しばらく次の三点を問いとして置いておこう。
「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)
作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
さらに。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
ダブルバインド状況発生の諸条件について触れた。次に、一定期間ダブルバインド状況に縛り付けられた後に発生症状が見られる場合、患者の行動は幾つかのパターンに分類できるような系統性を示すに至る。
「ダブルバインド状況を生きてきた人間は、《発作》を起こすところまで症状が進むと、その後の対人関係はひとつの系統だったパターンの中に収まるようになる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299』新思索社)
患者の言語は解体しているかのように見える。ところがそれが解体に見えるのは一方で解体していないとされ一般的に流通している社会的文法が解体していないだけに過ぎないといった、そもそもたいへん心許ない事実が支配的である場合に限られる。しかしともかく患者は一般的に流通している社会的文法を他人と共有することから撤退する。それが意識的に選択された行為であれば同一の土俵に乗らないという生の戦略として受け取られるが、患者はそうではなくもはや社会的文法を自己崩壊させており、他人から声をかけられてもその言葉がどのレベルで発せられたものかを判断することができない。
「第一に、メッセージに付随してその意味するところを確定するシグナルを、ノーマルな人間と共有することをやめる。これはメタ・コミュニケーション・システムを崩壊させるというのと同じである。あるメッセージがどんな種類のメッセージなのか彼にはもはやわからない。『きょうは何をするの?』と言われても、前後の文脈も、声の調子も、付随するジェスチャーも、その言葉の意味を定めるはたらきをしないために、彼にはそれが、昨日自分がやったことを非難する言葉なのか、性的な誘いの言葉なのか、それともただ言葉通りの質問なのか、判断ができない」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299』新思索社)
ベイトソンのいうように患者は確実に「メタ・コミュニケーション・システムを崩壊させる」わけだが、一方でその事実は「メタ・コミュニケーション・システム」はいつも必ず絶対的であるといった考え方が《神話》に過ぎないということ、解体することができるということ、が確実であるのと同じほど確実である。ニーチェのいう「神の死」(絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、中心的なものの分散転移、変動相場制)はディドロ「ラモーの甥」が書かれた十八世紀後半すでに出現していたといえる。ラモーの甥は意識的に「道化=狂気」を演じる。
「長い間、道化という肩書で王様に仕えた道化はありました。が、どんな時代にも、賢者という肩書で王様に仕えた賢者はありませんでしたから」(ディドロ「ラモーの甥・P.89」岩波文庫)
王は日頃から身近な位置に道化=狂気を必要とする。そうでなければ王自身が「狂っているか狂っていないか」を判断する客観化された素材を持たないからである。このことは何もそのときの王が国家の切迫した危機の時期に追い詰められているということを意味しない。そうではなく、危機の時期であってもなくても王自身の内面から湧き起こってくる自分自身に対する懐疑がすでに生じていたことを証拠立てている。維新後間もない明治日本で幇間(たいこもち)が必需的労働力として必要とされたのはなぜか。上下、前後、左右という絶対的関係性の崩壊に伴って噴出した不安感情から、すべての富裕層あるいは支配者層は道化=狂気を雇うことで、十七世紀から十八世紀後半のヨーロッパが必要としたラモーの甥に類する《鏡》をいつも身近に置いておかねば気が済まなかったことがうかがわれる。
「賢明な人だったら、道化なんかもたないでしょうよ。だから、道化をもっている者は賢者じゃない。もしその男が賢者でないなら、道化です。たとえ王様だったとしても、その男は多分自分の道化の道化というわけでしょう」(ディドロ「ラモーの甥・P.89」岩波文庫)
ラモーの甥が「賢明な人だったら道化なんかもたないでしょう」というのはどういうことか。「賢明な人」は目の前に客観化された道化=狂人を必要としない人々のことだ。逆に、王がいつも身近に道化=狂気を置いておく傾向は、いつも目の前に道化=狂気を演じてくれることで王の側を「理性」であると証拠立てる存在者を必要とするからである。その意味で王は「賢明な人」で《ない》と明言している。ラモーの甥の言葉はオブラートに包まれているけれどもその内容は極めて挑発的なものだ。しかしそれを聞き取っている対話相手(哲学者)は何ら動揺していない。哲学者からすれば、ラモーの甥は世間一般の中で、世間一般に対して、あえて道化=狂気を演じることでラモーの甥以外の一般市民は「理性的」であるという鏡の役割を担っていることが判然としているからである。むしろ十七世紀から十八世紀後半になって絶対王政を筆頭として生活必需品となってきた道化=狂気という鏡を認めている。市民社会とそのすべての構成員にとって「非理性」を演じる道化=狂気なしに「神の死」を耐えるとともに資本主義体制への移行期を乗り越えることはできなかったに違いない。さらに「道化をもっている者は賢者」でなく、賢者でない以上「たとえ王様だったとしても、その男は多分自分の道化の道化」ということになるというのはどういうことか。客体化した道化=狂気の利用を感じることなく、道化=狂気を自分自身の中に持って満足している人々を指す。道化=狂気を客体として利用せず、利用する必要性を感じることもなく、自分だけで十分に「理性」なのだとして満足している人々のこと。このような場合、ラモーの甥が意識的に道化=狂気を演じて暮らしの生計を立てているのと比較して、実を言うと、もっと深い次元で「狂っている」と言える。ここでディドロは「別種の狂気」の中で安らいでいる人々のことを述べている。「別種の狂気」とは何か。
「人間はもし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほどに、必然的に気が違っているものである」(パスカル「パンセ・四一四・P.255」中公文庫)
その後、ドストエフスキーも同じことを言った。
