白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部14

2020年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム
ネルヴァルは自分の恋愛感情について、それが《欲望》の連鎖という形態を取ることを隠さない。「シルヴィ」でアドリエンヌのベアトリーチェ化、シルヴィのアドリエンヌ化、オーレリーのアドリエンヌ化、が起きたように。アドリエンヌ=ベアトリーチェ=シルヴィ=オーレリーという系列の顕在化があったし、それはいつでも想起反復できる。そしてその自覚はネルヴァルの場合、性別を問わず他の人々にも寛大な態度となって現われる。

「彼には何も恐れる必要などなかった。なぜなら私は、だれかが私と同じように恋するのを責めるにはあまりに公正な男ですから。その点で私は、詩人ラシーヌが夢見た空想上の怪物ネロンとは違うのです。私だってためらいなくローマを燃やすでしょうが」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.29』岩波文庫)

その意味でラシーヌが描いた皇帝ネロとは違うという。しかしローマを燃やす意志は一致している。この場合、ローマを燃やすことが皇帝ネロに《なる》こと、ネルヴァルにとっての、ネロへの生成変化を意味する。さらに「空想上」のネロと違うというのはネルヴァルなら現実においても妥協しない態度の表明でもある。劇場を燃え上がらせることも辞さないというわけだ。ところが実際そんなことはしないのだが。要するにラシーヌは演出上ローマを燃やすという物わかりのよい「怪物」であって害はない。ネルヴァルは演出の枠組みを超越した本物の「怪物」であろうとしてローマに見立てた劇場を燃え上がらせようとする。にもかかわらず実際そうはしない。馬鹿げたことだと承知している。だがそのように分別をわきまえ、たただ単なる劇作家の一人として受け取られるのは心外である。ネルヴァルが拒否しているのはニーチェのいう「家畜化、一般化、記号化」だからだ。「だれかが私と同じように恋するのを責める」ことをしないのは、だから、他の人々をも同時に「家畜化」してしまうことを用心深く避けるためである。ネルヴァルにはラシーヌでもアレクサンドル・デュマでもない、ほかでもないネルヴァルだという自負がある。なお、次の一節に出てくる「健康=高慢」と「全能」とは別に考えねばならない。

「私が自分の年齢や力に物を言わせ、さらには健康を回復するとともによみがえった高慢さゆえに、全能にして公平な、わが夢と人生の女神である女性の選択や気まぐれを責めたりしないよう、天の御加護があらんことを!」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.29』岩波文庫)

ネルヴァルの夢に登場する女性たちがどれほど「気まぐれ」であってもそれを責めてはならないとネルヴァルは願う。しかしネルヴァルの夢でなくても実際の女性たちは実にしばしば「気まぐれ」だ。性別に関係なく恋愛感情というのは始めから善悪を知らない《欲望》として出現する。平凡な事実に過ぎない。だが平凡な事実について言葉で説明しようとするとたまらなく難解な説明、というよりほとんど思想的難問を積み上げねばならないほど厄介で始末に負えないものになるのが常だ。日本でも小林秀雄は、人間に関する理解について、限りなく平凡なことを言葉で語ろうとすると限りなく難解にならざるを得ないというようなことを言っているが、恋愛感情についてはまさしくそうだというほかない。だからといって、何らの手続きも踏むことなくいきなり抱きついたりしてはならない。そんなことは当たり前であって、とりわけネルヴァルはそういった事細かな配慮を気にするタイプだった。誰もがそれぞれのアリアドネを持っているのであり、さらにアリアドネはアリアドネである以上、それを所有することは永遠にできないしすべきでないという意識もはっきりしている。ネルヴァルの場合、所有ということがどれほど不遜な行為なのかを知ってしまっているため所有ではないにしても、しかし今度はもっと取り扱いにくい超越論的探求へと向かう。

「迷宮のような人間というものは、けっして真理をではなくて、つねにおのれのアリアドネだけを探し求める」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一七〇・P.101」ちくま学芸文庫)

しかしなぜよりいっそう厄介なのか。

「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)

ところで「全能」あるいは全能感、万能感でも構わないと思うわけだが、この感覚は精神的変調が激しい時期に特徴的なものだ。或る種の統合失調症の前駆症状として出現する場合がときどきある。個人差はあるもののアルコールや特定の薬物でも同じような作用が出現する。作品「オーレリア」の冒頭部分にこうある。

「何故自分でこの病気という言葉を用いるのか我ながら判らぬのである。何故なら、私自身からいえば、嘗て自らこれほど健康を覚えたことはなかったのだ。時として私は自分の力と活力が倍になったような気がした。一切を知り、一切を理解するように思われた。想像は限りない歓びを齎した。人々が理性と呼ぶものを回復したら、かかる歓びを失ったことを悲しまねばならぬようになるであろうか?」(ネルヴァル「オーレリア・P.5~6」岩波文庫)

その兆候をネルヴァルの書簡から読み取ったアレクサンドル・デュマは次のように論評している。

「『また別の日には自分が狂人になったものと思い込み、どのようにして狂ったかを、さも快活に楽しげに、愉快な筋立てをもりこんで話すので、幻想と幻覚の国へと導いていくこのガイドのあとを追って、だれもが狂人になりたくなってしまう』」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.14』岩波文庫)

だが、ただ単に「狂人」と言ってしまうとこれまた単純過ぎるような気がしなくもない。むしろアルトーの「ヘリオガバルス」に近いものがあるように思われる。

「回転するイメージのなか、受肉したウェヌスの血をひくこの魅惑的で二重の性質のなか、彼の驚くべき性的矛盾のなかには、両性具有的なものよりはるかにずっと、最も厳密な精神の論理のイメージそのものに見えるものがあるが、それこそは《アナーキー》の観念なのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.154」河出文庫)

ネルヴァルはいう。「限界を移動する」と。

「私は快活と暢気を装った。変化と気まぐれにうつつを抜かして、世界を駆け廻った。私は殊に、遠い国の住民達の異様な衣裳と風俗とを好んだ。かくして自分が善悪の条件、謂わばわれわれフランス人にとっての《感情》を成すものの限界を、移動するように思えた」(ネルヴァル「オーレリア・P.6」岩波文庫)

移動すること。軽快になること。さらに移動には様々な移動がある。

「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

探せばもっと身近なところにも様々な「旅」が見つかるかもしれない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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