しばらく次の三点を問いとして置いておこう。
「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)
作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
さらに。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
統合失調者を育む家庭環境、とりわけ親子関係が社会的最小単位として取り扱われている社会で生じてくるダブルバインド状況について、続ける。母親が子供に与える「愛」とはどのようなものか。絶体的な正解というものがないのは当然のことだ。試行錯誤の連続が始まるかそれとも一般的にマニュアル化されている方法に従って親子関係は進行する。けれども「マニュアル化」されてしまっている時点ですでにその「“愛”は装われたものである」。子供がその事情に気付いていないと考えるとすればあまりにも楽観的であるだけでなく単なる希望的観測に過ぎない。子供は母親の両義的な態度を指摘して母親を弾劾するようなことはできないし、やろうとしてもそのための言語を持ち合わせていない。下手にやってしまうと昨今の日本で多発している家庭内暴力による子供の虐待死ばかりが増大する一方だろう。子供は親が発するシグナルに対して思いのほか敏感に反応している。差し当たり母親の意図を気遣うあまり自分の意志を自分自ら「歪曲」することで母親を側を尊重した形に収めようと苦悶する。
「母親は子供の反応を用いて、自分の行動が愛によるものであることを確証しようとする。しかしその“愛”は装われたものであるから、子供は母親との関係を維持するために、彼女のコミュニケーションの真実を見破ってはならないという状況にはまりこむ。母の本当の気持はこうであり、優しさを表わすコミュニケーションの方は、母の心をそのまま示すのではなく、それとは違った論理階型に属するということを受け入れるのは、子供にとって破滅的なことだ。それを受け入れずにすますために、子供はメタなレベルのシグナルについての自分の理解を体系的に歪める必要に迫られる。例を考えよう。母親が子供のことをうとましく思い(いとおしく思っても同じだが)、子供から身を引かずにはいられない気持に襲われたとき、彼女は、『もうおやすみなさい。疲れたでしょう。ママはあなたにゆっくり休んでほしいの』とでも言うだろう。言葉になって明確に発せられたこの“愛”のメッセージには、言葉でいうとしたら『お前にはうんざりだ、わたしの目の入らないところに消えておしまい』とも表現される感情を否定する意図が含まれている。ここでもし子供が彼女のメタ・コミュニケーションのシグナルを正確に識別すれば、母が自分をうとましく感じ、しかも優しいそぶりでだまそうとしている事実に直面しなくてはならない。メッセージの等級を正しく区別する学習をすることで、『罰』を受けるのだ。子供は、母に嫌われていることを受け入れるよりは、自分が疲れていることを認めてしまうことに傾くだろう。これは、自分の身体から得るメッセージに関して、自分自身をあざむいて、母親のあざむきに加担するということだ。母親との生活を守るために、子供は他者からのメッセージばかりか、自分自身が体感するメッセージについても誤った識別を行なうように駆りたてられるのである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302~303』新思索社)
問題は、母親が用いている「“愛”のメッセージ」を子供の側は尊重しようとして自分の意志を歪曲するほかないという事情だけにあるのではない。母親が用いているメッセージは二重である。両義的だ。パルマコンであるといえる。「パルマコン=医薬/毒薬」である。母親のメッセージがどれほどパルマコン的であっても、子供としては、その毒薬性については気づかぬふりをしてあくまでも医薬として受け取らねば少なくとも安心して母親のもとでともに生活していくことはできない。発せられたメッセージの二重性にもかかわらず、その矛盾をあばき立てることなく、毒薬性については沈黙し医薬性を指し示している意味にしたがう。子供にとって重大な歪曲がなされるのはそのときであるが、歪曲するためにはコミュニケーションのために用いられている文脈ごとすっかり歪曲してしまわねばならないばかりでなく実際にそうするという言語に対する裏切り行為をも同時に習得する。「母に嫌われていることを受け入れるよりは、自分が疲れていることを認めてしまうことに傾く」といったように。こうして子供はまだ幼稚園や保育所に入るか入らないかといった早い時期から言語の社会的意義の重要性を知る以前すでにそれを裏切ることを身に付ける。自分で自分自身を欺き、たった一度の自己欺瞞のためにその後もずっと自己欺瞞の上に自己欺瞞を重ねていく必然性にまとわりつかれ続けていく。十代になると平気で嘘を連発するようになるか、そうでなければ極めて言葉に敏感な性格の持ち主になる。しかし嘘を連発してその場しのぎで生きていくことを覚えた年少者は、嘘を付くたびごとに、ますます罪の意識(良心のやましさ)は破格の勢いで内面に蓄積されていくことになるほかない。他方、嘘を付くことへの嫌悪感から言葉に敏感な性格を形成した年少者の場合もなお、今度は周囲に合わせず嘘を付かない態度を貫くことで、周囲に合わせなかったという終わりの見えない罪の意識(良心のやましさ)を内面に蓄積させていく。いずれの立場においても内面化された罪の意識(良心のやましさ)は思春期どころかその子供が大人になってからも生涯を通して生き続ける。それは典型的な場合、自己破壊の一種として自殺という結果を容易に招く。また逆に十代の場合、義務教育期間に当たっているため、外界への吐け口を求めて学校での度重なる暴力事件や相手を次々に置き換えて実行されるいじめ行為といった形で出現する。しかしなぜそうなるのか。この場合、子供は母親の発する「メッセージの等級を正しく区別する学習をすることで、『罰』を受ける」立場に置かれているからである。「母親との生活を守るために」、あえて子供は、「自分自身をあざむいて、母親のあざむきに加担する」。