「フランス人が、いまから二世紀ほど前に、自分の国の最初の気違い病院を建てたとき、『あの連中は自分たちこそ利口な人間であると自分に納得させるために、その国の馬鹿な人間をひとり残らず特別な建物に閉じ込めてしまったのだ』と言ったという、スペイン人がフランス人を皮肉った言葉が思い出される。まさにそのとおりで、いくらほかの人間を気違い病院に閉じ込めたところで、自分の賢さを証明することにはならないのである。『Kが気違いになった、するとつまり、いまではわれわれは賢い人間ということになる』どういたしまして、すぐにそういうことにはならないのである」(ドストエフスキー「作家の日記1・P.124」」ちくま学芸文庫)
たとえば、今でいうと「国際社会」という用語がそうだ。「国際社会」の側が「理性」だとする証拠はどこにあるのか。国連決議の中だけでの独りよがりである。かつてヤルタ・ポツダム体制において敗戦国日本が「非理性」として断罪されたように。パスカルの指摘にもドストエフスキーのそれにも共通しているのは、一方が「狂気」として名指しされたからといって、では名指した側の他方はただちに「理性」になるという短絡的な図式に陥っていないかどうか、他方もまた「別種の狂気」に陥っていないかどうか、こみ上げてくる感動的勝利のうちに自分で自分自身に反省を加えることをすっかり忘れてしまっていないかどうか、という落とし穴についてである。
具体的な事例を一つ上げよう。世界の世論が国際社会という用語を振り回してくれている「時間=猶予=利得」。その猶予が有効な間に日本政府はとっとと北朝鮮拉致問題を解決しなくてはならない。もしそれができなければ拉致被害関係者に対して日本政府は「不渡り」を見せつけたことになる。手形割引に失敗した。あり得ない事態だ。十九世紀半ばのフランスで勃発した「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」のさなかにおいてさえ、騒乱の中、騒乱を尻目に、新興ブルジョア階級はせっせと手形割引させていた。そしてただ単なるナポレオンの甥(ルイ・ボナパルト)にせいぜい騒がせて政権を取らせた後は、生成期資本主義の全実力を総動員して偽物(ナポレオンの甥含む)をことごとく虐殺あるいは消滅させた。次のように。
「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)
ここから得られる教訓には有効な部分がまだまだ大いに含まれている。その一つに、紆余曲折を経ているとはいえ住民投票へ漕ぎ着けた「大阪維新の会」主導による「大阪都構想」である。既得権益は撲滅されねばならない。明快な論理だ。しかしアメリカ軍が日米共同で行っている軍事行動は既得権益であるにもかかわらず残すであろう。なるほど現実的だ。しかし無数ともいえるほど数多くの関西の企業がその生産拠点を今なお中国に置いている以上、米軍と中国との政治的関係の中にどのようにして割り込んでいくのか。数多くの関西の企業がその生産拠点を置く中国に加担すれば香港民主化運動や台湾の親日派は路頭に迷う。米軍に加担すれば中国との国際交流は文化面で大打撃を受ける。中国の観光産業構造はヨーロッパ諸国の観光産業とともにアメリカの国家財政にまともに跳ね返ってくるような仕組みがすでに出来上がっている。だから日中間での文化交流と観光産業の流れを断ち切ることは、トランプ大統領の個人的意見がどうであれ、そもそもグローバル化して長いアメリカ資本はそんなことちっとも望んでいない。北方領土、沖縄基地問題、国内軍事産業の位置付けとその現場で働く労働者が抱える無数の問題。原発開発企業と原発労働者とが正反対の両極に置かれるほかないという明らかな立場の違い。関西から何人も入っている福島第一原発廃炉作業員待遇問題。幾らでもある。そこで「大阪都構想」を実現させるのは構わないとしても、今度はこれまでの既成政党が背負ってきたそれらありとあらゆる「しがらみ」をどのような方法で可能なかぎり速やかに処理していくのか、が問われねばならない。既成政党の苦悶は戦後ずっと背負ってきた「しがらみ」にある。それをどんなふうに考えているのかと。
「《古い家に住む新しい意見》。ーーー意見の革命のあとに制度の革命が必ずしもすぐ続くものではない。むしろ新しい意見は長い間その先輩たちの荒廃した無気味になった家に住みつづけ、住宅難から自分でもそれを保管する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四六六・P.401」ちくま学芸文庫)
どの政権も避けて通れないこの事情は大阪で大阪維新の会が与党になった瞬間から背負うべき課題だった。が少なくとも在阪マスコミ各局はそれを巧妙に隠してくれていた。しかし維新の会が住民投票を経て都構想実現へ動き出そうとするやこれまで分担されていた種々の政治=経済=福祉政策を一挙に担うことになる。周囲のほとんどの既成政党が黙って見ているのはこれらあまりにも負担の大きい「種々の政治=経済=福祉政策」をいったん維新の会へ丸投げして背負い込ませ、これまで大量に蓄積された「しがらみ」を維新の会へ可能なかぎり押し付けることにある。そのぶん、既成政党は随分と身軽になれるだけでなく、「しがらみ」というものが一体どれほどのものか維新の会にも理解させるよい機会になる。さらにマスコミのスポンサーは大阪維新の会を通さないで自由貿易を続ける方が遥かにメリットがあるのであって、にもかかわらずなぜあえて維新の会を持ち上げさせているのか、維新の会自身が自分自身で考えるよい機会になるだろう。維新の会は実際に全国各地で戦後七十年以上にわたって蓄積されてきた莫大な「しがらみ」だけでなく今後よりいっそう加速する資本主義が次々と押し付けてくる新しい「しがらみ」の重量感を党全体で受け止めるほかない。さらに問題はもはや二〇二〇年であるという条件から到来するし到来している。
「戦争機械の自立化、オートメーション化が現実的な効果を発揮し始めたのは第二次大戦以後のことである。戦争機械は、それに作用する新しい対立の結果、もはや戦争を唯一の対象とせず、平和、政治、世界秩序をもにない、これらを対象とするにいたり、要するに目的であったものも一つの対象とするにいたる。ここにおいてクラウゼヴィッツの公式は転倒される。政治はただ戦争を継続させるものとなり、《平和が無限の物質的プロセスを全面戦争から技術的に解放するのである》。戦争はもはや戦争機械の具体化ではなく、《具体化された戦争となるのは戦争機械そのものである》。この意味でもはやファシズムは不要となった。ファシストたちは前兆としての子供でしかなかったのであり、生き残りのための絶対的な平和は全面戦争が達成できなかったものを完成させた」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.233~234」河出文庫)
