デロシュの死。アルチュールのいう《殺人的な自殺》について。
「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)
作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
さらに。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
懐疑的になることには何ら問題はない。むしろ何も考えない態度がどれほど危険か。後者の態度は、今の日本でいえば、マスコミによる無数のお喋りが今の日本政府がどれほど無能かという事実を覆い隠しているのと似ている。マスコミ、とりわけワイドショーのような、様々な意味で一般市民(特に女性)を馬鹿扱いしている番組の場合には。コメンテーターとも司会者ともつかない俳優としての問題。演出《としての》マスコミ。挑発《としての》危険な煽り。
「《俳優の問題について》。ーーー俳優の問題は、きわめて永いこと私の心にかかっていたものだ。これを手がかりにしてこそ、『芸術家』という際どい概念ーーーこれまで赦せないほどの親切気をもって取り扱われてきた概念ーーーに近づけるのではないかどうかについて、私としては確信がもてなかった(いまだ時折は確信がなくなる)。良心の咎めもない虚偽とか、権力として奔出し、いわゆる『性格』を押しのけ、これを覆うて氾濫し、時としてはこれを払拭してしまうような、偽装への悦びとか、ある役割や仮面や《まやかし》といったものを切望する内的な要求とか、手近の目先だけの利益に仕えることにはもはや満足できないあらゆる種類の適応能力の過剰とか、こうしたことのすべては恐らく《ひとり》俳優《だけ》に限られたものではあるまい?ーーーそういった本能は、下層民衆の家庭のなかで、一番やすやすと造りあげられるものだろう。彼らは、つぎつぎに蒙る圧迫や強制の下にあって、どん底の隷属生活を送らなければならず、その境遇に従って臨機応変に身を処し、新しい事態にはつねに新しく順応し、くりかえし違った身振り素振りを見せなければならない。そこから次第に彼らは、風の《まにまに》マントを着流し、そのためマントそのものに化けてしまうほどにもなり、動物にあっては擬態と呼ばれるあの不断の隠れん坊遊びの化身そのものみたいな技術の名人とまでなれるようになる。こうしてついには、累代にわたって蓄積されたこの全能力が専横になり、やみくもなものになり、始末に負えないものにすらなって、それが本能と化して他の諸本能に命令を下すようになってしまう、かくして俳優を、『芸術家』というものを、生み出す次第だ(おどけ者、茶番役、おとぼけ野郎、阿呆者、道化役者を手はじめに、典型的な従僕、ジル・ブラースを生みだす。結局、こういうタイプの者のなかに、芸術家の前身が、のみならず実にしばしば『天才』の前身が、うかがわれるのだ)。もっと程度の高い社会的諸条件の下にあっても、以上のと似通った圧迫があるところには似通った種類の人間があらわれる。ただそういう場合には、たとえば『外交官』におけるように、大抵のところ俳優的本能が他の本能によってまだまだ抑制されている、ーーーさもあれ、有能な外交官ならば、もし事情がこれを『許す』となら、いつなんどきなりと意のままに立派な舞台俳優にもなれるだろう、と私には思われる。だがしかし、あの卓越した適応の技倆を身につけた民族である《ユダヤ人》に関して言えば、これまで述べた考え方に従うかぎりわれわれは、彼らのうちに前々から俳優訓育のための世界史的準備、本来の俳優孵化(ふか)場といったものを、見てとることができよう。のみならず次の問いこそはまことに時宜に適したものだーーー今日すぐれた俳優でユダヤ人ーーー《でない》ものなぞいるだろうか?さらにユダヤ人は生まれながらの文筆家として、ヨーロッパ新聞界の事実上の支配者として、この面での彼らの力を、その俳優的能力に基づいて発揮している」(ニーチェ「悦ばしき知識・三六一・P.415~417」ちくま学芸文庫)
とはいえニーチェはユダヤ人批判を行なっているのではまったくない。
「私は更に理想主義のうちのあの最近の投機者どもを、あのユダヤ人排斥者どもを好かない。奴らは今日キリスト教的・アーリア的・堅気者風な白眼をぎょろつかせており、そして最も安価な扇動手段、すわなち道徳的態度を全く我慢の出来ないくらい濫用することによって、民衆中の鈍間(のろま)どもを攪き立てようと努めている」(ニーチェ「道徳の系譜・P.202~203」岩波文庫)
だからニーチェはわざわざ、金儲けにうといために勝負に負け、挙げ句の果てにユダヤ人を国外追放しようとする「国粋主義者ども」の側を批判するのである。ニーチェが問題にしているのは言語とは何か、あるいは貨幣とは何か、債権/債務関係とは何か、罪と罰とはなぜいつもセットになっているのか、といった根本的な〔ラディカルな〕次元における諸問題についてである。社会的責任があり公共性も高いマスコミが言語を用いておきながら、一方で「専門家ではないのでわかりません」とでもいうかのようなみっともない逃亡が一切許されない世界〔世界標準=グローバル・スタンダード〕という地平に立って問いかけているわけだ。十九世紀末の欧米社会はそれくらい血なまぐさい一触即発の社会環境だったという証拠でもある。実際、ニーチェが死んで十五年後に第一次世界大戦が起こっている。なので、とりわけまだまだ女性が昼間に家の中に居るような時間帯を選んでワイドショーの中で或る種の役割を意図的に演じて見せるという態度、あまりにも茶化したり挑発したりし過ぎる態度ははっきりいって危険すぎるように思われる。マスコミの、とりわけワイドショーという放送枠は本当に必要なのだろうか、という点も含めて。必要だとすれば、ではなぜ国内の中央政権と直接結びついた様々な事件事故が問題とされているときに、なぜあえて国外の事件事故ばかりがほとんどを占めているのか。どこまで在宅者(今の日本では主に女性)を馬鹿にすれば気が済むというのだろうか。視聴者は「コメンテーター=司会者=批評家」としてテレビを見ることが少なくない。とすれば小林秀雄のいう「批評家」とその「文章=言葉」との関係は次のようになる。
