しばらく次の三点を問いとして置いておこう。
「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)
作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
さらに。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
ダブルバインド状況から統合失調者が出現する家族において顕著に見られる一般的傾向について、続けよう。子供がメタレベルのメッセージに《ついて》何か言うことが禁止されている。常に禁止されている。メタレベルに立って何か言うということはダブルバインド状況に《ついて》何か言うということ、ここには何か矛盾があるということに言及すること、を意味する。そしてその矛盾した状況を作り上げているのはほかでもない母親自身だと告発することになってしまう。子供は母親がいつも発している言動に《ついて》、そこには矛盾があると指摘することを禁じられている。そしてこの禁止がダブルバインド状況を長期間にわたって長引かせれば長引かせるほど、子供のコミュニケーション能力の発達は著しく阻害され続けることになる。そうして「子供はコミュニケーションについてコミュニケートする能力を身につけていくことができず、その結果、相手の真の意図をくみ、自分の真の思いを表現するという、正常な関係にとって基本的な能力に欠けた人間に育っていく」。
「正常な会話では、『どういう意味?』『なんでそんなことをしたの?』『からかっているんだろう?』といったメタ・レベルのメッセージが絶えず取り交わされる。相手が言葉の意図を正しく識別するためには、直接間接に相手の表現に《ついて》何かを言うことができなくてはならない。このメタ・コミュニケーションのレベルを、分裂症者はうまく用いることができないようなのである。その理由は、いままで述べてきた母親のコミュニケーション行動から明らかだろう。彼女がある等級のメッセージを打ち消そうとしているとき、彼女の発言に《ついて》の発言はすべて彼女の脅威となり、彼女はそれを禁じなくてはいられない。そのために、子供はコミュニケーションについてコミュニケートする能力を身につけていくことができず、その結果、相手の真の意図をくみ、自分の真の思いを表現するという、正常な関係にとって基本的な能力に欠けた人間に育っていくのである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.305』新思索社)
それが一九五〇年代のアメリカで大量発生してきた若年の統合失調者をめぐる家庭内の一般的状況であった。「神の死」以降「強い父」もまた死んだのであり、新しい神として資本主義がそれに取って代わった。いなくなった「強い父」の代わりにそれを模倣しようとする擬似的父親像を演じる人々が大量出現した。絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、をいいことに「虫のいい」男根至上主義を目指す政治的「俳優」がどばどば出現した。東西冷戦時代の世界はそのような「偽物」ばかりであふれかえっている。本物と偽物との境界線が失われたという意味ではない。もはやオリジナル(起源)とシミュラクル(見せかけ)との区別がそもそも不可能になったのだ。
「シミュラクルは、劣化したコピーではなく、《オリジナルとコピー》、《モデルと再現を》否定する積極的な力能を隠匿している。シミュラクルに内在化される少なくとも二つのセリーについて、どちらかをオリジナルやコピーとして指定することはできない。<他なるもの>のモデルを呼び出しても足りない。どんなモデルもシミュラクルの眩暈には抗えないからである。あらゆる観点に共通の対象がないように、特権的な観点もない。階層も可能ではない。二番目もなく、三番目もなくーーー類似性は存続しているが、類似性は、発散するセリーがシミュラクルを構築してシミュラクルを共鳴させる分だけ、シミュラクルの外部効果として生産される。同一性は存続しているが、同一性は、あらゆるセリーを巻き込んで強制運動の際に各セリーを各セリーに回帰させる法則として生産される。プラトニズムが転倒されると、類似性は内化された差異について語られ、同一性は一次的力能としての<差異あるもの>について語られるのである。同と同類の本質は、《見せかけ》であること、言いかえるなら、シミュラクルの作動を表現すること以外ではない。もはや選別は可能ではない。階層化されない作品は、共存の縮約、出来事の同時性である。これは、偽の請求者の勝利である。偽の請求者は、仮面を重ねて、父の振り、求婚者の振り、婚約者の振りをする。