白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部36

2020年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
一四九二年ユダヤ教徒がこうむったスペイン追放。その影響下でよりいっそう世俗化を加速させ発展したカバラ。なかでも「魂の輪廻転生」(ギルグル)理論は大きな影響力を持った。宇宙論や宇宙創造論とも結びつき「救世主待望論」(メシアニズム)を発生させ、さらに外的要素に過ぎなかったグノーシス主義とも繋がりを持っていく。宗教としては世俗的にもリアリティを持つ反面、グノーシス的なものとの繋がりを帯びるうちにシャーマニズム的傾向とも繋がってしまう。ところが実際のところ、魂の救済ということに中心テーマが移動したことで、シャーマニズムそのものについての議論はほとんどなくなる。ところがシャーマニズム抜きのグノーシス主義というのはちょっと考えにくい。言葉を置き換えよう。イニシエーションと。イニシエーションの創始者はオルフェウスである。だがオルフェウスについての正式な文献というのはよくわからない。

しかし紀元前五世紀頃からオルフェウスの教義はディオニュソスの秘儀(オルギア)に含まれるようになっていたようだ。ディオニュソスの「オルギア」には様々な意味がある。秘儀、秘教、熱狂、狂気、神との交流(コミュニケーション)など。そしてイニシエーションということをディオニュソスのオルギア(熱狂的秘儀、神々との交流)として考えると、どこかすんなりオルフェウス教というホメロス以前的世界の宗教観がどのようなものだったかも多少わかってくる。しかしここではさらに「魂の輪廻転生」理論について古代ギリシアでプラトンらが論じていた部分に触れておく必要性が残っている。

というのは中世カバラの展開とともに各地に広がった終末論と救世主(メシア)待望論だが、その動きに象徴されるように、カバラもグノーシス主義もどちらも、肉体は一度は死ぬものであり逆に魂は不滅であるという古代ギリシアの議論と歩みを共にしているからである。ユダヤ=キリスト教にしろカバラにしろグノーシス主義にしろ、古代ギリシアで一度展開されたプラトン哲学抜きに話は進まない。カバラは特に、ユダヤ教から派生したものの特徴として、そもそも自己のものでなかった外的な哲学理論や宗教学説を旺盛に論じ取り込んでいくのである。

肉体の死と魂の不死性について。プラトンから続きを。

「われわれは現在死んでいるのであり、身体(ソーマ)がわれわれの墓(セーマ)なのである」(プラトン「ゴルギアス・P.145」岩波文庫)

「人間の魂は不死なるものであって、ときには生涯を終えたりーーーこれが普通『死』と呼ばれているーーーときにはふたたび生まれてきたりするけれども、しかし滅びてしまうことはけっしてない」(プラトン「メノン・P.47」岩波文庫)

終末論というのは「終わりと始まりとの一致」が前提される。だから簡単に言ってしまえば、ただそういうことなのである。けれども魂の不死については延々論じ続けられる。「ソフィアの二重性」(娘にして母)というように。またプラトンに顕著なように魂の浄化を語り逆に肉体を不浄視する思想は当時の主流だった。

「友よ、この肉体的なものは重荷である、と考えねばならない。それは、重く、土の性質をおび、目に見える。このような魂は、この重荷を持つために、酷(ひど)い荷物を背負わされて、目に見える場所へと再び引きずり降ろされる」(プラトン「パイドン・P.81」岩波文庫)

ハデス(冥界)の存在は信じられている。さらに魂は遍歴する。遍歴にあたって周期性が前提されている。

「かれらはハデスで蒙るべきことを蒙り、定められた期間留まると、別の導き手が再びかれらをこの世へ連れもどすのだ。その期間は何度も繰り返される永い周期をなしている」(プラトン「パイドン・P.154」岩波文庫)