二度にわたる総力戦の不毛性を世界中が目撃した後、東西冷戦を経て行き着いたのは「政治はただ戦争を継続させるものとな」ったという動かせない事実である。東アジア(ここ最近では朝鮮半島)に限らず、中東やウクライナ、東欧、アフリカでは今なお一日数十人単位の死者が出ることは珍しくもなんともない。「政治はただ戦争を継続させるものとな」ったという動かせない事実を受け止め、すでに地域紛争への置き換えを済ませて継続されている戦争についてどのように関わっていくのか。大阪維新の会もそのほんの少しくらいは分かち持つべきだろう。さらに。
「器官なき身体は欲望である。人が欲望するのは器官なき身体であり、これによってこそ人は欲望するのだ。器官なき身体は存立平面であり、欲望の内在野であるばかりではなく、たとえ粗暴な地層化によって空虚におちいり、また癌的な地層の増殖におちいっても、まだ欲望であり続ける。欲望は、自分自身の消滅を願ったり、破壊的な力をもつものを欲したりするところまで行く。貨幣の欲望、軍隊の欲望、警察や国家の欲望、ファシストの欲望。ファシズムさえも欲望なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.338」河出文庫)
この結末についてはフィッツジェラルド作品においてまざまざと見ることができる。
「夕暮時の人のいなくなった射撃場に立っている感じ。ライフルは空っぽだし、標的もひっこんだ。何の問題もないーーーただ静寂があって、聞えるのは自分の呼吸だけ。この静寂の中には、あらゆる義務に対する大きな無責任、ぼくのあらゆる価値基準の崩壊があった。秩序への熱烈な信仰、あて推量や予言に味方して原因や結果の無視、技術と勤勉とはいかなる場所でも通用するものだという気持ーーーこれらの感情は一つずつ、その他のあらゆる信念も消えてしまった」(フィッツジェラルド「取り扱い注意」『フィッツジェラルド作品集3・P.192~193』荒地出版社)
戦争もまた一つの《逃走線》だ。実際アメリカはヨーロッパ諸大国を中心にくるくる回転する植民地獲得戦争を有利に展開させるための出口戦略(逃走線)として第一次世界大戦を選択した。そしてその帰結は。
「逃走線が一つの戦争であるのはなぜか。壊せるものは手当たりしだい破壊した後でこの戦争から抜け出してみると。私たち自身も解体され、破壊しつくされている恐れがあるのはなぜか。これこそまさに第四の危険だ。つまり逃走線は、障壁を乗り越え、ブラック・ホールから抜け出しはしても、他の線に連結され、一回ごとに原子価を増す代わりに、《破壊》、《純然たる滅亡》、《滅亡の情念に変わる》ということ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.139」河出文庫)
アメリカのメンタルヘルス大国化はこのときすでに始まっていたと十分にいえる。そしてベイトソンがダブルバインド理論を押し立てて華々しく登場してきたのはちょうどアメリカのメンタルヘルス大国化の戦後高揚期に当たっている。
「もしもこのように相手の発話の実際の意味がつかめず、それでいて相手の真意を過度に気にやむ人間は、いくつかの選択肢のなかから自己を防御する方法を選び取るようになるだろう」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299』新思索社)
対話相手の真意を「過度に気にやむ」傾向をもはや身に付けてしまっている。もともとの性格上そのような人々は少なくない。そしてもともとの性格上慎重な人々だからといって、必ずしも統合失調を発症するとは限らない。むしろそうでないタイプ、生来大雑把でどちらかといえば社交的な性格の人間がダブルバインド状況の中でだんだん「狂っていく」過程に注目しよう。
「1 あらゆる言葉の裏に、自分を脅かす隠された意味があると思い込むようになるケース。この場合、彼は隠された意味に過度のこだわりを示し、もう今までのようにはだまされはしないという決然とした態度をとるようになる。この選択肢を選んだ者は、他人の発言の裏の意味や、自分の周囲に起こる偶発的な出来事の背後に潜む意味を絶えず探し求め、その結果、猜疑心が強く、他人を寄せつけない人間になっていく」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299』新思索社)
発症の初期に「隠された意味」を見てしまわない患者はほとんどいない。近い人、親しい人、信用に足る近親者らが面会に訪れたとする。患者から見ればなるほど姿形は似ている。ところが似ていれば似ているほど、似ているがゆえに「偽物ではないか」という「猜疑心」をいっそう強力に持ってしまうということが起こる。妄想型。
「2 人が自分に言うことを、みな字句通り受け取るようになるケース。そこに、言葉とは裏腹な口調やジェスチャーやコンテクストがあったとしても、言葉の方に固執して、メタ・コミュニケーションのシグナルはまったく意に介さない。それが彼のコミュニケーションのパターンになっていく。ここではメッセージを階層に分化する努力は放棄され、すべてのメッセージが重要でないもの、あるいは笑いとばすべきものとして扱われる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299』新思索社)
解体型に分類されるタイプについて述べられている。言語的文脈がどのようなものであれ、患者はけっしてメタレベルに立つことがない。すべての言語階梯をないものとして捉える。言い換えれば、どの文脈にも滑り込んでくることができる。一般的に支離滅裂と見える患者の言語は発症初期には特にこの傾向が顕著であり、一定期間を経て寛解期を迎えるまではそうだ。
なお、このパターンはデリダによる脱構築戦略として応用された。言語をエクリチュールとして捉え直すことでヨーロッパ=アルファベット〔ロゴス〕中心主義批判を展開し、言語と言語によって創造されたありとあらゆるものは古代の宗教書からしてすでに物質的なものだと宣言した点でその功績は計り知れない。声(フォネー)こそ「神の声」にほかならないとする欧米中心主義を根底からくつがえしたわけだが、言語の中性性の主張に繋がるため、言語と言語を用いた文章はどのように解釈しても構わないという「虫のいい」思想家を生むことにもなった。たとえば人間は言語を用いて、或る事態を同時に見、示し、話すことはできないという事情について。
「同時に見、示し、話すことはできないのであり、証明の、また、遺言の意味はこの分離にあるのである。いかに真正性を保証しようとしても、もっとも信頼のおける証人が見るものでも、それを現に示すことはできない。証人が見るもの、というより見たものを、その人が火によって命を奪われない限りは記憶に保持しているものを、現に示すことはできないのである(そしてアウシュヴィッツやあらゆる絶滅収容所の証人について言えば、このことこそが『歴史修正主義』的否認にそのおぞましい活動の余地を与えているのである)」(デリダ「盲者の記憶・P.125」みすず書房)
