白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部26

2020年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
しばらく次の三点を問いとして置いておこう。

「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)

作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。

「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)

さらに。

「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)

そしてダブルバインド状況を構成する諸条件について。ベイトソンは六項目上げる。

「1 『ふたりあるいはそれ以上の人間』。この複数の人間のうちひとりを『犠牲者』として見ることが、定義上必要である。その犠牲者にダブルバインドを課すのは母親だけとは限らない。母親だけの場合もあるし、母親と他の家族(父親、兄弟姉妹)の組み合わせによってダブルバインドが成立する場合もある」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.294』新思索社)

「2 『繰り返される経験』。われわれは、ダブルバインドが、犠牲者の経験に繰り返し現われるテーマだと見る。われわれの仮説は『トラウマ』的経験を持ち出すものではない。一回の経験が心の深みに傷を与えるというのではなく、繰り返される経験の中で、ダブルバインド構造に対する《構え》が習慣として形成される、というのがわれわれの立場である」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.294』新思索社)

「3 『第一次の禁止命令』。これは次のふたつのうち、どちらかの形式をとることになる。

aー『これをすると、おまえを罰する』

Bー『これをしないと、おまえを罰する』。

ここでわれわれは、報酬追求ではなく、処罰回避の学習コンテクストを選んだわけだが、それが選択されるべき形式的な理由は、たぶんないのだろう。処罰の形として思い浮かぶのは、愛情の停止、憎しみや怒りの表示、そして最も酷なケースとして『この子はもうどうしようもない』ということの強度の表現による一種の『捨てられ』の経験、である」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.294』新思索社)

「4 『より抽象的なレベルで第一次の禁止命令と衝突する第二次の禁止命令』。これも第一次の禁止命令と同様、生存への脅威となる処罰またはその示唆(シグナル)を伴うものだ。この二次的な禁止を記述することは、一次的な禁止に比べて難しい。理由はふたつある。第一は、それがふつう非言語的手段によって伝えられることである。ポーズ、ジェスチャー、声の調子、有意なしぐさ、言葉に隠された含意といったものすべてが、この抽象的なメッセージの伝達に活用される。理由の第二は、このレベルから発せられる禁止のメッセージが、第一のレベルのメッセージの、どの要素とも矛盾するという点だ。そのため、第二次の禁止命令を言葉に翻訳しようとすると、実に多様な表現がとられることになる。例を示そう。ーーー『これは罰ではないのだよ』『わたしがおまえを罰するような意地悪な人間だと思っているんじゃないだろうね』『わたしが禁止したからといって、それに素直にしたがう人がありますか』『何をしてはいけないのか、などと考えるのはやめなさい』『おまえにこれを許さないのは、おまえを愛するからこそなの(たとえそうでないにしても、わたしの愛を疑うことは許しませんよ)』、等々。ダブルバインドが一人ではなく二人によって課せられるときには、さらにまた多くの例が出てくるだろう。一方の親が発した禁止命令を、もう片方の親がより抽象的なレベルで否定するケースはその一例である」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.294~295』新思索社)

「5 『犠牲者が関係の場から逃れるのを禁ずる第三次の禁止命令』。形式的には、この禁止命令を独立した項目として揚げることは不必要かもしれない。他のふたつのレベルでの禁止命令が強化されること自体に、生存への脅威が内包されており、また、幼児期にダブルバインドに引き入れられたものは、そもそも脱出の可能性をもたないからだ。しかしながら、関係からの脱出を食い止めるための積極的なはたらきかけがーーー気まぐれな愛の約束などによってーーーなされるというケースもあると思われる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.295』新思索社)

「6 犠牲者がみずからの意味宇宙をダブルバインドのパターンにおいて知覚するようになってしまえば、以上の構成因子が完全に揃う必要は、もはやない。そうしたケースでは、ダブルバインド状況の任意の部分が現われるだけで、パニックや憤激が引き起こされることになる。患者の幻聴に現われる声の中に、矛盾した禁止命令のパターンが現われるという場合さえあるだろう」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.295』新思索社)

