白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部11

2020年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
エルムノンヴィルへ寄り道したあと主人公とシルヴィはロワジーへ帰ってきた。村祭りの翌日で隣近所の人々が招かれているところに出くわす。主人公はその中に「年老いた木こりの一人」がいることに気づく。地方都市の地域共同体の中でも異色の人物であり、日本でも「マタギ」がそうだったように「木こり」は中心と周縁とのあいだに位置する境界領域の人物である。

「羊飼いでもあれば配達人でもあり、狩場番人、猟師、さらには密猟者でもあるドデュ爺さん」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.262』岩波文庫)

近代でも分業体制がなお未分化だった頃の田舎へ行くとこのような人物はしばしばいるのが通例だった。人間はただ単に一つの職業に縛り付けられることなく様々に変身する。ネルヴァルはユーモアを込めて述べているが、面白いのは、ドデュ爺さんが「狩場番人、猟師、さらには密猟者でもある」点だ。山の中で密猟者としてごそごそと歩き回っているとき、もし他の人物にその場を目撃されたとしても、「狩場番人」として山の中を巡回しているのだと言い張ることができる。そして誰もそのことを否定できない。さらに「羊飼いでもあれば配達人でもあ」る。戦前の田舎へ行くとよくある光景ではあり記録も残っている。だが二〇二〇年の先進諸国では何も苦労して地方都市の山奥をフィールドワークして回る必要はもはやなく、一日のうちに幾つかのアルバイトやパートを受け持つ労働者の大量発生により、むしろ逆に首都圏や大都市でしょっちゅう見かけるようになった光景である。中心と周縁とのあいだに位置する境界領域は今や地方都市においてではまったくなく、逆に首都圏や大都市のあちこちで出現している。

さて、ロワジーで主人公は長く会っていなかった乳兄弟(ちきょうだい)と久々に対面する。そしてこの乳兄弟こそ、実はシルヴィの結婚相手だった。暴露したのは町の異端者的存在であり高齢者であるドデュ爺さんである。世界中の多くの文学ではなぜかいつもそうなのだが、重大な事実を告げることで他の登場人物を動転させるのは外部の人間ではなく、内部におり、しかし同時に内部において異端者的存在に身を置いているドデュ爺さんのような境界領域の人物である。

「わが乳兄弟は困ったような顔をした。ぼくにはすべてが飲み込めた。ーーールソーのおかげで有名になった土地で乳兄弟を持つということが、ぼくの背負った宿命だった」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.265』岩波文庫)

ルソーは「エミール」の中で乳母保育を批判し母乳育児を推奨したことでたいへん保守的な面を見せている。ところが「告白」では、自慰行為からママンの身体へ、ママンの身体からテレーズの身体へ、という性的対象の置き換え可能性について語ってしまっている。前者では純血主義が、後者では近代合理性が、同時に出現している。矛盾だと言うのは簡単だが、ルソーの思想の中では、ただそれだけでは説明できない事態が発生している。ヘンリー・ミラーならこう言うだろう。

「ぼくは本質においては、いわば矛盾人間だった。しかつめらしい高潔な人間と取られるかと思えば、陽気で向こう見ずだと思われ、誠意と熱意にあふれているようにも、だらしなくのんきな男とも受け取られた。実は、ぼくはそのぜんぶを同時にそなえーーーなおそのうえ、だれも(なかんずく、ぼく自身はまるで)気づいたことのない別な性格もそなえていた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.17」講談社文芸文庫)

ニーチェはいう。

「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫)

さらに、身体の無限の多様性について。

「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫)

また、乳兄弟あるいは乳母について日本でも興味深い例がある。平安時代、一条天皇の母三条院の愛猫が子猫を生んだ。この子猫に人間の乳母を付けたという有名なエピソード。

「うへにさむらふ御ねこは、かうぶり給はりて命婦のおとどとて、いみじうおかしければ、かしづかせ給ふが、はじにいでてふしたるに、乳母(めのと)の馬(むま)の命婦、『あなまさなや、いり給へ』とよぶに、日のさし入(いり)たるにねぶりてゐたるを、おどすとて『翁丸(おきなまろ)いづら、命婦のおとどくへ』といふに、まことかとて、痴物(しれもの)ははしりかかりたれば、おびえまどひて御簾(みす)のうちに入(い)りぬ」(新日本古典文学大系「枕草子・六段・P.13」岩波書店)