大人になってもつきまとって離れないこの種の事例としてしばしば見られるのは、たとえば選挙期間中の現金ばらまきがそうだ。地域社会から排除されないようにするためには与えられた「現金」=「パルマコン=医薬/毒薬」が明らかに毒薬であることが分かっていても、そうではなくあたかも医薬であるかのように生涯のあいだずっと自分で自分自身を自己欺瞞し続けていかなくてはならない。するとしばらくしてその地域特有の隠語の系列が発生する。ジュネがミニョン独自の隠語について語ったように。
「監獄のなかで彼がそっと噴射させた臭いには真珠の鈍い艶があって、その臭いは彼のまわりにからみつき、彼の全身を後光で包み、彼を孤立させるが、彼の美しさが恐れず口にした表現ほどには彼を孤立させはしない。『俺は真珠をひとつ放つ』が示しているのは、屁は大きな音を立てなかったということである。音を立てるとすれば、それは下品である、そして間抜けがおならをすると、ミニョンは言う、『俺のちんぽこのムショが崩れちまうぜ!』。驚くほど見事に、背が高く金髪である彼の美しさの魔法によって、ミニョンはサバンナを出現させ、黒人の人殺しが私に対してきっとそうするよりもっと深く、もっと横柄に、黒い大陸の中心にわれわれを追いやるのだ。ミニョンはさらにつけ加えて言う、『くっせえ臭いだぜ、われながら自分のそばにはいられねえーーー』。要するに、彼は自分の汚辱を真っ赤な焼きゴテでむし出しの肌につけられた傷跡のように身にまとっているのだが、この貴重な傷跡が、往時のならず者たちの肩の上の百合の花と同じように、彼を気高くする」(ジュネ「花のノートルダム・P.50~51」河出文庫)
しかし彼ら「泥棒、裏切り者、性倒錯者」が用いるすぐれた隠語には詩(ポエジー)がある。よく練り上げられたそれら隠語の系列を逸脱した言葉だとたちまちつまらない白けた雰囲気を周囲に漂わせ、本当の屁よりもなお忌み嫌われる。彼ら「泥棒、裏切り者、性倒錯者」が用いる隠語の系列は実に繊細緻密な配慮に満ちている。
「それは、恐らくどんなものよりも私を仰天させーーーあるいはミニョンがいつも言うように、残酷であるが故に、私を悩ませるーーー隠語のうちのひとつが、スルシエールの独房のひとつで発せられたという話なのだが、その独房をわれわれは『三十六のタイル』と呼んでいて、あまりに狭い独房なので船の通路に思えるほどである。私は、ひとりの頑丈な看守について、誰かが『カマ掘られ野郎』と、それからすぐ後に『串刺し帆桁野郎』と呟くのを聞いた。ところで、たまたまそれを口にした男は自分は七年間船乗りをしたとわれわれに言ったのである。このような営みーーー帆桁による串刺し刑ーーーの壮麗さは私を頭のてっぺんから足の先まで震えさせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.288」河出文庫)
また、隠喩の系列は同時にフェチの系列としても出現する。両者は置き換え可能である。列挙してみる。
「世間の人間は、私をまったく知らない連中までも、私にたいして最大の敬意を払うべきだった、なぜなら私は自分のなかでジャンの喪に服していたのだから。寡婦たちの正式な喪服は認めるが、それを徴(しる)し程度にちぢめたもの、黒の腕章や、上衣の衿の黒い布切れや、また労働者にみかける帽子の庇のすみっこの黒い徽章などは、これまで私の眼に滑稽に映ったものだ。とつぜん、私はその必要性に気づいたのである。それは敬意をもってきみに接し、いたわりを示さねばならぬことを人々に告げるためのものなのだ、だってきみは神聖な想い出をうちに秘めているのだから」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)
「何度かエリックはリトンと出くわした、がいちども彼に言葉をかける機会がなかった。遠くから眺めるだけで。リトンは彼に気づかなかった、だって顔見知りではなかったからだ。ーーー或る日のこと彼はエリックの営舎になっている小学校(兵舎に改造された)へ電報を届けにいかされた。入口のところで彼と出くわした。黒ラシャをまとった見事な彫像とぶつかったのだ。一目で惚れ込んでしまった。ーーー玄関では、エリックはさいしょ若造の顔を見るひまがなかった。後ろを振り返って見てその身体つき、背丈、後ろ姿の比類ない瀟洒さ、そして胴体を二巻きしている革バンドに目をとめた」(ジュネ「葬儀・P.110」河出文庫)
「乱暴に向き直ったために、もともと目深に傾いでいた私の黒い軍帽は肩の上にずり落ち、地面へころがった。(俺から葉っぱが落ちたのだ)という考えがすばやく、私の脳裏をかすめた。地面に落ちた略帽を拾い上げようとするかのように私の左手はかすかに動きかけた」(ジュネ「葬儀・P.153」河出文庫)
「背後からは、化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たちが、殺害された少年の開いた胸からぞくぞくと繰り出され、笑顔で或いは厳粛な顔付きで、素裸で或いは革や銅や鉄の鎧に身をつつんで、黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)を押し立て、沈黙の世界の荘厳な行進曲(マーチ)に導かれて行進を開始するのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)