しかし、偽の請求者について、真理と想定されるモデルに比して偽と語ることはできないし、シミュレーションについて仮象・錯覚と語ることはできない。シミュレーションは幻想そのものである。言いかえるなら、機械設備、ディオニュソス的な機械としてのシミュラクルの作動の効果である。眼目は、力能としての偽、ニーチェが偽の最高の力と語る意味でのプセウドス〔=偽〕である。表面に上昇して、シミュラクルは、<同>と<相似>、モデルとコピーを偽の力能(幻想)の下に置く。シミュラクルは、分有の秩序、配分の固定、階層の決定を不可能にする。シミュラクルはノマド的配分と戴冠せるアナーキーの世界を創設する。シミュラクルは新たな基礎であるどころか、シミュラクルはすべての基礎を呑み込む。シミュラクルは、全般的基礎崩壊を確かなものにするが、それを、肯定的で喜ばしい出来事として、《脱基礎化》として行なう。『各洞窟の背後には、もっと深い別の洞窟が開けている。各地面の下には、もっと巨大で奇妙で豊かな地下世界が開けている。あらゆる地底の下に、あらゆる基礎の下に、もっと深い深奥が開かれている』」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.148~150」河出文庫)
さて、ベイトソンは簡略にこれまでの記述を要約する。一方で、母親の愛情表現に対応しようとして母親に一定以上接近すると逆に母親は不安に襲われ子供を罰する。子供にとって母親は社会的安全保障=軍事的防波堤の役割を与えられているため、その役割を果たしているかどうかが厳密に試されるような近過ぎる状況の成立には恐怖を伴う警戒を感じるからである。同時に他方、子供が同じ母親の愛情表現に対応しようとして母親から或る程度の距離を取ることを選択すると逆に母親から見れば母の愛とその尊厳を子供が拒絶しているかのように見えるため、その場合も子供は罰せられる。いずれにしても罰せられるのは子供である。さらに子供が、矛盾だらけの母親からの逃走線として母親以外の人間に依存しようとすると母親の愛を否定し出したかに見えるため、この場合も子供は罰せられる。親子関係を社会の基本単位とする世界では、子供はどのような外部を目指したとしてもコミュニケーション回路は「遮断」された状況のもとに厳格に拘束されるほかない。
「この節のポイントを要約しておこう。分裂症者は、ダブルバインディングな家族状況の中で、愛を装う母の行動に母の愛を見出してすりよっていけば、母は不安に駆りたてられ、わが子との近密さから身を守るために、子供を罰する(あるいは子供の側の表現こそ装われたものだと言いたてて、自分自身の行動がどんなメッセージを担うのかについて子供の認識を混乱させる)。母の『愛』に応える行動が、母との近密で安定した結びつきを阻害する結果を生むのである。しかし一方で、もし母親から発せられるいつわりの愛のメッセージに、愛のメッセージをもって応えなければ、母親はそこに自分が愛情に欠けた母親だという宣告を読み取って不安を借り立てられ、自分から離れようとしたことで子供を罰するか、または自ら子供に迫っていって、自分への愛を表現するようせきたてる。ここで子供がそれに応えて母への愛着を示せば、母親はふたたび脅威を感じるばかりか、わが子に愛を強要したことで自責の念に駆られもする。いずれにせよ、一生のうちで最も重要な、他の関係づくりのモデルになる幼児期の母子関係において、愛を示せばそれによって罰せられ、愛を示さなければそれによって罰せられ、しかも母親以外の人間に支えを求める逃げ道も遮断されるという状況に、その子供ははまりこむのだ。なお以上は、母子関係に生じるダブルバインドの基本的な性格を述べたものに過ぎず、『母』を重要な一部とする『家族』全体の、より複雑なしがらみの全体図を記述したものではないことを強調しておきたい」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.305~306』新思索社)
そういうわけで、多少なりともダブルバインド状況に陥った経験のない子供はいないということができる。そのうちどれだけの子供が主に思春期のあいだに統合失調を発症するかあるいはしたかという研究は、それ以外の多種多様な要素の絡み合いがどのように作用したかあるいはしなかったかによって様々に異なってくるため、正確に数値化することはできない。だが少なくとも幼少期にこのようなダブルバインド状況の経験なしに統合失調を発症する人間はほとんどいないといえる。大人になって、たとえば職場で、ダブルバインド(相反傾向、板挟み)に置かれる人々は大変多い。そのとき、幼少期に一度家庭内で経験した状況と極めて類似の状況が再現される。
