白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部23

2020年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
かつての暗い地下壕で亡父の制服を着込んだヴィレルムはデロシュに戦いを挑む。だがしかしこの闘争はただ単に亡父の復讐だけが目指されているのではない。単純なことだが、もしそうだとしたら今なお世界中で復讐闘争が、なおかつ銃剣を用いた生々しい白兵戦の形で行われていなければならないに違いない。さらにこの生々しさは白兵戦独特の生々しさというよりも遥かに、アルチュールが指摘しているような「人殺し」の生々しさで繰り返し反復されていなければならない。けれども実際そうはなっていない。国際規約上、戦勝国軍人とその親族らに対する復讐行為が禁止されているから、というだけでは説明にならない。そうではなく、地域紛争という形式へ置き換えられたのである。だからどこにも矛盾はない。むしろ置き換えは狡猾に実施され成功を収めていると言わねばならないだろう。

しかし「エミリー」は、だからヴィレルムとデロシュとの殺し合いは、それ以前のエピソードをモチーフにしている。人間の記憶から特定の一部分だけを取り出して消し去るという操作はそう簡単にできるものではなく、できたとしても一時的な記憶喪失状態に陥れてしまう技術しか発明されていない。そして記憶というものは、必ず書き込まれるからというだけでなく、いったん書き込まれた以上、ベルグソンのいうように、消し去ることはできない。

「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321図5~322」岩波文庫)

そこでさらに脳は記憶された無数のイメージを幾つにも組み換え重ね合わせ多様なモンタージュ(奇妙な合成物)を作り上げる。この操作はただ脳内だけで行われるわけでは全然なく、人間の身体とその周辺環境すべてとの絶え間ない新陳代謝のうちにさらに無数のイメージを何度も繰り返し組み換え重ね合わせさらなる多様なモンタージュ(奇妙な合成物)を《生産する》。欲望は生産する諸機械として次々と脱コード化の運動を加速させる。この運動は差し当たり二つに分類可能であり、また両者は区別して考えられなければならない。第一に統合失調状態の身体として。第二に諸力の運動としての資本主義として。さて、作品「エミリー」で問題となるのは同一化と分裂とを実行しているヴィレルムとデロシュとの二人である。しかしなぜデロシュもなのか。実を言うとデロシュの側がよりいっそう深い部分ですでに「狂気」の領域に入っているからである。もう少し後でわかる。まず、ヴィレルムの言動を見ることにしよう。ヴィレルムに闘争を挑まれたデロシュは二人で揉み合っているうちにだんだん虚しさを昂じさせる。終わりのない不毛な闘いを闘っているような、駒のように急速度で空転している気分に襲われる。ここで一度デロシュはいう。「私を殺せ」と。

「『ヴィレルム!私を殺せ、防御などしない。気が変になってきた。頭がくらくらするーーー。ヴィレルム!私は兵隊としての義務を果たしただけだ。どうか、考えてみてほしいーーー。それに私はきみの妹の夫だぞ。彼女は私を愛している!ああ!戦うなんて不可能だ』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.470』岩波文庫)

しかしエミリーを見捨てるわけにもいかない。デロシュの発言は、読み飛ばせばなるほどそれまでのことだが、しかし或る奇妙な響きを反響させている。もっとも、ごく一般的に見れば、「哀れな狂人」、「情けを知らない妄想家」、といった台詞は「エミリー」を含む「火の娘たち」発表時期に精神病院入退院を繰り返していたネルヴァルが、自分自身に向けて吐いた言葉として考えられる。「火の娘たち」発表(一八五四年)の翌年一月に首吊り自殺しているので、通例でいえばなるほどそう見えるわけだが。

「『そのサーベルをよこせ』デロシュは叫びました。『こっちによこせ!お前なんかにやられてたまるか、哀れな狂人め!ーーー情けを知らない妄想家め!ーーー』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.470』岩波文庫)

