白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部34

2020年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ネルヴァルがカバラの名を上げている箇所について。幾つかあるが主題化されている部分。

「私は嘗てカバラの書を何冊か集めた。この研究に没頭して、私は幾多の世紀に亘り人間精神がこの点に関して蓄積したところは一切が真であると信ずるに到った。外的世界の存在に就いて懐いていた確信は、あまりにもよく私の読書と符合して、爾来過去の啓示を疑うことは到底できなかった」(ネルヴァル「オーレリア・P.53~54」岩波文庫)

ネルヴァルの夢と幻想という創作戦略が身体から精神の遊離を前提して実践されている以上、そしてそれが成功している以上、夢と幻想について不必要な神秘化を図る必要性は全然ない。しかし幻想的場面を描くにあたって「輪廻=反復」という方法を取っている箇所が至るところに見られる。作品「アレクサンドル・デュマへ」での「ネルヴァル=アキレウス=皇帝ネロ=怪物=見世物=客寄せ用にぴったりの《カロ風の化け物》」の系列。作品「シルヴィ」での「アドリエンヌ=シルヴィ=ベアトリーチェ=オーレリー」の系列。作品「オクタヴィ」での「オクタヴィ=手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)=イタリアの若い女性=魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女」の系列。また、「輪廻転生と魂の不滅」というテーマについて「アレクサンドル・デュマへ」でこう述べている。

「創り出すとは結局のところ思い出すことだ、とある人間探求家は述べています。わが主人公が実在した証拠を見つけられぬまま、私はにわかに魂の転生を、ピタゴラスやピエール・ルルーにも負けないくらい熱心に信じ込んだのです」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.16』岩波文庫)

「輪廻転生と魂の不滅」についてはルルーの影響によるところが大きいとされている。ルルーは十八世紀末から十九世紀前半に活躍した思想家である。十八世紀後半に出現したルソーを始め一七八九年フランス革命前後に続々と登場してきた彼ら一群のユートピア的社会主義者に共通している思想はただ単なる「輪廻=反復」ではなく、ルネサンスを新しく始めようとする「再生」の思想が主題化されている点だ。「輪廻=反復=再生」。死と再生そして創造という壮大なテーマの出現を見ないわけにはいかない。たとえば「創り出すとは結局のところ思い出すことだ」という一節にしてすでにプラトン哲学が反復されている。

「自分で自分の中に知識をふたたび把握し直すということは、想起するということにほかならないのではないだろうか?」(プラトン「メノン・P.66」岩波文庫)

さらに「輪廻転生と魂の不滅」というテーマについて、ルルー、ヴォワズノン、モンクリフ、クレビヨン・フィスらを待つまでもなく、それらは古代ギリシア哲学の中でほぼ出揃っている。列挙しよう。

「人間の魂は不死なるものであって、ときには生涯を終えたりーーーそれが普通『死』と呼ばれているーーーときにはふたたび生まれてきたりするけれども、しかし滅びてしまうことはけっしてない」(プラトン「メノン・P.47」岩波文庫)

「死とは、魂の肉体からの分離に他ならないのではないか。すなわち、一方では、肉体が魂から分離されてそれ自身だけとなり、他方では、魂が肉体から分離されてそれ自身単独に存在していること、これが死んでいる、ということではないか。死とは、これ以外のなにか他のものでありうるだろうか」(プラトン「パイドン・P.30」岩波文庫)

「『では、死を受け入れないものを、われわれは何と呼ぶかね』『不死なるもの、と呼びます』『魂は死を受け入れないのではないか』『受け入れません』『それなら、魂は不死なるものだ』」(プラトン「パイドン・P.147」岩波文庫)

「それぞれの魂は、自分たちがそこからやって来たもとの同じところへ、一万年の間は帰り着かない。それだけの時がたたないと、翼が生じないからである」(プラトン「パイドロス・P.65」岩波文庫)