しばしば見られるケースでは、ダブルバインドに置かれた大人の場合、爆発的自己破壊行為を実行してこれまで自分自身も加わって成立させてきただけでなく他の誰の目にも明らかに現前している事態を「ちゃら」にしてしまおうとする傾向が観察される。つい最近の世界でいえば、北朝鮮の金与正党第一副部長による南北共同事務所爆破であり、アメリカのボルトン元大統領補佐官による暴露本出版であり、韓国の文在寅政権の激怒である。そして日本政府が抱える拉致問題や北方領土問題、さらに戦後七十年以上に渡って続いてきた政権と電通との濃密で問題だらけの暗い関係はまたしてもその影に隠されたまま、特に拉致問題当事者はさらに遠くへ置き去りにされるといった方向へ突き放される。
なお、電通が絡んでいるときいつも問題になることがある。それは戦後電通が満州引きあげ組の有力者によって組織されたということだけでなく、戦前戦中からすでに単なる通信社ではなく旧満州や中国各地で諜報宣伝をも兼ねた通信事業を展開していたという事実であり、意外なほどあっけなく巣鴨プリズンから釈放された人々を問題にしなくてはならない事情による。東京裁判で東條英機はじめ軍事的実務面での戦犯らが過酷な刑を受けたのと比べると驚くべき対照をなしている。なるほど暴露本出版は面白いかもしれない。けれども戦後四年目にして起きた「下山事件」についての説明はいったいいつになれば公開されるのだろうか。アメリカも朝鮮半島も日本政府も、東西冷戦時代に自分たちの手でやったことの「亡霊」に怯え切っている。東西冷戦は終わった。東西冷戦は一度「死んだ」。「死んだ」からこそ「亡霊」は出現する。その構造はたいへんシステマティックで理にかなっている。
「ヨーロッパに幽霊が出るーーー共産主義という幽霊である」(マルクス=エンゲルス「共産党宣言・P.37」岩波文庫)
一八四八年に書かれた文章である。このとき一度、パリのプロレタリアートは数千人単位で虐殺されている。
「パリのプロレタリアートは、ヨーロッパの内乱史上最も巨大な事件である《六月蜂起》でこたえた。ブルジョア共和制が勝利を得た。ブルジョア共和制の側には、金融貴族、産業ブルジョアジー、知識分子、坊主、農村住民がついた。パリのプロレタリアートの側には、彼ら自身のほかだれもいなかった。勝利のあとで、三〇〇〇人以上の蜂起者が虐殺され、一万五〇〇〇人が判決もなしに流刑に処せられた。この敗北とともに、プロレタリアートは革命の舞台の《後景》にひっこんでしまう」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.28」国民文庫)
繰り返せば、アメリカも朝鮮半島も日本政府も、東西冷戦時代に自分たちの手でやったことの「亡霊」に怯え切っている。東西冷戦は終わった。東西冷戦は一度「死んだ」。だから東西冷戦の主役たちはその後継者(暴露主義者、爆破演出家、激情家ら)と御用評論家に向けてこう言うべきだろう。
「死んだ者の葬式は、死んだ者にまかせよ」(「新約聖書・マタイ福音書・第八章・P.91」岩波文庫)
そうでないと、冷戦後を生きる人々が未来のためにせっかく希望を捨てないでいようと世界を懸命になって支えているにもかかわらず、東西冷戦時代の主役たちによって滅茶苦茶にされた世界の現状に阻害されて未来の事業に取り組めないでいるからだ。その中で今の日本政府の立場というのはどのようなものだと考えられるだろうか。
「イスラエルの子らが彼らに言うには『われわれはエジプトの地でヤハウェの手にかかって死んだ方がましだった。われわれは肉の鍋のそばにすわり、あきるまでパンを食べることが出来たのに。ところが君たちはわれわれをこの荒野に導き出して、この全集会を飢え死にさせようとしている』」(「旧約聖書・出エジプト記・第十六章・P.49~50」岩波文庫)
世界中で有名な故事だ。「われわれは肉の鍋のそばにすわり、あきるまでパンを食べることが出来た」。要するに臣下として従順である限り危険の少ない隷属状態でよければ保障された。ところが「君たちはわれわれをこの荒野に導き出して、この全集会を飢え死にさせようとしている」。世界秩序を担う先進諸国の一角として引くに引けない試練の旅に全国民を導き出そうとしている。そういうことだ。自信過剰は常に躓(つまず)く。古代ギリシアから延々と続く歴史の掟である。さらに、いつも歴史センスにうとい日本政府が自信過剰になるとあたかもアキレウスのような死に方を選ぶしかない。これまでもそうだった。アキレウスの母テティスはあらかじめ、子アキレウスは早死にするだろうという予言を受けていた。だから我が子アキレウスをトロイア戦争への参加から回避させようと動いた。ところが。
