白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部31

2020年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
しばらく次の三点を問いとして置いておこう。

「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)

作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。

「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)

さらに。

「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)

ダブルバインド状況から統合失調者が出現する家族において顕著に見られる一般的傾向について。続けよう。なおこれまでベイトソンは母親と子供の関係にばかり絞り込んで見てきたわけではない。父親をも見ている。けれども「分裂症が生じる家庭の父親というのは、子供の支えにはあまりにも影の薄い存在であるのがつねなのだ」。

「ダブルバインドを逃れるために、子供はさまざまな方策に頼ろうとするかもしれない母親への依存を弱めて、父親なり他の家族なりに頼れることができれば、一応の解決にはなるだろう。しかし、はじめに明記しておいたように、分裂症が生じる家庭の父親というのは、子供の支えにはあまりにも影の薄い存在であるのがつねなのだ。彼もまた子供と同様、困難な立場に追いやられている。子供の訴えに、『そうなんだ、ママはおまえを欺いている』と同意することは、彼自身と妻との関係の真の姿を見すえることを意味する。それを認識してしまえば、いままで自分をだましながら保ってきた彼女との関係が危険にさらされる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.304』新思索社)

同時に言わねばならないが、もはや「強い父親」というものは《いない》。もうどこにもいない。現代社会ではこの認識が余りにもなさ過ぎる。「神の死」を宣告したのはニーチェだが、それ以前すでに「強い父親」というものは死んでいた。失われていた。資本主義は資本以上に強力な存在者の出現を決して許さない社会であり、いないからこそ、十八世紀末から二十世紀いっぱいを通してあれほど代わる代わる「強い父親」を演じようとする人々が大量発生したのだ。そして国際社会の上位諸国からだんだん置き去りにされつつある日本では二〇二〇年になってようやく「強い父親」は実をいえば強くもなんともなく、むしろ所持金の多い少ないこそが「強い父親像」を演じるための必要最低条件だったことが暴露されるに至った。さらに、大物政治家と貨幣との深い関係についての追及は、先進諸国の中でいえば日本は随分遅いのである。世界の先進二十ヶ国が集まれば恐らく最も遅いだろう。いったん転げ落ち始めると早い。信じがたい社会へ舞い戻った。なぜ舞い戻るのか。未消化の部分があるからだ。日本の場合、近代を消化しきれないままどさくさ紛れに押し切ったがため、今でも何か社会的変動が起こるたびに、例えば今回の「感染=パンデミック」のような事態が起こるたびに、かつて未消化のまま置き去りにしてきた部分へと投げ返され「退行する」ほかない。人間身体と同様に国家もまた「消化力の度合い」の高低によって差が出る。

「異他を同化する精神の力は、新しいものを古いものと相似にし、多様を単純にし、全く矛盾するものを看過し、または押し除(の)ける強い傾向のうちに現われる。同様にまた、精神は異他的なもの、『外界』のあらゆるものの特定の画線を勝手に強調したり、際立(きわだ)たせたり、適当に変造したりする。その際に精神の意図するところは、新しい『経験』を消化し、新しい事物を古い系列に編入すること、ーーー従って成長することにある。更に明確に言えば、成長の《感情》、増大した力の感情にある。この同じ意志に、精神の一見して反対の衝動も奉仕する。無知を求め、勝手に閉じ籠(こ)もろうとする突然に勃発する決意とか、自己の窓の閉鎖とか、この或いはあの事物に対する内的な否定的発言とか、近寄ることの禁止とか、多くの知りうるものに対する一種の防御状態とか、暗黒や閉ざされた地平に対する満足とか、無知に対する肯定と是認など、すべて同然である。これらすべては、精神の同化力の程度に応じて、具象的に言えば、精神の『消化力』の度合いに応じて、それぞれ必要なのである。ーーーそれで、実際『精神』は最もよく胃に似たものなのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・二三〇・P.213~214」岩波文庫)