「すなわち、まず、死ということだが、それは、ぼくの見るところでは、二つのもの、つまり魂と身体とが、互いに分離するということにほかならない」(プラトン「ゴルギアス・P.238」岩波文庫)

さて、カバラに関しエリアーデから引用を続ける。

「メルカバーをめぐる文献と並んで、中世にひろまり、ディアスポラのあらゆる地域で知られるようになった文書がある。わずか数ページからなるセーフェル・イェツィラー、『創造の書』である。作者や成立年代(おそらく五または六世紀)については知られていない。内容は宇宙創造論、宇宙構造論についての簡潔な記述である。著者は、『明らかにギリシアの文献から影響を受けた自分の思想を、天地創造やメルカバーの教理に関するタルムードの教えと調和させようと』努めている。『そして、この試みにおいて初めて、われわれはメルカバーをめぐる諸観念を思弁的に再解釈していく態度に出会うのである』」(エリアーデ「世界宗教史5・P.263」ちくま学芸文庫)

さらに。

「ユダヤ教の秘教的神秘主義における格別の産物として、カバラーがある。この言葉は、ほぼ『伝承』といった意味である(『受けとる』を意味する語根KBLに由来)」(エリアーデ「世界宗教史5・P.266」ちくま学芸文庫)

紀元後の聖書研究と同時に行われてきた色彩が強い。それ以前には体系的なものではなくユダヤ教の単なる異端として取り扱われた程度である。古代ギリシア、西アジア、インド(ウパニシャッド)哲学などの影響を受け入れた辺りから独自性が徐々に顕著化しているようにおもわれる。

「この新しい宗教上の創造物は、しばしば異端的色彩を帯びることもあったグノーシス主義の遺産や、(『汎神論』という不適切な呼称を与えられてきた)宇宙的宗教性のもつ諸構造を、ユダヤ教の正統に忠実にとどまりながら再生させるものであった」(エリアーデ「世界宗教史5・P.266」ちくま学芸文庫)

グノーシス主義というのはキリスト教発生当時すでにあった。しかしグノーシス的なものが有力な諸宗教の中の秘儀的要素として存在感を増していく過程は、他の非常に多くの宗教が多かれ少なかれグノーシス的なものを狡猾に吸収して自分自身の教義の中に含めていく過程と一致する。それについては後で述べたい。

「本来の意味でのカバラーが述べられている最古の文献は、『バヒール』とよばれる書物である。この文書は不完全な断片的な形で伝えられ、幾層もの資料で構成されている。内容も曖昧でぎこちない。『バヒール』は、十二世紀にプロヴァンス地方で、さらに古い文献を素材に編纂された。とくに『ラーザー・ラッパー』(『大いなる秘義』)は重要で、これは一部の東方(オリエント)の著述家たちが貴重な秘教の書とみなしていたものである。『バヒール』に展開されている教説が、東方ーーーより正確にはグノーシス派ーーー起源であることに疑問の余地はない。ユダヤ教のさまざまな古文献中に確認されている古いグノーシス派著述家たちの思弁が、ここにも見いだされるからである。たとえば、男性および女性のアイオーンたち、プレーローマや魂の樹、グノーシス派の二重のソフィア(娘にして花嫁)に用いられたのと類似の表現で叙述されるシェヒナーなど」(エリアーデ「世界宗教史5・P.266~267」ちくま学芸文庫)

ここでもまだ漠然たる印象を拭えない。当時の世界というのは地中海とそのほんの周辺だけがほとんどすべてだった。だからとりわけ東方(オリエント)由来の文献や宗教が正統的なものに対する抵抗部分を形成する形で取り入れられていったようである。なかでもシャーマニズムを含む宇宙創造神話は、中央アジア、インド(ウパニシャッド)、東南アジア、などからの伝播・影響を受けつつ徐々に成立していった様子がうかがえる。

「カバラーは宇宙的な型(タイプ)の宗教性に結びついたいくつかの神話や思想を、ユダヤ教に導入した。タルムードに規定された儀礼や労働で生を神聖化するだけでなく、自然と人間の神話的価値づけ、神秘体験の重視、さらにはある種のグノーシス起源の思想などを、カバリストたちはユダヤ教にもたらした」(エリアーデ「世界宗教史5・P.271」ちくま学芸文庫)