「アキレウスが九歳になった時に、カルカースが彼なくしてはトロイアーを攻略することができないと言ったので、テティスは彼が軍に加われば必ず死ななくてはならぬことを予知し、女装の下に彼を隠し、乙女としてリュコメーデースにあずけた。そしてそこで育てられるうちにリュコメーデースの娘デーイダメイアと交わり、後にネオプトレモスと呼ばれた男の子ピュロスが生れた。しかし秘密が顕われ、オデュッセウスはリュコメーデースの所にアキレウスを求め、喇叭(らっぱ)を用いて見破った。かくて彼はトロイアーに赴いた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.159~160」岩波文庫)
こうしてトロイアに赴いたアキレウスはトロイア戦争でその急所(=アキレス腱)を射たれて早死にした。ただ、当時は女性の場合も足首を射たれる場合が大変多い。古代ギリシアの文献にはサンダルと足首との美を讃仰する文章が至るところに出てくる。たとえばソクラテスらが大いに議論を繰り広げる「饗宴」。発言者はなるほどソクラテスやアルキビアデスたちだ。けれども、傍らに侍っている稚児については何も書かれていない。ほとんど誰もが稚児を連れていることは当然なので省略されている。また稚児というのは、日本の戦国時代でもそうだが、個人的趣味嗜好によって多くは美少年が選ばれる。美少年の特徴はその美しい足首に顕著だ。古代ギリシアの服装で目に見える部分はほとんどサンダルを履いた足首だったため、戦争になれば性別を問わず、身体の発条(ばね)として機能するだけでなくその魅惑的な美の中心である足首に狙いを付けられたことがわかる。だから射られた側は力と美との両方を失うことになるのである。
さらに、人間は神々と切り離された存在だと開き直って宣言したのはシェイクスピア「リチャード三世」であることも頭に置いておこう。グロスター(リチャード三世)は冒頭で述べる。
「グロスター おためごかしの自然にだまされて、美しい五体の均整などあったものか、寸たらずに切詰められ、ぶざまな半出来のまま、この世に投げやりに放りだされたというわけだ。歪(ゆが)んでいる、びっこだ、そばを通れば、犬も吠(ほ)える。そうさ、そういう俺に、戦(いくさ)も終り、笛や太鼓に踊る懦弱(だじゃく)な御時世が、一体どんな楽しみを見つけてくれるというのだ。日なたで自分の影法師にそっと眺(なが)め入り、そのぶざまな形を肴(さかな)に、即興の小唄(こうた)でも口ずさむしか手はあるまい、口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、そうと決れば、道は一つ、思いきり悪党になって見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪(のろ)ってやる」(シェイクスピア「リチャード三世・第一幕第一場・P.11~12」新潮文庫)
古代ギリシア芸術に見られる「美しい五体の均整」を神々の側へとすっかり編入し、同時に「歪(ゆが)んでいる、びっこだ、そばを通れば、犬も吠(ほ)える。そうさ、そういう俺に、戦(いくさ)も終り、笛や太鼓に踊る懦弱(だじゃく)な御時世が、一体どんな楽しみを見つけてくれるというのだ。日なたで自分の影法師にそっと眺(なが)め入り、そのぶざまな形を肴(さかな)に、即興の小唄(こうた)でも口ずさむしか手はあるまい、口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、そうと決れば、道は一つ、思いきり悪党になって見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪(のろ)ってやる」として、人間宣言したのはほかでもないシェイクスピアだった。この辺りから歴史は近代の序曲とでもいうべきものを奏で始める。そして今や人間は単純に人間でしかない。ニーチェいわく「神は死んだ」。そして近代という試練の時期をたくましく生きられる見込みのない先王はグロスター(リチャード三世)によって葬られる。
「グロスター 改めて王の口からお礼を言ってもらいたいものだ、そこへ送りとどけてさしあげたのだから、この地上よりは、あちらの方が、遥(はる)かにふさわしいとなればな」(シェイクスピア「リチャード三世・第一幕第二場・P.23」新潮文庫)
日本政府は二〇二〇年になってようやく立たされるべき立場に立たされるに至った。グロスターなら訊ねるだろう。
「この地上」か「あちらの方」か、日本政府にとってどちらが「遥(はる)かにふさわしい」かと。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)