「革具の音からの連想だろうが、特殊な娼家でよく黒いカーテンのかげにかくされているのを見かける、革紐や、バンドや、鉄の締め金や、御者の鞭や、長靴など、例の道具一式をひそめた不吉な布地の下で息づき、死の魅惑をたたえているところから、その太腿はますます神秘的なものに思えるのだった」(ジュネ「葬儀・P.220~221」河出文庫)
以上の中から、「喪服=黒の腕章=帽子の庇のすみっこの黒い徽章=黒ラシャ=後ろ姿の比類ない瀟洒さ=革バンド=黒い軍帽=略帽=革や銅や鉄の鎧=黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)=荘厳な行進曲(マーチ)=黒いカーテン=革紐=バンド=鉄の締め金=御者の鞭=長靴=道具一式をひそめた不吉な布地=その太腿」といった系列を上げることができる。そして作品「葬儀」の場合、それらフェチの系列なくしてハーケンクロイツが力を発揮することはけっして不可能だったと十分に言える。
「問題が子供にとってより一層錯綜したものになるのは、子供の身体から発せられるメッセージを、母親が本人になり代わり、『思いやりにあふれた』言葉で決めつけるからだ。彼女は子供の『疲れ』について、あからさまな母親らしい気遣いを表明している。あるいはこう言ってもいい。ーーー『ママはママ自身のことでなく、あなたのことだけを気遣っている』と言い張ることで、母親は、子供による身体的メッセージの解釈を制御するとともに、母親に対する子供の反応を子供自身がどう解釈するのかということも制御する。たとえば、もし子供が母親の言動をなじったときには、『本気じゃないわよね、あなたは本気でそんなことをいう子じゃないものね』という“愛”の言葉によって、『ぼくはママを責めている』という子供の認識を崩してしまう。そんなふうに封印された子供にとって最も楽な選択は、母親の擬装された優しい態度を本物として受け入れることだろう。こうして子供は、状況の実の姿を捉えようとする欲求を、根本から突き崩されていくことになる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.303』新思索社)
ありがちなパターンである。母親は実にしばしば子供の未熟さにつけ込む形で子供の言葉を制してその場の空気を仕切ってしまう。<母親=医師>であり<子供=患者>であるとしよう。すると患者が言おうとしている言葉を医師の言葉が患者の《代わり》の位置を占めることになってしまう。<子供=患者>の主体性は<母親=医師>によって、その資格において、ものの見事に簒奪されてしまうのである。子供から主体性を奪い取り母親の意志がこの位置を占拠する。言い換えれば、子供の主体性を母親の意志が無理やり強姦して去勢してしまう。問題は解消するどころか、幼少期のうちにもはや解消とは逆方向へ向かい始める。
「それでもなお、母親が自分から身を引き、しかもその『逃亡』を愛の関係の正しいあり方として決めつける現実は、消えずに残るのだ。母親のいつわりの優しさを本物として受け入れたとしても、問題は一向に解消しない。子供がそこで『ママはやさしい』と誤認した場合、母は子に近寄っていこうとするだろう。しかし、この親密さへの移行こそ、母親の恐怖と絶望感をかき立てるものなのだ」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.303~304』新思索社)
母親が用いる手持ちの「子育てマニュアル」に対して子供が素早く調子を合わせ、母親はけっして子供(自分)を憎んでいるわけではなく、逆に愛しているのだと考え改める。すると子供はいったん母親から遠ざかったとしても今度は以前よりずっと近くへ接近してくる。そして「この親密さへの移行こそ、母親の恐怖と絶望感をかき立てる」ことになる。ところが子供をそのような精神状態に叩き込んでいくのはほかでもない母親の言葉そのものである。母親が手際よく用いる矛盾した二つのメッセージからなる言語が子供をそうさせてしまう。
「そこで彼女は子供を遠のけようとする。ところがそのとき、子供が素直に彼女から身を引いていくと、そのそぶりから、わが子が自分を愛情深い母親ではないと言っていると感じ取り、そのことで子供を罰するか、子供を自分に引き寄せようと自分から近づいていくかするだろう。しかしそこでまた子供との間が近密になれば、ふたたび子供を遠のけずにはいられない。《子供は母親の気持の表われを正確に認識したことで罰せられ、不正確に認識したことで罰せられる》。まさにダブルバインドの状況である」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.304』新思索社)
