百年前から残るライン河の畔りの叔父の部屋で鳥の声に耳を傾けているネルヴァル。
「夜が次第に濃くなり、そして情景と音と場所の意識が私の半睡の精神の中で混沌として行った。私は地球を貫く深淵の中に落ち込むような気がした。鎔解した金属の流れに、苦痛なく運ばれて行くように感じた」(ネルヴァル「オーレリア・P.18」岩波文庫)
半分居眠りながら意識は「混沌と」していく。夢と幻想の世界に入り込んでいく。次の「オクタヴィ」の場面もまたそのような夢の中で生じた光景を語っている。ネルヴァルはポジリポの丘の断崖絶壁の上にいる。「一歩、踏み出しさえすれば」すでに死だ。「死の観念」でいっぱいになっているネルヴァルはもう迷う必要はない。そのとき「めまい」に襲われる。この「めまい」は両義的に作用する。
「私のいた場所で、山は断崖のように削られ、下では青く澄んだ海が唸っていました。ほんの一瞬の苦しみでかたがつくのです。ああ!そんな考えにはめまい起こさせるほど恐ろしい力がありました。二度まで、私は身を投げようとしましたが、得体の知れない力によって荒々しく地面に押し戻され、地面をかき抱いた」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.362~363』岩波文庫)
問題は「生か死か」ではない。その種のありがちな迷いではまったくない。あるのは二つの別々の方向へ分裂した死への意志だ。ネルヴァルの身体を投身自殺から「荒々しく地面に押し戻」した力はもう一方の死への意志である。
「めまいに襲われたのはそのときだった。イギリス人の娘と約束があったのを思い出して、心にとりついた不吉な考えから何とか逃れた」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.363』岩波文庫)
イギリス人娘=オクタヴィへ向かう死への意志の側がこのときすでに投身自殺による「死の想念」を上回っていたということだ。ネルヴァルは、主体としてはもはや、主体と化した死でしかない。それがこのとき不意にオクタヴィへとすっかり向け換えられた。翌日、約束通り、父親を伴ってやってきたオクタヴィと連れ立ってネルヴァルはポンペイの街を見物する。二人は打ち解けて様々な歴史や神話について語り合う。ところがオクタヴィはどこか連れないネルヴァルの態度をなじる。しかしネルヴァルはオクタヴィに快い返事を返すことができない。というのは。
「昔の恋を心の中に呼び起こしたあの幻の神秘、そして宿命的な夜に続いて味わった悲しみのすべてを彼女に語った。その夜に出会った幸福の幻影は、不実に対する非難でしかなかった」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.365』岩波文庫)
なぜあれほどまで「魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女」=「魂=“spirit”=精神=活力」と交換に「夢」を与える「魔女」のような「あだっぽい魅力に満ちた」イタリア=ナポリの若い女性に強烈な誘惑を覚えたのか。それこそ、手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)に対し、夢の中で裏切って非難してやりたいという執念深い嫉妬心にまみれ果てている証拠以外のなにものでもないではないか。まだ未練があるということだろう。そのような生々しい恋情を抱いたまま今度は都合よくオクタヴィと付き合うとすれば、まさしく自分の態度はオクタヴィにふさわしくない(=失礼だ)とネルヴァルは考える。二人の恋愛はここで立ち消えになるほかない。しかし、だからといって、いったん出来上がってしまった系列まで同時にすっかり消えてしまったとはまったく言えない。イタリア旅行で出会ったオクタヴィ、オクタヴィから手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)、手紙の相手(或る女性=あなた)からイタリア=ナポリの若い女性、イタリア=ナポリの若い女性から「魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女」への系列。この一連の系列は再びオクタヴィへ回帰してくる。
十年後、ネルヴァルはナポリに立ち寄ったときオクタヴィと再会する。オクタヴィはすでに結婚しているわけだが。
「彼女は有名な画家と結婚したが、画家は結婚後まもなく全身不随になってしまっていた」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.365』岩波文庫)
