しばらく次の三点を問いとして置いておこう。
「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)
作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
さらに。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
ベイトソンは分裂症を育む家庭状況について一般的特徴を三つ上げる。形式的過ぎるように見えるかもしれないが、それについてはすぐ後で説明がある。まず特徴的な三点について見ておくことが大事だ。
「1 そこには、母からの愛を感じて近寄っていくと母が不安から身を引いてしまう、そういう母親をもつ子がいる。つまり、子の存在が母親にとって特別の意味をもち、子との親密な場に引き入れられそうになると母親の中に不安と敵意が起こるという状況がある」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)
家庭という場を通して母親に与えられた役割が過剰だった時代、多かれ少なかれこのような傾向はどこにでも見られた。フーコーは十九世紀になって出現した性的欲望の装置の中で女性の身体について或る意味付けがなされた点に注目している。
「《女の身体のヒステリー化》」(フーコー「知への意志・P.134」新潮社)
どういうことだろうか。要約すると、「女の身体」が問題視されるのは第一に社会の《生産性》にとってである。女性はいつも《順調な繁殖力を維持しているべき》だとする社会規範が出現したのは太古の大昔のエピソードではない。逆に資本主義的生産様式が定着してくる過程で発生してきたまったく最近の、ここ二百年ばかりのうちに発生した産物でしかない。それが世界的規模で拡張されたときこの産物はすでに《神話》の次元にまでのぼりつめていた。さらに生物学的見地から、子供は女性の身体から生み出されるものなので、子供への道徳的責任と安全保証は女性の役割であるという見解がすべての異論を排除する形で固定化される。そして家族という空間の基礎的機能を根底から担う存在として規定される。この時点で発生したのが《母性》というものであり、ニーチェの言葉を借りれば世界的規模での「でっち上げ」が完成したのである。だからヒステリーは健康な女性のネガティヴな姿として、否定的なものとして、「健康な女性」という《神話》と同時に出現し、「健康な女性」というポジティヴな《神話》を支えるネガティヴな役割を与えられるとともに一種の「狂気」とされるに至る。ところがこの構造は構造自体の作用によって、理性は狂気の支えなしに存在しないという事情を覆い隠してしまう。だからといって、女性はただ単に子供を産めば良いということではない。それは資本主義の生成期において妥当する事情ではあっても、テクノロジーの高度化によって剰余価値の増殖が可能になった以上、ますます可能になっていく以上、ただ単に子どもばかり生まれてしまっては逆に国家は困惑することになる。問題は、産児制限したり逆に産児制限を抑制したりといった、人間の身体を《調整する》ことにある。生殖装置としての婚姻は労働力商品の再生産でもあるが、他方、性的欲望の装置は生殖とは関係のない性的欲望を増殖させ、それを質的にも量的にも測定し様々に分類し情報化し管理社会の実験的強化に資する。だからフーコーは「性的欲望の解放」とは呼ばず「性的欲望の装置」と呼ぶのだ。そのための身体の計測であり、中央集権的管理領域の無限の増殖強化に供される身体なのである。増殖する性的欲望を《欲望する管理》があるのだ。
子供たちの安全保障として制度化された女性の立場。母親が子供とその接近に対して感じる危機感はこの「死を賭しても子供を守らなければならない」という安全保障=軍事的防波堤として配分された社会的立場の重圧からもたらされる。
「2 そこには、わが子に対して不安や敵意を持っていることができない母親がいる。彼女はそうした感情を否定するために、子供を愛していることを強調する行動を子供の前でとる。そしてそのとき子供から返ってくる反応が、自分を愛情に満ちた母親として見るものでない場合、彼女はその場から身を引いてしまう。ここで『愛を強調する行動』とは、必ずしも『優しさを示す行動』を意味しない。子供を『いい子にしつける』ための『適切な』行動も、そのなかに含まれる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)
「しつけ」という問い。親子関係をその最小単位とする現代社会では親と子との関係はいつも「儀式としての試験」を通して、「監視する側/監視される側」という対立する両極へ分裂して置かれているという事実。しかしまた監視する側は原則的に目に見える人物であってはならない。母親の姿は見えていても親子関係の順調性について常に問いただすことを怠らない《機能》(役割)としては不可視でなくてはならない。規律・訓練型社会における「試験」の意味についてフーコーはいう。