「ある批評家が、ある作品を軽蔑する、だが、彼の心持ちに、決して烈しいものも積極的なものも豊富なものもあるわけでもない。そういう人の軽蔑は、ただ己れの貧寒を糊塗(こと)する口実に過ぎない。貧寒な精神が批評文を作る時、軽蔑的口調で述べれば豪(えら)そうに見えるだけの話だ、尤も豪(えら)そうにも見えはしないが、ともかく批評文の体裁をととのえる上に軽蔑口調は便利なだけの話なのだ。だから、心から軽蔑したいと思っている人はないので、みんなうっかり賞めたりするとお里が見透(みす)かされそうなものだから軽蔑なぞして澄ましている。ところがまずい事にはこの心根(こころね)がまた見透かされる。文章というものは恐ろしいものだ」(小林秀雄「批評について」『小林秀雄初期文芸論集・P.222』岩波文庫)
というのは、現在のマスコミ(とりわけワイドショー)は、あからさまに視聴者をからかい過ぎていると思われるからである。つい先日の北朝鮮拉致問題にしても、当事者らが日本政府のこれまでの対応を批判しているにもかかわらず、NHKはまるでそのようなことはないかのように報じたきり、そのまま放置している。民放は当事者らの言葉を拾って報じただけでコメンテーター陣はいつものような華々しくも空しいお喋りに花を咲かせたりしないで当たり障りのない憤懣を表明したに過ぎず沈黙したに近い。北方領土についても沖縄基地問題にしてもそうだ。あたかもそんな問題はないか、あってもすでに済んだかのように立ち振る舞っている。そのぶん「感染=パンデミック」に関する諸外国の対応について「民度が低い」などと財務相を引き合いに出して意図的に言い放って見せる出演者まで出てくる始末である。では「東京アラート」とは一体なんだったのか。答えられなければ話にならない。一般市民としては巻き込まれたくないのだが。東京や大阪は大都市なので地方都市在住者の心情にはとことんうといのかも知れない。けれども地方都市在住者から見れば東京や大阪ののぼせ上がりぶりと北朝鮮政府の挑発的な態度と、どこがどれほど違うのか、実にしばしばわからなくなるというのが実感である。
ところで民放各局番組のスポンサー関係者はどう思っているのだろうか。日本のように諸外国との貿易依存型多国籍企業を多く含むスポンサーは。二〇二〇年の「感染=パンデミック」はなるほど徐々に終息の方向に向かうだろう。すると今や中国抜きで資本回転することができなくなっている多数の多国籍企業複合体は再び中国への依存度を回復させて様々な生産現場をかつての水準まで戻さなければならない。するとたちまち香港民主化運動はさらなる混乱へ追いやられる。日本政府は米国政府とともに心中したいというのだろうか。中国への批判は継続すべきだ。しかしなお米国がよりいっそう中国に対する圧力をかけてきた場合、あるいは中国との国境断絶に近いような立場を要求してきた場合、今の政権ではとてもではないが適切な対応能力を持たない。
ちなみに暴力的措置を行使した問題の白人男性警官個人について何か言える立場ではないが、アメリカの白人という立場について、少なくとも日本のマスコミがともすれば忘れているのではと思うことならないではない。どういうことかというと、アメリカの白人のうちではもはや内面化されていてあまり表面化することはなくなったぶん、今回のような大規模デモを勃発させずにはおかない「黒人に対して《借り》がある」という「負い目」の感情についてである。ベトナム戦争を扱った文学や映画はたくさん制作されたのでアメリカ人でない諸外国人であってもよく知っているわけだが、戦場で先頭に立たされているのはほとんどいつも黒人である。歴史をもっとさかのぼってみると、白人富裕層が自己本位に不相応な大金を振り回して引き起こした一九二九年の世界大恐慌であるにもかかわらず、その景気回復策として採用されたケインズ「マーシャルプラン」という大規模公共事業の連発で低賃金重労働者として大量動員されたのは圧倒的に黒人が多い。わざわざ過去の奴隷制度までさかのぼらなくても、アメリカがソ連や中国を抜いて世界の警察の位置に上り詰めることができたのは白人ではなく黒人あるいは非白人らによるすべての労働力の支出があってこそである。黒人あるいは非白人らの低賃金重労働なしに今の合衆国はあり得なかったし今後もない。だから今回の大規模デモの根底にはもはやなかったことにできない歴史が、「黒人に対して《借り》がある」という「負い目」の感情が、抜きがたく深く横たわっているのだ。問題は白人警官一人にあるのではなく、ましてや現在のアメリカのネオリベラリズムがもたらした格差にのみあるわけでは何らない。
そしてまた、ネオリベラリズム導入による急速な格差拡大傾向はほどんどつい最近になってのさばり出した、合衆国の選挙結果によってさらに勢いを増した失敗策でしかない。しかしそれは選挙を経ている。だからなるほど一時的な国民の総意でしかないとはいっても、その責任は米国共和党支持者だけでなく合衆国全体が持つべきものだ。そしてなおかつデモはなぜ全土でなのか。デモ参加者はなぜほとんどすべての人種なのか。奴隷制度時代とかつい最近のネオリベラリズムがもたらした格差とかより遥かに根本的な次元で、アメリカ《合衆国》とは何ぞや?という問いが問われているのである。アメリカが危機に瀕するたびに、歴史的に、低賃金重労働で、少しずつ支払われる死でもって賄ってきたその当事者は誰なのかと。
さらに今回のデモがヨーロッパでの動きと連動しているのはただ単に植民地支配が問題だからとかネット社会だからとかいうばかりが理由ではない。「感染=パンデミック」の第二波ともいえる動向をなぜ日本のマスコミが特にイタリアを例に取り上げるのかさっぱり理解不能なのだが、イタリアのみならずフランスやドイツ、イギリスなど有力な観光資源から捻出される資本はまともにアメリカの国家財政に跳ね返ってくる。その事実を日本のマスコミはなぜもっと丁寧に報道しないのか。問題は複雑というより、少なくとも日本ではマスコミがわざわざ複雑に演出して見せている側面が多分にあるのであって、とりわけアメリカのデモの傾向は、「黒人に対して《借り》がある」という「負い目」が、行き場を失って内向した自虐的集団自殺として捉えるのがよりいっそう事実に近いようにおもわれる。白人警官による非白人に対する暴行殺害なら戦後、一九五〇年代のアメリカには幾らもあった。白人警官による非白人への数々の暴力的言動はなぜ起こるのか。精神医学の専門家なら「否認された去勢感情の反動としての奇妙な特徴」というだろう。日本も一度経験している。明治維新前後に爆発した武士階級同士の殺し合いのことだ。(作品「エミリー」でデロシュとヴィレルムとの準-義兄弟関係もまた「殺し合い」という形を取っているのはなぜか)。