作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
さらに。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
ダブルバインド状況から統合失調者が出現する家族において顕著に見られる一般的傾向について、続けよう。子供がメタレベルのメッセージに《ついて》何か言うことが禁止されている。常に禁止されている。メタレベルに立って何か言うということはダブルバインド状況に《ついて》何か言うということ、ここには何か矛盾があるということに言及すること、を意味する。そしてその矛盾した状況を作り上げているのはほかでもない母親自身だと告発することになってしまう。子供は母親がいつも発している言動に《ついて》、そこには矛盾があると指摘することを禁じられている。そしてこの禁止がダブルバインド状況を長期間にわたって長引かせれば長引かせるほど、子供のコミュニケーション能力の発達は著しく阻害され続けることになる。そうして「子供はコミュニケーションについてコミュニケートする能力を身につけていくことができず、その結果、相手の真の意図をくみ、自分の真の思いを表現するという、正常な関係にとって基本的な能力に欠けた人間に育っていく」。
「正常な会話では、『どういう意味?』『なんでそんなことをしたの?』『からかっているんだろう?』といったメタ・レベルのメッセージが絶えず取り交わされる。相手が言葉の意図を正しく識別するためには、直接間接に相手の表現に《ついて》何かを言うことができなくてはならない。このメタ・コミュニケーションのレベルを、分裂症者はうまく用いることができないようなのである。その理由は、いままで述べてきた母親のコミュニケーション行動から明らかだろう。彼女がある等級のメッセージを打ち消そうとしているとき、彼女の発言に《ついて》の発言はすべて彼女の脅威となり、彼女はそれを禁じなくてはいられない。そのために、子供はコミュニケーションについてコミュニケートする能力を身につけていくことができず、その結果、相手の真の意図をくみ、自分の真の思いを表現するという、正常な関係にとって基本的な能力に欠けた人間に育っていくのである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.305』新思索社)
それが一九五〇年代のアメリカで大量発生してきた若年の統合失調者をめぐる家庭内の一般的状況であった。「神の死」以降「強い父」もまた死んだのであり、新しい神として資本主義がそれに取って代わった。いなくなった「強い父」の代わりにそれを模倣しようとする擬似的父親像を演じる人々が大量出現した。絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、をいいことに「虫のいい」男根至上主義を目指す政治的「俳優」がどばどば出現した。東西冷戦時代の世界はそのような「偽物」ばかりであふれかえっている。本物と偽物との境界線が失われたという意味ではない。もはやオリジナル(起源)とシミュラクル(見せかけ)との区別がそもそも不可能になったのだ。
「シミュラクルは、劣化したコピーではなく、《オリジナルとコピー》、《モデルと再現を》否定する積極的な力能を隠匿している。シミュラクルに内在化される少なくとも二つのセリーについて、どちらかをオリジナルやコピーとして指定することはできない。<他なるもの>のモデルを呼び出しても足りない。どんなモデルもシミュラクルの眩暈には抗えないからである。あらゆる観点に共通の対象がないように、特権的な観点もない。階層も可能ではない。二番目もなく、三番目もなくーーー類似性は存続しているが、類似性は、発散するセリーがシミュラクルを構築してシミュラクルを共鳴させる分だけ、シミュラクルの外部効果として生産される。同一性は存続しているが、同一性は、あらゆるセリーを巻き込んで強制運動の際に各セリーを各セリーに回帰させる法則として生産される。プラトニズムが転倒されると、類似性は内化された差異について語られ、同一性は一次的力能としての<差異あるもの>について語られるのである。同と同類の本質は、《見せかけ》であること、言いかえるなら、シミュラクルの作動を表現すること以外ではない。もはや選別は可能ではない。階層化されない作品は、共存の縮約、出来事の同時性である。これは、偽の請求者の勝利である。偽の請求者は、仮面を重ねて、父の振り、求婚者の振り、婚約者の振りをする。しかし、偽の請求者について、真理と想定されるモデルに比して偽と語ることはできないし、シミュレーションについて仮象・錯覚と語ることはできない。