それこそが子供をのちのち統合失調者へ導く前提として与えられるダブルバインド状況の一般的条件となる。なお、ここでは「母親」となっているけれども、問題は現代社会の中で子供に対してかつて「母親」にのみ与えられていた社会的位置なのであって、実在する母親でなくてもまったく構わない。今や母親の機能は様々な他の人間や機械(ゲーム)やペットによってすっかり置き換えられている。重要なのは、一体誰(何)がということではもはやなく、《どのような方法で》子供と接することができるかということであり、またそれがなぜ後々、子供が主に十代後半になって統合失調症状の傾向を見せ始めるかという関係が重視されなくてはならないということだろう。子供の面倒を見る役割が母親にばかり押し付けられているのが主流だった時代でも或る特異的な病的傾向はしばしば顕著に見られた。子供は自分(母親)を必要とし自分(母親)なしには生きていくことができないという環境が実際にあるところでは、子供が成長するとともに子供が母親でなく他のもの(人間でも玩具でも何でも構わない)に愛着を示すやがらりと態度が変わり、露骨な家庭内暴力によって子供のコミュニケーション能力を著しく阻害する母親は昔から出現していた。幼少児を傷害致死に追いやる親というのは今になって突如発生してきたわけではない。ただ、インターネットや福祉政策の充実によって早期発見が可能になったのは事実としても、むしろ逆に幼少児を傷害致死に追いやる親(あるいは他のものへ置き換えられたその機能)が一向に減少する気配がないのはなぜだろうか。減少どころかかえって増大してきたのはなぜか。その逆に子供の側による両親の殺害という事例もまた増えているわけだが。
さて、つい先日日本の首相が断言したように憲法改正論議を進めるのも天皇制の是非を含めて大いに結構だろう。拉致問題当事者の自然消滅を待ってでもいるかのような態度をむき出しにしたままの状況で。北方領土や沖縄基地問題に対してもそうだ。「拉致問題を持ってしまっている」、「北方領土問題を持ってしまっている」、「原発汚染水処理従事者を持ってしまっている」、とはどういうことか。今の内閣をアルコール依存症者としてのフィッツジェラルドに喩えると話が早い。
「当然にも、複合過去は『私は飲んでしまったを-持っている』に到るからである。現在の時期は、もはやアルコールの効果の時期ではなくなり、アルコールの効果の効果の時期になる。そして、今や、この別の時期が、近い過去(私が飲んでいた時期)を無差別に含んでしまう。また、この近い過去が隠匿する想像的同一化のシステムと、多かれ少なかれ遠ざかった素面の過去のリアルな要素も含んでしまう。それによって、現在の硬化はまったく意味を変える。すなわち、現在は、固い現在としては、影響力を失って色褪せ、何ものも締め付けず、別の時期のすべての相を等しく遠ざける。まるで、近くの過去、しかしまた、近くの過去で構成された同一化の過去、そして最期に、〔その構成の〕材料を提供していた素面の過去、これらすべてが、羽ばたいて逃げ去り、等しくなったかのようである。これらすべての過去との距離を維持しているのが、全般的に拡大する色褪せた現在、増大する砂漠の中で改めて硬直する新たな現在である。複合過去の一次効果は、唯一の複合過去『私は飲んでしまったを-持っている』の二次効果で置き換えられる。この助動詞現在形は、一切の分詞と一切の分有からの無限の距離を表現するだけである。現在の硬化(私は持っている)と、過去(私は飲んでしまった)の逃走の効果には、今や関連性があることになる。であったことを持っている(has been)においてすべては頂点に達する。過去の逃走の効果、あらゆる意味での対象喪失が、アルコリスムの抑鬱的な面を構成する」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.276」河出文庫)
ところで、ニーチェによる「神の死」(絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、中心的なものの分散転移、変動相場制)の宣告は有名だが、その少し前、ネルヴァルはこう述べている。
「『《おそらく神は死んでる》』とジェラール・ド・ネルヴァルは本書の著者に向かってある時言った」(ユーゴー「レ・ミゼラブル4・第五部・第一編・第二十章・P.255」岩波文庫)
ユーゴー「レ・ミゼラブル」は一八五八年から一八六二年まで五年間かけて執筆された。ネルヴァル「エミリー」の原案は一九三九年に一度出来上がっており、だから「懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル)が「《おそらく神は死んでる》(神はほとんど死んでいる)」と考えたのはたいへんよく理解できるかと思う。また、新しい思想家として十八世紀に登場したルソーから大変多くの影響を受けたのはもちろんネルヴァルだけでない。ルソーを師と仰ぎルソー直系として生きたロベスピエールはフランス大革命で新興ブルジョワ階級によるブルジョワ革命を成し遂げた。しかしルソーの思想からはただ単なる理想主義には留まらない世界共和国構想とでも言える壮大な社会的ヴィジョンがうかがわれる。
「一つの人民に制度を与えようとあえてくわだてるほどの人は、いわば人間性をかえる力があり、それ自体で一つの完全で、孤立した全体であるところの各個人を、より大きな全体の部分にかえ、その個人がいわばその生命と存在とをそこから受けとるようにすることができ、人間の骨組みをかえてもっと強くすることができ、われわれみなが自然から受けとった身体的にして独立的な存在に、部分的にして精神的な存在をおきかえることができる、という確信をもつ人であるべきだ。ひとことでいえば、立法者は、人間から彼自身の固有の力を取り上げ、彼自身にとってこれまで縁のなかった力、他の人間たちの助けをかりなければ使えないところの力を与えなければならないのだ」(ルソー「社会契約論・第二編・第七章・P.62~63」岩波文庫)
もし、できる限り速やかに国連正常化委員会というものが創設されるとすれば、「一般意志」とともにこのような世界的枠組み作りも検討されるべきだろう。というのも、今やどの人間も一人残らず間違いなく「社会的諸関係の総体」であるほかないからである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
BGM3
BGM4
BGM5
BGM6
BGM7
BGM8
BGM9
