白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部18

2020年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
ネルヴァルは夢の中で移動する。「ライン河の畔り」へ。どうやら「母方の叔父の住居」のようだ。

「或る夜、私は確かに、ライン河の畔りに運ばれたような気がした。私の正面には遠く闇にほの見える物凄い巖石が在った。私はとある楽しげな家にはいった。夕日の光が葡萄に縁取られた緑の窓扉に悦ばしそうに射していた。私は知った住居、もう一世紀以上も前に死んだフラマンの画家だった母方の叔父の住居に戻るように思った」(ネルヴァル「オーレリア・P.17」岩波文庫)

家の中へ入ってみるネルヴァル。或る部屋の「赤い大きな花模様のペルシア更紗を飾った、柱付き寝台の上に横たわった」。すると部屋の「時計の上で一羽の鳥が人間のように話し始めた」のだが、ネルヴァルはそれを「私の祖父の魂がこの鳥の中にいると考えた」。そして「鳥の言葉と形を別に怪しまなかったと同じように」、自分が「一世紀後(あと)引き戻されているらしいことも」確実だと考える。

「私は、赤い大きな花模様のペルシア更紗を飾った、柱付き寝台の上に横たわった。私の正面には、田舎風の時計が壁に掛かっていて、その時計の上で一羽の鳥が人間のように話し始めた。この時私は、私の祖父の魂がこの鳥の中にいると考えた。そして鳥の言葉と形を別に怪しまなかったと同じように、自分が一世紀後(あと)引き戻されているらしいことも怪しまなかった」(ネルヴァル「オーレリア・P.17」岩波文庫)

同様の状況に置かれた場合、人間身体は同様の精神状態を惹起させるだろう。スピノザはいう。

「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)

さらに。

「定理一八 人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。ーーー人間はある物の表象像に刺激されている間は、たとえその物が存在していなくとも、それを現在するものとして観想するであろう、そしてその物の表象像が過去あるいは未来の時間の表象像と結合する限りにおいてでなくては、それを過去あるいは未来のものとして表象しない。だから物の表象像は、単にそれ自体において見れば、それが未来ないし過去の時間に関係したものであろうと現在に関係したものであろうと同じである。言いかえれば身体の状態あるいは感情は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。したがって喜びおよび悲しみの感情は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。

備考一 私がここで物を過去のものとか未来のものとか呼ぶのは、我々がその物によって刺激されたかあるいは刺激されるであろう限りにおいてである。例えば我々がある物を見たかあるいは見るであろう、ある物が我々を活気づけたかあるいは活気づけるであろう、ある物が我々を害したかあるいは害するであろう──などなどの限りにおいて、私はその物を過去のものあるいは未来のものと呼ぶのである。なぜなら、物をそのようなふうに表象する限りにおいて、我々はその物の存在を肯定している。言いかえれば身体はその物の存在を排除するいかなる感情にも刺激されない。したがって身体はその物の表象像によってあたかもその物自身が現在したであろう場合と同じ仕方で刺激される。ではあるがしかし、数々の経験をもつ人々は、物を未来あるいは過去のものとして観想する間は、大抵動揺して、その物の結果について多くは疑惑を有するから、したがって事物のこの種の表象像から生ずる感情はさほど確乎たるものではなく、人々がその物の結果について確実になるまでは、しばしば他の事物の表象像によって乱される。

備考二 今しがた述べたことからことどもから、我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち《希望》とは《我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜び》にほかならない。これに反して《恐怖》とは《同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみ》である。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は《安堵》となり、恐怖は《絶望》となる。すなわちそれは《我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみ》である。次に《歓喜》とは《我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜び》である。最後に《落胆》とは《歓喜に対立する悲しみ》である」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一八・備考2・P.187~189」岩波文庫)

そして。

「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫)

これら三つの条件を兼ね備えているがゆえ人間身体は、一方で物質としての微粒子の様々な運動であり、他方で強度としての情動の様々な運動であるといえる。ドゥルーズ=ガタリ流にいえば、そのように「一定の強度をもって空間を占める物質」が「器官なき身体」だということになる。

