十八世紀末から十九世紀前半にかけての時期。語り手はデロシュの様子についてこう述べる。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
別の作品でも同じことが書かれている。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
そしてどちらの文章も同時代人の作者ネルヴァル自身に当てはまる。ベイトソンが提唱したダブルバインド概念を適用して論じるのが最も妥当であるように思える。なるほど作品「エミリー」はダブルバインド(相反傾向、板挟み)にされたこの「懐疑的な世紀の子である私」としてのネルヴァルとその分身たるデロシュの《殺人的な自殺》について述べるのに適した読解格子には違いない。ところがダブルバインド概念を持ってきただけではデロシュの精神錯乱を説明することはできても、デロシュから「デロシュ’」への転化、というもう一つの問いに答えることはできない。なのでここではさらに二つに分割して述べなければならない。第一に、デロシュから「デロシュ’」への転化という変容はいつどのような条件のもとで可能となったか、について。
まず、「いつ、どこで」について。いつというのは、デロシュとエミリーとの婚約期間、である。どこでというのは、かつてデロシュがヴィレルムとエミリーとの父親を白兵戦において殺害した地下壕で、である。ヴィレルムがデロシュに地下壕に案内してほしいとうながす場面。二人の対話がある。
「『あそこには上層部の許可がなければ入れない。ーーー地下壕というのがいったいどんなものか、おわかりですか』『かまいませんよ。私が行ってみたいのは数々の恐ろしい出来事が起こった場所なのです』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.465』岩波文庫)
婚約期間と地下壕との関連性。両者ともに宙吊り状態であること。一方で、正式に結婚したわけではない不安定な状態があり、他方、完全な地上とも完全な地下〔死〕ともつかない暗い場がある。ほぼ同時期にネルヴァルは創作にあたって夢と幻想という戦略を取ることを宣言している。
「もし私が、一作家の使命は人生で重大な事態の裡に己れを感ずる事柄を誠実に分析するに在ると考えぬならば、又もし私が自ら有用であると信ずる目的を立てなかったとしたら、私はここで止め、そして、自分が続いて恐らく分別を失った幻影、或いは俗にいえば病的な幻影の一種の裡に感じた事柄を、叙べようとは試みないであろう」(ネルヴァル「オーレリア・P.14」岩波文庫)
デロシュは「上層部の許可がなければ入れない」という。フロイト「夢判断」に従えば「検閲機関」に当たる。だがここでは地下壕に到達するや不意に殺し合いが演じられることを踏まえ、フロイトではなくニーチェの言葉を引いておこう。
「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・一二・P.35~36」ちくま学芸文庫)
ヴィレルムのいうようにそこで人間は「昔の人間の課業をもう一度経験する」わけだ。ヴィレルムはそれをさらに自ら《欲した》と言える。その帰結についてはすでに述べた。デロシュから「デロシュ’」への転化はヴィレルムに導かれる形を取りながらも、その実、デロシュの意志を実現する方向へ運ばれている。デロシュの意志は二人の殺し合いの中で吐露された。
「『ヴィレルム!私を殺せ、防御などしない。気が変になってきた。頭がくらくらするーーー』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.470』岩波文庫)
二人が殺し合っている時間。どちらか一方が死ぬか途中で中止されるかしない限り、続けられるこの闘争に要したのと同じだけの「時間」あるいは「猶予」。作品の中では殺し合いが始まってから神父らが駆けつけて二人を取り押さえ中止させるまでに与えられた時間としての「過程」である。その場を見た神父がいう「錯乱した二人の男たち」という言葉は結果であり、錯乱がいつ生じたかは「過程=猶予」としての闘争の《あいだ》で生じたあるいは少なくとも準備されたと考えるほかない。ところが神父らが駆けつけたときに見た光景はすでに結果である。原因と結果の取り違えは常に生じる。時系列的にいえば、そのとき見た光景から逆に考えて、二人の闘争の「過程=猶予」は恐らくこうであっただろうという原因が事後的に捏造されるからである。そうして結果が原因を覆い隠してしまう。「錯乱した二人の男たち」という結果は、ここでは貨幣のように立ち働く。次のように。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