幕末、日本の近代化を目指した思想家の系列。大阪大学の前身といえる適塾を主催した緒方洪庵。その塾頭を務めた大村益次郎の大日本軍国大国化構想。さらに塾頭を務めた福沢諭吉の「脱亜論」とそれに感化された人物らによる朝鮮半島侵攻の実現。同じく塾頭を務め後に軍医監として西南戦争に出兵し西郷隆盛を自決に追い込みさらに日清戦争では軍医総監として従軍し官位を与えられた石坂偉寛。また薩摩藩主=島津齊彬の蘭語かぶれによる薩摩藩の軍事要塞化と琉球の絶対支配下化。さらに中津藩の奥平壱岐はこれまた蘭語かぶれのあげく西洋軍事技術を推進し特に砲術に熱中し佐久間象山とともに砲台建設に取り組む。維新後は軍事かぶれのまま教育機関である文部省に出仕し自論を盛大に論じた。土佐藩主=山内豊信による洋式砲術・造船の推進。長州藩では伊藤博文、井上馨、遠藤勤助、野村弥吉、山尾傭三らがイギリスに密航していたが、とてもではないが勝負にならないと考えて表向きは攘夷(外国人殺戮)を装いつつ維新後に大久保利通暗殺を見届けた上で自分たちが新しく新政府の指揮を取る方向で動き出した。しかし最も奇妙な逆説が後々の敗戦に伴う東京裁判であからさまに明確化される。近代化とはただ単に資本主義国家へ転化するというだけのことではなく法治国家への転化ということでもある。日本もまた法律の制定に力を入れた。だから特にニュルンベルク軍事裁判でナチスドイツは法的規範に則って厳格に裁かれた。ところが同じように日本を法律によって裁こうとした連合国側は東京裁判において出現した異様な光景を目の当たりして戸惑いを隠せないという事態を催す。日本もまた近代国家として江戸時代よりも遥かに厳格な近代的法律を制定したはずであり諸外国もそれを確認している。ところが東京裁判ではいったい誰にどのような責任があるのかさっぱり判然としないという、諸外国ではあり得ない光景が展開されるに及び連合国サイドは当惑する。もっとも、すでに始まっていた東西冷戦の激化に備え、日米同盟の盾として天皇と天皇制とは残そうという政治的配慮はあったと言える。けれどもその他の高級軍人らののらりくらリした発言の数々は、幾ら何でも欧米の法的秩序に基づいた感覚からは理解不能なのである。法的秩序が成立しない裁判など考えられもしない。それは紛れもなく「言語による契約」というものがどれほど重要なものかという認識が戦後なお日本の政府高官のあいだでは浸透していないという信じがたい光景を世界中に晒すことに等しい。一九四五年にもなってそのような社会が残っていると世界中に晒すことは敗戦国が相手とはいえ、敗戦国の重要人物らをさらに侮辱することになってしまう。ところが事情はそういうことだということが日本の戦争責任者らの頭にはない。戦前の日本文学に見られる夏目漱石、森鴎外、そしてとりわけ二葉亭四迷の迷走が示している重大な意味は、昭和もすでに二〇年になってようやく判明してきたのである。
ところで明治維新前後に出現した思想的指導者の系列を見たところで、ひるがえって今のアメリカ社会を見てみる。中小零細はもちろん大手企業に務める人々は白人だけでなくほとんどすべての人種にまたがっている。ほとんどすべての企業戦士がどういうわけでか知らないが、かつての日本を襲った「江戸時代の武士階級」に特徴的な「薄氷感」でいっぱいだ。本当に明日があるのかどうか。資本主義を乗っ取ったネオリべラリズムはそれすら不透明にしてしまった。この流れをよりいっそう推し進め加速してきたのは世界中の有権者の多数派自身である。デモにはほとんどすべての人々が参加せざるを得ないのはそういう事情があるためだ。デモそのものに吸引力があるというのではなく、今回のデモではもはや書き換え不可能になっている歴史性が改めて問われている。そういう状態にまで立ち至ったと考えるのがごく自然なのではと思われる。
また、たかだかイデオロギーの一つに過ぎないネオリベラリズムに対しては、ほんの僅かなカウンター(対抗措置)として米連邦裁判所がこの十五日、LGBTに対して就労差別があったと認める判決を出してやや風向きを変えた。そんなふうに資本主義という原理的諸力の運動はあくまでも自己目的を押し貫く性質を顕著に持つ。そうして資本主義は資本主義自身の危機を自己修正し全滅を回避するわけである。日本のマスコミも少しは頭を使ってほしいと思うわけだが多分無理だろう。しかし無理はそういつまでも続かない。どんなアスリートにもいずれ限界がやってくるように。
そんなわけで、作品「エミリー」の主人公が置かれたダブルバインド状況は、今の日本が置かれている状況とたいへんよく似ている。このまま同様の条件下で事態が進行するとすればいずれ《殺人的自殺者》の増加は必至だ。実際、自殺者を出している。肝心の給付金は余りにものろのろしていて不十分極まりない。東京裁判で一度演じられた茶番劇の反復を見せつけられているかのようだ。今回の「感染=パンデミック」対応をめぐる日本政府の対応の問題性には目に余るものがあるわけだが、しかし業を煮やしている市民社会は今の政権によってマスコミが一斉に黙らされているように黙らされている。あたかも東西冷戦時代の東側社会のようだ。息苦しい。いつどこで誰が発狂したとしても何らおかしくないような空気である。
さて、ネルヴァル。問われているのはデロシュによる《殺人的な自殺》をダブルバインドという観点から捉えてみるという方法である。ネルヴァルが生きた時代にはまだそのような概念がなかった。だから後回しにしたというのも事情の一つである。しかしダブルバインド以前にヘーゲルはこの種の「狂気」について興味深い見解を述べている。転倒の上にさらなる転倒を繰り返し反復していくほかないという事情は、いつどのようにして生じてくるのか。前回、デロシュの変容について述べた。錯乱以前のデロシュから錯乱以後の「デロシュ’」への転化について。デロシュにはデロシュ自身が見えていないのではない。逆によく見えているからこそ起こってくる錯乱であり、錯乱というよりむしろ「空しさ」といったほうが適切なのだ。