形式的すぎるのではという印象は当然出てくる。だがそれについてはベイトソン自身が実際の家族関係の中で起こってく事例に触れながら後で述べている。ここでは差し当たり、ダブルバインド状況が作り上げられる際の諸条件について見た。また、昨今の精神医療の現場では、かつてのような派手な幻覚に襲われると同時に統合失調症の発症が認められる場合よりも遥かに、六項目目に含まれている「幻聴」に顕著な「被害妄想」に襲われる患者が大量発生していることを付け加えておきたいとおもう。そしてまた「被害妄想」の激増と鬱病の悪化による自殺者の大量発生は、特にメンタルヘルス大国と化したアメリカでここ十五年ほどの間で突出して多いということも頭の隅に置いておきたい。
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なお、二〇二〇年六月十六日北朝鮮政府による開城南北共同事務連絡所爆破について。実行した金与正は党第一副部長という肩書を持つ女性。そして日本のマスコミは大きく三つに分けて述べている。第一に政治的=経済的な損失面が一つ。第二に朝鮮半島と日米との今後の関係について。もう一つはマスコミ自身どこまで意識的かどうかわからないのだが、事実上、より重要な側面である。それは何かというと、朝鮮半島統一か分裂かといった「民族純血神話」という戦前から相変わらず続いている単一民族仮説の問題系である。この「民族純血神話」はすでにフーコーが「血のテーマ系」という言葉を用いて論じているので専門家のあいだでは特に目新しいものではない。

「血は《象徴的機能をもつ現実》である」(フーコー「知への意志・P.186」新潮社)

この点は日本では天皇と天皇制とを通してたいへん馴染み深い。また、宗教学者のあいだでも特に中央アジアからインド、東南アジアの民族共同体で顕著な《シャーマニズム》の系譜として深い関係をもつ。

「北アジア、中央アジアの諸民族でもっともよく知られた宇宙創造神話は、その形態にかなりの相違はあるものの、ほとんど全世界にひろがっているタイプの神話である。そのアルカイックな性格、広範な地域への伝播ーーーアジア以外では、アーリア期および前アーリア期のインド、東南アジア、北米大陸ーーー、時代とともに変容を重ねる多様な形態といった特徴をもつこの神話」(エリアーデ「世界宗教史5・P.33~34」ちくま学芸文庫)

シャーマンの役割について。

「シャーマンとは、神学者にして同時に悪魔学者、エクスタシーの専門家にして呪医、狩猟の助言者、共同体と牧畜群の守護者、霊魂の教導者、そして一部の社会では、学者であり詩人でもあるような存在なのである」(エリアーデ「世界宗教史5・P.38」ちくま学芸文庫)

一見「よろず屋」のように見えるが近代以前の諸地域ではどこでも、しばしば見かけられた地域共同体の祝祭の日の主人公の役割である。

「シャーマンになろうとする者は、奇妙な行動によって人目をひくようになる。いつも夢見がちになる、孤独を求める、森や荒地を好んで徘徊する、ヴィジョンを見る、眠りながら歌を歌う、等々である。ときには、こうした準備期はかなり激しい症状で特徴づけられる。ヤクート人のあいだでは、そうした若者は性格が狂暴になり、容易に意識を失い、森にひきこもり、木の皮を食らい、水や火の中に飛び込み、ナイフで身体に傷をつけたりする。世襲シャーマンの場合でも、シャーマン候補者が選定される前には、その者になんらかの行動の変化が見られる。祖先のシャーマンの魂が、一族中からある若者を選ぶ。すると、その若者はぼんやりした状態になり、夢見がちになり、孤独を求めるようになり、預言的なヴィジョンを見たり、ときには意識を失うほどの発作を起こす。この失神のあいだ、ブリヤート人の言うところでは、魂は精霊に拉致されて神々の宮殿に迎えられるのである。魂はそこで、祖先のシャーマンからシャーマン職の秘密や神々の姿と名前、精霊の名前とその儀礼等について教えを受ける。この最初のイニシエーションがすんで、ようやう魂は肉体に戻ることができる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.40」ちくま学芸文庫)

古代から戦前の日本でいえば特別な祝祭の日にのみ特権的に与えられた「巫女舞」を指す。戦後になって「巫女」は「舞」を披露するばかりのただ単なる事務的役職に引き下げられた。かつてのように「意識を失い」あるいは「舞い狂う」ということはすっかりなくなってしまった。けれども戦後なおもこの種の伝統を保持している地域で有名なのは沖縄=琉球文化圏に属する久高島(くだかじま)や摩文仁(まぶに)の「のろ」(巫女)において顕著である。

