え方が出てくる。

「本来の意味でのカバラーが述べられている最古の文献は、『バヒール』とよばれる書物である。この文書は不完全な断片的な形で伝えられ、幾層もの資料で構成されている。内容も曖昧でぎこちない。『バヒール』は、十二世紀にプロヴァンス地方で、さらに古い文献を素材に編纂された。とくに『ラーザー・ラッパー』(『大いなる秘義』)は重要で、これは一部の東方(オリエント)の著述家たちが貴重な秘教の書とみなしていたものである。『バヒール』に展開されている教説が、東方ーーーより正確にはグノーシス派ーーー起源であることに疑問の余地はない。ユダヤ教のさまざまな古文献中に確認されている古いグノーシス派著述家たちの思弁が、ここにも見いだされるからである。たとえば、男性および女性のアイオーンたち、プレーローマや魂の樹、グノーシス派の二重のソフィア(娘にして花嫁)に用いられたのと類似の表現で叙述されるシェヒナーなど」(エリアーデ「世界宗教史5・P.266~267」ちくま学芸文庫)

ソフィアは知恵を意味すると同時に聖性をも意味する。さらにソフィアは女性だが自分一人だけで娘を生んだ。なので「二重のソフィア(娘にして花嫁)」。くだけた言葉で言えば、聖性あるいは神性がソフィアの体内に侵入しソフィアを孕ませたと考えることができる。この傾向を見ていると、神話時代から戦前に至るまでヨーロッパだけでなく中央アジア、東南アジア、そして日本にもあった「初夜権」を思い出させないだろうか。折口信夫と南方熊楠から引用したい。まず折口信夫から。というのは、折口の側は「神、まれびと、神の嫁、巫女、斎女王」などの語彙に見られるように、神と女性との性行為について主として神性の流動性や女性の変化を中心に述べているからである。

「新嘗の夜は、農作を守った神を家々に迎える為、家人はすっかり出払うて、唯一人その家々の処女か、主婦かが留って神のお世話をした様である。此神は、古くは田畠の神ではなく、春のはじめに村を訪れて、一年間の豫祝をして行った神だったらしい。此《まれびと》なる神たちは、私どもの祖先の、海岸を逐うて移った時代から持ち越して、後には天上から来臨すると考え、更に地上のある地域からも来る事と思う様に変って来た」(折口信夫「古代生活の研究」『折口信夫全集2・P34』中公文庫)

「祖先崇拝の形の整う原因は、暗面から見れば、死霊崇拝であり、明るい側から見れば、巫女教に伴う自然の形で、巫女を孕ました神並びに、巫女に神性を考える所に始る」(折口信夫「琉球の宗教」『折口信夫全集2・P69』中公文庫)

「神託をきく女君の、酋長であったのが、進んで妹なる女君の託言によって、兄なる酋長が、政を行って行った時代を、其儘に伝えた説話が、日・琉に数が多い。神の子を孕む妹と、其兄との話が、此である」(折口信夫「琉球の宗教」『折口信夫全集2・P78~79』中公文庫)

「こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。此七処女は、何の為に召されたか。言うまでもなく《みづのをひも》を解き奉る為である。だが、紐と言えば、すぐに連想せられるのは、性的生活である。先輩諸家の解説にも、此先入が主となって、古代生活の大切な一面を見落されて了うた。事は、一続きの事実であった。『ひも』の神秘をとり扱う神女は、条件的に神の嫁の資格を持たねばならなかったのである。《みづのをひも》を解く事が直に、紐主にまかれる事ではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備るのは、最高の神女である。而も尊体の深い秘密に触れる役目である。《みづのをひも》を解き、又結ぶ神事があったのである。七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊(アヅマアソビ)天人も、飛行の力は、天の羽衣に繋がっていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を著せ、脱がせられる神があった。其神の力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神を稍忘れる様になる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣の如きは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は『衣』と言う名に拘って、上体をも掩うものとなったらしいが、古くはもっと《小さきもの》ではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐みの時、湯や水で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、其布を結び固め、神となる御体の霊結びを奉仕する巫女があった」(折口信夫「水の女」『折口信夫全集2・P.97~98』中公文庫)

「神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。《みづのをひも》を解いた女は、神秘に触れたのだから『神の嫁』となる」(折口信夫「水の女」『折口信夫全集2・P.102』中公文庫)

「《ゆかわ》(斎用水)の前の姿は、多くの海辺又は海に通じる川の淵などにあった。村が山野に深く入ってからは、大河の枝川や、池・湖の入り込んだ処などを擇んだようである。そこに《ゆかわだな》(湯河板挙)を作って、神の嫁となる処女を、村の神女(そこに生れた者は、成女戒を受けた後は、皆此資格を得た)の中から選り出された兄処女(エオトメ)が、此《たな作り》の建て物に住んで、神のおとづれを待って居る」(折口信夫「水の女」『折口信夫全集2・P.103~104』中公文庫)

