ネルヴァルは或る夜、「昨夜と同時刻に、雷に打たれたように倒れた」。というのは、繰り返されるに違いない、反復されるに違いない、という強迫神経症的意識に追い詰められていたからなのだが。
「偶然か或いは私は昨夜と同時刻に、雷に打たれたように倒れた。私は床に寝かされ、そして長い間、知覚を失い、目の前に現われて来た映像間の連絡が分からなかった。この状態は数日に渡った。私は或る療養所に移された」(ネルヴァル「オーレリア・P.16」岩波文庫)
繰り返されるのではないかとネルヴァルを恐れさせていた反復の意識。それは一度想像の中で考えたことのある観念である。
「或る夜、真夜中頃、私は自分の住居の在る町外れの坂を上がっていて、ふと眼を上げると、とある家の番号が街燈に照らされて見えた。その数は私の年齢の数であった。同時に、眼を伏せると、わたしは自分の前に真蒼な顔色の、眼の凹んだ一人の女を見た。オーレリアの顔立ちをしているように思えた。私は心に言った、ーーーこれは彼女の死か俺の死かが知らされたのだ!しかしどうした訳か私は後の推定に従った、そしてそれは翌日の同時刻のことであるという観念に襲われた」(ネルヴァル「オーレリア・P.9~10」岩波文庫)
実際、「翌日の同時刻」になると当時に倒れる。ニーチェはいう。
「そのほかにも狂気がある。それは行為の《まえ》の狂気である。ああ、君たちはそのような狂気をもった魂の奥に十分深く穿(うが)ち入ることがなかったのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・青白い犯罪者・P.57」中公文庫)
前日に一度抱いただけで翌日になって実際に本人を昏倒させてしまうほど強力な観念。フロイトはこれを「罪の意識」の現実化というシステムに帰しているが、しかしそれほど単純ではないだろう。倒れる前夜にネルヴァルは「私の年齢の数」と、死の直前に特有の兆候である「真蒼な顔色の、眼の凹んだ一人の女」としてオーレリアが現われる観念とを一致させている。ネルヴァルはオーレリアと《ともに死ぬ》ことを欲望している。このような欲望はネルヴァルの場合、特に珍しい観念ではない。むしろありふれている。作品「オクタヴィ」で描かれる手紙の内容にこうある。
「私の一番大きな願いは、あなたのために死ぬこと以外にありえない」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.357~358』岩波文庫)
この「ために」というのは「あなたの代わりに」とか「あなたのためを願って」とかいう陳腐な観念ではありえない。
「死ぬ、ああ神よ、なぜそんな考えが何かにつけ頭をよぎるのでしょう、まるであなたが約束してくれる幸福に釣り合うものとしては、私の死をおいて他にないかのように。死!とはいえこの言葉は、私にとって少しも暗い影を広げるものではありません。それは祝宴の果てるときのように、色褪せた薔薇の冠を戴いて私の前に現れるのです」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.358』岩波文庫)
「あなたの約束」と主人公の「死」との等価性が目指されている。「あなたの約束」に見合うような自分であることを証拠立てるのは唯一、主人公の「死」が「あなたの約束」と「釣り合う」ような等価性を持った瞬間に限られる、というのっぴきならない意識がある。しかし両者の等価性が保障されるのは主人公の死が実際になされ、「約束」を誓った「あなた」が主人公の死を「約束」と等価であると認めた場合に限られる。或る意味、商品交換に似ている。
「彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
始めから等量の価値があるかどうかはわからない。そうではなく、等値するやいなや、まさしくそこに等価性が出現するのである。またネルヴァルは、小さな死の後に「ときおり夢に見ることがあ」る。なお小さな死は言うまでもなく性行為における官能の絶頂を指す。ネルヴァルの場合、性行為より以上に遥かにその後に訪れる夢に重点が置かれている。
「私はときおり夢に見ることがあります。愛する女性の枕元で、幸福ののち、陶酔ののちに死神が微笑みながら私を待っていて、こういうのです。ーーー『さあ、お若い方!あんたはこの世での喜びの分け前を味わい尽くした。いまはもう、こちらに来てお眠り、私の腕のなかでお休み。私は美しくはないさ。でも私はやさしいし、救いにもなる。快楽ではなく、永遠の静けさを与えてあげよう』」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.358』岩波文庫)