「自己復帰の第一の面においては、あらゆる《事物の空しさ》は、自己《自身の空しさ》である、つまり自己は空しい《のである》。すべてを評価し、喋りまくるだけでなく、現実の固定した実在〔国家権力と財富〕や、判断の立てる固定した規定〔善悪、高貴下劣〕やが、《矛盾》していることを、精神(エスプリ)のある態度で語るすべを心得ているのは、自独存在〔対自存在、自立存在〕する自己である。この矛盾こそは、それらの実在や規定の真理なのである。ーーー形式上から考えれば、自己は、すべてのものが、自分自身と疎外関係にあることを、知っている。つまり、《対自存在》〔自独存在、自立存在〕は《自体存在》から、思いこんだことと目的は真実から、さらに《対他存在》が両者から、示されたものは本来の思いこみや真の事柄や意図から、離れているのである。ーーーかくて自己は、すべての契機が他の契機に対立していることを、一般にすべてのものが転倒していることを、正しく言い表わすすべを知っている。自己は、各々のものが何であるかを、それがどのように規定されていようと、そのものが在る以上によく知っている。自己が実体的なものを知っているのは、実体的なものが自分で統一している《不統一》と、《対抗》との面からであって、一つであるという面からではないから、自己は、実体的なものを、非常にうまく《評価する》ことを理解してはいるが、それを《把握する》能力は失っている。ーーーそのさい、この空しさは、すべての事物の外に出て、自己の意識を自分でもつために、すべての事物の空しさを必要とする、それゆえ、この空しさを自分で生み出すとともに、この空しさを支える眼目である」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.108~109」平凡社ライブラリー)
どこまで行ってもつきまとってくるであろう「空しさ」。ディドロ「ラモーの甥」についてヘーゲルが述べた箇所である。この種の「空しさ」がよりいっそう昂じるとニーチェが危険だと指摘している「ニヒリズム」に陥る。一九二九年大恐慌時のアメリカとドイツとが代表的。そしてどちらとも出口戦略として見出したのが第二次世界大戦勃発を自分自身の手で不可避的状態に追い込むという自殺的方法だった。敗戦後ドイツはそれでも戦後賠償を果たした。アメリカは今頃になってかつてない苦境に立たされている。イデオロギーに過ぎないネオリベラリズムに主導権を握らせて社会原理的な資本主義を放置し混同するといった、これまでのアメリカではあり得ないような国家と化した。
デロシュの行動に戻ろう。ネルヴァルに。たいへん興味をそそる症例である。しかしこの種の症例分析にあたって第一にスキゾフレニーの奇妙な形態として、次の諸条件を当てはめることができるかどうか、それが検討されなければならない。
「分裂症者の特異性は、隠喩に走る点ではなく、それが隠喩であることが表示されない隠喩を使う点にある、と明記すべきだ。分裂症者が不得手にするのは、とりわけ、他のメッセージの論理階型を明確にするメッセージを扱うことなのである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.293』新思索社)
どういうことか。
「分裂症の症候に関するわれわれの形式的概括が正しいものであり、また、分裂症の発生原因が本来的に家族内の相互作用にあるとするなら、その症候がどんな連続的体験から生み出されるものか、純論理的(アプリオリ)に煮詰めていくことが可能なはずだ。学習理論でも確かめられている、ひとつの明白な事実に注目しよう。それは、人間がコミュニケーション・モードを識別するのに《コンテクスト》の助けを得るということだ。この知識を活かすには、幼年期に受けたなんらかの具体的な『精神的外傷』ではなく、コミュニケーション・シークェンスの特徴的パターンを探っていかなくてはならない。われわれの求める特性は、抽象的で形式的なレベルにあるのだ。患者が、分裂症的コミュニケーションに走る精神的習性を身につけているとしたら、その習性が、どんな形式のコミュニケーション・シークェンスの中で育まれてきたのかを考えるのが適切である。言いかえれば、患者は、《その特異なコミュニケーションの習性がある意味で適切であるように出来事が継起する、どんな意味の宇宙に囚われているのか》、ということだ。われわれの提示する仮説は、患者が経験する外的な出来事の連続が、メッセージの整然とした論理階型化を阻止する、というものである。そうした解決のない経験のシークェンスこそ、われわれが『ダブルバインド』という用語で呼ぶものである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.293』新思索社)
ベイトソンはPTSD(心的外傷後ストレス症候群)を抜きにして論じているのではない。幼年期の精神的外傷というのはフロイトのいう意味での心的外傷(トラウマ)一般をいうのであって、デロシュの場合はそうではなく、「エミリー」の冒頭すでにPTSDを発症している。その上で、「地下壕」を経て、さらに別の戦地への場所移動を経て、そこで改めて激戦地に飛び込んでいる。飛び込み自殺を演じている。なぜ自殺なのか。気持ちの中では「中隊長」に任命されたときすでに決定されている。戦時はそれが錯乱に見えない。しかし中隊長としては明らかに錯乱している。デロシュはなぜ「デロシュ’」という「錯乱」《として》出現したのか。錯乱で《なければならなかった》のか。それが問題だ。
なお、ベイトソンのいう「メッセージの整然とした論理階型化を阻止する」場合とはどのような場合か。事例は幾らでもあるので、しばしば上げられる事例を述べるに留める。たとえば、或る人物が別の人物に「蒲団を持ってきてくれ」と頼んだとする。或る人物は田山花袋の小説「蒲団」を持ってきて欲しいというつもりで頼んだ。ところが頼まれた別の人物は寝るための蒲団を持ってきたとする。両者のあいだで起こっていることは何か。頼んだ側の或る人物が思い描いている「文脈」と頼まれた側の別の人物が思い描いている「文脈」とが異なっているという事態が判明したということが一つ。もう一つはその同じ場で相異なる二つの文脈が出現していること。禁止命令Aと禁止命令Bとが同じ場で同時に正面衝突していることである。この設定では、二人の社会的立場が同等である限りで、頼んだ側も頼まれた側も両者ともにダブルバインドされる。しかしさらに諸条件を詰めていく必要性がある。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