「宮廷の采女は、郡領の娘を徴して、ある期間宮廷に立ち廻らせられたものである。采女は単に召使のように考えて居るのは誤りで、実は国造に於ける采女同様、宮廷神に仕え、兼ねて其象徴なる顕神(アキツカミ)の天子に仕えるのである。采女として天子の倖寵を蒙ったものもある。此は神としての資格に於てあった事である。采女は、神以外には触れる事を禁ぜられて居たものである。同じ組織の国造の采女の存在、其貞操問題が、平安朝の初めになると、宮廷から否定せられて居る。此は、元来なかった制度を、模倣したと言わぬばかりの論達であるが、実は宮廷の権威に拘ると見た為であろう。此事は、日本古代に初夜権の実在した証拠になるのである。村々の君主の家として祀る神の外にも、村人が一家の間で祀らねばならぬ神があった。庶物にくっついて常在する神、時を定めて来臨する神などは、家々の女性が祀ることになって居た。此等の女性が、処女である事を原則とするのは勿論であるが、其は早く破れて、現に夫のない女は、処女と同格と見た。而も其は二人以上の夫には會はなかったものと言う条件があった様である。其が頽れて、現に妻として夫を持って居る者にも、巫女の資格は認められて居たと見える。『神の嫁』として、神に出来るだけ接近して行くのが、此人々の為事であるのだから、処女は神も好むものと見るのは、当然である」(折口信夫「最古日本の女性生活の根底」『折口信夫全集2・P.148~149』中公文庫)

次に南方熊楠から。俗世間のエピソードなのだが初夜権という風習について考える場合、その権利を行使するのはいつも社会的なレベルで神にも等しい存在として共同体に君臨する権力者である。その点で折口信夫のいう「神の嫁」という資格とほぼ等価性を持つ儀式的性格が見られるのではと思う。

「大将これを愍(あわれ)み、そこに新城を築き諸人を集め住ませ廣野城と名づけた。城民規則を設け、婚礼の度(たび)ごとにこの大将を馳走し、次に自分らを飲歓するとした。時に極めて貧しい者あって、妻を娶るに大将を招待すべき資力なし。種々思案の末、酒肴の代りにわがいまだ触れざる新妻を大将の御慰みに供え、その後始めて自宅へ引き取った。爾後、恒例となって諸人妻を迎うるごとに大将に手折(たお)らせたとあるが、これは事の起源を説かんためかかる噺をこじ付けたので、拙文『千人切りの話』に論じた通り、一八八一年フライブルヒ・イム・ブラウスガウ板、カール・シュミット著『初婚夜権』等を参するに、インド、クルジスタン、アンダマン島、カンボジヤ、チャンパ、マラッカ、マリヤナ島、アフリカおよび南北米のある部に、もとよりかかる風習があったので、インドで西暦紀元頃ヴァチ梵士作『愛天教』七篇二章は全く王者が臣民の妻娘を懐柔する方法を説く。その末段にいわく、アンドラの王は臣民の新婦を最初に賞翫(しょうがん)する権力あり。ヴァツアグルマ民の俗、大臣の妻、夜間、王に奉仕す。ヴァイダルブハ民は王に忠誠を表せんとて一月間その子婦を王の閨房に納(い)る。スラシュトラ民の妻は王の御意に随い、独りまた伴うてその内宮に詣(いた)るを常とすと」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.186~187」岩波文庫)

「諸国の王侯に処女権あり。人が新婦を迎うれば初めの一夜、また数夜、その領主に侍(はべ)らしめねば夫の手に入らぬのだ。例せばスコットランドでは十一世紀に、マルクコルム三世、この風を発せしが、仏国などでは股権とて十七世紀までは幾分存した」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.187~188」岩波文庫)

「『後漢書』南蛮伝に交趾の西に人を噉(くら)う国あり云々、妻を娶って美なる時はその兄に譲る」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.188」岩波文庫)

「『当世傾城気質』四に、藤屋伊左衛門諸国で見た奇俗を述べる内に『振舞膳(ふるまいぜん)の後(のち)我女房を客人と云々』これらは新婦と限らぬようだが、余ら幼き頃まで紀州の一向宗の有難屋(ありがたや)連、厚く財を献じてお抱寝(だきね)と称し、門跡の寝室近く妙齢の生娘(きむすめ)を臥せさせもらい、以て光彩門戸(もんこ)に生ずと大悦びした」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.188~189」岩波文庫)