ライン河の畔りの家に住んでいた叔父もまた画家だった。「オーレリア」で様々な《妖精》を描き残している叔父である。「オクタヴィ」に出現する様々な女性の系列もまた夢に出てきた女性を含めて様々な《妖精》の系列をなしている。しかもオクタヴィはこのときのイタリア旅行で出現した女性の系列のきっかけとなった人物だ。その夫はいま「全身不随」に陥っている。オクタヴィの父親もまた「体が不自由」である。
「父親は体が不自由な様子で、医者に気候のいいナポリでの療養を勧められていた」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.353』岩波文庫)
さらにオクタヴィの夫の場合、その症状は精神的変調ともいえる次元を呈している。
「夫の心中にくすぶる恐るべき嫉妬をなだめることはできないのだった。この夫はどうあっても妻を一人で自由に散歩させてやろうとはしなかった」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.365』岩波文庫)
だがオクタヴィが夫に対して精神的に気を遣い体力的にも過酷な介護を要する状況へ持っていったのはネルヴァルである。二人が知り合い滞在したのは数日である。けれどもポンペイの街を巡るオクタヴィとの旅は一日だけのことだとはいえその体験はとても楽しいものだったし、もしネルヴァルがイエスといえばあるいはネルヴァルがオクタヴィの夫になっていたかもしれない。だがネルヴァルはその機会をうやむやのうちに葬り去り十年間も放置している。オクタヴィの夫の症状は「自分が眠りに落ちないよう妻に無理やり体を叩かせる」神話の登場人物のようだ。常に目を光らせて見張りを怠らない。しかし言い換えれば、オクタヴィは夫を眠らせないタイプの女性だともいえる。ネルヴァルの夢に登場した、「魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女」=「魂=“spirit”=精神=活力」と交換に「夢」を与える「魔女」のような「あだっぽい魅力に満ちた」イタリア=ナポリの若い女性と、あまりによく似た類似性を示している。ネルヴァルにとってもそうだったかもしれない。とすればなぜネルヴァルはオクタヴィをイタリアに置き去りにしたのか。ここまで来てようやく手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)からネルヴァルが受けたダメージがどれほど過酷な後遺症となって残されたかがわかる。ネルヴァルはパリでの失恋のトラウマを場所を変えて、さらに全く別の女性=オクタヴィに置き換えて復讐を遂げた。だから他の男性の登場人物の場合でも最も強烈なダメージは下半身へ集中するのである。
オクタヴィの夫は「全身不随」を患っている。そして「顔面で動くのは二つの大きな目だけ」とある。多くの場合は下半身で最も強烈に発揮される性的欲望が全身不随のため下半身からの移動を余儀なくされ、性的欲望は眼球へ転移した。そう考えられないだろうか。オクタヴィの夫は元画家である。
「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる。画家、彫刻家、叙事詩人はすぐれて幻想家である」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫)
また、眼球喪失と去勢との関係は古代からしばしば語られてきた。オデュッセウスが一つ眼の半人半獣キュクロプスの眼球をえぐり出す場面は有名だ。
「うしろへのけぞって仰向けに倒れ、太い頸を斜交(はすかい)にまげて横になると、何者も刃向かうことのできぬ眠りが、彼をしっかと捕えてしまった。咽喉の奥からは酒と人肉の塊が勢いよく流れ出してくる、泥酔して吐き出しているのだ。頃はよしと、わたしは例の丸太をうず高く積もった灰の下へ刺し込んで、熱くなるのを待ちながら、部下一同に声をかけ、怖気(おじけ)づいて尻込みせぬように元気付けてやった。ほどもなくオリーヴ材の丸太は、青木ではあったが真赤に熱し、今にも発火しようとした時、わたしが火から引き抜いてキュクロプスの寝ている傍らへ持ってゆくと、部下たちがまわりに立つ。この時、神は一同に大きな勇気を吹き込んで下さった。部下たちが、先を尖らせたオリーヴの丸太を掴んで、キュクロプスの一つ眼に突き刺すと、わたしは上からのしかかって、ぐるぐると回転させた。それはあたかも錐(きり)で船材に穴を穿(うが)つ時のよう、(一人が上に)その下で幾人かの者が、両側に張った綱を握ってぐるぐると動かせば、錐は休みなく回転する、そのさまにも似ていたがーーーそのようにわれらが、先端を熱した丸太を握って、キュクロプスの眼の中でこね廻すと、灼熱した丸太のまわりに鮮血が迸(ほとばし)る。眼球が焼け、その熱気でまわりの瞼や眉なども一面に焦げ、眼の根元が火に焼けてパチパチと音を立てた。