「霊魂をひっくるめて《まぶい》と言う。ーーー大体に於て、《まぶい》の意義は、二通りになって居る。即、生活の根本力をなすもの、仮に名付くれば、精魂とも言うべきものと、祟(たた)りをなす側から見たもの、即、《いちまぶい》(生霊)と《しにまぶい》(死霊)とである。近世の日本に於ては、学問風に考えた場合には、精魂としての魂を考えることもあるが、多くは、死霊・生霊の用語例に這入って来る」(折口信夫全集2「琉球の宗教・P.45」中公文庫)

折口信夫が述べているように琉球神道においても「死霊/生霊」という二元論が出現している。世界中どこにでも見られるケースの一つに漏れない。「天と地と」はどのように分割されたのか。それを説明するためには古代人は一方に天を置き、他方に地を置き、さらに人間は堕落したものとして地上に縛り付けられたという苦肉の策を創作するほかなかったという経緯がうかがえる。ちなみに沖縄=琉球の場合、面白い箇所を拾ってみると琉球神道の神は「日傘」をかぶって登場する。言うまでもなく沖縄は酷暑に見舞われる亜熱帯地域であり、だからそこに出現する神もまた「日傘」をかぶってやって来るという逆らえない現実的な事情のもとに置かれている。

「厳密な意味でのシャーマニズムは、もっぱら中央および北アジア、北極地域にみられるものを言う。シャーマニズムがもっとも多様な影響を受けたのも(イラン・メソポタミア文化、仏教、ラマ教〔チベット仏教〕などから)やはりアジアにおいてであり、しかもなお、その本来の構造を失ってはいない」(エリアーデ「世界宗教史5・P.39」ちくま学芸文庫)

奈良県「正倉院」所蔵の品々を見るとわかるように、アジアの一方の端(ペルシャ、イランなど)の工芸品は中央アジア経由で中国を挟んで陸路、海上貿易を通じた海路、を介してアジアのもう一方の端(日本)にもたらされた。一九九〇年代の日本では埼玉県の遠山記念館、東京都三鷹の中近東文化センター、岡山県の岡山市立オリエント美術館などで紀元前三千年から紀元前四千年クラスの古代エジプト、シリア、メソポタミアで制作された壺や磁器を見ることができた。もっとも所有者はときどき変わるので企画展として全国各地を巡回することが多い。また、稲作は東南アジアや中国南部を発祥とし、多くはいったん朝鮮半島を経て九州南部から広がったものとみられる。今の皇室で採用されている高床式穀倉を見ればわかるように高句麗時代の古朝鮮で完成された形式がほぼそのまま輸入されたものとされる。

また、シャーマンの舞踏の特徴として第一にトランス状態、第二に舞というより遥かに硬直した鋭角的舞踏が見られる。アルトーはバリ島の儀式で披露される演劇を見て次のように報告している。

「あれらすべての身振り、あれらの鋭角的で突然断ち切られるポーズ、あれらの喉の奥のシンコペートされる変調、あれらの急に変化する音楽的フレーズ、あれらのさやばねの飛翔、あれらの枝のざわめき、あれらのうつろな太鼓の響き、あれらの自動人形の軋み、あれらの生命を吹き込まれたマネキン人形のダンスなど、これらすれべてのもののなかで実際変わっているところは、身振りや、ポーズや、空中に放たれた叫びの迷路を通して、舞台空間のどんな部分も使われないままにしておかない進展と曲線を通して、言葉ではなく記号に基づく新たな身体言語の方向が現れることである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.85~86』河出文庫)

「われわれはここにいながらにして、突然形而上学的な闘いのただなかにいる、そして失神状態にあり、身体を取り囲む宇宙的な力の逆流によってこわばった身体の固くなった側面は、この熱狂的なダンスによって見事に示されているが、それは同時に硬直と角度に満ちていて、突然、精神の垂直的な落下がそこで始まるのを感じる」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.105』河出文庫)

「まるで物質の波が大急ぎで互いに重なりながらその波頭をたわめ、水平線のあらゆる方向から押し寄せて、震えや失神状態の微細な部分に入り込み、恐怖の虚空を覆ってしまうかのようである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.105』河出文庫)

今上げた箇所はどれもエリアーデのいうシャーマン特有の「失神状態」に共通する。アルトーはさらにもう一つ重要な意味を見出している。

「ペストと同じように、演劇は悪の時間であり、黒い力の勝利であるが、さらにもっと奥深い力が消滅に至るまでそれを補給する」(アルトー「演劇とペスト」『演劇とその分身・P.45』河出文庫)