この文章では「乳母(めのと)」とあるだけなので、実際に乳を与えたのかただ単なる養育係として設置されたのか定かでない。また神話時代は別としても、歴史的記録として残っている文献では、「大倭(やまと)国葛上(かずらぎのかみ)郡の鴨君粳売(かものきみぬかめ)」が「一度に二男一女を産んだ」ため、乳不足を懸念したのか、時の文武天皇が「乳母一人」を与えたという記事が見える。

「文武天皇四年(七〇〇)十一月二十八日、大倭(やまと)国葛上(かずらぎのかみ)郡の鴨君粳売(かものきみぬかめ)が、一度に二男一女を産んだ。女に絁(あしぎぬ)四疋・真綿四屯・麻布八端・稲四百束・乳母一人を賜わった」(「続日本紀・上・巻第一・P.33」講談社学術文庫)

シルヴィが近々結婚することを知った主人公。そこでシルヴィのことをすっぱり忘れるわけではなく今度は逆に偶像として建立してしまう。

「これからは彼女を、微笑する彫像として『知恵』の神殿に置くことにしよう」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.267』岩波文庫)

だから男は馬鹿なのだというのは正しい。けれどもこの主人公のように頭の中でいつまでも過去の恋愛対象にしがみついている女が世の中にどれほどいるか、女性自身が最もよく知っていることもまた事実でないと、いったいどの女性あるいはLGBTに、言えるというのだろうか。しかし問題は、性的欲望の装置がこのように無数に分裂可能なのはなぜか、という問いでなければならない。なお、ルソーの保守的な面、純血主義的な面はもはや否定された。

「十九世紀後半以来、血のテーマ系が、性的欲望の装置を通じて行使される政治権力の形を、歴史的な厚みによって活性化し支えるために動員される、ということが起きた。人種差別はまさにこの時点で形成される(近代的な、国家的な、生物学的な形態における人種差別である)。植民、家族、結婚、教育、社会の階層化、所有権などに関する政策と、身体、行動、健康、日常生活などのレベルにおける一連の不断の介入とが、その時、血の純潔さを守り種族を君臨せしめるという神話的な配慮から、己れが色合いと正当化を受けとった」フーコー「知への意志・P.188」新潮社)

その最も極端な事例がナチスのドイツとなって出現したからである。ところが戦後になっても純血主義的な考え方を重視する傾向はいっこうに収まらない。あちこちで「本家争い」、「相続権争い」、「派閥党派闘争」、「王政復古主義」、といった旧弊は依然として後を絶たない。これらの動きは、一方に絶対王政没落と同時に加速した「血のテーマ系」の崩壊という事実があり、他方、資本主義的生産様式の世界化に伴う「身体の行政管理と生の勘定高い経営」の《学》が台頭してきたことの併走から起こってきた。今では遺伝情報も置き換え可能である。このような世界ではもはや何がオリジナルで何がコピーかは問題でなくなる。すべては「見せかけ」(シミュラクル)となった。

「すべては見せかけ(シミュラクル)へと生成したのだ。それというのも、わたしたちは、見せかけ(シミュラクル)という言葉によって、たんなるイミテーションではなく、むしろ範型(モデル)つまり特権的な地位という考えそのものが或る行為によって異議を唱えられ、転倒されるようなまさにその行為〔現実態〕を理解しなければならないからである。見せかけ(シミュラクル)とは、即自的な差異を含む審廷である。それはたとえば、(少なくとも)二つの発散するセリーであり、そこでは当の見せかけ(シミュラクル)が遊び戯れ、あらゆる類似は廃止され、したがってオリジナルとコピーの存在をそれとして示すことができなくなる」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.195~196」河出文庫)