「規律・訓練的な権力のほうは、自分を不可視にすることで、自らを行使するのであって、しかも反対に、自分が服従させる当の相手の者には、可視性の義務の原則を強制する。規律・訓練では、見られるべきものは、こうした当の相手(部下であり、受験生である)のほうである。彼らに行使される権力の支配は、彼らを明るみに出すことで確保される。規律・訓練における個人を服従強制(臣民化、主体化でもある)の状態に保つのは、実は、たえず見られているという事態、つねに見られる可能性があるという事態である。しかも試験とは、権力が自らの強さの表徴を明らかにするかわりに、また自らの標識を当の相手〔=主体〕に押しつけるかわりに、ある客体化の機制のなかで当の相手をつかまえる場合の、そうした技術である」(フーコー「監獄の誕生・P.190」新潮社)
さらに、どのような方法で家庭は社会的最小単位の理念型として今なお起動しているのか。ドゥルーズ=ガタリはいう。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.151~152」河出書房新社)
ベイトソンに戻ろう。「父親」が登場する。
「3 そこには、母子関係の間に割り込み、矛盾のしがらみに捉えられた子供の支えになるような存在ーーー洞察力のある強い父親などーーーがいない」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)
というわけだがもはや「強い父親」というものは《いない》。もうどこにもいない。現代社会ではこの認識が余りにもなさ過ぎる。「神の死」を宣告したのはニーチェだが、それ以前すでに「強い父親」というものは死んでいた。失われていた。資本主義は資本以上に強力な存在者の出現を決して許さない社会であり、いないからこそ、十八世紀末から二十世紀いっぱいを通してあれほど代わる代わる「強い父親」を演じようとする人々が大量発生したのだ。強いかどうかは別にして、ただ、資本に服従する限りでなら、主体として認められる余地が与えられた。
「権力についての全く転倒したイメージを抱かない限りは、我々の文明においてあれほど久しい以前から、自分が何者であるのか、自分が何をしたのか、自分が何を覚えているのか、何を忘れたのか、隠しているもの、隠れているもの、考えも及ばないもの、考えなかったと考えるもの、こういうすべてが何かを語れという途方もない要請を執拗に繰り返すあれらすべての声が、我々に自由を語っているなどとは考えられないはずだ。西洋世界が幾世代もの人間をそれに従事させた、産出するための厖大な工事でありーーーその間に、他の形の作業が資本の蓄積を保証していたわけだがーーーそこに産み出されたのは、人間の《assujettissement》〔服従=主体-化〕に他ならなかった。人間を、語の二重の意味において《sujet》〔臣下=服従した者と主体〕として成立させるという意味においてである」(フーコー「知への意志・P.79」新潮社)
例えば、ヒットラー、スターリン、ルーズベルト、毛沢東。さらに、レーガン、サッチャー、中曽根康弘、等々。後者になればなるほど小物化していくのはマルクスが指摘した「利潤率の傾向的低下の法則」と「増大する絶対的利潤量」との相反傾向がより一層グローバルな広範囲にわたって浸透したことの証明になるだろう。後者では資本に服従する限りで疑似的な「強い父親像」を与えられた種々雑多な権力者が世界中にあふれ出した時期に当たっている。「種々雑多な権力者の世界的蔓延」は「増大する絶対的利潤量」に相当するためその一人一人を見れば「利潤率の傾向的低下」を現わしているように見え、実際にも力の配分が世界中で多岐にわたったため、一人一人の権力者はどれほど「強い父」を気取ろうとしてもその実質は逆に均質化していく傾向を見せつけるほかない。
そして国際社会の上位諸国からだんだん置き去りにされつつある日本では二〇二〇年になってようやく「強い父親」は実をいえば強くもなんともなく、むしろ所持金の多い少ないこそが「強い父親像」を演じるための必要最低条件だったことが暴露されるに至った。さらに、大物政治家と貨幣との深い関係についての追及は、先進諸国の中でいえば日本は随分遅いのである。世界の先進二十ヶ国が集まれば恐らく最も遅いだろう。いったん転げ落ち始めると早い。信じがたい社会へ舞い戻った。なぜ舞い戻るのか。未消化の部分があるからだ。日本の場合、近代を消化しきれないままどさくさ紛れに押し切ったがため、今でも何か社会的変動が起こるたびに、例えば今回の「感染=パンデミック」のような事態が起こるたびに、かつて未消化のまま棚上げしてきた箇所へ不可避的に押し返され「退行する」ほかない。