なぜ年中行事の儀式の中で必ず一度は「悪の時間であり、黒い力の勝利」の場面が設定されており、なおかつそれは「消滅に至るまで」演じられねばならないのか。バタイユなら「蕩尽」というだろう。フロイトのいう「エス」は煮えたぎる力の貯蔵庫であり定期的に解放されないと地域共同体の秩序を根底から揺さぶり不安を意識化させ遂には共同体を破壊へ導く内部闘争へ発展するからである。

「比喩をもってエスのことを言い現わそうとするなら、エスは混沌(こんとん)、沸き立つ興奮に充ちた釜(かま)なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるのかはわれわれにはわからないのです。エスはもろもろの欲動から来るエネルギーで充満してはいます。しかしエスはいかなる組織をも持たず、いかなる全体的意志をも示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。そこには反対の動きが並び存していて、互いに差し引きゼロになったり、互いに譲り合ったりすることなく、せいぜいそれらは支配的な経済的強制のもとでエネルギーを放出させようとして妥協しているだけです。ーーーエスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。すなわち時の経過というものは承認されません。そして、これはきわめて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。エスの境界線を決してふみ越えることのなかった願望興奮や、同時にまた抑圧によってエスの中へ沈められてしまった諸印象は、潜在的には不死であって、数十年経った後でもまるで新たに生じたかのような状態にあるのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.290~291」新潮文庫)

だから要するに古代人は、年中行事の中であえて祝祭空間を設け、暴力的であるほかない欲望の蓄積を発散させてしまう方法を採用したのだ。

さらに近代社会成立以降、「血のテーマ系」は、近代にもかかわらず、ではなく、近代化への生々しい反動として新しい意味を持った。

「十九世紀後半以来、血のテーマ系が、性的欲望の装置を通じて行使される政治権力の形を、歴史的な厚みによって活性化し支えるために動員される、ということが起きた。人種差別はまさにこの時点で形成される(近代的な、国家的な、生物学的な形態における人種差別である)。植民、家族、結婚、教育、社会の階層化、所有権などに関する政策と、身体、行動、健康、日常生活などのレベルにおける一連の不断の介入とが、その時、血の純潔さを守り種族を君臨せしめるという神話的な配慮から、己れが色合いと正当化を受けとった」(フーコー「知への意志・P.188」新潮社)

だから近代的人種差別は意外なほど最近の産物である。黒人奴隷の時代を端緒としているわけではなく、むしろ近代化に伴って発生した白人同士の「血をめぐる」本家闘争=権力闘争が一方にあり、他方、十九世紀にやおら表面化してきた合理主義的「生の経営学」の浸透がある。両者を無理やり統合しようとして出発しつつ結局のところ前代未聞の大規模な自己破壊として終結したナチスドイツは今なおその見本である。

「ナチズムは、おそらく、血の幻想と規律的権力の激発との最も素朴にして最も狡猾なーーーそしてこの二つの様相は相関的だったがーーー結合であった。社会の優生学的再編成は、無際限な国家管理の名にかくれてそれがもたらす<極小権力>の拡張・強化と相まって、至高の血の夢幻的昂揚を伴っていた、それが内包していたものは、民族的規模での他者のシステマティックな絶滅であると同時に、自らを全的な生贄に捧げる危険でもあった。そして歴史の望んだところは、ヒットラーの性政策は全く愚劣な実践に終わったが、血の神話のほうは、さし当たり人間が記憶し得る最大の虐殺に変貌した、ということであった」(フーコー「知への意志・P.188~189」新潮社)

さてしかし、そのことと金与正第一副部長とどう関係があるのか。思うに、肩書とか世界の中のその政治的立場とかいった眼でばかりじろじろ見ていて果たしていいものなのか。政治や経済はその専門家が時間をかけて分析すればよいことである。さらに核開発といってもアメリカやロシアに比べれば取るに足らない稚拙ぶり。アメリカとロシアだけでも超高性能の核弾頭保有数は両国合算で一万数千発以上である。諸大国がその気になればいつでも葬り去ることができる。しかしとりわけアメリカがそうしないのはなぜか。むしろ南北共同事務所爆破という機会を金与正に付与しアメリカに対抗する引き立て役の位置にわざわざ付けさせる「時間=猶予=利得」を与えたのはどうしてか。見るべきは現時点で爆破と同時に出現した或る態度なのではと思われる。問題を政治=経済にばかり限って世論にわいわい騒がせているような旧態依然たる女性像とはまた違った新しい女性像が北朝鮮に劇的な演出を経て出現したのではないかという点である。