それはあたかも鍛冶屋が大斧かまたは手斧を、硬さを増すために凄まじい音を立てて冷水に浸す時のようーーー鉄はこうして硬く鍛えられるのだがーーーあたかもそのようにキュクロプスの眼は、オリーヴの丸太のまわりでシュッシュッと音を立てた。彼は身の毛もよだつほどの大声で悲鳴をあげ、まわりの岩壁もそれにつれて響いたので、われらは怖れて急ぎその場を離れた。彼はおびただしい血に塗(まみ)れた丸太を眼から抜き取ると、猛り狂ってそれをわが身から投げ放ち、近くの、風の強い山頂の洞窟に住むキュクロプスたちに呼びかけた。彼らはその声を聞くと、ここかしこから集まってきて、洞窟のまわりに立つと、何を苦しんでいるのかと訊ねた。『ポリュペモスよ、浄らかな夜を騒がしてそのような大声をあげ、われらの眠りを妨げるのは、一体どういうひどい目に遭ったというのだ。どこぞの人間が、お前の家畜をむりやりにさらってゆくとでも、それとも誰かが悪巧みをめぐらすか、暴力をふるうかして、お前を殺そうとしているとでもいうのか』。すると豪力無双のポリュペモスが、洞窟の中から答えていうには、『ああ皆の衆、暴力ではなく、企みで俺を殺そうとしている奴はなあ、《誰もおらぬ》(の)だ』。集まってきたキュクロプスどもは、それに翼ある言葉を返していうには、『独り住いのお前に暴力をふるった者が誰もおらぬとすれば、大神ゼウスが降す病いは避ける術(すべ)がない、せいぜい父神ポセイダオンに祈るがよかろう』。こう言い捨てて行ってしまった」(ホメロス「オデュッセイア・上・第九歌・P.235~237」岩波文庫)
キュクロプスとは何か。
「キュクロープスたちはゼウスには雷光と雷霆(らいてい)を、プルートーンには帽子を、ポセイドーンには三叉(さんさ)の戟(ほこ)を与えた」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.30」岩波文庫)
どれも製鉄と鉄製の武具に関係する。「オデュッセイア」で「鍛冶屋が大斧かまたは手斧を、硬さを増すために凄まじい音を立てて冷水に浸す時のようーーー鉄はこうして硬く鍛えられる」と示唆されているように、「雷光」は鍛冶職人が製鉄作業時に飛び散らせる火花のことだろう。この場面ではオデュッセウスの側が「灼熱した丸太」を用いてキュクロプスの眼を焼くことになっているが、単なる材木なら「灼熱」したまま「眼の中でこね廻す」ことは不可能。さらにギリシアに限らず、他の諸国の創世神話でも鍛冶職人は一つ眼として登場する。古代の技術では製鉄時の火加減を確認するため片方の目で目視するほかなかったことから職業病の一種とされていた。日本神話も例外でない。
「天目一箇神(あめまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とす」(「日本書紀・巻第二・神代下・第九段・P.140」岩波文庫)
「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)をして雑(くさぐさ)の刀(たち)・斧(おの)又鉄(くろがね)の鐸(さなき)を作らしむ」(「古語拾遺・P.19」岩波文庫)
しかしキュプロクスの国にはなぜそれほど大量の酒があったのか。キュクロプスの住んだ地域はオイノー(オイノトリア)と呼ばれており葡萄酒の産地だった。
「オイノーは『葡萄酒(ぶどうしゅ)つくり』と呼ばれている」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.183」岩波文庫)
オイノトリア(オイノー)はイタリア半島南部に位置し今でもワイン製造で有名である。そしてネルヴァルが「オクタヴィ」の舞台として設定したナポリからさほど遠くない。作中に出てくるヴェスヴィオ火山もナポリ近郊にある。「ナポリ=火山=キュクロプス=鍛冶職人=雷火=オイノー=葡萄酒の産地」という系列が見られる。だからオクタヴィの夫は、下半身での性的欲望を去勢され眼球での過剰な監視へ力を移動させたということができる。
ところでネルヴァルはオクタヴィが置かれた立場について、思わず知らずのうちに「神々の復讐」として重心を移動させて語っている。またキュクロプスが受けた眼球破壊について仲間の一人も「大神ゼウス」に責任を帰している。
「神々の復讐のむごい刻印を見出さなければならないとは!」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.366』岩波文庫)
ニーチェのいう古代ギリシア人のように、或る種の説明できないような事態が生じた場合、その責任は神々が引き受けたのだと。