というようにわざわざ釘を刺さなければならないような、少なくない数の御用評論家を発生させることになった。一方、人間の遺伝情報が言語でできていることにいち早く着目し、こう述べている。
「絵画書法的であれ表意書法的であれたんに文字表記の身体的動作を示すためだけでなく、また表記を可能にするものの全体を示すために、また意味する側面を越えて意味される側面自体を示すために、したがって、表記が文字的であろうとなかろうと、またたとえそれが空間内で配分するものが声の秩序とは無関係なものーーー映画書法(シネマトグラフィ)、舞踊書法(コレグラフィ)は勿論、絵画的、音楽的、彫刻的な<書法(エクリチュール)>などに至るまでーーーだとしても、表記というもの一般を惹き起し得るあらゆるものを示すために、<エクリチュール>と言われるのである。同様に、競技者の<エクリチュール>について、また次の諸分野を今日支配しているさまざまな技術に想いをいたすならば、さらにいっそう確実に、軍隊の<エクリチュール>あるいは政治の<エクリチュール>について、語ることもできるだろう。こういうことを言うのは、たんに以上の諸活動に二次的に関連している表記法の体系を記述するためだけでなく、これらの活動そのものの本質と内容を記述するためである。また、まさにこの意味において、今日生物学者は生きた細胞内の情報の最も基本的な過程に関して、エクリチュールとプロ=グラム〔前=文字〕を語るのである。けっきょく、本質的諸限界をもとうともつまいと、サイバネティックス的《プログラム》におおわれたあらゆる領域は、エクリチュールの領域であるだろう。サイバネティックスの理論は、かつて機械と人間を対立させる役割を果たしてきたあらゆる形而上学的概念ーーー魂、生命、価値、選択、記憶の概念にいたるまでーーーを自身から放逐し得ると仮定しても、自身の歴史=形而上学的所属が同様に告発されるに至るまで、文字言語(エクリチュール)、痕跡、文字あるいは文字素の概念を保有せざるを得ないであろう」(デリダ「グラマトロジーについて・上・P.27」現代思潮社)
昨今ではゲノム解析が盛んに報じられたりしているが、しかし、遺伝情報が明らかに物質的言語であるとわかった今なお、なぜ物質的なものとしてより、むしろよりいっそう「形而上学的」カテゴリーの所属から解放されないのか。政治的形而上学に隷属させられたままなのか。その点で生物工学の政治性を問うことになる。
「3 メタなレベルのメッセージに対して過敏になるのでも、無頓着になるのでもない第三の道は、それに対して耳をふさぐという方法である。まわりで何が起ころうとも、それを見ようとも聞こうともせず、固く身を閉ざして、周囲の反応を刺激することも懸命になって避けようとする。自分の関心を外部の世界から引き離し、自分の心の動きだけに集中する結果、彼はひとり殻にこもった、しゃべることのできない印象を与える人間になっていく」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299~300』新思索社)
緊張型。カタレプシーに分類される。人間が死を欲望するのではなく、主体と化した死が出現する。そしてこの傾向は資本主義の加速化に伴ってよりいっそう拡大再生産される。
「器官なき身体は死のモデルである。恐怖の物語の著者たちがいみじくも理解しているように、死がカタトニーにモデルとして役立つのではない。カタトニー的な分裂症が死にモデルを与えるのである。<強度=ゼロ>がこれである。死のモデルが現われるのは、器官なき身体が種々の器官を拒絶し廃棄するときである。ーーー口もなく、舌もなく、歯もなくーーー、みずから手足を切断し、自殺にまで至るときである。ところが、器官なき身体と、部分対象としての諸器官との間には、じっさいには対立は存在しない。唯一のじっさいの対立は、この両者の共通の敵であるモル的有機体とこの両者との間にあるだけである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.391」河出書房新社)
「アンチ・オイディプス」でニーチェならびにマルクスを通して描かれていることは、世間一般で言われているようにそれほど難解でもなんでもない。むしろ簡単。要するにこのまま行けば資本主義はよりいっそう順調に加速するであろう。加速するならもっと加速するがいい。すると何が起こってくるか。ありとあらゆる人間と諸商品とは絶え間なく高速化する流通交換のるつぼに叩き込まれ、遂に世界は個々別々の姿形をすっかり失っていつもすでに同じところをぐるぐると流動する溶けたバターのようになってしまうに違いないという事情である。労働力商品としての人間は諸商品へ転化した状態を取っていつも世界のどこかで貨幣との交換関係に置かれている。そして商品交換されるや価値(剰余価値含む)を実現し、要するに利子を可視化し資本の手元へ回帰してくる。社会的運動総体が演じるその速度には誰も追いつくことができない。ただ、統合失調者の場合、その症状には限界というものがない。逆に資本主義は限界を持つには持つが、一つの限界に達するとたちまち新しい限界を出現させ、その限界において経済的諸関係がまともに反映される労働現場を次々に置き換えて延々と生き延びていくという点で、統合失調者とは区別される。統合失調者の脱文脈化は資本の脱コード化の運動に似ているけれども、まったく似て非なるものである。
「言いかえれば、交わされるメッセージの種類が識別できない人間は、妄想型、破瓜型、緊張型、と呼ばれている対応の仕方で、自己防衛をはかるということだ。この三つの選択のすべてではないが、重要なのは、人の発言の正しい意味を見出す助けとなるような選択肢だけは選べないということだ。まわりの人間がよほどの手助けをしなくては、他人のメッセージに関して何も言うことができない。その能力を失った人間は、ちょうどガバナーを失った自動制御装置のようにふるまうようになる。安定した作動から、つねに体系的な、しかし次第に大きくなる螺旋を描いて、どこまでも外れていくばかりである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.300』新思索社)
というふうに。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