日本の場合、グローバルスタンダードが要求する事態に付いていけなくなるたびに、「勝手に閉じ籠(こ)もろうとする突然に勃発する決意とか、自己の窓の閉鎖とか、この或いはあの事物に対する内的な否定的発言とか、近寄ることの禁止とか、多くの知りうるものに対する一種の防御状態とか、暗黒や閉ざされた地平に対する満足とか、無知に対する肯定と是認」へと「退行する」病的傾向が今なお発作的に起こるような社会である。退行というのは、人間あるいは国家が自分で解決不可能な事態に直面した場合、自己感情の「或る特殊な規定性のなかにとらわれたままでいる」という《特殊性》の状態へ舞い戻りそこへ「固執」する(閉じ込もる)態度をいう。フロイト以前にヘーゲルは次のように述べている。

「主観は、たとい悟性的意識にまで発達した主観であっても、なお自分の自己感情の《特殊性》を固執していて、この特殊性を観念性へ加工し且つ克服することができないという《病気》にかかることができる。悟性的意識における充実された《自己》は、自己内で整合的な意識としての主観であり、またそれの(意識の)個体的な位置と、同じく自己の(外的世界の)内部で秩序づけられている外的世界との連関とにしたがって、自己を保持する意識としての主観である。しかし、悟性的意識における充実された自己は、或る特殊な規定性のなかにとらわれたままでいることによって、この内容に対して悟性的な地位を指示せず、また主観であるところの個体的な世界組織のなかで、その内容に帰属している従属的な地位をも指示しない。主観はこのような仕方で、主観の意識のなかで、組織化された(その主観の)全体性と、この全体性のなかで流動的になっておらず且つ配属も従属もさせられていない特殊な規定性との間の、《矛盾》のなかにある。これが《精神錯乱》である」(ヘーゲル「精神哲学・上・第一篇・三二・P.261」岩波文庫)

さらに母親は、子供に対する「共依存」関係を常に維持しようとあらゆる手段を用いるようになる。

「教師など周囲の人間からの支えも得られにくい。子供が自分を必要とし自分を愛することを、母親が切実に必要としているために、子供が自分以外のものに愛着を抱くとそれを脅威に感じて、その愛着を断ち切り、子供を身近に取り戻そうとするのだ。それが、子供を自分にはりつけ、自分を不安に突き落とすことにしかならないにもかかわらず」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.304』新思索社)

ここでいう共依存とは、母親への依存なしに子供はけっして生きていくことができないという状況に、子供を常に置いておくことが目指されている。意識しているしていないにかかわらず、多くの政治家の場合も目指していることは同様である。自分なしにその選挙区のどんな人々も生きていくことはできない状況を打ち固めようとする。そしてそれが現金ばらまきによって達成されているような場合はもはや政治哲学、政治思想、政治理念などはもちろん、実施したいと訴えている政治政策そのものが共依存関係を存続させるための手段と化しているというほかない。だが政治家本人にはそれが見えていない。ヘーゲルはそれを極めて深刻な意味で《病気》だとする。

「自分が考えている《主観的なものがまだ客観的には》実存し《ない》ということを知っているならば、まだなんら《精神錯乱》ではない。誤謬および愚行が《精神錯乱》になるということは、人間が自分の《単に主観的な》表象を《客観的なもの》として自分の《眼前に》もっているように信じ、且つ自分の単に主観的な表象と《矛盾》している《現実的客観性に対立して》自分の単に主観的な表象を《固持する》場合に始めて起こることである。精神錯乱におちいっている人々にとっては、自分の単に主観的なものが、ちょうど客観的なものが全く確実であると同じように、全く確実である」(ヘーゲル「精神哲学・上・第一篇・三二・P.271」岩波文庫)