「『愚かさ』・『無分別』・少しばかりの『頭の狂い』、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として《許した》ーーー愚かさであって、罪では《ない》のだ!諸君にはそれがわかるかーーーしかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーーー『そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。《われわれ》高貴な素性(すじょう)の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?』ーーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。『きっと《神》が瞞(だま)したのに違いない』とついに彼は頭を振りながら自分に言ったーーーこの遁辞はギリシア人にとって《典型的なもの》だーーーこのように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろ《より高貴なもの》を、すなわち罪を身に引き受けたのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.113」岩波文庫)
ライン河の畔りの叔父の部屋で鳥の声に耳を傾けているネルヴァルに戻ろう。ほとんど眠っているようだ。夢の中にいる。
「無数の相似た河が、色調で化学的差異を示されて、宛かも脳葉の間をうねりまわる脈管と血管のように、地底に筋を曳いていた。こうして全部の河が流れ、廻り、震えて居り、私は、これ等の流れは、分子状態に於ける生きた霊魂から出来ていて、単にこの旅の迅さのため私にそれが識別されないだけだという感じを持った」(ネルヴァル「オーレリア・P.18」岩波文庫)
夢の光景は「地底」であり、なおかつ「全部の河が流れ、廻り、震えて居」り、さらに「この旅の迅さのため私にそれが識別されない」という状況。有名なオデュッセウスの「冥府行」では冥府について次のような光景が描かれている。
「ヘラクレスの周りでは亡者たちが、さながら脅えてこなたかなたへ飛び交う鳥の声にも似た叫びをあげている。彼はぬばたまの夜の如き暗鬱な面持ちで、、蔽いををはらった弓を握り、弦には矢を番(つが)えていつなりと放つ身構えで、形相凄まじくあたりを見廻している。胸の周りにかけわたした、剣を吊す黄金の帯は、見るも恐ろしく、これには見事な細工が施され、熊に野猪、また眼光爛々たる獅子の姿、さらにまた合戦、戦闘、殺戮、殺人の光景を写している」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十一歌・P.305」岩波文庫)
古代ギリシアのホメロスの時代、あるいはルネサンスのヨーロッパを生きたダンテの時代。冥府〔地獄〕はいつもそんなふうに描かれていてこれといった変哲もないありふれた光景ばかりだ。またそれぞれの特徴的な場面において一致した共通性を見出すことができる。それは何かというと、身体がばらばらになっていること、さらに人間と動物とのモンタージュ(奇妙な合成物)が登場すること、そしてありとあらゆる事物が転倒していることである。たとえばダンテではこんなふうに。
「かれらは手ばかりか、頭も胸も足も使って互いに撃ちあい、互いをばらばらに噛みつんざいていた」(ダンテ「神曲・地獄篇・P.92」集英社文庫)
「頭と顔は人間なれど、足には鉤爪(かぎづめ)あり、ぼてぼての太鼓腹がいちめん羽毛で掩(おお)われたかれら」(ダンテ「神曲・地獄篇・P.149」集英社文庫)
「足を炭火としてとどまる期間よりもすでに長く、わしはかように足を焼き、逆立ちを続けてきた」(ダンテ「神曲・地獄篇・P.218」集英社文庫)
事物が転倒していたり、人間とその内面の野獣性とがまともに映像化されていたり、左右逆、上下逆、前後逆、あるいは「アンフィトリオンとソジー」のような双同関係といった光景の出現には一貫した共通性が認められる。それまでの社会的文法〔暗黙の合法的秩序関係〕がばらばらに崩壊している。また実際の歴史では、そのような種類の夢や幻想が同時多発する時期が見られる。
「《激しい変化のきざし》。ーーーながく忘れていた人たちや故人のことを夢に見るのは、自身の内部にすでに激しい変化を経験し、生活の地盤が完全に掘り返されたことのしるしである。つまり、そのとき死者がよみがえり、われわれの古代であったものが現代となる」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・三六〇・P.237」ちくま学芸文庫)
近代以後では一七八九年フランス革命前夜のディドロやサド、第一次世界大戦前夜のマゾッホやニーチェ、第二次世界大戦前夜のフィッツジェラルドやアルトーといった領域で顕在化している。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