「以上はひとつの形式的記述であって、母親が子供に対してなぜそうした心理を抱くのかという具体的な点は考察から除外されている。理由を考えるとすれば、いろいろあるだろう。単に子供を持ったということから、自分自身について、また自分と家族の関係について、不安が生じるケースもあるだろう。その子が男であること、また女であることが理由で不安をつのらせる母親もいるだろうし、またその子の誕生日が誰か身内の命日と重なっていることに大きな意味を付与する母親もいるだろう。また家庭内でその子の占める位置が自分の位置と重なることを感じて神経を滅入らせるというケースもあるだろうし、その他の感情的な問題との関わりから、その子を特別視するケースもあるだろう」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)
もっと幾つもの条件を勘案していけば無数と言っていいほど多種多様な様相を呈するとベイトソンはいう。もっともな話だ。しかし多種多様な個々のケースを取り上げれば取り上げるほどどれがダブルバインド状況から生じた症例なのかますますわからなくなるのは言うまでもない。だから差し当たり三つの条件に絞り込んだわけである。またこれらの三つの条件が最も一般的に妥当するのは確かだ。さらに。
「ともかく、右の三つの特徴をもった家庭状況では、分裂症者の母親は、少なくとも二つの等級にまたがったメッセージを発しつづけている、とわれわれは考える。議論を簡単にするため、ここでは等級を二つだけに限定しておこう。その二つとは、大まかに、次のようにまとめることができる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302』新思索社)
「aー子供が彼女に近づくたびに生じる敵意に満ちた、あるいは子供から身を遠ざけるような行動。
bー彼女の敵意に満ちた、子供から身を引くような行動を、子供がそのまま受け止めたとき、自分が子供を避けていることを否定するためにとられる、愛の装い、あるいは子供へ近寄っていくそぶり」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302』新思索社)
このような母親の両義的な矛盾した態度について気づいていたのは何もニーチェだけでなく、それ以前にヘーゲルが指摘していた。その結果、子供の精神においてもたらされる統一を得ることのない「不幸な意識」という言い回しで。
「ここで彼女の問題は、自分の不安を、子供との距離の調節によって制御しているという点にある。言い換えればこういうことだ。子供に愛情のこもった親密な気持ちを抱き始めた瞬間、母親は危機を感じ、その子から身を引かなければならなくなる。ところが彼女はそうした“敵対的”な行動を受け入れることができず、それを否定するために、子供に対して愛情あふれる親密さを装うことになる。重要なのは、そのときの母親の子供に対する優しいそぶりが、敵対的な行動の埋め合わせをするという点で、後者に対するコメントになっているというところだ。すなわちここで『愛』のメッセージは、『敵意』のメッセージに《ついて》言及するメッセージになっている。両者は《メッセージの等級を異にする》。と同時に、この高次のメッセージは、その言及対象である低次のメッセージ(敵対者に身を引く態度)の存在を否定するものである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302』新思索社)
ベイトソンのいう「《メッセージの等級を異にする》」態度が同時に発せられダブルバインド状況が作り上げられるとき、当事者の間でどのような事態が生じるかについて、マルクスもまた次のような形で気づいていた人々の一人である。
「キリスト教国家は、みずからを《国家として》完成するために、キリスト教を必要としている。民主的な国家、現実的な国家は、みずからの政治的完成のために、宗教を必要としない。この国家はむしろ宗教を度外視することができる。というのは、この国家においては、宗教の人間的基礎が現世的なかたちで仕上げられているからである。それとは反対に、いわゆるキリスト教国家は、宗教に対しては政治的な態度を、政治に対しては宗教的な態度を、とるのである。この国家は、国家諸形態を見せかけのものに引きおとすが、それと同様に、宗教をも見せかけのものに引きおとす」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.30~31』岩波文庫)
次の部分では「解決できない葛藤におちいる」という言葉が見られる。