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「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)
作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
さらに。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
ダブルバインド状況発生の諸条件について触れた。次に、一定期間ダブルバインド状況に縛り付けられた後に発生症状が見られる場合、患者の行動は幾つかのパターンに分類できるような系統性を示すに至る。
「ダブルバインド状況を生きてきた人間は、《発作》を起こすところまで症状が進むと、その後の対人関係はひとつの系統だったパターンの中に収まるようになる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299』新思索社)
患者の言語は解体しているかのように見える。ところがそれが解体に見えるのは一方で解体していないとされ一般的に流通している社会的文法が解体していないだけに過ぎないといった、そもそもたいへん心許ない事実が支配的である場合に限られる。しかしともかく患者は一般的に流通している社会的文法を他人と共有することから撤退する。それが意識的に選択された行為であれば同一の土俵に乗らないという生の戦略として受け取られるが、患者はそうではなくもはや社会的文法を自己崩壊させており、他人から声をかけられてもその言葉がどのレベルで発せられたものかを判断することができない。
「第一に、メッセージに付随してその意味するところを確定するシグナルを、ノーマルな人間と共有することをやめる。これはメタ・コミュニケーション・システムを崩壊させるというのと同じである。あるメッセージがどんな種類のメッセージなのか彼にはもはやわからない。『きょうは何をするの?』と言われても、前後の文脈も、声の調子も、付随するジェスチャーも、その言葉の意味を定めるはたらきをしないために、彼にはそれが、昨日自分がやったことを非難する言葉なのか、性的な誘いの言葉なのか、それともただ言葉通りの質問なのか、判断ができない」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299』新思索社)
ベイトソンのいうように患者は確実に「メタ・コミュニケーション・システムを崩壊させる」わけだが、一方でその事実は「メタ・コミュニケーション・システム」はいつも必ず絶対的であるといった考え方が《神話》に過ぎないということ、解体することができるということ、が確実であるのと同じほど確実である。ニーチェのいう「神の死」(絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、中心的なものの分散転移、変動相場制)はディドロ「ラモーの甥」が書かれた十八世紀後半すでに出現していたといえる。ラモーの甥は意識的に「道化=狂気」を演じる。
「長い間、道化という肩書で王様に仕えた道化はありました。が、どんな時代にも、賢者という肩書で王様に仕えた賢者はありませんでしたから」(ディドロ「ラモーの甥・P.89」岩波文庫)
王は日頃から身近な位置に道化=狂気を必要とする。そうでなければ王自身が「狂っているか狂っていないか」を判断する客観化された素材を持たないからである。このことは何もそのときの王が国家の切迫した危機の時期に追い詰められているということを意味しない。そうではなく、危機の時期であってもなくても王自身の内面から湧き起こってくる自分自身に対する懐疑がすでに生じていたことを証拠立てている。維新後間もない明治日本で幇間(たいこもち)が必需的労働力として必要とされたのはなぜか。上下、前後、左右という絶対的関係性の崩壊に伴って噴出した不安感情から、すべての富裕層あるいは支配者層は道化=狂気を雇うことで、十七世紀から十八世紀後半のヨーロッパが必要としたラモーの甥に類する《鏡》をいつも身近に置いておかねば気が済まなかったことがうかがわれる。
「賢明な人だったら、道化なんかもたないでしょうよ。だから、道化をもっている者は賢者じゃない。もしその男が賢者でないなら、道化です。たとえ王様だったとしても、その男は多分自分の道化の道化というわけでしょう」(ディドロ「ラモーの甥・P.89」岩波文庫)
ラモーの甥が「賢明な人だったら道化なんかもたないでしょう」というのはどういうことか。「賢明な人」は目の前に客観化された道化=狂人を必要としない人々のことだ。逆に、王がいつも身近に道化=狂気を置いておく傾向は、いつも目の前に道化=狂気を演じてくれることで王の側を「理性」であると証拠立てる存在者を必要とするからである。その意味で王は「賢明な人」で《ない》と明言している。ラモーの甥の言葉はオブラートに包まれているけれどもその内容は極めて挑発的なものだ。しかしそれを聞き取っている対話相手(哲学者)は何ら動揺していない。哲学者からすれば、ラモーの甥は世間一般の中で、世間一般に対して、あえて道化=狂気を演じることでラモーの甥以外の一般市民は「理性的」であるという鏡の役割を担っていることが判然としているからである。むしろ十七世紀から十八世紀後半になって絶対王政を筆頭として生活必需品となってきた道化=狂気という鏡を認めている。市民社会とそのすべての構成員にとって「非理性」を演じる道化=狂気なしに「神の死」を耐えるとともに資本主義体制への移行期を乗り越えることはできなかったに違いない。さらに「道化をもっている者は賢者」でなく、賢者でない以上「たとえ王様だったとしても、その男は多分自分の道化の道化」ということになるというのはどういうことか。客体化した道化=狂気の利用を感じることなく、道化=狂気を自分自身の中に持って満足している人々を指す。道化=狂気を客体として利用せず、利用する必要性を感じることもなく、自分だけで十分に「理性」なのだとして満足している人々のこと。このような場合、ラモーの甥が意識的に道化=狂気を演じて暮らしの生計を立てているのと比較して、実を言うと、もっと深い次元で「狂っている」と言える。ここでディドロは「別種の狂気」の中で安らいでいる人々のことを述べている。「別種の狂気」とは何か。
「人間はもし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほどに、必然的に気が違っているものである」(パスカル「パンセ・四一四・P.255」中公文庫)
その後、ドストエフスキーも同じことを言った。