BGM3
BGM4
BGM5
BGM6
BGM7
BGM8
BGM9
BGM10
「夜が次第に濃くなり、そして情景と音と場所の意識が私の半睡の精神の中で混沌として行った。私は地球を貫く深淵の中に落ち込むような気がした。鎔解した金属の流れに、苦痛なく運ばれて行くように感じた」(ネルヴァル「オーレリア・P.18」岩波文庫)
半分居眠りながら意識は「混沌と」していく。夢と幻想の世界に入り込んでいく。次の「オクタヴィ」の場面もまたそのような夢の中で生じた光景を語っている。ネルヴァルはポジリポの丘の断崖絶壁の上にいる。「一歩、踏み出しさえすれば」すでに死だ。「死の観念」でいっぱいになっているネルヴァルはもう迷う必要はない。そのとき「めまい」に襲われる。この「めまい」は両義的に作用する。
「私のいた場所で、山は断崖のように削られ、下では青く澄んだ海が唸っていました。ほんの一瞬の苦しみでかたがつくのです。ああ!そんな考えにはめまい起こさせるほど恐ろしい力がありました。二度まで、私は身を投げようとしましたが、得体の知れない力によって荒々しく地面に押し戻され、地面をかき抱いた」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.362~363』岩波文庫)
問題は「生か死か」ではない。その種のありがちな迷いではまったくない。あるのは二つの別々の方向へ分裂した死への意志だ。ネルヴァルの身体を投身自殺から「荒々しく地面に押し戻」した力はもう一方の死への意志である。
「めまいに襲われたのはそのときだった。イギリス人の娘と約束があったのを思い出して、心にとりついた不吉な考えから何とか逃れた」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.363』岩波文庫)
イギリス人娘=オクタヴィへ向かう死への意志の側がこのときすでに投身自殺による「死の想念」を上回っていたということだ。ネルヴァルは、主体としてはもはや、主体と化した死でしかない。それがこのとき不意にオクタヴィへとすっかり向け換えられた。翌日、約束通り、父親を伴ってやってきたオクタヴィと連れ立ってネルヴァルはポンペイの街を見物する。二人は打ち解けて様々な歴史や神話について語り合う。ところがオクタヴィはどこか連れないネルヴァルの態度をなじる。しかしネルヴァルはオクタヴィに快い返事を返すことができない。というのは。
「昔の恋を心の中に呼び起こしたあの幻の神秘、そして宿命的な夜に続いて味わった悲しみのすべてを彼女に語った。その夜に出会った幸福の幻影は、不実に対する非難でしかなかった」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.365』岩波文庫)
なぜあれほどまで「魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女」=「魂=“spirit”=精神=活力」と交換に「夢」を与える「魔女」のような「あだっぽい魅力に満ちた」イタリア=ナポリの若い女性に強烈な誘惑を覚えたのか。それこそ、手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)に対し、夢の中で裏切って非難してやりたいという執念深い嫉妬心にまみれ果てている証拠以外のなにものでもないではないか。まだ未練があるということだろう。そのような生々しい恋情を抱いたまま今度は都合よくオクタヴィと付き合うとすれば、まさしく自分の態度はオクタヴィにふさわしくない(=失礼だ)とネルヴァルは考える。二人の恋愛はここで立ち消えになるほかない。しかし、だからといって、いったん出来上がってしまった系列まで同時にすっかり消えてしまったとはまったく言えない。イタリア旅行で出会ったオクタヴィ、オクタヴィから手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)、手紙の相手(或る女性=あなた)からイタリア=ナポリの若い女性、イタリア=ナポリの若い女性から「魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女」への系列。この一連の系列は再びオクタヴィへ回帰してくる。
十年後、ネルヴァルはナポリに立ち寄ったときオクタヴィと再会する。オクタヴィはすでに結婚しているわけだが。
「彼女は有名な画家と結婚したが、画家は結婚後まもなく全身不随になってしまっていた」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.365』岩波文庫)