ただ、本当に死ぬということ。ネルヴァルは性的陶酔の絶頂がもたらす小さな死よりもなお遥かに善悪の彼岸に位置する、身体そのものの解体としての死を希求している。ぼんやりとではあるが。というのも、ネルヴァルはただ単に自殺を望んでいるわけではなく、ヨーロッパの様々な地方を旅して歩くことにも並々ならぬ関心を寄せていて、実際に旅行記を連載出版している。そしてその内容は好奇心と冒険心とにあふれている。だからネルヴァルにとって生のための逃走線は三つあった。第一に、夢と幻想が乱舞する官能性と残虐性へ向かう《ディオニュソス的な》力への意志。第二に、心身ともに充実している時期に顕著な旅への意志。第三に、今は亡きオーレリアと《ともに》死へ向かう意志。だからといって、ネルヴァルはけっして空虚への意志を目指していない。にもかかわらず第三の「死へ向かう意志」には注意を要する。ドゥルーズ=ガタリは次のように述べる。
「われわれにとっては、おそらくこれが最も興味深いものだろう。逃走線そのものにかかわる危険だからである。逃走線は一種の突然変異、あるいは一種の創造であり、想像においてではなく社会的現実の組織体において引かれるものだとわれわれは考える。逃走線には虚空を貫く矢の運動と、絶対的なるものの速度があると主張する。にもかかわらず逃走線が恐れ、直面するのは、いずれ追いつかれるというリスク、亀裂をふさがれ、縛りあげられ、結わえなおされ、再領土化されるというリスクだけだと考えるのは単純すぎるだろう。逃走線自体が不可思議な絶望を発散しているのだ。それは死と殺戮の臭いや、人を疲労困憊させる戦争の状態に似ている。つまり逃走線には、今まで見てきた危険とは別の、逃走線独自の危険がある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.138~139」河出文庫)
もっとも、これはネルヴァルについてではなく、フィッツジェラルドについて述べた「危険」である。
「夕暮時の人のいなくなった射撃場に立っている感じ。ライフルは空っぽだし、標的もひっこんだ。何の問題もないーーーただ静寂があって、聞えるのは自分の呼吸だけ。この静寂の中には、あらゆる義務に対する大きな無責任、ぼくのあらゆる価値基準の崩壊があった。秩序への熱烈な信仰、あて推量や予言に味方して原因や結果の無視、技術と勤勉とはいかなる場所でも通用するものだという気持ーーーこれらの感情は一つずつ、その他のあらゆる信念も消えてしまった」(フィッツジェラルド「取り扱い注意」『フィッツジェラルド作品集3・P.192~193』荒地出版社)
そう引用した後でドゥルーズ=ガタリはこう述べる。
「逃走線が一つの戦争であるのはなぜか。壊せるものは手当たりしだい破壊した後でこの戦争から抜け出してみると、私たち自身も解体され、破壊しつくされている恐れがあるのはなぜか。これこそまさに第四の危険だ。つまり逃走線は、障壁を乗り越え、ブラック・ホールから抜け出しはしても、他の線に連結され、一回ごとに原子価を増す代わりに、《破壊》、《純然たる滅亡》、《滅亡の情念に変わる》ということ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.139」河出文庫)
フィッツジェラルドが最晩年の作品の中で書き込んでいるのは自分がもうどうしようもないニヒリズムに陥ってしまっているということだ。第一次世界大戦の勝利に湧いたアメリカ。その後にやってきた大恐慌。あらゆる価値は転倒したか解体した。
「いったい何がおこったのか?『《目的》』という概念をもってしても、『《統一》』という概念をもってしても、『《真理》』という概念をもってしても、生存の総体的性格は解釈されえないとわかったとき、《無価値性》の感情がえられたのである。かくして、何ものもめざされ達成されず、生成という多様性をおおう統一は欠けている。すなわち、生存の性格は《真》ではなく《偽》なのであるーーー《真》の世界があるとおのれを説得する根拠は、もはやまったくなくなるーーー要するに、私たちが世界に価値を置き入れてきた《目的》、《統一》、《存在》という諸範疇(はんちゅう)は、ふたたび私たちによって《引きぬき去られ》ーーーいまや世界は《無価値のものにみえて》くるーーー」(ニーチェ「権力への意志・上巻・十二・P.29~30」ちくま学芸文庫)
しかしネルヴァルの場合、夢と幻想という戦略を押し進める。そして何度も繰り返す。
「こんな記憶の細部をたどるうちに、いったいそれが現実のことなのか、それとも夢に見たものなのかわからなくなってしまう」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.241』岩波文庫)
さらに統一した意識が無限に分裂し総合を失調する事態に陥りもする。
倒れたとき、「長い間、知覚を失い、目の前に現われて来た映像間の連絡が分からなかった」、とあるように。