しかしネルヴァルにとって、デロシュをここで殺させてしまうわけにはいかない事情がある。この事情は二つある。一つは次のヴィレルムの言葉にある。

「『そのとおり』ヴィレルムも息を詰まらせながら叫びました。『息子までもこの地下壕で殺すがいい!ーーー息子はドイツ人ーーードイツ人だぞ!』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.470』岩波文庫)

ヴィレルムが主張しているのは、自分(ヴィレルム)は「この地下壕で殺」されなければならない。そうでなければ「この地下壕で殺」された父親と同一化することはできない。中途半端な同一化はあり得ない。というのは、ここで譲歩して、父親との同一化を中途半端なまま終わらせてしまえば、ドイツ人《として》名誉の戦士を遂げた父親との同一化を途中で中止することになり、結局のところ、ヴィレルムは周囲からさんざん馬鹿にされたように、いつまで経っても「生粋のドイツ人」としての証しを立てることができなくなってしまうからだ。言い換えれば、この戦争はそれほど広範囲に渡ってフランスとドイツとの国境線を曖昧なものにしていたと言える。だからこそ「この地下壕」でなければならず、「ドイツ人《として》」、ヴィレルム自身の言葉通りデロシュの銃剣で《虐殺》されねばならず、そしてこの生々しさは、ほかならぬフランス人デロシュの手による「人殺し」として、かつてヴィレルムの父親を殺害した瞬間の生々しさと等価の生々しさを呼び起こし再びPTSD(心的外傷後ストレス症候群)を引き起こすレベルのものでなくては意味がない。ヴィレルムはデロシュの手によって「この地下壕で」、「生粋のドイツ人《として》」、《虐殺》されることで、ようやく亡父との同一化をよりいっそう完璧に成就させようと欲する。そうして始めてヴィレルムは亡父と同一化するだけでなく、亡父へ寄せる妹エミリーの魂〔愛、“spirit”、精神、情動〕を常にヴィレルム自身へ向け換えることができる。そうなれば婚約者デロシュといえども、もはやヴィレルムとエミリーという兄妹間の接続性のあいだに滑り込んでくる余地は消えてなくなる。婚約というただ単なる法的手続きが白紙に戻るのではない。新しく書き換えられるのである。ヴィレルムの死と引き換えにではあるが。ところがヴィレルムとしては死ねば死ぬほどなおいっそう亡父への同一化は完璧さを増す。死者としての永遠性を手に入れることになる。その限りでエミリーの精神のすべてをもはや死者と化したヴィレルム自身に接続させたまま永遠に凝固させることも可能となる。

同時にネルヴァルはすかさず、神父から予言者の位置を剥奪し、何食わぬ顔でただ単なる語り手の位置に戻している。過去の事情を聞かされたエミリーは神父の元をおとずれて尋ねる。

「『父親を殺した相手をなおも愛することはできるでしょうか』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.471』岩波文庫)

エミリーはただ単に過去の事情を知ったというばかりであって、今なお神父に予言者の姿を見出そうと苦悶している。生きていくための方向性を与えてもらおうとしている。しかし作者ネルヴァルによって神父から予言者の立場はすでに剥奪されている。だから神父が取ることのできる態度は一つしかない。

「返事をしませんでした」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.471』岩波文庫)

やおらエミリーは宙吊りにされる。その意味でエミリーは「神の死」以後を生きる近現代人の立場に近い。宿の中に閉じ込もってしまった。

「なぜならエミリーはショックが響いてすっかり体調を崩してしまったのです」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)