ライン河の畔りの家に住んでいた叔父もまた画家だった。「オーレリア」で様々な《妖精》を描き残している叔父である。「オクタヴィ」に出現する様々な女性の系列もまた夢に出てきた女性を含めて様々な《妖精》の系列をなしている。しかもオクタヴィはこのときのイタリア旅行で出現した女性の系列のきっかけとなった人物だ。その夫はいま「全身不随」に陥っている。オクタヴィの父親もまた「体が不自由」である。
「父親は体が不自由な様子で、医者に気候のいいナポリでの療養を勧められていた」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.353』岩波文庫)
さらにオクタヴィの夫の場合、その症状は精神的変調ともいえる次元を呈している。
「夫の心中にくすぶる恐るべき嫉妬をなだめることはできないのだった。この夫はどうあっても妻を一人で自由に散歩させてやろうとはしなかった」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.365』岩波文庫)
だがオクタヴィが夫に対して精神的に気を遣い体力的にも過酷な介護を要する状況へ持っていったのはネルヴァルである。二人が知り合い滞在したのは数日である。けれどもポンペイの街を巡るオクタヴィとの旅は一日だけのことだとはいえその体験はとても楽しいものだったし、もしネルヴァルがイエスといえばあるいはネルヴァルがオクタヴィの夫になっていたかもしれない。だがネルヴァルはその機会をうやむやのうちに葬り去り十年間も放置している。オクタヴィの夫の症状は「自分が眠りに落ちないよう妻に無理やり体を叩かせる」神話の登場人物のようだ。常に目を光らせて見張りを怠らない。しかし言い換えれば、オクタヴィは夫を眠らせないタイプの女性だともいえる。ネルヴァルの夢に登場した、「魂と引き換えに夢を見させてくれるテッサリアの魔女」=「魂=“spirit”=精神=活力」と交換に「夢」を与える「魔女」のような「あだっぽい魅力に満ちた」イタリア=ナポリの若い女性と、あまりによく似た類似性を示している。ネルヴァルにとってもそうだったかもしれない。とすればなぜネルヴァルはオクタヴィをイタリアに置き去りにしたのか。ここまで来てようやく手紙の相手(或る女性=パリにいるあなた)からネルヴァルが受けたダメージがどれほど過酷な後遺症となって残されたかがわかる。ネルヴァルはパリでの失恋のトラウマを場所を変えて、さらに全く別の女性=オクタヴィに置き換えて復讐を遂げた。だから他の男性の登場人物の場合でも最も強烈なダメージは下半身へ集中するのである。
オクタヴィの夫は「全身不随」を患っている。そして「顔面で動くのは二つの大きな目だけ」とある。多くの場合は下半身で最も強烈に発揮される性的欲望が全身不随のため下半身からの移動を余儀なくされ、性的欲望は眼球へ転移した。そう考えられないだろうか。オクタヴィの夫は元画家である。
「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる。画家、彫刻家、叙事詩人はすぐれて幻想家である」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫)
また、眼球喪失と去勢との関係は古代からしばしば語られてきた。オデュッセウスが一つ眼の半人半獣キュクロプスの眼球をえぐり出す場面は有名だ。
「うしろへのけぞって仰向けに倒れ、太い頸を斜交(はすかい)にまげて横になると、何者も刃向かうことのできぬ眠りが、彼をしっかと捕えてしまった。咽喉の奥からは酒と人肉の塊が勢いよく流れ出してくる、泥酔して吐き出しているのだ。頃はよしと、わたしは例の丸太をうず高く積もった灰の下へ刺し込んで、熱くなるのを待ちながら、部下一同に声をかけ、怖気(おじけ)づいて尻込みせぬように元気付けてやった。ほどもなくオリーヴ材の丸太は、青木ではあったが真赤に熱し、今にも発火しようとした時、わたしが火から引き抜いてキュクロプスの寝ている傍らへ持ってゆくと、部下たちがまわりに立つ。この時、神は一同に大きな勇気を吹き込んで下さった。部下たちが、先を尖らせたオリーヴの丸太を掴んで、キュクロプスの一つ眼に突き刺すと、わたしは上からのしかかって、ぐるぐると回転させた。それはあたかも錐(きり)で船材に穴を穿(うが)つ時のよう、(一人が上に)その下で幾人かの者が、両側に張った綱を握ってぐるぐると動かせば、錐は休みなく回転する、そのさまにも似ていたがーーーそのようにわれらが、先端を熱した丸太を握って、キュクロプスの眼の中でこね廻すと、灼熱した丸太のまわりに鮮血が迸(ほとばし)る。眼球が焼け、その熱気でまわりの瞼や眉なども一面に焦げ、眼の根元が火に焼けてパチパチと音を立てた。