シミュレーションは幻想そのものである。言いかえるなら、機械設備、ディオニュソス的な機械としてのシミュラクルの作動の効果である。眼目は、力能としての偽、ニーチェが偽の最高の力と語る意味でのプセウドス〔=偽〕である。表面に上昇して、シミュラクルは、<同>と<相似>、モデルとコピーを偽の力能(幻想)の下に置く。シミュラクルは、分有の秩序、配分の固定、階層の決定を不可能にする。シミュラクルはノマド的配分と戴冠せるアナーキーの世界を創設する。シミュラクルは新たな基礎であるどころか、シミュラクルはすべての基礎を呑み込む。シミュラクルは、全般的基礎崩壊を確かなものにするが、それを、肯定的で喜ばしい出来事として、《脱基礎化》として行なう。『各洞窟の背後には、もっと深い別の洞窟が開けている。各地面の下には、もっと巨大で奇妙で豊かな地下世界が開けている。あらゆる地底の下に、あらゆる基礎の下に、もっと深い深奥が開かれている』」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.148~150」河出文庫)
さて、ベイトソンは簡略にこれまでの記述を要約する。一方で、母親の愛情表現に対応しようとして母親に一定以上接近すると逆に母親は不安に襲われ子供を罰する。子供にとって母親は社会的安全保障=軍事的防波堤の役割を与えられているため、その役割を果たしているかどうかが厳密に試されるような近過ぎる状況の成立には恐怖を伴う警戒を感じるからである。同時に他方、子供が同じ母親の愛情表現に対応しようとして母親から或る程度の距離を取ることを選択すると逆に母親から見れば母の愛とその尊厳を子供が拒絶しているかのように見えるため、その場合も子供は罰せられる。いずれにしても罰せられるのは子供である。さらに子供が、矛盾だらけの母親からの逃走線として母親以外の人間に依存しようとすると母親の愛を否定し出したかに見えるため、この場合も子供は罰せられる。親子関係を社会の基本単位とする世界では、子供はどのような外部を目指したとしてもコミュニケーション回路は「遮断」された状況のもとに厳格に拘束されるほかない。
「この節のポイントを要約しておこう。分裂症者は、ダブルバインディングな家族状況の中で、愛を装う母の行動に母の愛を見出してすりよっていけば、母は不安に駆りたてられ、わが子との近密さから身を守るために、子供を罰する(あるいは子供の側の表現こそ装われたものだと言いたてて、自分自身の行動がどんなメッセージを担うのかについて子供の認識を混乱させる)。母の『愛』に応える行動が、母との近密で安定した結びつきを阻害する結果を生むのである。しかし一方で、もし母親から発せられるいつわりの愛のメッセージに、愛のメッセージをもって応えなければ、母親はそこに自分が愛情に欠けた母親だという宣告を読み取って不安を借り立てられ、自分から離れようとしたことで子供を罰するか、または自ら子供に迫っていって、自分への愛を表現するようせきたてる。ここで子供がそれに応えて母への愛着を示せば、母親はふたたび脅威を感じるばかりか、わが子に愛を強要したことで自責の念に駆られもする。いずれにせよ、一生のうちで最も重要な、他の関係づくりのモデルになる幼児期の母子関係において、愛を示せばそれによって罰せられ、愛を示さなければそれによって罰せられ、しかも母親以外の人間に支えを求める逃げ道も遮断されるという状況に、その子供ははまりこむのだ。なお以上は、母子関係に生じるダブルバインドの基本的な性格を述べたものに過ぎず、『母』を重要な一部とする『家族』全体の、より複雑なしがらみの全体図を記述したものではないことを強調しておきたい」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.305~306』新思索社)
そういうわけで、多少なりともダブルバインド状況に陥った経験のない子供はいないということができる。そのうちどれだけの子供が主に思春期のあいだに統合失調を発症するかあるいはしたかという研究は、それ以外の多種多様な要素の絡み合いがどのように作用したかあるいはしなかったかによって様々に異なってくるため、正確に数値化することはできない。だが少なくとも幼少期にこのようなダブルバインド状況の経験なしに統合失調を発症する人間はほとんどいないといえる。大人になって、たとえば職場で、ダブルバインド(相反傾向、板挟み)に置かれる人々は大変多い。そのとき、幼少期に一度家庭内で経験した状況と極めて類似の状況が再現される。