ところで、エミリーのような人間は何らショックと呼べるようなことに遭遇しなくても今や世界中に、日本にももちろん、たっぷりいる。いったいどれほどの人間が閉じ込もっているか。部屋の中に。自分だけの世界に。イヤホンの中に。宙吊り状態というのは「神の死」以後新しく神になった資本主義がどの人間に向けても与える生活環境全域から生じるあらゆる症状の総称を指す。だから資本主義によって回収不可能な宙吊り状態はない。しかし資本主義が人間に与え直す新しい生存環境はさらなる宙吊り状態を反復させることでしかない。仮面ならいつでも取り換えることができる。仮面を付けている限りで生きるのならいつもすでに大歓迎だ。とりわけ労働力商品としては。しかし素顔はもはやどこにもない。この種のリアリズムには救いようのなさばかり目立つのではあるけれども。

「『さいわい間にあって、怒りと苦悩で錯乱した二人の男たちのあいだに、新たな悲劇が起こるのを防ぐことができました』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.471』岩波文庫)

語り手から見てもはや二人とも「錯乱し」ているとしか言いようがない。差し当たりヴィレルムとデロシュとの殺し合いを阻止し二人を取り押さえることができただけだ。ところがすでにデロシュの精神は周囲の手の届かないところにある。

「デロシュは私の手を握りしめていいました。『エミリーは何もかも知っています。もう二度と会うわけにはいきません。彼女を自由の身にしてやるために自分がどうすべきかはわかっています』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.472』岩波文庫)

自殺の表明と言ってしまうとこれまた短絡的なのだ。むしろ文法的な置き換えがなされている点に注意したい。先に引いたデロシュの言葉、「私を殺せ」。二人が殺し合いを演じているあいだに「私を殺せ」という言語間の並びがよりいっそう明確化されている。「私を殺せ」、そうでなければ「私は私を殺す」、そして「私は私を殺さなければならない」と。デロシュの錯乱はヴィレルムの錯乱とはまた違ったものだ。ヴィレルムの場合、同一化への飽くなき固着が顕著に見られる。広い意味で「パラノイア」(妄想型)のカテゴリーに分類されうる。その意味ではデロシュよりわかりやすい。あくまで比較するとすればという条件付きで。一方、デロシュの側はたいへん「奇妙な死」を選択する。語り手はいう。デロシュは或る連隊に「中隊長」の資格で参加することが決まり、その一ヶ月後、戦死の報告が届いたと。

「『われわれは彼が名誉ある、とはいえ奇妙な戦死をとげたという知らせを受け取りました。彼を白兵戦に飛び込ませた一種の熱狂状態についてーーー』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473~474』岩波文庫)

中隊長の身分でなぜわざわざ「白兵戦に飛び込」む必要があるのか。むしろ指揮する立場ではないのか。なぜ「一種の熱狂状態」という精神状態で「サーベルの一撃を胸に喰ら」いたいと欲するのか。もしそうなら、身体と銃剣、それが喰い込む生々しい肉感と死。エロティシズムの炸裂を見ないわけにはいかない。あるいはまた、ヴィレルムの亡父を殺した時に加害者側として負ったPTSD(心的外傷後ストレス症候群)の返済のためだろうか。PTSDの不気味な反復力はそれを患った人間にしかわからない。デロシュがそれを返済するためには自分で自分自身を正反対の極に置くほか完済は不可能だ。その場合、その形式は自殺とも他殺とも付かない奇妙な死に方になる。最も手っ取り早い方法としてニーチェは極めて明晰な分析を行った。

「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫)

戦争を通して実現可能になる「自殺」について、ニーチェのいう「良心の呵責をともなわぬ」とある部分は非常に重要だろう。作品「エミリー」の舞台は原則的に自殺が禁じられた世界だからである。しかし問いの系列はまだ続く。というのもデロシュは、ヴィレルムより先にヴィレルムの亡父と同様の死に方をすることで「ヴィレルムの位置=エミリーにとっての父の位置」を先取りし、後々ヴィレルムが滑り込んでくる余地を意図的に排除しておくためだとも考えられるからだ。