「フランス人が、いまから二世紀ほど前に、自分の国の最初の気違い病院を建てたとき、『あの連中は自分たちこそ利口な人間であると自分に納得させるために、その国の馬鹿な人間をひとり残らず特別な建物に閉じ込めてしまったのだ』と言ったという、スペイン人がフランス人を皮肉った言葉が思い出される。まさにそのとおりで、いくらほかの人間を気違い病院に閉じ込めたところで、自分の賢さを証明することにはならないのである。『Kが気違いになった、するとつまり、いまではわれわれは賢い人間ということになる』どういたしまして、すぐにそういうことにはならないのである」(ドストエフスキー「作家の日記1・P.124」」ちくま学芸文庫)
たとえば、今でいうと「国際社会」という用語がそうだ。「国際社会」の側が「理性」だとする証拠はどこにあるのか。国連決議の中だけでの独りよがりである。かつてヤルタ・ポツダム体制において敗戦国日本が「非理性」として断罪されたように。パスカルの指摘にもドストエフスキーのそれにも共通しているのは、一方が「狂気」として名指しされたからといって、では名指した側の他方はただちに「理性」になるという短絡的な図式に陥っていないかどうか、他方もまた「別種の狂気」に陥っていないかどうか、こみ上げてくる感動的勝利のうちに自分で自分自身に反省を加えることをすっかり忘れてしまっていないかどうか、という落とし穴についてである。
具体的な事例を一つ上げよう。世界の世論が国際社会という用語を振り回してくれている「時間=猶予=利得」。その猶予が有効な間に日本政府はとっとと北朝鮮拉致問題を解決しなくてはならない。もしそれができなければ拉致被害関係者に対して日本政府は「不渡り」を見せつけたことになる。手形割引に失敗した。あり得ない事態だ。十九世紀半ばのフランスで勃発した「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」のさなかにおいてさえ、騒乱の中、騒乱を尻目に、新興ブルジョア階級はせっせと手形割引させていた。そしてただ単なるナポレオンの甥(ルイ・ボナパルト)にせいぜい騒がせて政権を取らせた後は、生成期資本主義の全実力を総動員して偽物(ナポレオンの甥含む)をことごとく虐殺あるいは消滅させた。次のように。
「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)
ここから得られる教訓には有効な部分がまだまだ大いに含まれている。その一つに、紆余曲折を経ているとはいえ住民投票へ漕ぎ着けた「大阪維新の会」主導による「大阪都構想」である。既得権益は撲滅されねばならない。明快な論理だ。しかしアメリカ軍が日米共同で行っている軍事行動は既得権益であるにもかかわらず残すであろう。なるほど現実的だ。しかし無数ともいえるほど数多くの関西の企業がその生産拠点を今なお中国に置いている以上、米軍と中国との政治的関係の中にどのようにして割り込んでいくのか。数多くの関西の企業がその生産拠点を置く中国に加担すれば香港民主化運動や台湾の親日派は路頭に迷う。米軍に加担すれば中国との国際交流は文化面で大打撃を受ける。中国の観光産業構造はヨーロッパ諸国の観光産業とともにアメリカの国家財政にまともに跳ね返ってくるような仕組みがすでに出来上がっている。だから日中間での文化交流と観光産業の流れを断ち切ることは、トランプ大統領の個人的意見がどうであれ、そもそもグローバル化して長いアメリカ資本はそんなことちっとも望んでいない。北方領土、沖縄基地問題、国内軍事産業の位置付けとその現場で働く労働者が抱える無数の問題。原発開発企業と原発労働者とが正反対の両極に置かれるほかないという明らかな立場の違い。関西から何人も入っている福島第一原発廃炉作業員待遇問題。幾らでもある。そこで「大阪都構想」を実現させるのは構わないとしても、今度はこれまでの既成政党が背負ってきたそれらありとあらゆる「しがらみ」をどのような方法で可能なかぎり速やかに処理していくのか、が問われねばならない。既成政党の苦悶は戦後ずっと背負ってきた「しがらみ」にある。それをどんなふうに考えているのかと。
「《古い家に住む新しい意見》。ーーー意見の革命のあとに制度の革命が必ずしもすぐ続くものではない。むしろ新しい意見は長い間その先輩たちの荒廃した無気味になった家に住みつづけ、住宅難から自分でもそれを保管する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四六六・P.401」ちくま学芸文庫)
どの政権も避けて通れないこの事情は大阪で大阪維新の会が与党になった瞬間から背負うべき課題だった。が少なくとも在阪マスコミ各局はそれを巧妙に隠してくれていた。しかし維新の会が住民投票を経て都構想実現へ動き出そうとするやこれまで分担されていた種々の政治=経済=福祉政策を一挙に担うことになる。周囲のほとんどの既成政党が黙って見ているのはこれらあまりにも負担の大きい「種々の政治=経済=福祉政策」をいったん維新の会へ丸投げして背負い込ませ、これまで大量に蓄積された「しがらみ」を維新の会へ可能なかぎり押し付けることにある。そのぶん、既成政党は随分と身軽になれるだけでなく、「しがらみ」というものが一体どれほどのものか維新の会にも理解させるよい機会になる。さらにマスコミのスポンサーは大阪維新の会を通さないで自由貿易を続ける方が遥かにメリットがあるのであって、にもかかわらずなぜあえて維新の会を持ち上げさせているのか、維新の会自身が自分自身で考えるよい機会になるだろう。維新の会は実際に全国各地で戦後七十年以上にわたって蓄積されてきた莫大な「しがらみ」だけでなく今後よりいっそう加速する資本主義が次々と押し付けてくる新しい「しがらみ」の重量感を党全体で受け止めるほかない。さらに問題はもはや二〇二〇年であるという条件から到来するし到来している。
「戦争機械の自立化、オートメーション化が現実的な効果を発揮し始めたのは第二次大戦以後のことである。戦争機械は、それに作用する新しい対立の結果、もはや戦争を唯一の対象とせず、平和、政治、世界秩序をもにない、これらを対象とするにいたり、要するに目的であったものも一つの対象とするにいたる。ここにおいてクラウゼヴィッツの公式は転倒される。政治はただ戦争を継続させるものとなり、《平和が無限の物質的プロセスを全面戦争から技術的に解放するのである》。戦争はもはや戦争機械の具体化ではなく、《具体化された戦争となるのは戦争機械そのものである》。この意味でもはやファシズムは不要となった。ファシストたちは前兆としての子供でしかなかったのであり、生き残りのための絶対的な平和は全面戦争が達成できなかったものを完成させた」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.233~234」河出文庫)