そのため、二人の闘争があったのは確実なのだが、闘争の「過程=猶予」はすっかり死角に入ってしまっていてもう見えない。どこまでが「正常」でありどこから「錯乱」に入ったのか、両者の裂け目は《融合》していて決定不可能な領域を呈している。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
闘争があったのは確実である。けれども「正常/錯乱」の境界線は決定不可能となっている。この決定不可能性についてドゥルーズ=ガタリはたいへん興味深い理論を提出している。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.281~282」河出文庫)
「過程=猶予」としての二人の闘争は確実に実在した。自然力としての闘争力は二人の共同作業という形で確実に注ぎ込まれた。だからこそデロシュは、デロシュから「デロシュ’」へ転化した。錯乱前のデロシュから錯乱した「デロシュ’」への転化はこれで済んでいる。デロシュは「デロシュ’」となって回帰してきた。デロシュは何かを欠損したのではない。逆に何かを《生産》した。利子を付けたのだ。それを「錯乱」と呼ぼうと呼ぶまいと。だがしかし、錯乱した「デロシュ’」という結果そのものが、今度は原因を「過程=猶予」のうちに包み込んで覆い隠してしまうのである。
とはいえ、覆い隠された「過程=猶予」を構成した条件は前もって与えられており、はっきりしている。それは「婚約期間」と「地下壕」と「闘争=過程=猶予」という三つの「宙吊り状態」でなければならない。さらになお、なるほど二人が自然力としての力を注ぎ込んだ闘争はあったかもしれないがそれを「過程=猶予」として考えることはそもそもできないのではと問うこともまたできない。なぜなら、「私を殺せ」、そうでなければ「私は私を殺す」、そして「私は私を殺さなければならない」という言語的変換過程は紛れもなく実在したからである。この過程の実在はそのあいだに一定の時間が経過したことを示す動かせない証拠である。同時にこの種の文法的統合失調状態に伴う各語の移動転移は広い意味での「スキゾフレニー」の一種(解体型)に顕著な一時的過程として出現することがすでに実際の臨床精神医学の現場で一九七〇年代のうちに多く確認され通例とされてもいる。そして「猶予」についてだが、利子を実現した「猶予」は《利子》を《時間として》生んだことで、エミリーにもう一度結婚相手を探す期間を《利得》へ変換し与え直していることを忘れてはならない。デロシュは戦死してもはやこの世にいないのだから。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
別の作品でも同じことが書かれている。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
そしてどちらの文章も同時代人の作者ネルヴァル自身に当てはまる。ベイトソンが提唱したダブルバインド概念を適用して論じるのが最も妥当であるように思える。なるほど作品「エミリー」はダブルバインド(相反傾向、板挟み)にされたこの「懐疑的な世紀の子である私」としてのネルヴァルとその分身たるデロシュの《殺人的な自殺》について述べるのに適した読解格子には違いない。ところがダブルバインド概念を持ってきただけではデロシュの精神錯乱を説明することはできても、デロシュから「デロシュ’」への転化、というもう一つの問いに答えることはできない。なのでここではさらに二つに分割して述べなければならない。第一に、デロシュから「デロシュ’」への転化という変容はいつどのような条件のもとで可能となったか、について。
まず、「いつ、どこで」について。いつというのは、デロシュとエミリーとの婚約期間、である。どこでというのは、かつてデロシュがヴィレルムとエミリーとの父親を白兵戦において殺害した地下壕で、である。ヴィレルムがデロシュに地下壕に案内してほしいとうながす場面。二人の対話がある。
「『あそこには上層部の許可がなければ入れない。ーーー地下壕というのがいったいどんなものか、おわかりですか』『かまいませんよ。私が行ってみたいのは数々の恐ろしい出来事が起こった場所なのです』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.465』岩波文庫)
婚約期間と地下壕との関連性。両者ともに宙吊り状態であること。一方で、正式に結婚したわけではない不安定な状態があり、他方、完全な地上とも完全な地下〔死〕ともつかない暗い場がある。ほぼ同時期にネルヴァルは創作にあたって夢と幻想という戦略を取ることを宣言している。
「もし私が、一作家の使命は人生で重大な事態の裡に己れを感ずる事柄を誠実に分析するに在ると考えぬならば、又もし私が自ら有用であると信ずる目的を立てなかったとしたら、私はここで止め、そして、自分が続いて恐らく分別を失った幻影、或いは俗にいえば病的な幻影の一種の裡に感じた事柄を、叙べようとは試みないであろう」(ネルヴァル「オーレリア・P.14」岩波文庫)