というふうに、今上げた政治家の態度のように、現金ばらまきなしでは何一つ実現できないという「《単に主観的な》表象を《客観的なもの》として自分の《眼前に》もっているように信じ、且つ自分の単に主観的な表象と《矛盾》している《現実的客観性に対立して》自分の単に主観的な表象を《固持する》場合に始めて起こる」のがヘーゲルのいう精神錯乱である。政治家の場合に最も多く露呈するこのような事態をヘーゲルは「こころの法則と自負の狂気」として述べた。与野党問わず政治家というものは、いつも自分とその同類のためにだけ通用する《特殊》な「人類の福祉」をそれぞれ様々な形で実現しようと夢中になる。それが現金ばらまきあるいは或る種の法的暴力を用いるまでに至ると、どのような政治政策であれ、それはどれも「キャッチコピー」として異なるというだけのことであって、ただ単に自分とその同類のためだけの政治権力をさらに増大させようと欲する詭弁に過ぎず、実際は次のような行動を演じていることが明確になる。

「必然性が、自己意識において、真に何物であるかということは、自己意識のこの新しい形態が意識している。この形態においては、自己意識は自己自身にとって必然的なものである。自己意識は、一般者ないし法則を、《直接》〔無媒介に〕自己のうちにもっていると心得ており、この法則は、意識の自覚存在〔自独存在、対自存在〕のうちに、《直接》〔無媒介に〕存在しているという規定をもっているゆえ、《こころの法則》と呼ばれる。この形態は、前節に述べた形態のように、《自分だけで》の〔対自的、自覚的〕《個別性》という形で実在であるけれども、この《自独存在》〔自覚存在、対自存在〕が、必然的であり、一般的であると見られている規定のため、それだけで前の場合より豊かになっている。

こうして、直接自己意識自身のものであるような法則が、言いかえれば、こころでありながらも、法則を自分にもっているものが、自己意識の実現しようとしている《目的》である。そこで考えるべきことは、自己意識の実現が、その概念に一致するかどうか、またこの実現において、自己意識が、この自らの法則を本質として経験するかどうか、ということである。

このこころには、一つの現実が対立している。というのは、こころのうちでは、法則は、やっと《自分だけ》〔対自的、自覚的、自独的〕のものとなっただけであって、まだ実現されてはいないし、したがって、同時に、概念とは《別の》ものであるからである。このため、この他者は、実現さるべきものに対立するものであり、したがって、《法則と個別性の矛盾》であるところの現実として、規定される。だから、この現実は、一方では、個別の個〔人〕性が抑圧される法則であり、こころの法則に矛盾する世間という、暴力的な秩序である。が他方では、この秩序のもとに悩んでいる人間である。そのとき人間は、こころの法則に従っているのではなく、見知らぬ必然性に従属しているのである。ーーーすでに明らかなように、意識の現在の形態に、《対立して》いるように見えるこの現実は、個〔人〕性とその真実態が、分裂しているという前節の関係に、すなわち個〔人〕性を抑圧している残酷な必然性の関係に、ほかならない。だから、《われわれから見れば》、前の運動は、この新しい形態とよき対照をなしていることになる。というのも、この新しい形態は、自体的には前の運動から発したものであり、新しい形態を由来させる契機は、この形態から見れば、当然のことだからである。けれどもこの契機は、この形態にとっては、《見つけられたもの》という形で現われる。というのは、この形態は、自分の由来した《根源》については、何も意識をもっていないし、この形態が本質だと思っているのは、むしろ《自分自身だけで》〔対自的、自覚的、自独的〕あること、言いかえれば、肯定的自体に対する否定であるからである。

だから、こころの法則に矛盾するこの必然性を、また、この必然性のために現に起っている悩みを、廃棄すること、これがこの場合の個〔人〕性の目指していることである。したがって、この個〔人〕性は、個別的な快を求めている前の形態のように、軽率な態度をもはやとるものではなく、まじめな態度で、高い目的を求めるのである。そのまじめな態度は、個〔人〕性自身の《すぐれた》本質をのべることに、また《人類の幸福》〔シラー『群盗』の主人公カール・モールの言参照〕をつくり出すことに、自らの快を求めている。個〔人〕性が実現するものは、法則ですらあり、したがってその快は、同時に、すべてのこころがあまねく感ずる快である。快と法則は、この個〔人〕性にとっては、《分離》したものでは《ない》。その快は法則にかなっている。あまねく人類の法則を実現することは、個〔人〕性の個別的な快を準備することである。なぜならば、個〔人〕性の内部では、個〔人〕性と必然は《そのまま》一つであり、法則とは、こころの法則のことであるからである。個〔人〕性はまだ自分の立場を脱していないし、個〔人〕性と必然性を媒介する運動によって、さらにまた訓練によって、両者の統一が成しとげられるのでもない。直接的で《不作法な》〔訓練を受けていない〕本質を実現することが、あるすぐれたことをのべることだ、と考えられ、人類の幸福をもたらすことだ、と考えられているのである。