さて「小鳥の声」の連想は「オクタヴィ」の手紙の中でこう響いている。ネルヴァルを見て若い女性は何度も「あなた、悲しいの?」と問いかける。イタリア語はほとんどわからないので話しかけないでほしいと言ってネルヴァルは答えを濁す。するとネルヴァルが「オーレリア」の中で叔父の家の部屋にいるとき「鳥の言葉と形を別に怪しまなかったと同じように」若い女性は「鳥がさえずるような魅力あふれる声」で「話し出し」た。

「彼女は突然、これまでに聞いたこともない言葉で話し出しました。響きのよい喉音(こうおん)の、鳥がさえずるような魅力あふれる声で、おそらく原初の言葉なのでしょう」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.360』岩波文庫)

ネルヴァルにとって人間が喋る言葉はしばしば億劫を催すことがあっても「鳥の声」で喋りかけられるのなら疑いもなくすんなり受け入れることができる性質があるようだ。「鳥がさえずるような魅力あふれる声」を放ちながら若い女性は赤ん坊をあやしている。ネルヴァルにとってその姿が「あだっぽい魅力に満ちて」見える。そこでやや露骨な描写が見られる。「あだっぽい魅力に満ちて」いる女性を見ているネルヴァルには「目の前のものが回り出すような気がし」てくる。「ヴェスヴィオ山の灼熱のワインの効き目」すなわち世界的に有名な活火山の噴火にも似た興奮の高まりとともに「めまい」に襲われる。

「ヴェスヴィオ山の灼熱のワインの効き目にあまり慣れていない私は、目の前のものが回り出すような気がしました。風変わりな様子をし、華麗に飾り立てた、誇らかで気まぐれなこの女は、魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女の一人かと思えました」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.361』岩波文庫)

このときネルヴァルの目に映った若い女性の姿はあたかも「魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女」かと思える。「魂=“spirit”=精神=活力」と交換に「夢」を与える「魔女」。そこまで手紙に書いておきながら、しかし誘惑に打ち勝ったと述べる。なぜなら。

「これもまた夢にすぎず、あなただけがその夢に君臨なさっていた」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.361』岩波文庫)

明らかにネルヴァルは手紙の相手に性的欲望が他の女性へ転移したことを打ち明けている。一度整理すると、この箇所で手紙について述べるきっかけになったのはイタリア旅行で出会ったオクタヴィ。オクタヴィから手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)、手紙の相手(或る女性=あなた)からイタリアの若い女性、イタリアの若い女性から「魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女」への系列がある。なお、オクタヴィとの出会いと同時に知り合いのガルガッロ公爵夫人とその「美の三姉妹のような」娘たちとの出会いがあるが、それらを含めたとしてもなお、その頂点には手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)が「君臨」していることになっている。けれどもオクタヴィとの鮮烈な出会いなしにこれらの系列の出現がなかったことは言うまでもない。誘惑する女性として夢の中に登場してきた若い女性の「幻」を振り切ってネルヴァルは夜のナポリの街路をさまよう。「洞窟の上のポジリポの丘を登」る。そして「太陽がヴィラの屋根を金色に輝かせ始めた島々を眺めながら散策」を楽しむ。しかしネルヴァルの心境は、散策の楽しみにもかかわらず、或る「想念」に取り憑かれたままだ。ようやく燦然と輝き始めた太陽に照らされつつも。

「とはいえ心の内には、死の想念があった」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.362』岩波文庫)

ネルヴァルはただ単にもう取り返しのつかない恋愛対象の喪失からイタリア旅行を思いついたわけではない。手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)へ向けて一方的にリビドー(性的欲望)を注ぎ続けてきたために枯渇してしまった自分の力を他の地で回復させるための場所移動であり、だから、場所を移動し精力(=魂=“spirit”=精神=活力)が回復されるやすぐにパリへ戻ることが前提されている。ちなみにこのような場所移動について、いつ頃からか知らないが、俗に「感傷旅行」(センチメンタルジャーニー)と呼ばれるようになったことは勘違いにもほどがあると言わねばならないだろう。