「国家が『守っていないばかりか、《国家が国家として完全に解体してしまう意思がない以上は、けっして守ることができない》』ような福音書の言葉が引き合いにだされるとき、この国家も、その基礎となっている《塵のような人間たち》も、宗教的意識の立場からは克服することができない痛ましい矛盾におちいることになる。では、なぜ国家は完全に解体してしまう意思をもたないのであろうか?国家自身このことについて、自分にも他人にも答えることができない。この国家《自身の意識》にとっては、公式のキリスト教国家は、実現不可能な《当為》なのであり、ただ自分自身を欺瞞することによってしかその存在の《現実性》を確かめることができず、それゆえに国家自身にとって、つねに疑惑の対象に、あてにならず、いかがわしい対象にとどまっている。したがって、批判が聖書に根拠を求める国家を強制して意識の錯乱におちいらせ、もはや国家自身、自分が《空想されたもの》か《現実のもの》か判らないようにして、宗教の仮面をかぶっている国家の《現世的》諸目的の醜悪さと、宗教を現世の目的と思っている国家の《宗教的》意識の高潔さとが、解決できない葛藤におちいるようにさせるとき、この批判はまったく正当なのである」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.33~34』岩波文庫)
さらにエンゲルスは国家と個人との関係についてこう述べる。
「国家はけっして外部から社会におしつけられた権力ではない。同様にそれは、ヘーゲルの主張するような、『人倫的理念が現実化したもの』でも『理性が形象化し現実化したもの』でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決しえない矛盾にまきこまれ、自分ではらいのける力のない、和解しえない諸対立に分裂したことの告白である。ところで、これらの諸対立が、すなわち相対抗する経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会をほろぼさないためには、外見上社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』のわくのなかにたもつべき権力が必要となった。そして、社会からうまれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」(エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源・P.221」国民文庫)
そして犠牲者はいつも一般市民(羊、家畜、子供)である。ところでマルクスがそのようなダブルバインド状況において出現してくる上位者に特徴的な「見せかけ」という態度について述べている点はたいへん重要である。近現代を貫いて、とりわけ戦後に入って顕著になった点だが、それはオリジナルなものの消滅ということではもはやない。ありとあらゆるものが商品化される資本主義社会においてオリジナルなものはすでに存在せずすべては「見せかけ(シミュラクル)」となっていて、「オリジナル(起源)/見せかけ(シミュラクル)」という区別は判断不可能となり、この種の問いが遂に無効化したという極めて今日的な社会状況についての言及となっていることに注目したい。
「シミュラクルは、劣化したコピーではなく、《オリジナルとコピー》、《モデルと再現を》否定する積極的な力能を隠匿している。シミュラクルに内在化される少なくとも二つのセリーについて、どちらかをオリジナルやコピーとして指定することはできない。<他なるもの>のモデルを呼び出しても足りない。どんなモデルもシミュラクルの眩暈には抗えないからである。あらゆる観点に共通の対象がないように、特権的な観点もない。階層も可能ではない。二番目もなく、三番目もなくーーー類似性は存続しているが、類似性は、発散するセリーがシミュラクルを構築してシミュラクルを共鳴させる分だけ、シミュラクルの外部効果として生産される。同一性は存続しているが、同一性は、あらゆるセリーを巻き込んで強制運動の際に各セリーを各セリーに回帰させる法則として生産される。プラトニズムが転倒されると、類似性は内化された差異について語られ、同一性は一次的力能としての<差異あるもの>について語られるのである。同と同類の本質は、《見せかけ》であること、言いかえるなら、シミュラクルの作動を表現すること以外ではない。もはや選別は可能ではない。階層化されない作品は、共存の縮約、出来事の同時性である。これは、偽の請求者の勝利である。偽の請求者は、仮面を重ねて、父の振り、求婚者の振り、婚約者の振りをする。しかし、偽の請求者について、真理と想定されるモデルに比して偽と語ることはできないし、シミュレーションについて仮象・錯覚と語ることはできない。シミュレーションは幻想そのものである。