BGM10
「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)
作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
さらに。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
統合失調者を育む家庭環境、とりわけ親子関係が社会的最小単位として取り扱われている社会で生じてくるダブルバインド状況について、続ける。母親が子供に与える「愛」とはどのようなものか。絶体的な正解というものがないのは当然のことだ。試行錯誤の連続が始まるかそれとも一般的にマニュアル化されている方法に従って親子関係は進行する。けれども「マニュアル化」されてしまっている時点ですでにその「“愛”は装われたものである」。子供がその事情に気付いていないと考えるとすればあまりにも楽観的であるだけでなく単なる希望的観測に過ぎない。子供は母親の両義的な態度を指摘して母親を弾劾するようなことはできないし、やろうとしてもそのための言語を持ち合わせていない。下手にやってしまうと昨今の日本で多発している家庭内暴力による子供の虐待死ばかりが増大する一方だろう。子供は親が発するシグナルに対して思いのほか敏感に反応している。差し当たり母親の意図を気遣うあまり自分の意志を自分自ら「歪曲」することで母親を側を尊重した形に収めようと苦悶する。
「母親は子供の反応を用いて、自分の行動が愛によるものであることを確証しようとする。しかしその“愛”は装われたものであるから、子供は母親との関係を維持するために、彼女のコミュニケーションの真実を見破ってはならないという状況にはまりこむ。母の本当の気持はこうであり、優しさを表わすコミュニケーションの方は、母の心をそのまま示すのではなく、それとは違った論理階型に属するということを受け入れるのは、子供にとって破滅的なことだ。それを受け入れずにすますために、子供はメタなレベルのシグナルについての自分の理解を体系的に歪める必要に迫られる。例を考えよう。母親が子供のことをうとましく思い(いとおしく思っても同じだが)、子供から身を引かずにはいられない気持に襲われたとき、彼女は、『もうおやすみなさい。疲れたでしょう。ママはあなたにゆっくり休んでほしいの』とでも言うだろう。言葉になって明確に発せられたこの“愛”のメッセージには、言葉でいうとしたら『お前にはうんざりだ、わたしの目の入らないところに消えておしまい』とも表現される感情を否定する意図が含まれている。ここでもし子供が彼女のメタ・コミュニケーションのシグナルを正確に識別すれば、母が自分をうとましく感じ、しかも優しいそぶりでだまそうとしている事実に直面しなくてはならない。メッセージの等級を正しく区別する学習をすることで、『罰』を受けるのだ。子供は、母に嫌われていることを受け入れるよりは、自分が疲れていることを認めてしまうことに傾くだろう。これは、自分の身体から得るメッセージに関して、自分自身をあざむいて、母親のあざむきに加担するということだ。母親との生活を守るために、子供は他者からのメッセージばかりか、自分自身が体感するメッセージについても誤った識別を行なうように駆りたてられるのである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302~303』新思索社)
問題は、母親が用いている「“愛”のメッセージ」を子供の側は尊重しようとして自分の意志を歪曲するほかないという事情だけにあるのではない。母親が用いているメッセージは二重である。両義的だ。パルマコンであるといえる。「パルマコン=医薬/毒薬」である。母親のメッセージがどれほどパルマコン的であっても、子供としては、その毒薬性については気づかぬふりをしてあくまでも医薬として受け取らねば少なくとも安心して母親のもとでともに生活していくことはできない。発せられたメッセージの二重性にもかかわらず、その矛盾をあばき立てることなく、毒薬性については沈黙し医薬性を指し示している意味にしたがう。子供にとって重大な歪曲がなされるのはそのときであるが、歪曲するためにはコミュニケーションのために用いられている文脈ごとすっかり歪曲してしまわねばならないばかりでなく実際にそうするという言語に対する裏切り行為をも同時に習得する。「母に嫌われていることを受け入れるよりは、自分が疲れていることを認めてしまうことに傾く」といったように。こうして子供はまだ幼稚園や保育所に入るか入らないかといった早い時期から言語の社会的意義の重要性を知る以前すでにそれを裏切ることを身に付ける。自分で自分自身を欺き、たった一度の自己欺瞞のためにその後もずっと自己欺瞞の上に自己欺瞞を重ねていく必然性にまとわりつかれ続けていく。十代になると平気で嘘を連発するようになるか、そうでなければ極めて言葉に敏感な性格の持ち主になる。しかし嘘を連発してその場しのぎで生きていくことを覚えた年少者は、嘘を付くたびごとに、ますます罪の意識(良心のやましさ)は破格の勢いで内面に蓄積されていくことになるほかない。他方、嘘を付くことへの嫌悪感から言葉に敏感な性格を形成した年少者の場合もなお、今度は周囲に合わせず嘘を付かない態度を貫くことで、周囲に合わせなかったという終わりの見えない罪の意識(良心のやましさ)を内面に蓄積させていく。いずれの立場においても内面化された罪の意識(良心のやましさ)は思春期どころかその子供が大人になってからも生涯を通して生き続ける。それは典型的な場合、自己破壊の一種として自殺という結果を容易に招く。また逆に十代の場合、義務教育期間に当たっているため、外界への吐け口を求めて学校での度重なる暴力事件や相手を次々に置き換えて実行されるいじめ行為といった形で出現する。しかしなぜそうなるのか。この場合、子供は母親の発する「メッセージの等級を正しく区別する学習をすることで、『罰』を受ける」立場に置かれているからである。「母親との生活を守るために」、あえて子供は、「自分自身をあざむいて、母親のあざむきに加担する」。