少し前、「感染=パンデミック」問題をめぐる国会審議の中で「維新の会」の或る若い女性議員が、自粛要請の必要性を認めつつ「なかなか生身の人間は」そんな単純に機械のように動けるものではないので、と問うていた。「生身の人間」が機械でないという「生々しさ」を最もよくからだで知っているのは今なお女性である。にもかかわらずインターネットのような機械操作の習得にも長けている。ほとんど男性と変わらないレベルにまで達した。そして金与正の場合、化粧しているためあまりよくわからないが、テレビで見るよりやや地黒である。アジア人なので当然といえば当然なのだが。そこで思い起こされるのはホメロス「オデュッセイア」に登場する魔女キルケである。事情はこうだった。

「根は黒く、花は乳のような色をしている。神々の間ではモーリュと呼んでおられ、人間の力ではなかなか掘り出すことが難しいが、神々に出来ぬことはなにもないのだ。そうしてからヘルメイアスは、樹林茂る島を舞い上がり、雲に聳えるオリュンポス指して立ち去られたので、わたしはキルケの屋敷に向かったのだが、道すがらさまざまの想いに、心は千々に乱れるばかり。やがて髪美わしい女神の屋敷の門口に立って案内を乞うと、女神はわたしの声を聞くや、直ぐに出て来て美しい扉を開き、中へ招じてくれ、わたしは不安な気持を抱きながら、その後に随(つ)いて入った。女神はわたしを中へ案内すると、銀の金具のついた高椅子をすすめてくれたーーー見事な細工を施した美しい椅子で、足下には足台が置いてある。それから、わたしに飲ませようと、金の盃でキュケオーンを調合し、心中に悪巧みをめぐらしながら、それに毒を混ぜた。しかし、彼女が飲物をわたしに手渡し、わたしがそれを飲み干した時ーーーわたしには魔法が利かなかったのだがーーーキルケは棒でわたしを打ち、こういった。『さあ、豚小屋へ行って、仲間と一緒に寝ておいで』。こういった途端に、わたしは腰の鋭い剣を抜き放ち、切り殺さんとの勢いを示して、キルケに踊りかかった。彼女は大声をあげてこちらの足許へ駆け込むと、わたしの膝にすがりおろおろと泣きながら、翼ある言葉をかけていうには、『そなたは一体、何処から来たどういうお人です。国はなんという町で、親御は何処におられる。そなたがこの薬を飲んで魔法が利かぬとは、全く驚くばかり、これまでこれを飲んで、ひとたび薬が歯の垣根を越えたが最後、薬の魔力に耐えた者は一人だになかった。そなたの胸には、魔法のかからぬ心が宿っているのであろう。思えば黄金の杖持つアルゴス殺しの神が常々わたしに、オデュッセウスなる者が船脚遠き黒塗りの船に乗って、トロイエからの帰途、ここへ立ち寄ると話していたが、そなたこそその智謀豊かなオデュッセウスに相違あるまい。さあ太刀は鞘におさめておくれ、そうしてから二人でわたしの寝台に上がり、愛の契りを交わして、互いに心を許し合おうではないか』。こういうキルケに、わたしは答えていうには、『キルケよ、優しくしてくれなどと、よくもわたしにいえたものだな、この屋敷で部下たちを豚に変え、またこのわたしをここに留め、裸にしておいて男子の精気を奪い、役立たずにしようなどと、善からぬ企みをめぐらし、寝所に入ってそなたの寝台に上がれと誘うようなあなたがだ。女神よ、あなたが今後わたしに危害を加えるようなことは一切考えぬと、敢えて堅い誓いをする気になって下さらぬ限り、あなたの閨に入るつもりは毛頭ない』。こうわたしがいうと、キルケは直ぐにわたしの望む通り、そのようなことはせぬと誓言した。キルケが誓い、誓い終えた時、始めてわたしは彼女の豪奢な寝台に上がった」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十歌・P.260~262」岩波文庫)