言いかえるなら、機械設備、ディオニュソス的な機械としてのシミュラクルの作動の効果である。眼目は、力能としての偽、ニーチェが偽の最高の力と語る意味でのプセウドス〔=偽〕である。表面に上昇して、シミュラクルは、<同>と<相似>、モデルとコピーを偽の力能(幻想)の下に置く。シミュラクルは、分有の秩序、配分の固定、階層の決定を不可能にする。シミュラクルはノマド的配分と戴冠せるアナーキーの世界を創設する。シミュラクルは新たな基礎であるどころか、シミュラクルはすべての基礎を呑み込む。シミュラクルは、全般的基礎崩壊を確かなものにするが、それを、肯定的で喜ばしい出来事として、《脱基礎化》として行なう。『各洞窟の背後には、もっと深い別の洞窟が開けている。各地面の下には、もっと巨大で奇妙で豊かな地下世界が開けている。あらゆる地底の下に、あらゆる基礎の下に、もっと深い深奥が開かれている』」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.148~150」河出文庫)
ニーチェからの引用部分。「各洞窟の背後には〜」について。
「隠遁者の著作のうちには、常に何かしら荒野の谺(こだま)のようなもの、孤独の囁(ささや)きと自分の周囲を物怖(ものお)じしながら見廻す眼のようなものが開かれる。彼の極めて強い言葉から、彼の叫びそのものから、なお一種の新しい、より危険な種類の沈黙が響き出る。年々歳々、そして昼も夜も、ひとり自分の魂とのみ対座して親しく係争し対話して来た者が、自分の洞窟ーーーそれは迷宮でもあれば、金抗でもありうるーーーのうちで穴熊か宝掘りか宝守(も)りか竜になった者、ーーーこういう者の概念そのものは、ついに或る固有の薄明の色調を帯び、深所と黴(かび)の臭いを放ち、傍(そば)を通り過ぎるあらゆる人々に冷たく吹きつける何か打ち明けがたいものと嫌悪すべきものをもっている。隠遁者は、かつて哲学者ーーー哲学者は常にまず隠遁者であったとすればーーーが自己の本来の究極の意見を著書のうちに表現した、とは信じない。自分のうちに秘めていることを隠すためにこそ書物が書かれるのではないか。ーーー実に彼はこう疑うであろう。およそ哲学者は『究極的かつ本来的な』意見をもち《うる》か、彼にあってはあらゆる洞窟の背後になお一層深い洞窟が存し、存しなければならないのではないか、ーーー皮相的なものを越えた一つのより広汎な未知の豊かな世界があり、あらゆる根拠の背後に、あらゆる『根拠づけ』の背後に一つの深淵があるのではないか、と。あらゆる哲学は一つの前景の哲学であるーーーこれが隠遁者の判断である。すなわち、『哲学者が《ここ》で立ち停(ど)まり、後を振り返り、周囲を見廻したということ、彼が《ここ》で更に一層深く掘り下げず、鋤(すき)を棄てたということには、何かしら恣意的なものがある、ーーーこれには何となく不信なものさえある』と。あらゆる哲学は更に一つの哲学を《隠している》。あらゆる意見もまた一つの隠れ場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二八九・P.301~302」岩波文庫)
もはやすべては仮面である。さらに「なお一層深い洞窟」へ、「より広汎な未知の豊かな世界」へ、どんどん掘り下げていくとすればどういうことになるだろうか。
「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)
ドゥルーズのいうように「シミュラクルは、分有の秩序、配分の固定、階層の決定を不可能にする」。ダブルバインドをただ単なる悲劇的状況として捉えればそうなる。統合失調者の中でも解体型に顕著なように、実にしばしば文脈にそった論理階梯を無視することでかろうじて生きていく戦略を選択するほかない。けれどもドゥルーズはここでニーチェのいう「運命愛」概念を導入することで危機を逆に悦ばしき「チャンス」として捉えることも忘れていない。
「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・下巻・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)
全的肯定の態度。といってもそれは漫然としたものではけっしてなく、当然のことながら、生の各瞬間において「然り、然り、然りーーー」と積極的に引き受ける態度である。危険なニヒリズムに陥らないために。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)
作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。
「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)