大人になってもつきまとって離れないこの種の事例としてしばしば見られるのは、たとえば選挙期間中の現金ばらまきがそうだ。地域社会から排除されないようにするためには与えられた「現金」=「パルマコン=医薬/毒薬」が明らかに毒薬であることが分かっていても、そうではなくあたかも医薬であるかのように生涯のあいだずっと自分で自分自身を自己欺瞞し続けていかなくてはならない。するとしばらくしてその地域特有の隠語の系列が発生する。ジュネがミニョン独自の隠語について語ったように。
「監獄のなかで彼がそっと噴射させた臭いには真珠の鈍い艶があって、その臭いは彼のまわりにからみつき、彼の全身を後光で包み、彼を孤立させるが、彼の美しさが恐れず口にした表現ほどには彼を孤立させはしない。『俺は真珠をひとつ放つ』が示しているのは、屁は大きな音を立てなかったということである。音を立てるとすれば、それは下品である、そして間抜けがおならをすると、ミニョンは言う、『俺のちんぽこのムショが崩れちまうぜ!』。驚くほど見事に、背が高く金髪である彼の美しさの魔法によって、ミニョンはサバンナを出現させ、黒人の人殺しが私に対してきっとそうするよりもっと深く、もっと横柄に、黒い大陸の中心にわれわれを追いやるのだ。ミニョンはさらにつけ加えて言う、『くっせえ臭いだぜ、われながら自分のそばにはいられねえーーー』。要するに、彼は自分の汚辱を真っ赤な焼きゴテでむし出しの肌につけられた傷跡のように身にまとっているのだが、この貴重な傷跡が、往時のならず者たちの肩の上の百合の花と同じように、彼を気高くする」(ジュネ「花のノートルダム・P.50~51」河出文庫)
しかし彼ら「泥棒、裏切り者、性倒錯者」が用いるすぐれた隠語には詩(ポエジー)がある。よく練り上げられたそれら隠語の系列を逸脱した言葉だとたちまちつまらない白けた雰囲気を周囲に漂わせ、本当の屁よりもなお忌み嫌われる。彼ら「泥棒、裏切り者、性倒錯者」が用いる隠語の系列は実に繊細緻密な配慮に満ちている。
「それは、恐らくどんなものよりも私を仰天させーーーあるいはミニョンがいつも言うように、残酷であるが故に、私を悩ませるーーー隠語のうちのひとつが、スルシエールの独房のひとつで発せられたという話なのだが、その独房をわれわれは『三十六のタイル』と呼んでいて、あまりに狭い独房なので船の通路に思えるほどである。私は、ひとりの頑丈な看守について、誰かが『カマ掘られ野郎』と、それからすぐ後に『串刺し帆桁野郎』と呟くのを聞いた。ところで、たまたまそれを口にした男は自分は七年間船乗りをしたとわれわれに言ったのである。このような営みーーー帆桁による串刺し刑ーーーの壮麗さは私を頭のてっぺんから足の先まで震えさせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.288」河出文庫)
また、隠喩の系列は同時にフェチの系列としても出現する。両者は置き換え可能である。列挙してみる。
「世間の人間は、私をまったく知らない連中までも、私にたいして最大の敬意を払うべきだった、なぜなら私は自分のなかでジャンの喪に服していたのだから。寡婦たちの正式な喪服は認めるが、それを徴(しる)し程度にちぢめたもの、黒の腕章や、上衣の衿の黒い布切れや、また労働者にみかける帽子の庇のすみっこの黒い徽章などは、これまで私の眼に滑稽に映ったものだ。とつぜん、私はその必要性に気づいたのである。それは敬意をもってきみに接し、いたわりを示さねばならぬことを人々に告げるためのものなのだ、だってきみは神聖な想い出をうちに秘めているのだから」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)
「何度かエリックはリトンと出くわした、がいちども彼に言葉をかける機会がなかった。遠くから眺めるだけで。リトンは彼に気づかなかった、だって顔見知りではなかったからだ。ーーー或る日のこと彼はエリックの営舎になっている小学校(兵舎に改造された)へ電報を届けにいかされた。入口のところで彼と出くわした。黒ラシャをまとった見事な彫像とぶつかったのだ。一目で惚れ込んでしまった。ーーー玄関では、エリックはさいしょ若造の顔を見るひまがなかった。後ろを振り返って見てその身体つき、背丈、後ろ姿の比類ない瀟洒さ、そして胴体を二巻きしている革バンドに目をとめた」(ジュネ「葬儀・P.110」河出文庫)
「乱暴に向き直ったために、もともと目深に傾いでいた私の黒い軍帽は肩の上にずり落ち、地面へころがった。(俺から葉っぱが落ちたのだ)という考えがすばやく、私の脳裏をかすめた。地面に落ちた略帽を拾い上げようとするかのように私の左手はかすかに動きかけた」(ジュネ「葬儀・P.153」河出文庫)
「背後からは、化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たちが、殺害された少年の開いた胸からぞくぞくと繰り出され、笑顔で或いは厳粛な顔付きで、素裸で或いは革や銅や鉄の鎧に身をつつんで、黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)を押し立て、沈黙の世界の荘厳な行進曲(マーチ)に導かれて行進を開始するのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)