またハデスは幾つかの世界に分割されていることも前提されている。そして「そこには分岐や三叉路が」あるという。

「僕にはその道は単純でもないし一つでもないように思われるからだ。なぜなら、もしそうであったなら、導き手を必要としなかっただろうからだ。道が一つなら、誰もどこへも迷いはしないだろう。しかし、実際は、そこには分岐や三叉路がたくさんあるらしい。この世で行われている犠牲の儀式の風習から推量して、僕は言っている」(プラトン「パイドン・P.154」岩波文庫)

三叉路についてゴルギアスにはこうある。

「やがて死んだなら、あの牧場の中の三叉路のところで、裁判を行なうことになろうが、そこからは二つの道が出ていて、一つは『幸福者の島』に通じているし、他の『タンタロス』(奈落)に通じている」(プラトン「ゴルギアス・P.238」岩波文庫)

秘儀について。古代ギリシア哲学では当たり前に出てくる。が、その実態とはどんなものなのかよくわからない。しかし差し当たり「浄化」(カタルシス)のことを指して言われている。そしてもし秘儀を受けなかったとしたらどうなるか。

「秘儀も受けず浄められもせずにハデスの国に到る者は、泥の中に横たわるだろう」(プラトン「パイドン・P.42」岩波文庫)

「ハデスーーーというのはむろん、見えないところ(アイデス)という意味だがーーーそのハデスの国(地下の世界)にいる者たちの中では、この連中、つまり秘儀にあずかっていない人たちこそ一番不幸であり、彼らは孔のあいた甕へ、これまたそういった孔のあいた容器である篩(ふるい)でもって、くり返し水を運びつづけている、というわけなのだ」(プラトン「ゴルギアス・P.146」岩波文庫)

秘儀的秘教的な行為の必要性についてたびたび言及しているのだが、その実質については述べられていない。秘儀を授かるためには、ただひたすら「正しく知を用いること」に専念したいものだ、というふうに話が進んでいく。ところで、魂の輪廻転生に関し、他の哲学者はどう言っているだろうか。星々に注目が行っている。天文学というより、輪廻するもの=回帰するもの=反復するもの、に対する並々ならぬ関心が出現している。そこから魂の永遠回帰性あるいは復活、再生という思想に繋がる。

アナクサゴラスの場合。

「いったい何のために生まれてきたのかと問われたときに彼は、『太陽と月と天とを観察するために』と答えた」(「アナクサゴラス」『ギリシア哲学者列伝・上・P.125』岩波文庫)

ピュタゴラスの場合。

「彼は、魂はあるときには、この生きもの(の身体)のなかに、あるときには、あの生きもののなかに繋(つな)がれて、『必然の輪』を経巡るのだという考えを公然と述べた最初の人だと言われている。また、音楽理論家のアリストクセノスが述べているところによれば、ギリシア人たちのところへ度量衡を最初に導入したのも彼であったという。さらに、パルメニデスが語っているように、宵の明星と暁の明星とは同一のものだと最初に言ったのは彼である。かくして彼は、世の人びとからたいへん驚嘆されていたので、彼の弟子たちからは『神の声を取り次ぐ者』と呼ばれることになったのであるが、その上また、彼自身も、一つの書物のなかで、自分は二百七年の間、ハデス(冥界)で暮らしたのちに、この世にもう一度生まれ変ってきたのだと述べている」(「ピュタゴラス」『ギリシア哲学者列伝・下・P.23~24』岩波文庫)

ヘラクレイトスの場合。ヘラクレイトスではすでに生成の概念があらわに登場している。

「万物は魂とダイモーン(鬼神)とで満ちている。ーーー世界は、全時間にわたって、一定の周期に従いながら、交互に、火から生まれて、また再び火に帰るーーー天のなかには、その空(うつ)ろな部分をわれわれの方に向けている椀状のものがあって、そのなかへ明るく輝いている蒸発物が集められて炎をつくっているのであり、そしてこれらのものが星々(諸天体)なのだ」(「ヘラクレイトス」『ギリシア哲学者列伝・下・P.95~97』岩波文庫)