それはあたかも鍛冶屋が大斧かまたは手斧を、硬さを増すために凄まじい音を立てて冷水に浸す時のようーーー鉄はこうして硬く鍛えられるのだがーーーあたかもそのようにキュクロプスの眼は、オリーヴの丸太のまわりでシュッシュッと音を立てた。彼は身の毛もよだつほどの大声で悲鳴をあげ、まわりの岩壁もそれにつれて響いたので、われらは怖れて急ぎその場を離れた。彼はおびただしい血に塗(まみ)れた丸太を眼から抜き取ると、猛り狂ってそれをわが身から投げ放ち、近くの、風の強い山頂の洞窟に住むキュクロプスたちに呼びかけた。彼らはその声を聞くと、ここかしこから集まってきて、洞窟のまわりに立つと、何を苦しんでいるのかと訊ねた。『ポリュペモスよ、浄らかな夜を騒がしてそのような大声をあげ、われらの眠りを妨げるのは、一体どういうひどい目に遭ったというのだ。どこぞの人間が、お前の家畜をむりやりにさらってゆくとでも、それとも誰かが悪巧みをめぐらすか、暴力をふるうかして、お前を殺そうとしているとでもいうのか』。すると豪力無双のポリュペモスが、洞窟の中から答えていうには、『ああ皆の衆、暴力ではなく、企みで俺を殺そうとしている奴はなあ、《誰もおらぬ》(の)だ』。集まってきたキュクロプスどもは、それに翼ある言葉を返していうには、『独り住いのお前に暴力をふるった者が誰もおらぬとすれば、大神ゼウスが降す病いは避ける術(すべ)がない、せいぜい父神ポセイダオンに祈るがよかろう』。こう言い捨てて行ってしまった」(ホメロス「オデュッセイア・上・第九歌・P.235~237」岩波文庫)
キュクロプスとは何か。
「キュクロープスたちはゼウスには雷光と雷霆(らいてい)を、プルートーンには帽子を、ポセイドーンには三叉(さんさ)の戟(ほこ)を与えた」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.30」岩波文庫)
どれも製鉄と鉄製の武具に関係する。「オデュッセイア」で「鍛冶屋が大斧かまたは手斧を、硬さを増すために凄まじい音を立てて冷水に浸す時のようーーー鉄はこうして硬く鍛えられる」と示唆されているように、「雷光」は鍛冶職人が製鉄作業時に飛び散らせる火花のことだろう。この場面ではオデュッセウスの側が「灼熱した丸太」を用いてキュクロプスの眼を焼くことになっているが、単なる材木なら「灼熱」したまま「眼の中でこね廻す」ことは不可能。さらにギリシアに限らず、他の諸国の創世神話でも鍛冶職人は一つ眼として登場する。古代の技術では製鉄時の火加減を確認するため片方の目で目視するほかなかったことから職業病の一種とされていた。日本神話も例外でない。
「天目一箇神(あめまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とす」(「日本書紀・巻第二・神代下・第九段・P.140」岩波文庫)
「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)をして雑(くさぐさ)の刀(たち)・斧(おの)又鉄(くろがね)の鐸(さなき)を作らしむ」(「古語拾遺・P.19」岩波文庫)
しかしキュプロクスの国にはなぜそれほど大量の酒があったのか。キュクロプスの住んだ地域はオイノー(オイノトリア)と呼ばれており葡萄酒の産地だった。
「オイノーは『葡萄酒(ぶどうしゅ)つくり』と呼ばれている」(アポロドーロス「ギリシア神話・P.183」岩波文庫)
オイノトリア(オイノー)はイタリア半島南部に位置し今でもワイン製造で有名である。そしてネルヴァルが「オクタヴィ」の舞台として設定したナポリからさほど遠くない。作中に出てくるヴェスヴィオ火山もナポリ近郊にある。「ナポリ=火山=キュクロプス=鍛冶職人=雷火=オイノー=葡萄酒の産地」という系列が見られる。だからオクタヴィの夫は、下半身での性的欲望を去勢され眼球での過剰な監視へ力を移動させたということができる。
ところでネルヴァルはオクタヴィが置かれた立場について、思わず知らずのうちに「神々の復讐」として重心を移動させて語っている。またキュクロプスが受けた眼球破壊について仲間の一人も「大神ゼウス」に責任を帰している。
「神々の復讐のむごい刻印を見出さなければならないとは!」(ネルヴァル「オクタヴィ」『火の娘たち・P.366』岩波文庫)
ニーチェのいう古代ギリシア人のように、或る種の説明できないような事態が生じた場合、その責任は神々が引き受けたのだと。