ところが、こころの法則に対立するような法則は、こころから分離しており、自分だけで自由である。この法則に従う人類は、法則とこころとの幸福な統一のうちに、生きているのではなく、おぞましい分裂と悩みのうちに生きているか、もしくは、法則に《従う》ときには、少なくとも《自己自身》のよろこびを欠き、そして、この法則に《背く》ときには、自己がすぐれたものだという意識をもてずに生きているのである。そういう暴力的な神的秩序や人間的秩序は、こころとは離れたものであるから〔『群盗』〕、こころからみれば一つの《仮象》であり、その法則になおまだくっついているもの、つまり暴力と現実とは、当然消さるべきものである。なるほど秩序がその《内容》の点で、たまたまこころの法則と一致することは、あるかもしれない。その場合には、こころがその秩序を認めるかもしれない。だが、こころにとって本質的なものは、純粋にそのままで、合法的なものなのではなく、こころがそこで、《自己自身》を意識することであり、そこで、《自ら》満足したつもりでいるということである。だが、一般的必然性の内容は、こころと一致しないときには、その内容から言っても、それ自体何物でもなく、こころの法則に、席を譲らねばならないことになる。

そういうわけで、個人はこころの法則を《遂行》する。つまり、こころが《一般的秩序》となり、快が、一つの絶対的に合法的な現実となる。だが、こうして実現されるとき、実際には、こころのこの法則は、個人から逃げ去ってしまっており、それはそのまま、本来ならば、廃棄さるべきであったような、当の関係になっているにすぎない。こころの法則は、実現されるというまさにそのことによって、《こころ》の法則であることを止める。なぜならば、そのとき法則は、《存在》という形式をとり、そこで《一般的な》威力にはなる、が、この威力に対し、《この》こころは無関心であるため、個人は、《自分自身の》秩序を《かかげ》ながらも、もはや、それが自分のものであることに、気づかないからである。それゆえ自己の法則を実現することによって個人は、《自らの》法則をもたらすのではない。秩序は、自体的には、個人自身のものであるけれども、自覚的には、個人に縁なきものであるため、そこに起ってくることは、現実の秩序のなかにまきこまれること、しかも自分にとって縁なきものであるだけでなく、敵対的でもある、圧倒的威力でさえあるような秩序のなかに、まきこまれることにほかならない。ーーー個人は、自ら行なうことによって、存在する現実という一般的な場〔境位〕の《なか》に入る、あるいはむしろ、一般的場〔境位〕《として》自らを立てる、そこで個人の行為の結果は、それ自身、個人の気持からすれば、一般的秩序という価値をもっているはずである。だがこのために、個人は自分を自分自身から《解放》してしまったことになり、自分で一般性として成長し、個別性からは純化される。個人は、一般性を、自分の直接的な自独存在〔対自存在、自覚存在〕という形でしか、認めようとしない。だからこの個人は、一般性が自分の行為であるため、同時に自分が一般性のものであるのに、この個人から放たれた一般性のうちに、自分を認めはしない。それゆえ個人の行為は、一般的秩序に《矛盾する》という、逆の意味をもっている。というのは、個人の行為の結果は、《自らの》個別的なこころの行為の結果であるはずであって、個に関わりのない、一般的な現実であるはずではないからである。しかもそれと同時に、行為は実際には現実を《承認》してしまってもいる。なぜなら、行為は、自らの本質を、《自由な現実》として立てるという意味をもっている、すなわち、現実を自らの本質として承認するという意味を、もっているからである。