資本主義的諸力の運動が生産する状況はそもそもそういうものだ。資本回転が加速すればするほどオリジナルな〔起源的な〕ものの消滅は必然的に増していく。しかもなおそれは人間が自分で選んだ制度である。にもかかわらず、その傾向が顕著になればなるほど逆に、人間は、オリジナルな〔起源的な〕もの、というものに並々ならぬ関心を抱いて没入していくという珍妙な態度を示す。

ところでオーレリーの真意を測りかねている主人公。こんなふうに思いをはせる。

「オーレリーの前に正体を現すという考えを、ぼくはきっぱりとしりぞけていた。つかの間の輝きを放っては砕け散っていく、その他大勢の恋人たちとしばし競いあうのはまっぴらだった。ーーーいつかわかるだろう、とぼくは思った。あの女に心があるかどうかは」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.267』岩波文庫)

主人公が測定しようとしている「あの女に心があるかどうか」という問い。しかしそれ(心)が「あるかどうか」は、後になってからでしかけっしてわからない問いである。「いつかわかるだろう」と主人公は思うが、いったい「いつ」わかるのか。たとえば主人公もよく知っている資本主義的生産様式の場合、労働力が支出されたかどうかは後になって可視化されることになる。まず先に労働力商品として活用されるための「契約」が先に行われる。

「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫)

各々の労働者はそれぞれの「契約」に従って労働に従事する。ところが。

「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)

労賃という形態を取って支払われるということ。そのことじたいが、支出された労働力と労賃とが等価かどうかという問いについて、すっかり「おおい隠」してしまう。そして消費の現場では、貨幣を介して諸商品との商品交換が行われるやいなや、この交換じたいが事後的に価値(剰余価値含む)を実現することになる。だがこのような過程は資本実現によってすべて覆い隠され迷宮入りしてしまう。次のように。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

さて、主人公はすでにオーレリーが所属する劇団の「座付き作者」となっている。また現実と夢想とを分け隔てている理性について次のように考えている。「場合によっては無意味と不条理の境を越えなければならない」。さらに「そうする理想」について「わが理想をかち取り、動かぬものにすること」だと思考する。

「劇場と呼ばれる試練の場の円環を、ぼくはすべて経めぐった。『私は太鼓を食べ、シンバルを飲んだ』と、エレウシスの秘儀伝授者たちの一見意味のない文章にあるとおりだ。ーーーその意味するところは、おそらく、場合によっては無意味と不条理の境を越えなければならないということだろう。ぼくにとってそうする理由は、わが理想をかち取り、動かぬものにすることだった」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.268』岩波文庫)

しかし「動かぬものにすること」がそんなに重要におもわれるのは、主人公にとって現実的なものであればあるほど次々と入れ換わり置き換わるものであるというはっきりした認識があるからだ。そのように次々と入れ換わり置き換わるものではなく主観的にも客観的にも同時に「動かぬものにする」ことを《欲する》とはどういうことをいうのか。ヘーゲルは主観的なものを客観的なものと同じ程度に「全く確実である」とする態度のことを「《精神錯乱》」としてこう述べる。

「自分が考えている《主観的なものがまだ客観的には》実存し《ない》ということを知っているならば、まだなんら《精神錯乱》ではない。誤謬および愚行が《精神錯乱》になるということは、人間が自分の《単に主観的な》表象を《客観的なもの》として自分の《眼前に》もっているように信じ、且つ自分の単に主観的な表象と《矛盾》している《現実的客観性に対立して》自分の単に主観的な表象を《固持する》場合に始めて起こることである。精神錯乱におちいっている人々にとっては、自分の単に主観的なものが、ちょうど客観的なものが全く確実であると同じように、全く確実である」(ヘーゲル「精神哲学・上・第一篇・三二・P.271」岩波文庫)