さて、イニシエーションについて。そもそもの起源的な形態はたいへんアルカイックなものだ。ディオニュソスのオルギア(秘儀的秘教的熱狂)が代表している。エウリピデス「バッコスの信女」から。

「ペンテウス 女どもが、バッコスの祭であるとか称して、家を明け、昼なお暗い山中をうろつき廻り、ディオニュソスとかいう神来の神をあがめて踊り狂っているという。座の中央に酒をみたした甕(かめ)を据え、てんでに人目のつかぬ場所に忍んで行っては、男どもの欲情をみたし、神に仕える巫女の役目だなどと申しているが、じつはバッコスならぬアプロディテの祭といったていたらくであるそうじゃ。ーーーきくところによれば、リュディアの国より来たという、怪しげな魔法師めは、黄金色の髪に香を漂わせ、頬は薄紅、淫らな目付で、夜昼のわかちなく、バッコスの密儀を餌に、娘どもと交わっているそうな」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.462~463』ちくま文庫)

ディオニュソスは様々に姿を変えて出現する神である。《変身》ということに注目しなくてはならない。そして《イニシエーション》とは何か。なぜトランスや酩酊、獣性、神性、性的交雑、なのか。

「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫)

発言者は「牛飼」である。なぜだろう。アリストテレスは述べている。

「すべて九人のアルコンが一緒に仕事をしたのではなく『王』(バシレウス)はプリュタネイオンの付近の今日いわゆるブコレイオンを占めていた(その証拠には今日でも『王』(バシレウス)の妻とディオニュソスとの交わりと結婚の儀がそこで行われる)」(アリストテレス「アテナイ人の国制・第三章・P.19」岩波文庫)

プリュタネイオンはアテナイの市会堂。ブコレイオンは字義通りに訳すと「牛小屋」である。ディオニュソスが雄牛の姿で現われるという伝説が生きていることを物語る。女王との交合はディオニュソス神でなくてはならない。そして雄牛に変身したディオニュソスとの婚姻は五穀豊穣のイメージと繋がる。ディオニュソスの神性と牛との関係についてプルタルコスはこう伝えている。

「激しく体を動かします。ちょうどディオニュソスの祭の恍惚に身を任せた人々のようにです。こんな風ですからディオニュソスの方でも、多くのギリシア人が牛の姿をしたディオニュソス像を描きますし、エリスの女たちはディオニュソスに祈りつつ、『牛の脚もて、神よ、来りませ』と呼びかけます」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・三五・P.69」岩波文庫)

さらにディオニュソスの密儀=祝祭に顕著な秩序の一時的解体について。様々なものが入れ換えられ置き換えられる。「ばらばらに八つ裂き、女性による肉食、湧水から葡萄酒への変化、乳への変化、年齢性別国籍を問わない性的交雑」。女性の生肉食や性的放縦や飲酒など、何千年にも渡って女性に科せられてきた束縛的秩序が一時的に解体されている点は重要である。上下、前後、左右、すべてが逆に転倒されていなければならない。社会は一時的な解体を経ることなくして再生することはできないのである。そしてこれらの行為こそ実は「神との《交流(コミュニケーション)》」を約束するイニシエーションであり、その実現でもあった。ヘロドトスは書いている。