なかでも「神秘体験の重視」は古代キリスト教でも普通に見られた慣習である。そしてこの危険な賭けは膨大な数の失敗者を生んだこともまた有名である。

「《道徳の歴史における狂気の意義》。ーーー紀元前数千年の間、またその後一般に今日にいたるまで(われわれ自身は、例外としての小さな世界に、いわば悪い地帯に住んでいる)、人類のすべての共同存在がその下で暮らしてきたあのおそろしい『風習の倫理』の重圧にもかかわらず、ーーー実際、それにもかかわらず、新しい逸(そ)れた思想や、評価や衝動が再三再四突発するのは、おそろしい護衛者がいたからできたのである。新しい思想に道を拓(ひら)き、尊敬されていた習慣や迷信の束縛を破るのは、ほとんどいたるところで狂気なのである。諸君はそれを、なぜそれが狂気でなければならなかったかを、分かっているか?嵐や海の悪魔的な気まぐれのように声や身振りで戦慄(せんりつ)を催させる測りがたいもの、それ故に同じような畏怖と観察に値するあるものを?癲癇(てんかん)症状の痙攣(けいれん)や泡のように、完全に自由意志的でないことの徴候を明白に見せ、狂気の者をこのように神性の仮面および伝声筒として特色づけるように見えたあるものを?新しい思想の持ち主自身に、自己に対する畏怖と恐怖を与え、もはや良心の呵責(かしゃく)は与えず、さらに彼を駆り立てて新しい思想の予言者と殉教者たらしめた、あるものを?ーーー天才には一粒の塩の代わりに少しの狂気草が与えられているということが、われわれに今日もなお再三再四しきりに説かれるのに、あらゆる以前の人間にとっては、狂気が存在するところではどこでも、一粒の天才と叡知もまた存在するーーー彼らが耳うちされたように、何か『神的なもの』が存在する、という思想の方がずっと明白であった。あるいはむしろ彼らの心中を十分力強く表現していた。『狂気によって最大の財産がギリシアに来た』、とプラトンは古代人類全体とともに言った。われわれはさらに一歩進もう。何らかの倫理の桎梏(しっこく)を破って新しい法を与えようとする、反抗しがたい魅力に誘われたすべてのあの優れた人間たちにとっては、《彼らが本当に狂気でないときには》、自分を狂気にするか、あるいは狂気のふりをするより外には何も道はなかった。ーーーしかもこのことは、あらゆる領域の改革者にあてはまるのであって、単に司祭や政治の制度だけにあてはまるのではない。ーーー詩の韻律の改革者ですら、狂気によって自己を確証しなければならなかった(ずっと穏やかな時代にいたるまで、その理由から詩人たちには狂気のある種の慣例が残存した。たとえばソロンは、彼がアテナイ人にサラミス島の再占領を煽動したとき、この慣例によったのである)。ーーー『狂気でなく、狂気のふりをする勇気もないとき、いかにして自己を狂気にするか?』このおそろしい思想の跡を、古代文明のほとんどすべての重要な人間たちはたどったのである。そのような熟慮と意図の無垢の感情、それどころか神聖の感情とならんで、骨(こつ)と食餌の注意の秘密の教えが伝えられた。アメリカ・インディアンにおいて魔術者に、中世のキリスト教徒において聖者に、グリーンランド人において魔法使いに、ブラジル人においてパフェなる処方は本質的に同じである。すなわち、馬鹿げた断食や、連続した性的抑制や、沙漠に行ったり、山に登ったり、柱頭に登ったり、あるいは『湖を見渡す古い柳の木の上に座り』、有頂天の状態と精神の無秩序を必然的に伴い得るもの以外は全く何も考えないことである。おそらくあらゆる時代のほかならぬ最も実り豊かな人間たちが思い悩んだであろう、最も辛い、また最も過剰な魂の危機の混乱を、だれがあえて一瞥(いちべつ)するであろうか!あの孤独な途方にくれた者たちの呻吟(しんぎん)を、だれがあえて耳にするであろうか。『ああ、天にいますものよ、どうか狂気をお与え下さい!私が結局私自身を信じるように、狂気をお恵み下さい!譫妄(せんもう)と痙攣を、突然の光と闇をお与え下さい。どんな死すべき者もまだ感じたことのない酷寒と灼熱(しゃくねつ)で私を脅かして下さい。咆哮(ほうこう)とさまよい歩く姿のもので脅かして下さい。私を吼(ほ)えさせ呻(うめ)かせ動物のようにはわせて下さい。ただ私が私自身において信仰を見出すように!法は私を不安にします。もし私が法より《以上》のものでないなら、私はすべてのものの中で最も罰あたりのものであります。私の内面の新しい精神は、それがもしあなたたちからのものでないとしたら、どこに由来するのですか?私があなたたちのものであることの証(あか)しを、どうか私に示して下さい。狂気だけが私にその証しを立ててくれるのです』。そして頻繁にすぎるくらい、この熱情はその目標に実によく到達した。キリスト教が自らの実り豊かさの証しを聖者と荒野の隠遁者たちに最もゆたかに示し、そのことによって自らを自分で証明したと思ったあの時代に、イェルサレムには、挫折した聖者たちのために、その最後の一粒の塩を放棄してしまったあの人々のために、大きな精神病院があったのである」(ニーチェ「曙光・十四・P.30~33」ちくま学芸文庫)