しばしば見られるケースでは、ダブルバインドに置かれた大人の場合、爆発的自己破壊行為を実行してこれまで自分自身も加わって成立させてきただけでなく他の誰の目にも明らかに現前している事態を「ちゃら」にしてしまおうとする傾向が観察される。つい最近の世界でいえば、北朝鮮の金与正党第一副部長による南北共同事務所爆破であり、アメリカのボルトン元大統領補佐官による暴露本出版であり、韓国の文在寅政権の激怒である。そして日本政府が抱える拉致問題や北方領土問題、さらに戦後七十年以上に渡って続いてきた政権と電通との濃密で問題だらけの暗い関係はまたしてもその影に隠されたまま、特に拉致問題当事者はさらに遠くへ置き去りにされるといった方向へ突き放される。
なお、電通が絡んでいるときいつも問題になることがある。それは戦後電通が満州引きあげ組の有力者によって組織されたということだけでなく、戦前戦中からすでに単なる通信社ではなく旧満州や中国各地で諜報宣伝をも兼ねた通信事業を展開していたという事実であり、意外なほどあっけなく巣鴨プリズンから釈放された人々を問題にしなくてはならない事情による。東京裁判で東條英機はじめ軍事的実務面での戦犯らが過酷な刑を受けたのと比べると驚くべき対照をなしている。なるほど暴露本出版は面白いかもしれない。けれども戦後四年目にして起きた「下山事件」についての説明はいったいいつになれば公開されるのだろうか。アメリカも朝鮮半島も日本政府も、東西冷戦時代に自分たちの手でやったことの「亡霊」に怯え切っている。東西冷戦は終わった。東西冷戦は一度「死んだ」。「死んだ」からこそ「亡霊」は出現する。その構造はたいへんシステマティックで理にかなっている。
「ヨーロッパに幽霊が出るーーー共産主義という幽霊である」(マルクス=エンゲルス「共産党宣言・P.37」岩波文庫)
一八四八年に書かれた文章である。このとき一度、パリのプロレタリアートは数千人単位で虐殺されている。
「パリのプロレタリアートは、ヨーロッパの内乱史上最も巨大な事件である《六月蜂起》でこたえた。ブルジョア共和制が勝利を得た。ブルジョア共和制の側には、金融貴族、産業ブルジョアジー、知識分子、坊主、農村住民がついた。パリのプロレタリアートの側には、彼ら自身のほかだれもいなかった。勝利のあとで、三〇〇〇人以上の蜂起者が虐殺され、一万五〇〇〇人が判決もなしに流刑に処せられた。この敗北とともに、プロレタリアートは革命の舞台の《後景》にひっこんでしまう」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.28」国民文庫)
繰り返せば、アメリカも朝鮮半島も日本政府も、東西冷戦時代に自分たちの手でやったことの「亡霊」に怯え切っている。東西冷戦は終わった。東西冷戦は一度「死んだ」。だから東西冷戦の主役たちはその後継者(暴露主義者、爆破演出家、激情家ら)と御用評論家に向けてこう言うべきだろう。
「死んだ者の葬式は、死んだ者にまかせよ」(「新約聖書・マタイ福音書・第八章・P.91」岩波文庫)
そうでないと、冷戦後を生きる人々が未来のためにせっかく希望を捨てないでいようと世界を懸命になって支えているにもかかわらず、東西冷戦時代の主役たちによって滅茶苦茶にされた世界の現状に阻害されて未来の事業に取り組めないでいるからだ。その中で今の日本政府の立場というのはどのようなものだと考えられるだろうか。
「イスラエルの子らが彼らに言うには『われわれはエジプトの地でヤハウェの手にかかって死んだ方がましだった。われわれは肉の鍋のそばにすわり、あきるまでパンを食べることが出来たのに。ところが君たちはわれわれをこの荒野に導き出して、この全集会を飢え死にさせようとしている』」(「旧約聖書・出エジプト記・第十六章・P.49~50」岩波文庫)
世界中で有名な故事だ。「われわれは肉の鍋のそばにすわり、あきるまでパンを食べることが出来た」。要するに臣下として従順である限り危険の少ない隷属状態でよければ保障された。ところが「君たちはわれわれをこの荒野に導き出して、この全集会を飢え死にさせようとしている」。世界秩序を担う先進諸国の一角として引くに引けない試練の旅に全国民を導き出そうとしている。そういうことだ。自信過剰は常に躓(つまず)く。古代ギリシアから延々と続く歴史の掟である。さらに、いつも歴史センスにうとい日本政府が自信過剰になるとあたかもアキレウスのような死に方を選ぶしかない。これまでもそうだった。アキレウスの母テティスはあらかじめ、子アキレウスは早死にするだろうという予言を受けていた。だから我が子アキレウスをトロイア戦争への参加から回避させようと動いた。ところが。