とはいえ、錯乱していようといまいと、自分にとってはまぎれもない事実であるという意味で、それはまさしく現実である。日本では木村敏らが提唱し精神分析に応用したことで有名な「現象学的存在論」ではそう捉える。また現象学的存在論という名称は知らなくてもドストエフスキーが小説の中で述べた事実は現実の体験以外の何ものでもない。

「彼はさまざまな物思いにふけるうちに、こんなことを考えてみたのであった。すなわち、自分の癲癇(てんかん)に近い精神状態には一つの段階があり(もっとも、それは意識のさめているときに発作がおこった場合にかぎっていたが)、それは発作のほとんど直前で、憂鬱と精神的暗黒と胸苦(むなぐる)しさの最中に、ふいに脳髄がぱっと炎でも上げるように燃えあがり、ありとあらゆる彼の生活力が一時にものすごい勢いで緊張するのである。自分が生きているという感覚や自意識が稲妻のように一瞬間だけ、ほとんど十倍にも増大するのだ。その間、知恵と感情はこの世のものとも思えぬ光によって照らしだされ、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、まるで一時にしずまったようになり、調和にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な境地へ、解放されてしまうのだ。しかし、この数秒は、この光輝は、発作がはじまる最後の一秒(決して一秒より長くない)の予感にすぎず、この一秒は、むろん、耐えがたいものであった。彼は健康な状態に戻ってから、この一瞬のことをいろいろと考えてみて、よくひとり言を言うのであった。この尊い自覚と自意識の、つまり、《至高の実在》の稲妻とひらめきは、要するに一種の病気であり、正常な状態の破壊にすぎないのではなかろうか。もしそうであるならば、これは決して至高な実在どころではなく、かえって最も低劣なものに数えられるべきものではなかろうか。彼はそう考えながらも、やはり最後には、きわめて逆説的な結論に到達したのであった。《これが病気だとしても、それがどうしたというのだ?》とうとう彼はこんなふうに断定した。《もしこれが異常な精神の緊張であろうとも、それがいったいどうしたというのだ?もし結果そのものが、健全なときに思いだされ、仔細(しさい)に点検してみても、その感覚の一瞬が依然として至高の調和であり、美であることが判明し、しかもいままで耳にすることも想像することもなかったような充実、リズム、融和、および最高の生の総合の高められた祈りの気持に似た法悦を与えてくれるならば、そんなことは問題外である!》この漠然(ばくぜん)とした表現は、まだあまりにも弱いものであったが、彼自身にはまったく明らかなものに思われた。いずれにしても、それが真に《美であり祈りである》ことを、また《至高なる生の総合》であるということについては、彼もまったく疑うことができなかった」(ドストエフスキー「白痴・上・P.419~420」新潮文庫)

さらに。

「それにつづいて突然、何かしらあるものが彼の眼の前に展開したみたいだった。並々ならぬ《内なる》光が彼の魂を照らしだしたのであった。こうした瞬間が、おそらく、半秒くらいもつづいたであろうか。しかし、彼は胸の底から自然にほとばしり出て、いかなる力をもってしてもおさえることのできない恐ろしい悲鳴の最初のひびきを、はっきりと意識的に覚えていた。つづいて彼の意識は一瞬にして消え、まったくの暗闇(くらやみ)が襲ってきたのであった。もうかなり長いことなかった癲癇(てんかん)の発作がおこったのである。癲癇の発作というものは、とくに《ひきつけ》癲癇の場合は、周知のように、その瞬間には急に顔面が、とりわけ眼つきがものすごくゆがんでしまう。痙攣(けいれん)とひきつけが全身と顔面の筋肉を支配して、恐ろしい、想像もつかない、なんともたとえようもない悲鳴が、胸の底からほとばしり出る。この悲鳴のなかにすべての人間らしさがすっかり消えうせて、そばで見ている者にとっても、これが当の同じ人間の叫び声だと想像することも、また考えることもまったく不可能である。いや、少なくとも非常に困難である。まるでその人間の内部には誰か別の人間がいて、その人が叫んでいる声のようにさえ思われる。少なくとも大多数の人は、このように自分の印象を説明している」(ドストエフスキー「白痴・上・P.435」新潮文庫)