ではネルヴァルの場合、どのように考えればいいのか。たとえば次のような文章について。

「この観念は私にすぐ可感のものとなり、そして、宛かも室の壁が無限の遠景に臨んで開けたかのように、自分がその中に居り且つその全体が自分自身であるところの、連綿と続いた一連の男女を見るように思われた。あらゆる民族の衣裳、あらゆる国々の姿が、宛かも私の注意能力が互いに混ずることなく幾つにも殖えたかのように、一世紀の事蹟を一瞬の夢に籠める時間現象に類した空間現象によって、一時に歴々と現われ出た」(ネルヴァル「オーレリア・P.20~21」岩波文庫)

ボードレールはネルヴァルをエドガー・ポーと並べて論じている。

「感嘆すべき廉潔の人、高い知性のもちぬしで、しかも《常に正常であった》一人の作家(ジェラール・ド・ネルヴァル)が、慎(つつし)み深く、誰にも迷惑をかけずに、ーーーその慎みが侮辱にさも似るほどに慎み深く、ーーー彼の見出し得た限り最も暗黒な街路へ行って自らの魂を解き放った」(ボードレール「エドガー・ポー、その生涯と作品」『ボードレール批評3・P.104』ちくま学芸文庫)

同時にボードレールはエドガー・ポーについて「アメリカの空気に息がつまった」詩人として「ユリイカ」の冒頭を書いたのだと述べる。

「思考する人よりも感ずる性向(たち)の方々へーーー夢想家へ、そして単なるさまざまな現実と同様に夢のことどもを信ずる方々へ、私はこの《真理の書》を捧げます」(エドガー・アラン・ポオ「ユリイカ」『ポオ 詩と詩論・P.282』創元推理文庫)

とすればネルヴァルはフランス=パリの空気に息がつまってしまって首吊り自殺したのだろうか。さらに「アメリカの空気に息がつまった」詩人エドガー・ポー。ポーはアルコール依存症の果てに酒場で昏倒し運ばれた病院で死んだわけだが。すると今や「主体化した死」が主導する現代社会の中で、日本人は日本の空気に息がつまってしまい、《欲望する》「器官なき身体」を生きていく(溶けたバターと化する)ほかないということなのだろうか。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM1

BGM2

BGM3

BGM4

BGM5

BGM6

BGM7

BGM8

BGM9

BGM10