「勝浦港では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素してもらい、米、酒、および桃紅色の褌(ふんどし)を礼に遣わした」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.189」岩波文庫)

「『中陵漫録』十一にいわく、羽州米沢の荻村では媒人が女の方に行きてその女を受け取り、わが家に置く事三夜にして、餅を円く作って百八個、媒が負うて女を連れ往き婚礼を整(ととの)うと」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.189」岩波文庫)

「スコットランドでは中古牛を以て処女権を償うに、女の門地の高下に従うて相場異なり、民の娘は二牛、士の娘は三牛、太夫の娘は十二牛などだ。イングランドはこれに異なり民の娘のみこの恥を受けた(ブラットンの『ノート・ブック』巻二六)」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.189」岩波文庫)

南方熊楠自身が目撃した経験談もある。

「御承知の通り紀州の田辺より志摩の鳥羽辺までを熊野と申し、『太平記』などを読んでも分かるごとく、日本のうちながら熊野者といえば人間でなきように申せし僻地なり。小生二十四年前帰朝せしときまでは(実は今も)今日の南洋のある島のごとく、人の妻に通ずるを尋常のことと心得たるところあり。また年ごろの娘に米一升と桃色のふんどしを景物(けいぶつ)として、所の神主または老人に割ってもらうところあり。小生みずからも、十七、八の女子が柱に両手をおしつけ、図のごとき姿勢でおりしを見、飴(あめ)を作るにやと思うに、幾度その所を徹もこの姿勢ゆえ何のことか分からず怪しみおると若き男が鬮(くじ)でも引きしにや、己れがあたったと呟(つぶや)きながらそこへ来たり、後よりこれを犯すを見しことあり」(南方熊楠「履歴書」『動と不動のコスモロジー・P.348~349』河出文庫)

ところで琉球では一つの村落共同体のすべての女性が神性を担い同時にそのすべての男性もまた神性を担い、互いに拝み合う儀式があると折口は伝えている。

「余り古くない時代に、久高の女が現にある様に、一村の女性挙って神人生活を経た者と見えて、今なお主として姉を特殊の場合、尊敬して《うない神》という。姉妹神の義である。姉のない時は、妹なり誰なり、家族中の女を《うない神》と称えて、旅行の平安を祈る風習が、首里・那覇辺にさえ行われている。《うない》拝(おが)みをして、其頂の髪の毛を乞うて、守る袋に入れて旅立つ。此は全く、巫女の髪に神秘力を認める考えから出たものである。尤、一村の男をすべて、男神(おめけい神)と見る例は、語だけならば、久高島の婚礼期にもあった。国頭郡安田(アダ)では一年おきに、替り番に《うない神》を拝み、《いきい神》を拝むと称して、一村の女性又は男性を、互に拝しあう儀式がある。併し《いきい神》を男子を以て代表させることは、女であって陽神専属・陰神専属の神人があったことの変化したものではあるまいか。でなくては、厳格に《いきい神》といわれるのは、根人だけでなければならぬ。事実、男の神人は極めて少数で、男逸女労といわれる国土でありながら、宗教上では、女が絶対の権利を持っていたのである」(折口信夫「琉球の宗教」『折口信夫全集2・P77~78』中公文庫)

一方だけが神性を有しておりそれが他方の身体へ入るというわけでなく、両者ともに神性が認められており、両者ともに他者へ神性として入っていくわけである。貴重な記録だと感じる。

さて、スペイン追放によってかえって世俗化し民衆レベルへの浸透を加速させたカバラ。ユダヤ教自体、そもそも始めに自分で自分自身を脱構築したところから始まったわけだが。

「新カバラーにおいては、元来秘教的な性格の数多くの思想が、特別なイニシエーションを受けていない人々にも接近可能なものとなり、多くの場合民衆レベルのものにまでなっているのである(魂の輪廻説の場合のように)」(エリアーデ「世界宗教史5・P.277」ちくま学芸文庫)

ネルヴァルはいう。

「われわれはわれわれの種族の裡に生き、われわれの種族はわれわれの裡に生きている」(ネルヴァル「オーレリア・P.20」岩波文庫)

この種の感覚についてニーチェはこう述べる。

「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.356~357」ちくま学芸文庫)

だから諸民族それぞれに似てはいるが少しずつ異なる民族創世神話が創作されるわけである。ネルヴァルは夢と幻想のなかでそれを体験=反復する。別のところでネルヴァルはこう言っている。

「奇妙に織りなされていく夢の世界の精神がなおあらがっている状態においては、しばしば人生の長い一時期のとりわけ際立った場面が、わずか数分のうちに次々と生起するさまを見ることができる」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.215』岩波文庫)

夢と幻想という戦略上に出現した詩だということがだんだん分かってくる。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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