もっとも、ドストエフキー自身が「てんかん」に悩まされた生涯を送ったことは余りにも有名。さらにギャンブル依存症者でもあった。だからといって「てんかん患者=ギャンブル依存症者」という形式は成立しない。両者はあくまでも別々の症状である。また「カラマーゾフの兄弟」ではイワンの分身が登場する。イワンは自分の分身と対話する。分身は思いのほか多弁だ。あたかもドストエフスキーの分身であるかのようによくしゃべる。しかも実に皮肉っぽい。「地下室の手記」の主人公のようだ。このあたりの関係は十九世紀半ば頃に激動したロシア社会を抜きに考えることはできないに違いない。「時代の病」というキャッチコピーのようなものではなく、もっと具体的な「病の時代」というべき《時期》があるのだ。大恐慌以前のアメリカと大恐慌以後のアメリカとがくっきり分かれているように。アメリカの場合、大恐慌以前のバブルの時期が一つの「病の時代」であり大恐慌以後の不況の時期がもう一つの「病の時代」である。

主人公とオーレリーとの会話に戻ろう。

「会話のなかで、ぼくは自分が二通の手紙の『未知の者』であることを明かした。彼女はいった。ーーー『あなたって本当におかしな方ね。でも、また会いにいらしてくださいなーーー。私を本当に愛してくださる方なんて、これまで一度だって見つからなかったのよ』」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.268』岩波文庫)

ここではまだオーレリーは悩んでいる。そして主人公から受け取った手紙について、主人公がオーレリーに熱烈な恋愛感情を抱いていることについて、答えを曖昧にしたままずるずると引き伸ばすのは残酷だとおもったのだろう。こう述べる。

「やがて胸打たれた彼女は、ぼくを自分のもとに呼び、昔からの縁を切るのはむずかしいのだと打ち明けた」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.269』岩波文庫)

判断に悩むところかもしれない。だがとりあえず、主人公はまだ「脈がある」と見た。劇団関係者が行政関係者と芝居の打ち合わせをしているあいだにオーレリーを外に連れ出す。そこで主人公がやって見せることはどこにもおかしな点はない。ところが或る見地から見るとこれまで何度も繰り返されてきた行為の反復をありありと見て取ることができる。

「ぼくは馬を借り、オーレリーを連れてコンメルの池沿いの道をとおり、ブランシェ王妃の城にお昼を食べに行った。馬に横乗りになったオーリレーは金髪をなびかせて、かつての王妃のように森を渡っていき、農夫たちは目を丸くして足を止めた。ーーー彼らに向かってこれほど威厳に満ち、そして優美な挨拶を送った女性は、ド・F夫人のほかにはいなかった」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.270』岩波文庫)

オーレリーの「ド・F夫人化」が起こっている。これまでアドリエンヌのベアトリーチェ化、シルヴィのアドリエンヌ化、が起こったように。そのとき、さすが俊才としてパリで活躍し始めていた主人公ではあったが、最低というべき失態を犯してしまう。

「ぼくはオーレリーを、オリーの近くの城館、ぼくが最初にアドリエンヌに会ったあの緑の広場に連れていこうと計画した。ーーー彼女は何も感じない様子だった。そこではぼくは彼女にいっさいを話した。この恋の由来を語って聞かせ、夜ごと垣間見たのち夢に現れた面影が、彼女によって現実のものとなったのだと打ち明けた。彼女は真剣に耳を傾けてからぼくにいった」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.270~271』岩波文庫)

要するに主人公はオーレリーを愛しているのではなくて、置き換えられたアドリエンヌとしてのオーレリーを愛しているに過ぎない。そう自分の口から言ったのだ。オーレリーは激怒する。当たり前だが。

「『あなたはわたしを愛してなんかいないわ!こういってほしいんでしょう、女優は修道女と同一人物だって。あなたはドラマを求めている、それだけのことよ。結末は手に入らないわ。わたし、あなたのことなんかもう信じません!』」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.271』岩波文庫)