「革具の音からの連想だろうが、特殊な娼家でよく黒いカーテンのかげにかくされているのを見かける、革紐や、バンドや、鉄の締め金や、御者の鞭や、長靴など、例の道具一式をひそめた不吉な布地の下で息づき、死の魅惑をたたえているところから、その太腿はますます神秘的なものに思えるのだった」(ジュネ「葬儀・P.220~221」河出文庫)
以上の中から、「喪服=黒の腕章=帽子の庇のすみっこの黒い徽章=黒ラシャ=後ろ姿の比類ない瀟洒さ=革バンド=黒い軍帽=略帽=革や銅や鉄の鎧=黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)=荘厳な行進曲(マーチ)=黒いカーテン=革紐=バンド=鉄の締め金=御者の鞭=長靴=道具一式をひそめた不吉な布地=その太腿」といった系列を上げることができる。そして作品「葬儀」の場合、それらフェチの系列なくしてハーケンクロイツが力を発揮することはけっして不可能だったと十分に言える。
「問題が子供にとってより一層錯綜したものになるのは、子供の身体から発せられるメッセージを、母親が本人になり代わり、『思いやりにあふれた』言葉で決めつけるからだ。彼女は子供の『疲れ』について、あからさまな母親らしい気遣いを表明している。あるいはこう言ってもいい。ーーー『ママはママ自身のことでなく、あなたのことだけを気遣っている』と言い張ることで、母親は、子供による身体的メッセージの解釈を制御するとともに、母親に対する子供の反応を子供自身がどう解釈するのかということも制御する。たとえば、もし子供が母親の言動をなじったときには、『本気じゃないわよね、あなたは本気でそんなことをいう子じゃないものね』という“愛”の言葉によって、『ぼくはママを責めている』という子供の認識を崩してしまう。そんなふうに封印された子供にとって最も楽な選択は、母親の擬装された優しい態度を本物として受け入れることだろう。こうして子供は、状況の実の姿を捉えようとする欲求を、根本から突き崩されていくことになる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.303』新思索社)
ありがちなパターンである。母親は実にしばしば子供の未熟さにつけ込む形で子供の言葉を制してその場の空気を仕切ってしまう。<母親=医師>であり<子供=患者>であるとしよう。すると患者が言おうとしている言葉を医師の言葉が患者の《代わり》の位置を占めることになってしまう。<子供=患者>の主体性は<母親=医師>によって、その資格において、ものの見事に簒奪されてしまうのである。子供から主体性を奪い取り母親の意志がこの位置を占拠する。言い換えれば、子供の主体性を母親の意志が無理やり強姦して去勢してしまう。問題は解消するどころか、幼少期のうちにもはや解消とは逆方向へ向かい始める。
「それでもなお、母親が自分から身を引き、しかもその『逃亡』を愛の関係の正しいあり方として決めつける現実は、消えずに残るのだ。母親のいつわりの優しさを本物として受け入れたとしても、問題は一向に解消しない。子供がそこで『ママはやさしい』と誤認した場合、母は子に近寄っていこうとするだろう。しかし、この親密さへの移行こそ、母親の恐怖と絶望感をかき立てるものなのだ」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.303~304』新思索社)
母親が用いる手持ちの「子育てマニュアル」に対して子供が素早く調子を合わせ、母親はけっして子供(自分)を憎んでいるわけではなく、逆に愛しているのだと考え改める。すると子供はいったん母親から遠ざかったとしても今度は以前よりずっと近くへ接近してくる。そして「この親密さへの移行こそ、母親の恐怖と絶望感をかき立てる」ことになる。ところが子供をそのような精神状態に叩き込んでいくのはほかでもない母親の言葉そのものである。母親が手際よく用いる矛盾した二つのメッセージからなる言語が子供をそうさせてしまう。
「そこで彼女は子供を遠のけようとする。ところがそのとき、子供が素直に彼女から身を引いていくと、そのそぶりから、わが子が自分を愛情深い母親ではないと言っていると感じ取り、そのことで子供を罰するか、子供を自分に引き寄せようと自分から近づいていくかするだろう。しかしそこでまた子供との間が近密になれば、ふたたび子供を遠のけずにはいられない。《子供は母親の気持の表われを正確に認識したことで罰せられ、不正確に認識したことで罰せられる》。まさにダブルバインドの状況である」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.304』新思索社)