いずれにしても確実に言えることがある。デロシュもヴィレルムも二人とも、死後のことであるにもかかわらず、死んで始めて自分たちが取って代わることができる《かもしれない》社会的立場=「エミリーにとっての父の位置」をめぐって、《今》の闘争を闘っているという事実だ。なぜ《今》か。言うまでもなくデロシュとエミリーとは結婚したわけではなく婚約したに過ぎない不安定な時期に置かれており、天秤は揺れたままだからだ。さらにデロシュの場合、「パラノイア」とも「スキゾフレニー」ともどちらともつかない決定不可能性が顕著であるように思われる。ただ、デロシュにはすでに《主体と化した死》だけがある。デロシュは《主体と化した死》だ。内実はもはや死んでいるわけだが、実際に死んだことを確実なものに仕立て上げねばならないという作業が残っている。そしてその作業を終えた。そのような事例はけっして多くないとはいえ、ニーチェも言及しているが、少なくともあることはある。

「そのほかにも狂気がある。それは行為の《まえ》の狂気である。ああ、君たちはそのような狂気をもった魂の奥に十分深く穿(うが)ち入ることがなかったのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・青白い犯罪者・P.57」中公文庫)

フロイトも同意している。

「ひどく逆説的に聞こえるかもしれないが、私はこう主張せざるをえない、つまり、罪の意識のほうが犯行よりも前に存在していたのである。罪の意識が犯行から生じたのではなく、逆に、犯行が罪の意識から生じたのだ、と。だから、これらの犯罪者たちを、罪の意識からの犯罪者と名づけることは、きわめて正しいことだと思う」(フロイト「精神分析的研究からみた二、三の性格類型」『フロイト著作集6・P.134』人文書院)

戦場は今なお殺傷行為が非合法でなくなる絶好の場だ。あえてそれを選んだとすればデロシュは地下壕でのヴィレルムとの殺し合いの《あいだ》に「デロシュ’」へ生成変化していたことにならないだろうか。そう考えて始めてアルチュールが指摘していたデロシュの《殺人的な自殺》というものがどういうものか見えてきそうにおもう。そしてヴィレルムとの殺し合いの《あいだ》に「デロシュ’」へ生成変化していたとすれば、その間にデロシュは必ず一度は解体し、どのようなものにでも変容可能な流動性と化していなければならない。ディドロが述べたように。

「そして気の触れた人のように叫んだり歌ったり暴れたり、自分一人で男や女の踊り手にもなれば歌い手にもなり、オーケストラや歌劇の一座も全部一人でやってのけ、一つのからだを二十もの別々の役に使い分け、悪魔に憑かれた人のように、走ったかと思うと、立ち停り、きらきらと眼を輝かしたり、口から泡を吹いたりした。息もとまりそうなほどの暑さだった。そして、彼の額の皺や長い頬に沿って流れる汗は、髪粉とまじって、川のように、着物の上のほうにいくすじもの線をつけていた。彼が表わさないものが一つだってあっただろうか。彼は泣いた。笑った。溜息をついた。ある時は愛情をこめて、ある時は静かに、ある時は荒々しく、眺めた。悲しさに悶える一人の女になることもあれば、失望の淵に沈む一人の不幸な男にもなった。そそり立つ寺院であることも、落日に声なき鳥どもになることもあった。あるいはうら淋しくすがすがしいほとりにせせらぐ流れとも、また山々の頂から急湍となって走せ下る流れともなった。暴風雨でもあり、海荒れでもあり、風の唸り、雷の轟にまじる死にゆく人々のうめき声でもあった。それは暗々たる闇夜でもあったし、物影と沈黙でもあった。というのは、沈黙さえも音で描写されるのだから。彼の頭はまったく正気を失っていた。深い眠りからか、また長い放心状態から醒めた人のように、疲れきって、彼は茫然と、気がぬけたように、じっとしていた」(ディドロ「ラモーの甥・P.122」岩波文庫)

次は、デロシュから「デロシュ’」への転化と、いずれ述べると言っておいたようにダブルバインドとの関係について触れたいとおもう。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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