個人は、自らを帰属させた現実の一般性が、自分に背くという在り方を、自らの行為という概念によって、一層詳しく規定したことになる。個人の行為の結果は、《現実》としては、一般者のものであるけれども、その内容から言えば、個人自身の個別性であり、この個別性は、一般者に対立したこの《個々の》個別性として、自らを保とうとしている。いま問題となっているのは、ある一定の法則をかかげることではない。そうではなく、個々のこころと一般性とが、そのままで一つになることは、高まって法則となり、妥当すべきことであるという、思想なのである。つまり、法則であるもののうちに、《各々のこころ》が《自己》自身を認めねばならない、という思想なのである。とはいえ、この個人のこころだけが、その現実を自らの行為の結果のうちに、立てたのであるから、その行為の結果は、個人からみれば、《自分の自独存在》〔対自存在、自覚存在、自立存在〕、つまり《自分の快》なのである。この行為は、そのままで一般者として通用すべきだという。すなわち、ほんとうのことを言えば、行為の結果は特殊なものであり、ただ一般性という形式をもっているにすぎない。つまり、その《特殊な》内容が、《そのままで》一般的なものと認めらるべきである、というのである。だから、この内容のうちに、他人たちは、自分たちのこころの法則を見つけはしない。むしろ、自分たちとは《別の人の》こころが、実現されていることに気がつく。法則であるもののなかに、各人は自分のこころを見つけるべきである、という一般的法則に従って、他人たちは、その《個人》のかかげた現実を、自分たちのものとは逆であると言い、また個人は、他人の現実を、自分のとは逆だと言うのである。だから個人は、初めは、固定した法則だけが、自分のすぐれた意図に反対のもので、いとうべきものだと気がついたのだが、いまとなっては、人間どもの諸々のこころそのものがそうなのだと、気がついたのである〔『群盗』〕。

これまでのべた意識は、一般性がまだやっと《直接的》なものであり、必然性が《こころ》の必然性であると、知っているにすぎない。そのためこの意識は、そういうものの実現と効果の本性を知っていない。つまり、一般性や必然性が《存在者》であって、その真の姿はむしろ《自体的一般者》であり、そこでは、一般性や必然性に信頼を置いている個別的意識が、《この》直接的な《個別性》で《ある》ためには、むしろ亡びるものだということを、この意識は知っていない。この意識が直接的個別性という存在のなかで手に入れるのは、この《自らの存在》ではなくて、《自己自身》の疎外なのである。だが、意識に自分を認めさせないのは、もはや死んだ必然性ではなく、一般的個人性によって命を与えられた必然性である。意識は、神の秩序と人間の秩序を、妥当なものではあるが、一つの死んだ現実と考えた。意識は自分だけで〔対自的に〕存在し、一般者には対立するこころとして、自分を固定させるのであるが、いま言った現実にあっては、この意識自身も、この現実のものである人々も、ともに自分自身の意識をもっていなかったのである。だがいま意識は、この秩序がむしろ万人の意識によって命を与えられており、万人のこころの法則であることに気がつく。意識は、現実が命のある秩序であることを、経験すると同時に実際には、意識が自分のこころの法則を実現することによってこそ、そうなるのだと経験する。なぜならば、このことは、個〔人性〕が、一般者として、自分の対象となりながらも、そのとき自分を認識しない、ということにほかならないからである。

こうして、自己意識のこの形態に、その経験の結果、真理として生まれるものは、この形態が、《自覚的》にそうあるものとは、《矛盾》している。だが、この形態が自覚的にそうあるものは、それ自身、この形態からみれば、絶対的普遍性という形式をもっており、それは、《自己意識》と無媒介〔直接的に、そのまま〕に一つであるこころの法則である。それと同時に、存立し生きている秩序は、やはり自己意識《自身の本質》であり、仕事である。自己意識の生み出すものは、この秩序にほかならない。だから、秩序もやはり、自己意識と無媒介に統一されている。こういうわけで自己意識は、二重の対立した実在に帰属するため、自己自身で矛盾しており、最も内面的なところで、混乱に陥っている。《この》こころの法則は、自己意識に自分自身を認識させるものにほかならない。だが、一般的な妥当する秩序は、例の法則を実現した結果、自己意識にとっては自分自身の《本質》となり、自分自身の《現実》となったのである。だから、己れの意識のうちでは矛盾しているものも、ともに、自己意識にとっての〔自覚的な〕本質であり、己れ自身の現実であるという、形式をとった姿であることになる。