その後。

「さて一方キルケの屋敷では、後に残った仲間たちにキルケは気を使い、浴みさせてオリーブ油を肌にたっぷりと塗り、肌着と羊毛の上衣を着せてやっていた。われらが着いてみると、屋敷の中では彼らが皆揃って豪華な食事をとっているところ、互いに顔を見合せて相手をそれと知ると、おろおろと泣き出し、その泣き声で屋敷全体が鳴り響いた。その美しき女神たちの中でも立ち勝るキルケは、わたしの傍に寄ってきていうには、『ゼウスの裔にしてラエステルの一子、智謀に富めるオデュッセウスよ。今はもうそなたらも、そのように激しく悲嘆の声をあげるのはおやめなさい。そなたらが魚群れる海上で、どれほどの苦難に遭ったか、また陸でも敵意を抱く者たちが、どれほどそなたらに仇をなしたか、それはわたしも知っています。しかし今は、はじめそなたらが、岩根こごしきイタケの故国を後にした時のような元気を、胸中に取り戻すまで、食事もとり酒もお飲みなさい。そなたらの今の様子は、苦しかった漂白の旅がいつまでも忘れられず、心は枯れ萎み精気が抜けています。苦労を重ねてきた後だけに、どうしても楽しい気分にはなれぬのでしょう』。そういうキルケの言葉を聞いて、われらの雄々しい心も納得し、こうしてこの屋敷で、来る日も来る日も、豊富な肉を食い、旨い酒を飲みながら、丸一年を過ごしてしまった」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十歌・P.267~268」岩波文庫)

ところでこの箇所について、アドルノの指摘はなるほど鋭い。

「キルケーに貼られたレッテルは両義的なものであって、それは、彼女が物語の進行につれて相前後して、誘惑者としてまた援助者として登場するところにうかがわれる。両義性は彼女の系譜によっても表現される。彼女は〔太洋神たる〕オーケアノスの孫娘にあたっている。彼女のうちで、火と水との二元素は未分化状態にあり、自然のある特定側面の優位性ーーーそれが母系的面の優位であれ、家父長的面の優位であれーーーに対する対立としてのこの未分化こそ、乱婚の本質を、娼婦的なるものを、形づくるのである。それは、『水面に映える星影』のような、売春婦のまなざしのうちにも影を宿している。この娼婦は人に幸福を授けるとともに、幸福を授けられた者の自律性を破壊する。これが彼女の両義性である」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.143~144」岩波文庫)

キルケあるいは女性の娼婦性を巡って出現する「快楽に対する対価」という法的関係。

「キルケーは彼女の与える快楽に対して、他の快楽はしりぞけるという対価を求める。最後の娼婦が最初の女性的性格を発揮する。伝説から歴史への移行に際して、キルケーは市民的非情さに対する決定的な寄与を果している。彼女の振舞は恋愛の禁制を執行するものであり、その禁制は、イデオロギーとしての恋愛がライバルたちの憎悪についてより多く誤摩化さざるをえなかっただけに、のちには一層厳しく実施されたのである」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.148」岩波文庫)

さらに近代化にもかかわらず固定化された「家父長制」に切り込む。

「娼婦と妻とは互いに家父長制の世界における女性の自己疎外の両極をなし合うものである。妻には、生活と所有との確固たる秩序に対する喜びが窺われ、他方、娼婦は、妻の所有権から取りのこされたものを妻の隠れた同盟者として改めて所有関係に取り込み、快楽を売る」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.150」岩波文庫)

その意味で金与正と古代ギリシア神話に登場するキルケ特有の両義性はとても似ている。アドルノのいう「誘惑者としてまた援助者として登場する」女性。「魔女=娼婦=援助者」の系列。日本と朝鮮半島との抜きがたい歴史について今の日韓のすべての政治家は、アメリカがわざわざその劇的出現を許した金与正を焦点化し、様々なアプローチを考える「時間=猶予=利得」を得た。特に拉致問題に関し何ら解決策を見出せず、それどころか拉致被害者当事者らの高齢化に伴う問題の自然消滅を待ってでもいるかのような日本政府の態度は、考える時間を与えられたことで、ますます真剣に取り組むほかなくなったと言える。また、アメリカではヒラリー・クリントンが女性初の大統領誕生目前でトランプ大統領に阻止された。日本で女性首相誕生を見るのはまだまだ先のことかまったくないかもしれない。ところが北朝鮮は先に女性が最高権力者の座に付いた。あえて世界から敵味方という形式を捨象してみるとすれば、その限りでいえば、北朝鮮の側がリードしてしまった。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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