するとそれは、なるほど一般的には「狂気」として区別されることになるのだが、けっしてニヒリズムには陥らないという逆説が出現する。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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繰り返されるのではないかとネルヴァルを恐れさせていた反復の意識。それは一度想像の中で考えたことのある観念である。
「或る夜、真夜中頃、私は自分の住居の在る町外れの坂を上がっていて、ふと眼を上げると、とある家の番号が街燈に照らされて見えた。その数は私の年齢の数であった。同時に、眼を伏せると、わたしは自分の前に真蒼な顔色の、眼の凹んだ一人の女を見た。オーレリアの顔立ちをしているように思えた。私は心に言った、ーーーこれは彼女の死か俺の死かが知らされたのだ!しかしどうした訳か私は後の推定に従った、そしてそれは翌日の同時刻のことであるという観念に襲われた」(ネルヴァル「オーレリア・P.9~10」岩波文庫)
実際、「翌日の同時刻」になると当時に倒れる。ニーチェはいう。
「そのほかにも狂気がある。それは行為の《まえ》の狂気である。ああ、君たちはそのような狂気をもった魂の奥に十分深く穿(うが)ち入ることがなかったのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・青白い犯罪者・P.57」中公文庫)
前日に一度抱いただけで翌日になって実際に本人を昏倒させてしまうほど強力な観念。フロイトはこれを「罪の意識」の現実化というシステムに帰しているが、しかしそれほど単純ではないだろう。倒れる前夜にネルヴァルは「私の年齢の数」と、死の直前に特有の兆候である「真蒼な顔色の、眼の凹んだ一人の女」としてオーレリアが現われる観念とを一致させている。ネルヴァルはオーレリアと《ともに死ぬ》ことを欲望している。このような欲望はネルヴァルの場合、特に珍しい観念ではない。むしろありふれている。作品「オクタヴィ」で描かれる手紙の内容にこうある。
「私の一番大きな願いは、あなたのために死ぬこと以外にありえない」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.357~358』岩波文庫)
この「ために」というのは「あなたの代わりに」とか「あなたのためを願って」とかいう陳腐な観念ではありえない。
「死ぬ、ああ神よ、なぜそんな考えが何かにつけ頭をよぎるのでしょう、まるであなたが約束してくれる幸福に釣り合うものとしては、私の死をおいて他にないかのように。死!とはいえこの言葉は、私にとって少しも暗い影を広げるものではありません。それは祝宴の果てるときのように、色褪せた薔薇の冠を戴いて私の前に現れるのです」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.358』岩波文庫)
「あなたの約束」と主人公の「死」との等価性が目指されている。「あなたの約束」に見合うような自分であることを証拠立てるのは唯一、主人公の「死」が「あなたの約束」と「釣り合う」ような等価性を持った瞬間に限られる、というのっぴきならない意識がある。しかし両者の等価性が保障されるのは主人公の死が実際になされ、「約束」を誓った「あなた」が主人公の死を「約束」と等価であると認めた場合に限られる。或る意味、商品交換に似ている。
「彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
始めから等量の価値があるかどうかはわからない。そうではなく、等値するやいなや、まさしくそこに等価性が出現するのである。またネルヴァルは、小さな死の後に「ときおり夢に見ることがあ」る。なお小さな死は言うまでもなく性行為における官能の絶頂を指す。ネルヴァルの場合、性行為より以上に遥かにその後に訪れる夢に重点が置かれている。
「私はときおり夢に見ることがあります。愛する女性の枕元で、幸福ののち、陶酔ののちに死神が微笑みながら私を待っていて、こういうのです。ーーー『さあ、お若い方!あんたはこの世での喜びの分け前を味わい尽くした。いまはもう、こちらに来てお眠り、私の腕のなかでお休み。私は美しくはないさ。でも私はやさしいし、救いにもなる。快楽ではなく、永遠の静けさを与えてあげよう』」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.358』岩波文庫)