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「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)
作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
さらに。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
懐疑的になることには何ら問題はない。むしろ何も考えない態度がどれほど危険か。後者の態度は、今の日本でいえば、マスコミによる無数のお喋りが今の日本政府がどれほど無能かという事実を覆い隠しているのと似ている。マスコミ、とりわけワイドショーのような、様々な意味で一般市民(特に女性)を馬鹿扱いしている番組の場合には。コメンテーターとも司会者ともつかない俳優としての問題。演出《としての》マスコミ。挑発《としての》危険な煽り。
「《俳優の問題について》。ーーー俳優の問題は、きわめて永いこと私の心にかかっていたものだ。これを手がかりにしてこそ、『芸術家』という際どい概念ーーーこれまで赦せないほどの親切気をもって取り扱われてきた概念ーーーに近づけるのではないかどうかについて、私としては確信がもてなかった(いまだ時折は確信がなくなる)。良心の咎めもない虚偽とか、権力として奔出し、いわゆる『性格』を押しのけ、これを覆うて氾濫し、時としてはこれを払拭してしまうような、偽装への悦びとか、ある役割や仮面や《まやかし》といったものを切望する内的な要求とか、手近の目先だけの利益に仕えることにはもはや満足できないあらゆる種類の適応能力の過剰とか、こうしたことのすべては恐らく《ひとり》俳優《だけ》に限られたものではあるまい?ーーーそういった本能は、下層民衆の家庭のなかで、一番やすやすと造りあげられるものだろう。彼らは、つぎつぎに蒙る圧迫や強制の下にあって、どん底の隷属生活を送らなければならず、その境遇に従って臨機応変に身を処し、新しい事態にはつねに新しく順応し、くりかえし違った身振り素振りを見せなければならない。そこから次第に彼らは、風の《まにまに》マントを着流し、そのためマントそのものに化けてしまうほどにもなり、動物にあっては擬態と呼ばれるあの不断の隠れん坊遊びの化身そのものみたいな技術の名人とまでなれるようになる。こうしてついには、累代にわたって蓄積されたこの全能力が専横になり、やみくもなものになり、始末に負えないものにすらなって、それが本能と化して他の諸本能に命令を下すようになってしまう、かくして俳優を、『芸術家』というものを、生み出す次第だ(おどけ者、茶番役、おとぼけ野郎、阿呆者、道化役者を手はじめに、典型的な従僕、ジル・ブラースを生みだす。結局、こういうタイプの者のなかに、芸術家の前身が、のみならず実にしばしば『天才』の前身が、うかがわれるのだ)。もっと程度の高い社会的諸条件の下にあっても、以上のと似通った圧迫があるところには似通った種類の人間があらわれる。ただそういう場合には、たとえば『外交官』におけるように、大抵のところ俳優的本能が他の本能によってまだまだ抑制されている、ーーーさもあれ、有能な外交官ならば、もし事情がこれを『許す』となら、いつなんどきなりと意のままに立派な舞台俳優にもなれるだろう、と私には思われる。だがしかし、あの卓越した適応の技倆を身につけた民族である《ユダヤ人》に関して言えば、これまで述べた考え方に従うかぎりわれわれは、彼らのうちに前々から俳優訓育のための世界史的準備、本来の俳優孵化(ふか)場といったものを、見てとることができよう。のみならず次の問いこそはまことに時宜に適したものだーーー今日すぐれた俳優でユダヤ人ーーー《でない》ものなぞいるだろうか?さらにユダヤ人は生まれながらの文筆家として、ヨーロッパ新聞界の事実上の支配者として、この面での彼らの力を、その俳優的能力に基づいて発揮している」(ニーチェ「悦ばしき知識・三六一・P.415~417」ちくま学芸文庫)
とはいえニーチェはユダヤ人批判を行なっているのではまったくない。
「私は更に理想主義のうちのあの最近の投機者どもを、あのユダヤ人排斥者どもを好かない。奴らは今日キリスト教的・アーリア的・堅気者風な白眼をぎょろつかせており、そして最も安価な扇動手段、すわなち道徳的態度を全く我慢の出来ないくらい濫用することによって、民衆中の鈍間(のろま)どもを攪き立てようと努めている」(ニーチェ「道徳の系譜・P.202~203」岩波文庫)
だからニーチェはわざわざ、金儲けにうといために勝負に負け、挙げ句の果てにユダヤ人を国外追放しようとする「国粋主義者ども」の側を批判するのである。ニーチェが問題にしているのは言語とは何か、あるいは貨幣とは何か、債権/債務関係とは何か、罪と罰とはなぜいつもセットになっているのか、といった根本的な〔ラディカルな〕次元における諸問題についてである。社会的責任があり公共性も高いマスコミが言語を用いておきながら、一方で「専門家ではないのでわかりません」とでもいうかのようなみっともない逃亡が一切許されない世界〔世界標準=グローバル・スタンダード〕という地平に立って問いかけているわけだ。十九世紀末の欧米社会はそれくらい血なまぐさい一触即発の社会環境だったという証拠でもある。実際、ニーチェが死んで十五年後に第一次世界大戦が起こっている。なので、とりわけまだまだ女性が昼間に家の中に居るような時間帯を選んでワイドショーの中で或る種の役割を意図的に演じて見せるという態度、あまりにも茶化したり挑発したりし過ぎる態度ははっきりいって危険すぎるように思われる。マスコミの、とりわけワイドショーという放送枠は本当に必要なのだろうか、という点も含めて。必要だとすれば、ではなぜ国内の中央政権と直接結びついた様々な事件事故が問題とされているときに、なぜあえて国外の事件事故ばかりがほとんどを占めているのか。どこまで在宅者(今の日本では主に女性)を馬鹿にすれば気が済むというのだろうか。視聴者は「コメンテーター=司会者=批評家」としてテレビを見ることが少なくない。とすれば小林秀雄のいう「批評家」とその「文章=言葉」との関係は次のようになる。