「スキュレスはディオニュソス・バッケイオスの信仰に入信したいという望みを起した。ところが、彼が入信の儀式にかかろうとしている矢先、恐ろしい異変が起った。彼にはボリュステネス人の町に、先刻も述べたように宏壮豪奢な邸があり、邸のまわりには白大理石製のスフィンクスやグリュプスの像が並んでいた。この邸に神が雷撃を加え給うたのである。邸は全焼したが、スキュレスはこの異変をも物ともせず、入信の儀を終えたのであった。ところでスキュタイ人はギリシア人がバッコスの祭儀を行なうことを悪(あ)しざまにいう。人間を狂気に誘う神があるなどと考えるのは理にかなわぬ、というのである。それでスキュレスがバッコス教に入信した後、あるボリュステネス人がスキュタイ人を嘲ってこういった。『スキュタイ人どもよ、そなたはわれわれがバッコスの祭を祝い、神がわれわれに乗り移ってこられるのをいつも愚弄しているが、とうとうこの神様はそなたらの王様にも乗り移られたぞ。今はあのお方もバッコスの祭を祝い、神霊に憑(つ)かれて狂っておられる。私のいうことを信ぜぬのなら、私についてくるがよい、その証拠をそなたらに見せて進ぜよう』。そこでスキュタイ人の重だった者たちが付いてゆくと、そのボリュステネス人は彼らを密かに城楼に上らせ、そこに坐らせた。やがてスキュレスが同行衆とともに現われ、スキュタイ人たちは彼がバッコスの祭に加わっているのを目撃すると、大いに慨嘆し、市の外にでると全軍の将兵に自分たちが見てきたことを知らせた」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・P.55~56」岩波文庫)

重要なのは、狂気化した状態の自分を自分自身の目で見る、ということである。イニシエーションが終われば元の自分の意識に戻ってくる=回帰する。たとえば、自分で自分自身が八つ裂きにされる場面のような場合、それを見ている自分がいるということを知ることが大事なのだ。古代アジアのイニシエーションについてエリアーデは次のように述べている。

「成人儀礼で、新入者が悪霊=『イニシエーションの導師』に殺されるのとまったく同様、将来のシャーマンも『病気の悪霊』たちによって自分が首を切られ、ばらばらにされるのを目のあたりにする。この儀礼的死を、病人は地獄下りというかたちで体験する。彼は、夢のなかで自分自身が切り刻まれるのを目撃し、悪霊に首をはねられ、眼球をくり抜かれるさまなどを見る」(エリアーデ「世界宗教史5・P.41」ちくま学芸文庫)

なるほど古代の儀式ではある。だが現代になって、たとえばラヴクラフトはSFという形式を用いて、ほとんど同じことを書いている。

「カーターは人間であり間であり、脊椎(せきつい)動物であり無脊椎動物であり、意識をもつこともありもたないこともあり、動物であり植物であった。さらに、地球上の生命と共通するものをもたず、他の惑星、他の太陽系、他の銀河、他の時空連続体の只中を法外にも動きまわるカーターたちがいた。世界から世界へ、宇宙から宇宙へと漂う、永遠の生命の胞子がいたが、そのすべてが等しくカーター自身だった。瞥見(べっけん)したもののいくつかは、はじめて夢を見るようになったとき以来、長い歳月を経ても記憶にとどめられている夢ーーーおぼろな夢、なまなましい夢、一度かぎりの夢、連続して見た夢ーーーを思いださせた。その一部には、地球上の論理では説明のつけられない、心にとり憑(つ)き、魅惑的でありながら、恐ろしいまでの馴染(なじみ)深さがあった。これが紛れもない真実であると悟ったとき、ランドルフ・カーターは至高の恐怖にとらわれ、くらめく思いがしたーーー色を失う月のもと、ふたりしてあえて忌み嫌われる古びた埋葬地に入りこみ、ただひとりだけが脱け出した、あの怖気(おぞけ)立つ夜の慄然(りつぜん)たる絶頂でさえほのめかされることもなかったような、このうえもない恐怖だった。いかなる死であれ、運命であれ、苦悩であれ、自己一体感の喪失からわきおこる不二無類の絶望をひきおこせはしない。無に没して消えうせることは安らかな忘却であるにせよ、存在感を意識しながら、その存在というものが他の存在と区別できる明確なものではないことーーーもはや自己をもってはいない存在であることーーーを知るのは、いいようもない苦悶(くもん)と恐怖の極(きわみ)にほかならない」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.132~133』創元推理文庫)

動物への変化、女性への変化、波への変化、n次元への変化。生成は止まることを知らないのである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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