ただ、本当に死ぬということ。ネルヴァルは性的陶酔の絶頂がもたらす小さな死よりもなお遥かに善悪の彼岸に位置する、身体そのものの解体としての死を希求している。ぼんやりとではあるが。というのも、ネルヴァルはただ単に自殺を望んでいるわけではなく、ヨーロッパの様々な地方を旅して歩くことにも並々ならぬ関心を寄せていて、実際に旅行記を連載出版している。そしてその内容は好奇心と冒険心とにあふれている。だからネルヴァルにとって生のための逃走線は三つあった。第一に、夢と幻想が乱舞する官能性と残虐性へ向かう《ディオニュソス的な》力への意志。第二に、心身ともに充実している時期に顕著な旅への意志。第三に、今は亡きオーレリアと《ともに》死へ向かう意志。だからといって、ネルヴァルはけっして空虚への意志を目指していない。にもかかわらず第三の「死へ向かう意志」には注意を要する。ドゥルーズ=ガタリは次のように述べる。
「われわれにとっては、おそらくこれが最も興味深いものだろう。逃走線そのものにかかわる危険だからである。逃走線は一種の突然変異、あるいは一種の創造であり、想像においてではなく社会的現実の組織体において引かれるものだとわれわれは考える。逃走線には虚空を貫く矢の運動と、絶対的なるものの速度があると主張する。にもかかわらず逃走線が恐れ、直面するのは、いずれ追いつかれるというリスク、亀裂をふさがれ、縛りあげられ、結わえなおされ、再領土化されるというリスクだけだと考えるのは単純すぎるだろう。逃走線自体が不可思議な絶望を発散しているのだ。それは死と殺戮の臭いや、人を疲労困憊させる戦争の状態に似ている。つまり逃走線には、今まで見てきた危険とは別の、逃走線独自の危険がある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.138~139」河出文庫)
もっとも、これはネルヴァルについてではなく、フィッツジェラルドについて述べた「危険」である。
「夕暮時の人のいなくなった射撃場に立っている感じ。ライフルは空っぽだし、標的もひっこんだ。何の問題もないーーーただ静寂があって、聞えるのは自分の呼吸だけ。この静寂の中には、あらゆる義務に対する大きな無責任、ぼくのあらゆる価値基準の崩壊があった。秩序への熱烈な信仰、あて推量や予言に味方して原因や結果の無視、技術と勤勉とはいかなる場所でも通用するものだという気持ーーーこれらの感情は一つずつ、その他のあらゆる信念も消えてしまった」(フィッツジェラルド「取り扱い注意」『フィッツジェラルド作品集3・P.192~193』荒地出版社)
そう引用した後でドゥルーズ=ガタリはこう述べる。
「逃走線が一つの戦争であるのはなぜか。壊せるものは手当たりしだい破壊した後でこの戦争から抜け出してみると、私たち自身も解体され、破壊しつくされている恐れがあるのはなぜか。これこそまさに第四の危険だ。つまり逃走線は、障壁を乗り越え、ブラック・ホールから抜け出しはしても、他の線に連結され、一回ごとに原子価を増す代わりに、《破壊》、《純然たる滅亡》、《滅亡の情念に変わる》ということ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.139」河出文庫)
フィッツジェラルドが最晩年の作品の中で書き込んでいるのは自分がもうどうしようもないニヒリズムに陥ってしまっているということだ。第一次世界大戦の勝利に湧いたアメリカ。その後にやってきた大恐慌。あらゆる価値は転倒したか解体した。
「いったい何がおこったのか?『《目的》』という概念をもってしても、『《統一》』という概念をもってしても、『《真理》』という概念をもってしても、生存の総体的性格は解釈されえないとわかったとき、《無価値性》の感情がえられたのである。かくして、何ものもめざされ達成されず、生成という多様性をおおう統一は欠けている。すなわち、生存の性格は《真》ではなく《偽》なのであるーーー《真》の世界があるとおのれを説得する根拠は、もはやまったくなくなるーーー要するに、私たちが世界に価値を置き入れてきた《目的》、《統一》、《存在》という諸範疇(はんちゅう)は、ふたたび私たちによって《引きぬき去られ》ーーーいまや世界は《無価値のものにみえて》くるーーー」(ニーチェ「権力への意志・上巻・十二・P.29~30」ちくま学芸文庫)
しかしネルヴァルの場合、夢と幻想という戦略を押し進める。そして何度も繰り返す。
「こんな記憶の細部をたどるうちに、いったいそれが現実のことなのか、それとも夢に見たものなのかわからなくなってしまう」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.241』岩波文庫)
さらに統一した意識が無限に分裂し総合を失調する事態に陥りもする。
倒れたとき、「長い間、知覚を失い、目の前に現われて来た映像間の連絡が分からなかった」、とあるように。
するとそれは、なるほど一般的には「狂気」として区別されることになるのだが、けっしてニヒリズムには陥らないという逆説が出現する。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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