「ある批評家が、ある作品を軽蔑する、だが、彼の心持ちに、決して烈しいものも積極的なものも豊富なものもあるわけでもない。そういう人の軽蔑は、ただ己れの貧寒を糊塗(こと)する口実に過ぎない。貧寒な精神が批評文を作る時、軽蔑的口調で述べれば豪(えら)そうに見えるだけの話だ、尤も豪(えら)そうにも見えはしないが、ともかく批評文の体裁をととのえる上に軽蔑口調は便利なだけの話なのだ。だから、心から軽蔑したいと思っている人はないので、みんなうっかり賞めたりするとお里が見透(みす)かされそうなものだから軽蔑なぞして澄ましている。ところがまずい事にはこの心根(こころね)がまた見透かされる。文章というものは恐ろしいものだ」(小林秀雄「批評について」『小林秀雄初期文芸論集・P.222』岩波文庫)
というのは、現在のマスコミ(とりわけワイドショー)は、あからさまに視聴者をからかい過ぎていると思われるからである。つい先日の北朝鮮拉致問題にしても、当事者らが日本政府のこれまでの対応を批判しているにもかかわらず、NHKはまるでそのようなことはないかのように報じたきり、そのまま放置している。民放は当事者らの言葉を拾って報じただけでコメンテーター陣はいつものような華々しくも空しいお喋りに花を咲かせたりしないで当たり障りのない憤懣を表明したに過ぎず沈黙したに近い。北方領土についても沖縄基地問題にしてもそうだ。あたかもそんな問題はないか、あってもすでに済んだかのように立ち振る舞っている。そのぶん「感染=パンデミック」に関する諸外国の対応について「民度が低い」などと財務相を引き合いに出して意図的に言い放って見せる出演者まで出てくる始末である。では「東京アラート」とは一体なんだったのか。答えられなければ話にならない。一般市民としては巻き込まれたくないのだが。東京や大阪は大都市なので地方都市在住者の心情にはとことんうといのかも知れない。けれども地方都市在住者から見れば東京や大阪ののぼせ上がりぶりと北朝鮮政府の挑発的な態度と、どこがどれほど違うのか、実にしばしばわからなくなるというのが実感である。
ところで民放各局番組のスポンサー関係者はどう思っているのだろうか。日本のように諸外国との貿易依存型多国籍企業を多く含むスポンサーは。二〇二〇年の「感染=パンデミック」はなるほど徐々に終息の方向に向かうだろう。すると今や中国抜きで資本回転することができなくなっている多数の多国籍企業複合体は再び中国への依存度を回復させて様々な生産現場をかつての水準まで戻さなければならない。するとたちまち香港民主化運動はさらなる混乱へ追いやられる。日本政府は米国政府とともに心中したいというのだろうか。中国への批判は継続すべきだ。しかしなお米国がよりいっそう中国に対する圧力をかけてきた場合、あるいは中国との国境断絶に近いような立場を要求してきた場合、今の政権ではとてもではないが適切な対応能力を持たない。
ちなみに暴力的措置を行使した問題の白人男性警官個人について何か言える立場ではないが、アメリカの白人という立場について、少なくとも日本のマスコミがともすれば忘れているのではと思うことならないではない。どういうことかというと、アメリカの白人のうちではもはや内面化されていてあまり表面化することはなくなったぶん、今回のような大規模デモを勃発させずにはおかない「黒人に対して《借り》がある」という「負い目」の感情についてである。ベトナム戦争を扱った文学や映画はたくさん制作されたのでアメリカ人でない諸外国人であってもよく知っているわけだが、戦場で先頭に立たされているのはほとんどいつも黒人である。歴史をもっとさかのぼってみると、白人富裕層が自己本位に不相応な大金を振り回して引き起こした一九二九年の世界大恐慌であるにもかかわらず、その景気回復策として採用されたケインズ「マーシャルプラン」という大規模公共事業の連発で低賃金重労働者として大量動員されたのは圧倒的に黒人が多い。わざわざ過去の奴隷制度までさかのぼらなくても、アメリカがソ連や中国を抜いて世界の警察の位置に上り詰めることができたのは白人ではなく黒人あるいは非白人らによるすべての労働力の支出があってこそである。黒人あるいは非白人らの低賃金重労働なしに今の合衆国はあり得なかったし今後もない。だから今回の大規模デモの根底にはもはやなかったことにできない歴史が、「黒人に対して《借り》がある」という「負い目」の感情が、抜きがたく深く横たわっているのだ。問題は白人警官一人にあるのではなく、ましてや現在のアメリカのネオリベラリズムがもたらした格差にのみあるわけでは何らない。
そしてまた、ネオリベラリズム導入による急速な格差拡大傾向はほどんどつい最近になってのさばり出した、合衆国の選挙結果によってさらに勢いを増した失敗策でしかない。しかしそれは選挙を経ている。だからなるほど一時的な国民の総意でしかないとはいっても、その責任は米国共和党支持者だけでなく合衆国全体が持つべきものだ。そしてなおかつデモはなぜ全土でなのか。デモ参加者はなぜほとんどすべての人種なのか。奴隷制度時代とかつい最近のネオリベラリズムがもたらした格差とかより遥かに根本的な次元で、アメリカ《合衆国》とは何ぞや?という問いが問われているのである。アメリカが危機に瀕するたびに、歴史的に、低賃金重労働で、少しずつ支払われる死でもって賄ってきたその当事者は誰なのかと。
さらに今回のデモがヨーロッパでの動きと連動しているのはただ単に植民地支配が問題だからとかネット社会だからとかいうばかりが理由ではない。「感染=パンデミック」の第二波ともいえる動向をなぜ日本のマスコミが特にイタリアを例に取り上げるのかさっぱり理解不能なのだが、イタリアのみならずフランスやドイツ、イギリスなど有力な観光資源から捻出される資本はまともにアメリカの国家財政に跳ね返ってくる。その事実を日本のマスコミはなぜもっと丁寧に報道しないのか。問題は複雑というより、少なくとも日本ではマスコミがわざわざ複雑に演出して見せている側面が多分にあるのであって、とりわけアメリカのデモの傾向は、「黒人に対して《借り》がある」という「負い目」が、行き場を失って内向した自虐的集団自殺として捉えるのがよりいっそう事実に近いようにおもわれる。白人警官による非白人に対する暴行殺害なら戦後、一九五〇年代のアメリカには幾らもあった。白人警官による非白人への数々の暴力的言動はなぜ起こるのか。精神医学の専門家なら「否認された去勢感情の反動としての奇妙な特徴」というだろう。日本も一度経験している。明治維新前後に爆発した武士階級同士の殺し合いのことだ。(作品「エミリー」でデロシュとヴィレルムとの準-義兄弟関係もまた「殺し合い」という形を取っているのはなぜか)。