自己意識は、自分の意識的な没落というこの契機を語り、そこに、自らの経験の結果があることを語る。そのとき自己意識は、自らが自己自身の内的転倒であり、意識の狂乱であることを表わす。この意識にとっては、その本質はそのまま非本質であり、その現実はそのまま非現実である。ーーー狂気と言ったが、それは次のように考えられてはならない。つまり、一般的に言って、本質のないものが本質的だと考えられ、現実的でないものが現実だと考えられ、その結果、ある人にとっては、本質的または現実的であるものが、他人にとっては、そうではないとか、現実の意識と非現実の意識、本質と非本質の意識が、ばらばらになってしまうとか、いうふうであってはならない。ーーーつまり、あることが実際に意識一般にとっては、現実的であり、本質的であるが、私にとってはそうではないとすれば、私は、自ら意識一般なのであるから、そのことの空しさを意識すると同時に、それが現実であることをも意識している。ーーーしかも両者がともに固定しているとすれば、これは、一般に狂気と言われるような統一である。しかし、この狂気において狂っているのは、意識にとっての一つの《対象》だけであって、それ自身における、またそれ自身としての、意識そのものではない。だが、ここに起ってきた経験の結果から言えば、意識は、自らの法則のうちに、この現実的なものとしての《自己自身》を、意識していることになる。そして同時に、意識にとっては、この同じ本質、この現実こそは、《疎外された》ものなのであるから、意識は、自己意識として、絶対的な現実として、自己の非現実を意識している。言いかえれば、両側面は、その矛盾によって、そのままに《意識の本質》と見られることになり、したがってこの本質は、その最も深いところで狂っていることになる。

だから人類の福祉を願って脈うつこころは、狂った自負の狂暴へと、自己の破滅に逆らって、身を保とうとする意識の狂熱へと移って行く。そうなるのは、意識が自分自身の姿である転倒を、自分の外に投げ出して、この転倒をどこまでも自分とは別のものと見なし、言い張るためである。だから、一般的秩序は、こころとこころの幸福との法則を、転倒させるものであるが、それは、狂信的な僧侶や飽食した暴君や、この両方から受けた屈辱を、自分より下のものを辱(はずか)しめ抑圧することによって、つぐなっている両者の僕やなどによって、捏造されたものであり、いつわられた人類の、名づけようもない不幸のために、使われたものであると、意識は言明する。ーーー意識は、このような狂乱状態にいながら、《個人》性がこの狂いをひき起し、転倒しているのだと、言明はするものの、その個人性は《他人》のものであり、《偶然》であるとするのである。しかし、こころ、言いかえれば、《そのままで一般的であろうとする、意識の個別状態》は、このように、狂いをひき起し転倒したものそのものであり、その行為が生み出すものは、この矛盾が《自分の》意識になるということにほかならないのである。なぜならば、このこころにとって真実であるものは、こころの法則であり、ーーーこの法則は、ただ《思いこまれた》だけのものであるが、これは存立している秩序のように、日の光に堪えたものではなく、日の光に出会うときには、むしろ亡びるものだからである。こころのこの法則は、《現実》となるはずであった。この点から言えば、こころにとって法則は、《現実》であり、《妥当する秩序》であるため、同時に目的であり本質である。だがこころにとっては、《現実》すなわち、ほかならぬ《妥当する秩序》としての法則は、むしろそのまま空しいものである。ーーーこれと同じように、こころ《自身の》現実は、つまり意識の個別態である《こころ自身》が、こころにとって本質である。けれども、この個別態を《存在する》ものとして立てることが、こころの目的である。だから、こころにとっては、直接的には、むしろ個別的ならぬものであるこころの自己が、本質である、つまり目的であることになる。が、それは法則として、まさにこの点で、こころがその意識自身に対してあるような一般性としてのことである。ーーーこのようなこころの概念は、自らの行為によって一つの対象となる。こころは己れの自己を、むしろ非現実的なものとして経験する、そして、非現実を、自らの現実として経験する。だから、偶然の見知らぬ個人性がではなく、まさにこのこころこそが、あらゆる側面から、自らのうちで転倒したものであり、転倒して行くものである」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.416~426」平凡社ライブラリー)