二度にわたる総力戦の不毛性を世界中が目撃した後、東西冷戦を経て行き着いたのは「政治はただ戦争を継続させるものとな」ったという動かせない事実である。東アジア(ここ最近では朝鮮半島)に限らず、中東やウクライナ、東欧、アフリカでは今なお一日数十人単位の死者が出ることは珍しくもなんともない。「政治はただ戦争を継続させるものとな」ったという動かせない事実を受け止め、すでに地域紛争への置き換えを済ませて継続されている戦争についてどのように関わっていくのか。大阪維新の会もそのほんの少しくらいは分かち持つべきだろう。さらに。
「器官なき身体は欲望である。人が欲望するのは器官なき身体であり、これによってこそ人は欲望するのだ。器官なき身体は存立平面であり、欲望の内在野であるばかりではなく、たとえ粗暴な地層化によって空虚におちいり、また癌的な地層の増殖におちいっても、まだ欲望であり続ける。欲望は、自分自身の消滅を願ったり、破壊的な力をもつものを欲したりするところまで行く。貨幣の欲望、軍隊の欲望、警察や国家の欲望、ファシストの欲望。ファシズムさえも欲望なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.338」河出文庫)
この結末についてはフィッツジェラルド作品においてまざまざと見ることができる。
「夕暮時の人のいなくなった射撃場に立っている感じ。ライフルは空っぽだし、標的もひっこんだ。何の問題もないーーーただ静寂があって、聞えるのは自分の呼吸だけ。この静寂の中には、あらゆる義務に対する大きな無責任、ぼくのあらゆる価値基準の崩壊があった。秩序への熱烈な信仰、あて推量や予言に味方して原因や結果の無視、技術と勤勉とはいかなる場所でも通用するものだという気持ーーーこれらの感情は一つずつ、その他のあらゆる信念も消えてしまった」(フィッツジェラルド「取り扱い注意」『フィッツジェラルド作品集3・P.192~193』荒地出版社)
戦争もまた一つの《逃走線》だ。実際アメリカはヨーロッパ諸大国を中心にくるくる回転する植民地獲得戦争を有利に展開させるための出口戦略(逃走線)として第一次世界大戦を選択した。そしてその帰結は。
「逃走線が一つの戦争であるのはなぜか。壊せるものは手当たりしだい破壊した後でこの戦争から抜け出してみると。私たち自身も解体され、破壊しつくされている恐れがあるのはなぜか。これこそまさに第四の危険だ。つまり逃走線は、障壁を乗り越え、ブラック・ホールから抜け出しはしても、他の線に連結され、一回ごとに原子価を増す代わりに、《破壊》、《純然たる滅亡》、《滅亡の情念に変わる》ということ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.139」河出文庫)
アメリカのメンタルヘルス大国化はこのときすでに始まっていたと十分にいえる。そしてベイトソンがダブルバインド理論を押し立てて華々しく登場してきたのはちょうどアメリカのメンタルヘルス大国化の戦後高揚期に当たっている。
「もしもこのように相手の発話の実際の意味がつかめず、それでいて相手の真意を過度に気にやむ人間は、いくつかの選択肢のなかから自己を防御する方法を選び取るようになるだろう」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299』新思索社)
対話相手の真意を「過度に気にやむ」傾向をもはや身に付けてしまっている。もともとの性格上そのような人々は少なくない。そしてもともとの性格上慎重な人々だからといって、必ずしも統合失調を発症するとは限らない。むしろそうでないタイプ、生来大雑把でどちらかといえば社交的な性格の人間がダブルバインド状況の中でだんだん「狂っていく」過程に注目しよう。
「1 あらゆる言葉の裏に、自分を脅かす隠された意味があると思い込むようになるケース。この場合、彼は隠された意味に過度のこだわりを示し、もう今までのようにはだまされはしないという決然とした態度をとるようになる。この選択肢を選んだ者は、他人の発言の裏の意味や、自分の周囲に起こる偶発的な出来事の背後に潜む意味を絶えず探し求め、その結果、猜疑心が強く、他人を寄せつけない人間になっていく」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299』新思索社)
発症の初期に「隠された意味」を見てしまわない患者はほとんどいない。近い人、親しい人、信用に足る近親者らが面会に訪れたとする。患者から見ればなるほど姿形は似ている。ところが似ていれば似ているほど、似ているがゆえに「偽物ではないか」という「猜疑心」をいっそう強力に持ってしまうということが起こる。妄想型。
「2 人が自分に言うことを、みな字句通り受け取るようになるケース。そこに、言葉とは裏腹な口調やジェスチャーやコンテクストがあったとしても、言葉の方に固執して、メタ・コミュニケーションのシグナルはまったく意に介さない。それが彼のコミュニケーションのパターンになっていく。ここではメッセージを階層に分化する努力は放棄され、すべてのメッセージが重要でないもの、あるいは笑いとばすべきものとして扱われる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299』新思索社)
解体型に分類されるタイプについて述べられている。言語的文脈がどのようなものであれ、患者はけっしてメタレベルに立つことがない。すべての言語階梯をないものとして捉える。言い換えれば、どの文脈にも滑り込んでくることができる。一般的に支離滅裂と見える患者の言語は発症初期には特にこの傾向が顕著であり、一定期間を経て寛解期を迎えるまではそうだ。
なお、このパターンはデリダによる脱構築戦略として応用された。言語をエクリチュールとして捉え直すことでヨーロッパ=アルファベット〔ロゴス〕中心主義批判を展開し、言語と言語によって創造されたありとあらゆるものは古代の宗教書からしてすでに物質的なものだと宣言した点でその功績は計り知れない。声(フォネー)こそ「神の声」にほかならないとする欧米中心主義を根底からくつがえしたわけだが、言語の中性性の主張に繋がるため、言語と言語を用いた文章はどのように解釈しても構わないという「虫のいい」思想家を生むことにもなった。たとえば人間は言語を用いて、或る事態を同時に見、示し、話すことはできないという事情について。
「同時に見、示し、話すことはできないのであり、証明の、また、遺言の意味はこの分離にあるのである。いかに真正性を保証しようとしても、もっとも信頼のおける証人が見るものでも、それを現に示すことはできない。証人が見るもの、というより見たものを、その人が火によって命を奪われない限りは記憶に保持しているものを、現に示すことはできないのである(そしてアウシュヴィッツやあらゆる絶滅収容所の証人について言えば、このことこそが『歴史修正主義』的否認にそのおぞましい活動の余地を与えているのである)」(デリダ「盲者の記憶・P.125」みすず書房)