幕末、日本の近代化を目指した思想家の系列。大阪大学の前身といえる適塾を主催した緒方洪庵。その塾頭を務めた大村益次郎の大日本軍国大国化構想。さらに塾頭を務めた福沢諭吉の「脱亜論」とそれに感化された人物らによる朝鮮半島侵攻の実現。同じく塾頭を務め後に軍医監として西南戦争に出兵し西郷隆盛を自決に追い込みさらに日清戦争では軍医総監として従軍し官位を与えられた石坂偉寛。また薩摩藩主=島津齊彬の蘭語かぶれによる薩摩藩の軍事要塞化と琉球の絶対支配下化。さらに中津藩の奥平壱岐はこれまた蘭語かぶれのあげく西洋軍事技術を推進し特に砲術に熱中し佐久間象山とともに砲台建設に取り組む。維新後は軍事かぶれのまま教育機関である文部省に出仕し自論を盛大に論じた。土佐藩主=山内豊信による洋式砲術・造船の推進。長州藩では伊藤博文、井上馨、遠藤勤助、野村弥吉、山尾傭三らがイギリスに密航していたが、とてもではないが勝負にならないと考えて表向きは攘夷(外国人殺戮)を装いつつ維新後に大久保利通暗殺を見届けた上で自分たちが新しく新政府の指揮を取る方向で動き出した。しかし最も奇妙な逆説が後々の敗戦に伴う東京裁判であからさまに明確化される。近代化とはただ単に資本主義国家へ転化するというだけのことではなく法治国家への転化ということでもある。日本もまた法律の制定に力を入れた。だから特にニュルンベルク軍事裁判でナチスドイツは法的規範に則って厳格に裁かれた。ところが同じように日本を法律によって裁こうとした連合国側は東京裁判において出現した異様な光景を目の当たりして戸惑いを隠せないという事態を催す。日本もまた近代国家として江戸時代よりも遥かに厳格な近代的法律を制定したはずであり諸外国もそれを確認している。ところが東京裁判ではいったい誰にどのような責任があるのかさっぱり判然としないという、諸外国ではあり得ない光景が展開されるに及び連合国サイドは当惑する。もっとも、すでに始まっていた東西冷戦の激化に備え、日米同盟の盾として天皇と天皇制とは残そうという政治的配慮はあったと言える。けれどもその他の高級軍人らののらりくらリした発言の数々は、幾ら何でも欧米の法的秩序に基づいた感覚からは理解不能なのである。法的秩序が成立しない裁判など考えられもしない。それは紛れもなく「言語による契約」というものがどれほど重要なものかという認識が戦後なお日本の政府高官のあいだでは浸透していないという信じがたい光景を世界中に晒すことに等しい。一九四五年にもなってそのような社会が残っていると世界中に晒すことは敗戦国が相手とはいえ、敗戦国の重要人物らをさらに侮辱することになってしまう。ところが事情はそういうことだということが日本の戦争責任者らの頭にはない。戦前の日本文学に見られる夏目漱石、森鴎外、そしてとりわけ二葉亭四迷の迷走が示している重大な意味は、昭和もすでに二〇年になってようやく判明してきたのである。
ところで明治維新前後に出現した思想的指導者の系列を見たところで、ひるがえって今のアメリカ社会を見てみる。中小零細はもちろん大手企業に務める人々は白人だけでなくほとんどすべての人種にまたがっている。ほとんどすべての企業戦士がどういうわけでか知らないが、かつての日本を襲った「江戸時代の武士階級」に特徴的な「薄氷感」でいっぱいだ。本当に明日があるのかどうか。資本主義を乗っ取ったネオリべラリズムはそれすら不透明にしてしまった。この流れをよりいっそう推し進め加速してきたのは世界中の有権者の多数派自身である。デモにはほとんどすべての人々が参加せざるを得ないのはそういう事情があるためだ。デモそのものに吸引力があるというのではなく、今回のデモではもはや書き換え不可能になっている歴史性が改めて問われている。そういう状態にまで立ち至ったと考えるのがごく自然なのではと思われる。
また、たかだかイデオロギーの一つに過ぎないネオリベラリズムに対しては、ほんの僅かなカウンター(対抗措置)として米連邦裁判所がこの十五日、LGBTに対して就労差別があったと認める判決を出してやや風向きを変えた。そんなふうに資本主義という原理的諸力の運動はあくまでも自己目的を押し貫く性質を顕著に持つ。そうして資本主義は資本主義自身の危機を自己修正し全滅を回避するわけである。日本のマスコミも少しは頭を使ってほしいと思うわけだが多分無理だろう。しかし無理はそういつまでも続かない。どんなアスリートにもいずれ限界がやってくるように。
そんなわけで、作品「エミリー」の主人公が置かれたダブルバインド状況は、今の日本が置かれている状況とたいへんよく似ている。このまま同様の条件下で事態が進行するとすればいずれ《殺人的自殺者》の増加は必至だ。実際、自殺者を出している。肝心の給付金は余りにものろのろしていて不十分極まりない。東京裁判で一度演じられた茶番劇の反復を見せつけられているかのようだ。今回の「感染=パンデミック」対応をめぐる日本政府の対応の問題性には目に余るものがあるわけだが、しかし業を煮やしている市民社会は今の政権によってマスコミが一斉に黙らされているように黙らされている。あたかも東西冷戦時代の東側社会のようだ。息苦しい。いつどこで誰が発狂したとしても何らおかしくないような空気である。
さて、ネルヴァル。問われているのはデロシュによる《殺人的な自殺》をダブルバインドという観点から捉えてみるという方法である。ネルヴァルが生きた時代にはまだそのような概念がなかった。だから後回しにしたというのも事情の一つである。しかしダブルバインド以前にヘーゲルはこの種の「狂気」について興味深い見解を述べている。転倒の上にさらなる転倒を繰り返し反復していくほかないという事情は、いつどのようにして生じてくるのか。前回、デロシュの変容について述べた。錯乱以前のデロシュから錯乱以後の「デロシュ’」への転化について。デロシュにはデロシュ自身が見えていないのではない。逆によく見えているからこそ起こってくる錯乱であり、錯乱というよりむしろ「空しさ」といったほうが適切なのだ。