デロシュは「上層部の許可がなければ入れない」という。フロイト「夢判断」に従えば「検閲機関」に当たる。だがここでは地下壕に到達するや不意に殺し合いが演じられることを踏まえ、フロイトではなくニーチェの言葉を引いておこう。
「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・一二・P.35~36」ちくま学芸文庫)
ヴィレルムのいうようにそこで人間は「昔の人間の課業をもう一度経験する」わけだ。ヴィレルムはそれをさらに自ら《欲した》と言える。その帰結についてはすでに述べた。デロシュから「デロシュ’」への転化はヴィレルムに導かれる形を取りながらも、その実、デロシュの意志を実現する方向へ運ばれている。デロシュの意志は二人の殺し合いの中で吐露された。
「『ヴィレルム!私を殺せ、防御などしない。気が変になってきた。頭がくらくらするーーー』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.470』岩波文庫)
二人が殺し合っている時間。どちらか一方が死ぬか途中で中止されるかしない限り、続けられるこの闘争に要したのと同じだけの「時間」あるいは「猶予」。作品の中では殺し合いが始まってから神父らが駆けつけて二人を取り押さえ中止させるまでに与えられた時間としての「過程」である。その場を見た神父がいう「錯乱した二人の男たち」という言葉は結果であり、錯乱がいつ生じたかは「過程=猶予」としての闘争の《あいだ》で生じたあるいは少なくとも準備されたと考えるほかない。ところが神父らが駆けつけたときに見た光景はすでに結果である。原因と結果の取り違えは常に生じる。時系列的にいえば、そのとき見た光景から逆に考えて、二人の闘争の「過程=猶予」は恐らくこうであっただろうという原因が事後的に捏造されるからである。そうして結果が原因を覆い隠してしまう。「錯乱した二人の男たち」という結果は、ここでは貨幣のように立ち働く。次のように。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
そのため、二人の闘争があったのは確実なのだが、闘争の「過程=猶予」はすっかり死角に入ってしまっていてもう見えない。どこまでが「正常」でありどこから「錯乱」に入ったのか、両者の裂け目は《融合》していて決定不可能な領域を呈している。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
闘争があったのは確実である。けれども「正常/錯乱」の境界線は決定不可能となっている。この決定不可能性についてドゥルーズ=ガタリはたいへん興味深い理論を提出している。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.281~282」河出文庫)
「過程=猶予」としての二人の闘争は確実に実在した。自然力としての闘争力は二人の共同作業という形で確実に注ぎ込まれた。だからこそデロシュは、デロシュから「デロシュ’」へ転化した。錯乱前のデロシュから錯乱した「デロシュ’」への転化はこれで済んでいる。デロシュは「デロシュ’」となって回帰してきた。デロシュは何かを欠損したのではない。逆に何かを《生産》した。利子を付けたのだ。それを「錯乱」と呼ぼうと呼ぶまいと。だがしかし、錯乱した「デロシュ’」という結果そのものが、今度は原因を「過程=猶予」のうちに包み込んで覆い隠してしまうのである。
とはいえ、覆い隠された「過程=猶予」を構成した条件は前もって与えられており、はっきりしている。それは「婚約期間」と「地下壕」と「闘争=過程=猶予」という三つの「宙吊り状態」でなければならない。さらになお、なるほど二人が自然力としての力を注ぎ込んだ闘争はあったかもしれないがそれを「過程=猶予」として考えることはそもそもできないのではと問うこともまたできない。なぜなら、「私を殺せ」、そうでなければ「私は私を殺す」、そして「私は私を殺さなければならない」という言語的変換過程は紛れもなく実在したからである。この過程の実在はそのあいだに一定の時間が経過したことを示す動かせない証拠である。同時にこの種の文法的統合失調状態に伴う各語の移動転移は広い意味での「スキゾフレニー」の一種(解体型)に顕著な一時的過程として出現することがすでに実際の臨床精神医学の現場で一九七〇年代のうちに多く確認され通例とされてもいる。そして「猶予」についてだが、利子を実現した「猶予」は《利子》を《時間として》生んだことで、エミリーにもう一度結婚相手を探す期間を《利得》へ変換し与え直していることを忘れてはならない。デロシュは戦死してもはやこの世にいないのだから。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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