ヘーゲルの論理を借りれば、主人公は「自分の単に主観的な表象」に過ぎない思い出を「徹底的に現実にすることを望」んだことになる。

「われわれは、錯乱状態の《第三の》主要形式ーーー《狂行》または《狂気》が現存している場合に始めて、精神錯乱におちいっている主観《自身が》自分が二つの互いに矛盾する様式の意識に引きさかれているということについて知っているという現象をもっているのである。われわれはまたその場合に始めて、精神病者《自身が》自分の単に主観的な表象と客観性との間の矛盾を生き生きと感じ、そしてそれにもかかわらず自分の単に主観的な表象から離れることができず、この表象を徹底的に現実にすることを望むか、または現実的なものを否定することを望むかするという現象をもっている」(ヘーゲル「精神哲学・上・第一篇・三二・P.288」岩波文庫)

そして自分の熱狂的情動を現実化するにあたり、主人公は、オーレリーの身体《において》現実化したいと《欲した》というわけだ。しかし、だからといって、ネルヴァルのことを単純に嘲笑うことができる人間がどれほどいるだろうか。たとえば他人のことをやすやすと「嘲笑う」人間の大量発生について、ニーチェの場合、随分と苦しんでいる。似たような人間ばかりどんどん増殖していく社会が出現したばかりか、そのような状況がますます反復され加速していくという現実が横たわった。近代社会は自分の鏡が他人の姿を取って無数に出現した時代である。人間は鏡に映った自分自身の姿の一部を見て嘲笑い悦んでいる。それはニーチェにとって「嘔気」を催す事態だった。

「わたしはかつて、最大の人間と最小の人間の裸身を見た。その二つはあまりにも似かよっていたーーー最大の人間さえ、あまりにも人間的だった。最大の人間も、あまりに小さい。ーーーこれが人間に対するわたしの倦怠だった。そして最小のものも永遠に回帰することーーーこれが生存に対するわたしの倦怠だった。ああ、嘔気(はきけ)、嘔気、嘔気!ーーーそうツァラトゥストラは言って、嘆息し、戦慄(せんりつ)した」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・快癒しつつある者・P.354」中公文庫)

ネルヴァルはいう。

「『夢』は一つの第二の人生である。われわれを不可見の世界から隔てているこれ等の象牙或いは角(つの)の扉を、私は戦慄を覚えずには潜れなかった。睡眠の最初の数瞬は死である。漠然とした麻痺がわれわれの思考力を襲い、われわれは《自我》が他の形で存在の業を続ける明確な刹那を限定し得ない。それは徐々に明るくなって、そして陰と闇から、冥府の宿りに住む凝然として動かぬ仄かな形像が浮き上って来る、朧ろな地下道である。次に場面が形づくられ、新しい明るさが射してこれ等の奇怪な幻を動かせる」(ネルヴァル「オーレリア・P.5」岩波文庫)

ヘーゲルは精神錯乱について、覚醒状態の中へ出現した夢である、と述べる。だからもしそのようなことが起これば、そのときは夢こそが現実的なのだと。

「精神錯乱においては夢は覚醒そのものの内部に帰着する。そのために夢は現実的な自己感情に所属している」(ヘーゲル「精神哲学・上・第一篇・三二・P.262」岩波文庫)

ネルヴァル「シルヴィ」ではラストに巧みな「落ち」が用意されている。ユーモアもある。だからネルヴァルは錯乱していなかった、というつもりはない。錯乱か錯乱でないかはもはや問題でない。というのは、近現代の読者がそれを読めるのはどうしてなのか、という問いが宙吊りのままぶら下げられているからだ。もしまったくの錯乱の産物だというのなら、近現代の読者はなぜネルヴァルを巧みに読むことができるのか。近現代人は間違いなく、ネルヴァルと同時代であるどころか、もっと遥かにその延長線上で、さらに自分自身を疑うということも忘れ去り、何らの批判もなしにのびのびと生きている。ネルヴァルの狂気=非理性はそのことを如実に思い起こさせてくれる。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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