だからとりわけ政治家が用いる現金ばらまきや或る種の法的暴力にはルサンチマン(劣等感、復讐感情)に満ちた、すべての世界に対する刑罰意志=報復欲望があふれかえっている様子がいつもまざまざと見られる。それはどんな手段を用いてでも一般市民を自分より劣等部分に組み込み再編しようとする飽くなき権力意志である。或る意味、あまりにも馬鹿馬鹿しい。

「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫)

ベイトソンに戻ろう。核心的なことは子供自身がダブルバインド状況に「《ついて》発言できるようになることだ」。しかし子供はそれがいつも阻止される状況のうちに縛り付けられている。「コミュニケーションについてコミュニケートする能力、自分自身や他の人間の意味ある行動についてコメントする能力は、社会的交わりに不可欠なもの」であるにもかかわらず、むしろそうであるがゆえ、母親はそうさせまいと禁止の壁で子供を包囲する。

「子供が真にこの状況から逃れる方法はただ一つ、母親によって放り込まれた矛盾状況に《ついて》発言できるようになることだ。しかしそうしたところで、その発言を、自分の愛の欠如に対する非難として受け止める母親は、子供を罰し、おまえは事態を曲解していると言い立てるだろう。状況について語るのを阻止するということは、メタ・コミュニケーションのレベルの表現を禁止するというのと同じである。このレベルでの表現は、しかし、われわれがコミュニケーション行動を正しく理解する上で欠かすことのできないものだ。コミュニケーションについてコミュニケートする能力、自分自身や他の人間の意味ある行動についてコメントする能力は、社会的交わりに不可欠なものなのである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.304~305』新思索社)

メタレベルの発言を一切禁止された子供は、徐々に様々な語彙を獲得していく段階に達してもなおメタレベルの発言を自分自身で禁止するようになる。すべては母親が発する矛盾した二重の「愛」のメッセージを、両立不可能な二重化されたメッセージを批判に晒さないための自主規制からである。言い換えれば、母親に対してけっしてデモしないという態度であり、だから母親はいつも理性を代表しており、子供自身はいつも「非理性=狂気」の側に置かれることに甘んじるほかないような状況を自ら肯定してしまうという積極的錯乱の態度である。この状況はベイトソンが後々触れているように、実際の臨床の現場で、患者と母親との面会において極めて特殊な親子関係の実在を再現する。母親と面会したあとしばらくして患者が病院職員に殴りかかるというような症状を呈する。

さて、ネルヴァルはアレクサンドル・デュマをたいへん尊敬している。次のような記述がある。

「アレクサンドル・デュマのおかげで名が知られたクロシュ・ホテル」(ネルヴァル「アンジェリック」『火の娘たち・P.76』岩波文庫)

十九世紀前半は血まみれの流血戦がまだ数多く見られた。けれどもこのような形で観光名所化したところもたいへん多くあった。ネルヴァルにとってはルソーが暮らしたエルムノンヴィルのように。「クロシュ・ホテル」の「クロシュ」について。

「コンピエーニュには、そこに一度しか泊らなかったものでも忘れることのできない、すばらしい一軒のホテルがある。パリ郊外を歩きまわったおり、一度そこに足をとめたことのあったアンドレアは、その《鐘と罎のホテル》のことを思い出した」(アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯6・第九十八章・P.345」岩波文庫)

フランス語で“cloche”(クロシュ)、英語で“clock”(クロック)。どちらも、時計、時の鐘、という意味を持つ。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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