「『愚かさ』・『無分別』・少しばかりの『頭の狂い』、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として《許した》ーーー愚かさであって、罪では《ない》のだ!諸君にはそれがわかるかーーーしかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーーー『そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。《われわれ》高貴な素性(すじょう)の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?』ーーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。『きっと《神》が瞞(だま)したのに違いない』とついに彼は頭を振りながら自分に言ったーーーこの遁辞はギリシア人にとって《典型的なもの》だーーーこのように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろ《より高貴なもの》を、すなわち罪を身に引き受けたのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.113」岩波文庫)
ライン河の畔りの叔父の部屋で鳥の声に耳を傾けているネルヴァルに戻ろう。ほとんど眠っているようだ。夢の中にいる。
「無数の相似た河が、色調で化学的差異を示されて、宛かも脳葉の間をうねりまわる脈管と血管のように、地底に筋を曳いていた。こうして全部の河が流れ、廻り、震えて居り、私は、これ等の流れは、分子状態に於ける生きた霊魂から出来ていて、単にこの旅の迅さのため私にそれが識別されないだけだという感じを持った」(ネルヴァル「オーレリア・P.18」岩波文庫)
夢の光景は「地底」であり、なおかつ「全部の河が流れ、廻り、震えて居」り、さらに「この旅の迅さのため私にそれが識別されない」という状況。有名なオデュッセウスの「冥府行」では冥府について次のような光景が描かれている。
「ヘラクレスの周りでは亡者たちが、さながら脅えてこなたかなたへ飛び交う鳥の声にも似た叫びをあげている。彼はぬばたまの夜の如き暗鬱な面持ちで、、蔽いををはらった弓を握り、弦には矢を番(つが)えていつなりと放つ身構えで、形相凄まじくあたりを見廻している。胸の周りにかけわたした、剣を吊す黄金の帯は、見るも恐ろしく、これには見事な細工が施され、熊に野猪、また眼光爛々たる獅子の姿、さらにまた合戦、戦闘、殺戮、殺人の光景を写している」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十一歌・P.305」岩波文庫)
古代ギリシアのホメロスの時代、あるいはルネサンスのヨーロッパを生きたダンテの時代。冥府〔地獄〕はいつもそんなふうに描かれていてこれといった変哲もないありふれた光景ばかりだ。またそれぞれの特徴的な場面において一致した共通性を見出すことができる。それは何かというと、身体がばらばらになっていること、さらに人間と動物とのモンタージュ(奇妙な合成物)が登場すること、そしてありとあらゆる事物が転倒していることである。たとえばダンテではこんなふうに。
「かれらは手ばかりか、頭も胸も足も使って互いに撃ちあい、互いをばらばらに噛みつんざいていた」(ダンテ「神曲・地獄篇・P.92」集英社文庫)
「頭と顔は人間なれど、足には鉤爪(かぎづめ)あり、ぼてぼての太鼓腹がいちめん羽毛で掩(おお)われたかれら」(ダンテ「神曲・地獄篇・P.149」集英社文庫)
「足を炭火としてとどまる期間よりもすでに長く、わしはかように足を焼き、逆立ちを続けてきた」(ダンテ「神曲・地獄篇・P.218」集英社文庫)
事物が転倒していたり、人間とその内面の野獣性とがまともに映像化されていたり、左右逆、上下逆、前後逆、あるいは「アンフィトリオンとソジー」のような双同関係といった光景の出現には一貫した共通性が認められる。それまでの社会的文法〔暗黙の合法的秩序関係〕がばらばらに崩壊している。また実際の歴史では、そのような種類の夢や幻想が同時多発する時期が見られる。
「《激しい変化のきざし》。ーーーながく忘れていた人たちや故人のことを夢に見るのは、自身の内部にすでに激しい変化を経験し、生活の地盤が完全に掘り返されたことのしるしである。つまり、そのとき死者がよみがえり、われわれの古代であったものが現代となる」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・三六〇・P.237」ちくま学芸文庫)
近代以後では一七八九年フランス革命前夜のディドロやサド、第一次世界大戦前夜のマゾッホやニーチェ、第二次世界大戦前夜のフィッツジェラルドやアルトーといった領域で顕在化している。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
BGM3
BGM4
BGM5
BGM6
BGM7
BGM8
BGM9
BGM10