太陽が新しく登り始めること。それは新生でもある。同時に太陽が光り輝けば光り輝くほど「死の想念」は影を濃くする形で逆に鮮明化する。一方の新生は他方の死とともにあり、他方の死を伴う限りで輝く。ところでネルヴァルは「丘の上」にいる。断崖絶壁の真上にいる。手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)に向けてこう書いている。

「女性は私がここにいることさえ知らないのです!愛されておらず、いつか愛される望みもないとは!そんな私の奇妙なありようについて、神様に説明をつけてもらおうという気になったのはその時でした。一歩、踏み出しさえすればよかったのです」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.362』岩波文庫)

しかし問題は「生か死か」では全然ない。もはや「死の想念」でいっぱいなのだ。生は太陽の側にあり、ネルヴァルは死の側を担っているばかりだ。ネルヴァルは断崖絶壁から「一歩、踏み出しさえすれば」すべてが決定される地点にいる。そこでどうするかどうか、あるいはどのような結果を招くことになったとしてもその「説明」は「神様」に「つけてもらおう」と考えている。もはや神の望むように自殺するかしないか、ではなく、いまやどうなっても構わないが、ただしその「説明」の義務は「神様」にあると考える。この瞬間ネルヴァルは、ニーチェのいう古代ギリシア人の心境に立ち至っている。

「『愚かさ』・『無分別』・少しばかりの『頭の狂い』、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として《許した》ーーー愚かさであって、罪では《ない》のだ!諸君にはそれがわかるかーーーしかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーーー『そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。《われわれ》高貴な素性(すじょう)の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?』ーーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。『きっと《神》が瞞(だま)したのに違いない』とついに彼は頭を振りながら自分に言ったーーーこの遁辞はギリシア人にとって《典型的なもの》だーーーこのように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろ《より高貴なもの》を、すなわち罪を身に引き受けたのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.113」岩波文庫)

しかし神々は説明の義務を免除される。ネルヴァルは死ななかったからだ。なぜかはオクタヴィとの出会いが関係してくる。しかし「鳥の声」の出現にあたり、たいへん似た状況に置かれた人間が、この場合はネルヴァルが、なぜ「鳥の声」を反復させることになったかについて、二つの同様の状況を比較しておかねばならない。一つはライン河の畔りの叔父の家。百年前の「赤い大きな花模様のペルシア更紗を飾った、柱付き寝台の上」だった。もう一つは手紙に書かれている。イタリア=ナポリの奇妙な幻想的雰囲気を漂わせる部屋である。前者については「オーレリア」から引いた。後者について。

第一に。「金蘭(きんらん)で覆われた黒い聖母像」は「ヴェスヴィオ山の灼熱」を出現させ「魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女」との繋がりから明らかなように男根の象徴であるほかなく、さらに女性の仕事はそれを「新調し」、そしてネルヴァルを「迎え入れ」ることとされている。

「金蘭(きんらん)で覆われた黒い聖母像の古い衣装を新調するのが、私を迎え入れてくれた女の仕事だった」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.359』岩波文庫)

第二に。すでに「子ども」が前提されている。

「向こう側では、紫色の薔薇の冠を戴いた聖ロザリオ像が、子どもの眠る揺りかごを守っている様子」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.359』岩波文庫)

第三に古代ヨーロッパにおいてずっと信仰されてきた生命誕生の条件が描かれる。

「石灰で白く塗った壁は、神話の神々を表す四大元素(地、水、火、風)の古い絵で飾られていました」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.359』岩波文庫)

このように両者(ライン河の畔りの叔父の家/イタリア=ナポリで出会った若い女性の寝室)ともにたいへん古風な舞台装置が設定されている。もっとも、この場面では古風なものなのだが、特に古いものでなくてもよい。重要なのは幻想的な異次元への移動が演出されている点にある。そして両者揃ってとてもよく似たイメージをネルヴァルの心身に喚起させたということ。さらにネルヴァル自身、オクタヴィとの出会いをきっかけとしてすでに複数の女性の系列を出現させていること。これらが複合するや人間の声は「鳥の声」へ変換され、シュルレアリズム的な意味で、まったく不可解でもなんでもないごく自然な言語として矛盾なくネルヴァルの知覚と溶け合うのである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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