「アキレウスが九歳になった時に、カルカースが彼なくしてはトロイアーを攻略することができないと言ったので、テティスは彼が軍に加われば必ず死ななくてはならぬことを予知し、女装の下に彼を隠し、乙女としてリュコメーデースにあずけた。そしてそこで育てられるうちにリュコメーデースの娘デーイダメイアと交わり、後にネオプトレモスと呼ばれた男の子ピュロスが生れた。しかし秘密が顕われ、オデュッセウスはリュコメーデースの所にアキレウスを求め、喇叭(らっぱ)を用いて見破った。かくて彼はトロイアーに赴いた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.159~160」岩波文庫)
こうしてトロイアに赴いたアキレウスはトロイア戦争でその急所(=アキレス腱)を射たれて早死にした。ただ、当時は女性の場合も足首を射たれる場合が大変多い。古代ギリシアの文献にはサンダルと足首との美を讃仰する文章が至るところに出てくる。たとえばソクラテスらが大いに議論を繰り広げる「饗宴」。発言者はなるほどソクラテスやアルキビアデスたちだ。けれども、傍らに侍っている稚児については何も書かれていない。ほとんど誰もが稚児を連れていることは当然なので省略されている。また稚児というのは、日本の戦国時代でもそうだが、個人的趣味嗜好によって多くは美少年が選ばれる。美少年の特徴はその美しい足首に顕著だ。古代ギリシアの服装で目に見える部分はほとんどサンダルを履いた足首だったため、戦争になれば性別を問わず、身体の発条(ばね)として機能するだけでなくその魅惑的な美の中心である足首に狙いを付けられたことがわかる。だから射られた側は力と美との両方を失うことになるのである。
さらに、人間は神々と切り離された存在だと開き直って宣言したのはシェイクスピア「リチャード三世」であることも頭に置いておこう。グロスター(リチャード三世)は冒頭で述べる。
「グロスター おためごかしの自然にだまされて、美しい五体の均整などあったものか、寸たらずに切詰められ、ぶざまな半出来のまま、この世に投げやりに放りだされたというわけだ。歪(ゆが)んでいる、びっこだ、そばを通れば、犬も吠(ほ)える。そうさ、そういう俺に、戦(いくさ)も終り、笛や太鼓に踊る懦弱(だじゃく)な御時世が、一体どんな楽しみを見つけてくれるというのだ。日なたで自分の影法師にそっと眺(なが)め入り、そのぶざまな形を肴(さかな)に、即興の小唄(こうた)でも口ずさむしか手はあるまい、口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、そうと決れば、道は一つ、思いきり悪党になって見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪(のろ)ってやる」(シェイクスピア「リチャード三世・第一幕第一場・P.11~12」新潮文庫)
古代ギリシア芸術に見られる「美しい五体の均整」を神々の側へとすっかり編入し、同時に「歪(ゆが)んでいる、びっこだ、そばを通れば、犬も吠(ほ)える。そうさ、そういう俺に、戦(いくさ)も終り、笛や太鼓に踊る懦弱(だじゃく)な御時世が、一体どんな楽しみを見つけてくれるというのだ。日なたで自分の影法師にそっと眺(なが)め入り、そのぶざまな形を肴(さかな)に、即興の小唄(こうた)でも口ずさむしか手はあるまい、口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、そうと決れば、道は一つ、思いきり悪党になって見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪(のろ)ってやる」として、人間宣言したのはほかでもないシェイクスピアだった。この辺りから歴史は近代の序曲とでもいうべきものを奏で始める。そして今や人間は単純に人間でしかない。ニーチェいわく「神は死んだ」。そして近代という試練の時期をたくましく生きられる見込みのない先王はグロスター(リチャード三世)によって葬られる。
「グロスター 改めて王の口からお礼を言ってもらいたいものだ、そこへ送りとどけてさしあげたのだから、この地上よりは、あちらの方が、遥(はる)かにふさわしいとなればな」(シェイクスピア「リチャード三世・第一幕第二場・P.23」新潮文庫)
日本政府は二〇二〇年になってようやく立たされるべき立場に立たされるに至った。グロスターなら訊ねるだろう。
「この地上」か「あちらの方」か、日本政府にとってどちらが「遥(はる)かにふさわしい」かと。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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