「自己復帰の第一の面においては、あらゆる《事物の空しさ》は、自己《自身の空しさ》である、つまり自己は空しい《のである》。すべてを評価し、喋りまくるだけでなく、現実の固定した実在〔国家権力と財富〕や、判断の立てる固定した規定〔善悪、高貴下劣〕やが、《矛盾》していることを、精神(エスプリ)のある態度で語るすべを心得ているのは、自独存在〔対自存在、自立存在〕する自己である。この矛盾こそは、それらの実在や規定の真理なのである。ーーー形式上から考えれば、自己は、すべてのものが、自分自身と疎外関係にあることを、知っている。つまり、《対自存在》〔自独存在、自立存在〕は《自体存在》から、思いこんだことと目的は真実から、さらに《対他存在》が両者から、示されたものは本来の思いこみや真の事柄や意図から、離れているのである。ーーーかくて自己は、すべての契機が他の契機に対立していることを、一般にすべてのものが転倒していることを、正しく言い表わすすべを知っている。自己は、各々のものが何であるかを、それがどのように規定されていようと、そのものが在る以上によく知っている。自己が実体的なものを知っているのは、実体的なものが自分で統一している《不統一》と、《対抗》との面からであって、一つであるという面からではないから、自己は、実体的なものを、非常にうまく《評価する》ことを理解してはいるが、それを《把握する》能力は失っている。ーーーそのさい、この空しさは、すべての事物の外に出て、自己の意識を自分でもつために、すべての事物の空しさを必要とする、それゆえ、この空しさを自分で生み出すとともに、この空しさを支える眼目である」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.108~109」平凡社ライブラリー)
どこまで行ってもつきまとってくるであろう「空しさ」。ディドロ「ラモーの甥」についてヘーゲルが述べた箇所である。この種の「空しさ」がよりいっそう昂じるとニーチェが危険だと指摘している「ニヒリズム」に陥る。一九二九年大恐慌時のアメリカとドイツとが代表的。そしてどちらとも出口戦略として見出したのが第二次世界大戦勃発を自分自身の手で不可避的状態に追い込むという自殺的方法だった。敗戦後ドイツはそれでも戦後賠償を果たした。アメリカは今頃になってかつてない苦境に立たされている。イデオロギーに過ぎないネオリベラリズムに主導権を握らせて社会原理的な資本主義を放置し混同するといった、これまでのアメリカではあり得ないような国家と化した。
デロシュの行動に戻ろう。ネルヴァルに。たいへん興味をそそる症例である。しかしこの種の症例分析にあたって第一にスキゾフレニーの奇妙な形態として、次の諸条件を当てはめることができるかどうか、それが検討されなければならない。
「分裂症者の特異性は、隠喩に走る点ではなく、それが隠喩であることが表示されない隠喩を使う点にある、と明記すべきだ。分裂症者が不得手にするのは、とりわけ、他のメッセージの論理階型を明確にするメッセージを扱うことなのである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.293』新思索社)
どういうことか。
「分裂症の症候に関するわれわれの形式的概括が正しいものであり、また、分裂症の発生原因が本来的に家族内の相互作用にあるとするなら、その症候がどんな連続的体験から生み出されるものか、純論理的(アプリオリ)に煮詰めていくことが可能なはずだ。学習理論でも確かめられている、ひとつの明白な事実に注目しよう。それは、人間がコミュニケーション・モードを識別するのに《コンテクスト》の助けを得るということだ。この知識を活かすには、幼年期に受けたなんらかの具体的な『精神的外傷』ではなく、コミュニケーション・シークェンスの特徴的パターンを探っていかなくてはならない。われわれの求める特性は、抽象的で形式的なレベルにあるのだ。患者が、分裂症的コミュニケーションに走る精神的習性を身につけているとしたら、その習性が、どんな形式のコミュニケーション・シークェンスの中で育まれてきたのかを考えるのが適切である。言いかえれば、患者は、《その特異なコミュニケーションの習性がある意味で適切であるように出来事が継起する、どんな意味の宇宙に囚われているのか》、ということだ。われわれの提示する仮説は、患者が経験する外的な出来事の連続が、メッセージの整然とした論理階型化を阻止する、というものである。そうした解決のない経験のシークェンスこそ、われわれが『ダブルバインド』という用語で呼ぶものである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.293』新思索社)
ベイトソンはPTSD(心的外傷後ストレス症候群)を抜きにして論じているのではない。幼年期の精神的外傷というのはフロイトのいう意味での心的外傷(トラウマ)一般をいうのであって、デロシュの場合はそうではなく、「エミリー」の冒頭すでにPTSDを発症している。その上で、「地下壕」を経て、さらに別の戦地への場所移動を経て、そこで改めて激戦地に飛び込んでいる。飛び込み自殺を演じている。なぜ自殺なのか。気持ちの中では「中隊長」に任命されたときすでに決定されている。戦時はそれが錯乱に見えない。しかし中隊長としては明らかに錯乱している。デロシュはなぜ「デロシュ’」という「錯乱」《として》出現したのか。錯乱で《なければならなかった》のか。それが問題だ。
なお、ベイトソンのいう「メッセージの整然とした論理階型化を阻止する」場合とはどのような場合か。事例は幾らでもあるので、しばしば上げられる事例を述べるに留める。たとえば、或る人物が別の人物に「蒲団を持ってきてくれ」と頼んだとする。或る人物は田山花袋の小説「蒲団」を持ってきて欲しいというつもりで頼んだ。ところが頼まれた別の人物は寝るための蒲団を持ってきたとする。両者のあいだで起こっていることは何か。頼んだ側の或る人物が思い描いている「文脈」と頼まれた側の別の人物が思い描いている「文脈」とが異なっているという事態が判明したということが一つ。もう一つはその同じ場で相異なる二つの文脈が出現していること。禁止命令Aと禁止命令Bとが同じ場で同時に正面衝突していることである。この設定では、二人の社会的立場が同等である限りで、頼んだ側も頼まれた側も両者ともにダブルバインドされる。しかしさらに諸条件を詰めていく必要性がある。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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