というようにわざわざ釘を刺さなければならないような、少なくない数の御用評論家を発生させることになった。一方、人間の遺伝情報が言語でできていることにいち早く着目し、こう述べている。
「絵画書法的であれ表意書法的であれたんに文字表記の身体的動作を示すためだけでなく、また表記を可能にするものの全体を示すために、また意味する側面を越えて意味される側面自体を示すために、したがって、表記が文字的であろうとなかろうと、またたとえそれが空間内で配分するものが声の秩序とは無関係なものーーー映画書法(シネマトグラフィ)、舞踊書法(コレグラフィ)は勿論、絵画的、音楽的、彫刻的な<書法(エクリチュール)>などに至るまでーーーだとしても、表記というもの一般を惹き起し得るあらゆるものを示すために、<エクリチュール>と言われるのである。同様に、競技者の<エクリチュール>について、また次の諸分野を今日支配しているさまざまな技術に想いをいたすならば、さらにいっそう確実に、軍隊の<エクリチュール>あるいは政治の<エクリチュール>について、語ることもできるだろう。こういうことを言うのは、たんに以上の諸活動に二次的に関連している表記法の体系を記述するためだけでなく、これらの活動そのものの本質と内容を記述するためである。また、まさにこの意味において、今日生物学者は生きた細胞内の情報の最も基本的な過程に関して、エクリチュールとプロ=グラム〔前=文字〕を語るのである。けっきょく、本質的諸限界をもとうともつまいと、サイバネティックス的《プログラム》におおわれたあらゆる領域は、エクリチュールの領域であるだろう。サイバネティックスの理論は、かつて機械と人間を対立させる役割を果たしてきたあらゆる形而上学的概念ーーー魂、生命、価値、選択、記憶の概念にいたるまでーーーを自身から放逐し得ると仮定しても、自身の歴史=形而上学的所属が同様に告発されるに至るまで、文字言語(エクリチュール)、痕跡、文字あるいは文字素の概念を保有せざるを得ないであろう」(デリダ「グラマトロジーについて・上・P.27」現代思潮社)
昨今ではゲノム解析が盛んに報じられたりしているが、しかし、遺伝情報が明らかに物質的言語であるとわかった今なお、なぜ物質的なものとしてより、むしろよりいっそう「形而上学的」カテゴリーの所属から解放されないのか。政治的形而上学に隷属させられたままなのか。その点で生物工学の政治性を問うことになる。
「3 メタなレベルのメッセージに対して過敏になるのでも、無頓着になるのでもない第三の道は、それに対して耳をふさぐという方法である。まわりで何が起ころうとも、それを見ようとも聞こうともせず、固く身を閉ざして、周囲の反応を刺激することも懸命になって避けようとする。自分の関心を外部の世界から引き離し、自分の心の動きだけに集中する結果、彼はひとり殻にこもった、しゃべることのできない印象を与える人間になっていく」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.299~300』新思索社)
緊張型。カタレプシーに分類される。人間が死を欲望するのではなく、主体と化した死が出現する。そしてこの傾向は資本主義の加速化に伴ってよりいっそう拡大再生産される。
「器官なき身体は死のモデルである。恐怖の物語の著者たちがいみじくも理解しているように、死がカタトニーにモデルとして役立つのではない。カタトニー的な分裂症が死にモデルを与えるのである。<強度=ゼロ>がこれである。死のモデルが現われるのは、器官なき身体が種々の器官を拒絶し廃棄するときである。ーーー口もなく、舌もなく、歯もなくーーー、みずから手足を切断し、自殺にまで至るときである。ところが、器官なき身体と、部分対象としての諸器官との間には、じっさいには対立は存在しない。唯一のじっさいの対立は、この両者の共通の敵であるモル的有機体とこの両者との間にあるだけである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.391」河出書房新社)
「アンチ・オイディプス」でニーチェならびにマルクスを通して描かれていることは、世間一般で言われているようにそれほど難解でもなんでもない。むしろ簡単。要するにこのまま行けば資本主義はよりいっそう順調に加速するであろう。加速するならもっと加速するがいい。すると何が起こってくるか。ありとあらゆる人間と諸商品とは絶え間なく高速化する流通交換のるつぼに叩き込まれ、遂に世界は個々別々の姿形をすっかり失っていつもすでに同じところをぐるぐると流動する溶けたバターのようになってしまうに違いないという事情である。労働力商品としての人間は諸商品へ転化した状態を取っていつも世界のどこかで貨幣との交換関係に置かれている。そして商品交換されるや価値(剰余価値含む)を実現し、要するに利子を可視化し資本の手元へ回帰してくる。社会的運動総体が演じるその速度には誰も追いつくことができない。ただ、統合失調者の場合、その症状には限界というものがない。逆に資本主義は限界を持つには持つが、一つの限界に達するとたちまち新しい限界を出現させ、その限界において経済的諸関係がまともに反映される労働現場を次々に置き換えて延々と生き延びていくという点で、統合失調者とは区別される。統合失調者の脱文脈化は資本の脱コード化の運動に似ているけれども、まったく似て非なるものである。
「言いかえれば、交わされるメッセージの種類が識別できない人間は、妄想型、破瓜型、緊張型、と呼ばれている対応の仕方で、自己防衛をはかるということだ。この三つの選択のすべてではないが、重要なのは、人の発言の正しい意味を見出す助けとなるような選択肢だけは選べないということだ。まわりの人間がよほどの手助けをしなくては、他人のメッセージに関して何も言うことができない。その能力を失った人間は、ちょうどガバナーを失った自動制御装置のようにふるまうようになる。安定した作動から、つねに体系的な、しかし次第に大きくなる螺旋を描いて、どこまでも外れていくばかりである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.300』新思索社)
というふうに。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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