それこそが子供をのちのち統合失調者へ導く前提として与えられるダブルバインド状況の一般的条件となる。なお、ここでは「母親」となっているけれども、問題は現代社会の中で子供に対してかつて「母親」にのみ与えられていた社会的位置なのであって、実在する母親でなくてもまったく構わない。今や母親の機能は様々な他の人間や機械(ゲーム)やペットによってすっかり置き換えられている。重要なのは、一体誰(何)がということではもはやなく、《どのような方法で》子供と接することができるかということであり、またそれがなぜ後々、子供が主に十代後半になって統合失調症状の傾向を見せ始めるかという関係が重視されなくてはならないということだろう。子供の面倒を見る役割が母親にばかり押し付けられているのが主流だった時代でも或る特異的な病的傾向はしばしば顕著に見られた。子供は自分(母親)を必要とし自分(母親)なしには生きていくことができないという環境が実際にあるところでは、子供が成長するとともに子供が母親でなく他のもの(人間でも玩具でも何でも構わない)に愛着を示すやがらりと態度が変わり、露骨な家庭内暴力によって子供のコミュニケーション能力を著しく阻害する母親は昔から出現していた。幼少児を傷害致死に追いやる親というのは今になって突如発生してきたわけではない。ただ、インターネットや福祉政策の充実によって早期発見が可能になったのは事実としても、むしろ逆に幼少児を傷害致死に追いやる親(あるいは他のものへ置き換えられたその機能)が一向に減少する気配がないのはなぜだろうか。減少どころかかえって増大してきたのはなぜか。その逆に子供の側による両親の殺害という事例もまた増えているわけだが。
さて、つい先日日本の首相が断言したように憲法改正論議を進めるのも天皇制の是非を含めて大いに結構だろう。拉致問題当事者の自然消滅を待ってでもいるかのような態度をむき出しにしたままの状況で。北方領土や沖縄基地問題に対してもそうだ。「拉致問題を持ってしまっている」、「北方領土問題を持ってしまっている」、「原発汚染水処理従事者を持ってしまっている」、とはどういうことか。今の内閣をアルコール依存症者としてのフィッツジェラルドに喩えると話が早い。
「当然にも、複合過去は『私は飲んでしまったを-持っている』に到るからである。現在の時期は、もはやアルコールの効果の時期ではなくなり、アルコールの効果の効果の時期になる。そして、今や、この別の時期が、近い過去(私が飲んでいた時期)を無差別に含んでしまう。また、この近い過去が隠匿する想像的同一化のシステムと、多かれ少なかれ遠ざかった素面の過去のリアルな要素も含んでしまう。それによって、現在の硬化はまったく意味を変える。すなわち、現在は、固い現在としては、影響力を失って色褪せ、何ものも締め付けず、別の時期のすべての相を等しく遠ざける。まるで、近くの過去、しかしまた、近くの過去で構成された同一化の過去、そして最期に、〔その構成の〕材料を提供していた素面の過去、これらすべてが、羽ばたいて逃げ去り、等しくなったかのようである。これらすべての過去との距離を維持しているのが、全般的に拡大する色褪せた現在、増大する砂漠の中で改めて硬直する新たな現在である。複合過去の一次効果は、唯一の複合過去『私は飲んでしまったを-持っている』の二次効果で置き換えられる。この助動詞現在形は、一切の分詞と一切の分有からの無限の距離を表現するだけである。現在の硬化(私は持っている)と、過去(私は飲んでしまった)の逃走の効果には、今や関連性があることになる。であったことを持っている(has been)においてすべては頂点に達する。過去の逃走の効果、あらゆる意味での対象喪失が、アルコリスムの抑鬱的な面を構成する」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.276」河出文庫)
ところで、ニーチェによる「神の死」(絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、中心的なものの分散転移、変動相場制)の宣告は有名だが、その少し前、ネルヴァルはこう述べている。
「『《おそらく神は死んでる》』とジェラール・ド・ネルヴァルは本書の著者に向かってある時言った」(ユーゴー「レ・ミゼラブル4・第五部・第一編・第二十章・P.255」岩波文庫)
ユーゴー「レ・ミゼラブル」は一八五八年から一八六二年まで五年間かけて執筆された。ネルヴァル「エミリー」の原案は一九三九年に一度出来上がっており、だから「懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル)が「《おそらく神は死んでる》(神はほとんど死んでいる)」と考えたのはたいへんよく理解できるかと思う。また、新しい思想家として十八世紀に登場したルソーから大変多くの影響を受けたのはもちろんネルヴァルだけでない。ルソーを師と仰ぎルソー直系として生きたロベスピエールはフランス大革命で新興ブルジョワ階級によるブルジョワ革命を成し遂げた。しかしルソーの思想からはただ単なる理想主義には留まらない世界共和国構想とでも言える壮大な社会的ヴィジョンがうかがわれる。
「一つの人民に制度を与えようとあえてくわだてるほどの人は、いわば人間性をかえる力があり、それ自体で一つの完全で、孤立した全体であるところの各個人を、より大きな全体の部分にかえ、その個人がいわばその生命と存在とをそこから受けとるようにすることができ、人間の骨組みをかえてもっと強くすることができ、われわれみなが自然から受けとった身体的にして独立的な存在に、部分的にして精神的な存在をおきかえることができる、という確信をもつ人であるべきだ。ひとことでいえば、立法者は、人間から彼自身の固有の力を取り上げ、彼自身にとってこれまで縁のなかった力、他の人間たちの助けをかりなければ使えないところの力を与えなければならないのだ」(ルソー「社会契約論・第二編・第七章・P.62~63」岩波文庫)
もし、できる限り速やかに国連正常化委員会というものが創設されるとすれば、「一般意志」とともにこのような世界的枠組み作りも検討されるべきだろう。というのも、今やどの人間も一人残らず間違いなく「社会的諸関係の総体」であるほかないからである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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