さらに。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
ベイトソンは分裂症を育む家庭状況について一般的特徴を三つ上げる。形式的過ぎるように見えるかもしれないが、それについてはすぐ後で説明がある。まず特徴的な三点について見ておくことが大事だ。
「1 そこには、母からの愛を感じて近寄っていくと母が不安から身を引いてしまう、そういう母親をもつ子がいる。つまり、子の存在が母親にとって特別の意味をもち、子との親密な場に引き入れられそうになると母親の中に不安と敵意が起こるという状況がある」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)
家庭という場を通して母親に与えられた役割が過剰だった時代、多かれ少なかれこのような傾向はどこにでも見られた。フーコーは十九世紀になって出現した性的欲望の装置の中で女性の身体について或る意味付けがなされた点に注目している。
「《女の身体のヒステリー化》」(フーコー「知への意志・P.134」新潮社)
どういうことだろうか。要約すると、「女の身体」が問題視されるのは第一に社会の《生産性》にとってである。女性はいつも《順調な繁殖力を維持しているべき》だとする社会規範が出現したのは太古の大昔のエピソードではない。逆に資本主義的生産様式が定着してくる過程で発生してきたまったく最近の、ここ二百年ばかりのうちに発生した産物でしかない。それが世界的規模で拡張されたときこの産物はすでに《神話》の次元にまでのぼりつめていた。さらに生物学的見地から、子供は女性の身体から生み出されるものなので、子供への道徳的責任と安全保証は女性の役割であるという見解がすべての異論を排除する形で固定化される。そして家族という空間の基礎的機能を根底から担う存在として規定される。この時点で発生したのが《母性》というものであり、ニーチェの言葉を借りれば世界的規模での「でっち上げ」が完成したのである。だからヒステリーは健康な女性のネガティヴな姿として、否定的なものとして、「健康な女性」という《神話》と同時に出現し、「健康な女性」というポジティヴな《神話》を支えるネガティヴな役割を与えられるとともに一種の「狂気」とされるに至る。ところがこの構造は構造自体の作用によって、理性は狂気の支えなしに存在しないという事情を覆い隠してしまう。だからといって、女性はただ単に子供を産めば良いということではない。それは資本主義の生成期において妥当する事情ではあっても、テクノロジーの高度化によって剰余価値の増殖が可能になった以上、ますます可能になっていく以上、ただ単に子どもばかり生まれてしまっては逆に国家は困惑することになる。問題は、産児制限したり逆に産児制限を抑制したりといった、人間の身体を《調整する》ことにある。生殖装置としての婚姻は労働力商品の再生産でもあるが、他方、性的欲望の装置は生殖とは関係のない性的欲望を増殖させ、それを質的にも量的にも測定し様々に分類し情報化し管理社会の実験的強化に資する。だからフーコーは「性的欲望の解放」とは呼ばず「性的欲望の装置」と呼ぶのだ。そのための身体の計測であり、中央集権的管理領域の無限の増殖強化に供される身体なのである。増殖する性的欲望を《欲望する管理》があるのだ。
子供たちの安全保障として制度化された女性の立場。母親が子供とその接近に対して感じる危機感はこの「死を賭しても子供を守らなければならない」という安全保障=軍事的防波堤として配分された社会的立場の重圧からもたらされる。
「2 そこには、わが子に対して不安や敵意を持っていることができない母親がいる。彼女はそうした感情を否定するために、子供を愛していることを強調する行動を子供の前でとる。そしてそのとき子供から返ってくる反応が、自分を愛情に満ちた母親として見るものでない場合、彼女はその場から身を引いてしまう。ここで『愛を強調する行動』とは、必ずしも『優しさを示す行動』を意味しない。子供を『いい子にしつける』ための『適切な』行動も、そのなかに含まれる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)
「しつけ」という問い。親子関係をその最小単位とする現代社会では親と子との関係はいつも「儀式としての試験」を通して、「監視する側/監視される側」という対立する両極へ分裂して置かれているという事実。しかしまた監視する側は原則的に目に見える人物であってはならない。母親の姿は見えていても親子関係の順調性について常に問いただすことを怠らない《機能》(役割)としては不可視でなくてはならない。規律・訓練型社会における「試験」の意味についてフーコーはいう。
「規律・訓練的な権力のほうは、自分を不可視にすることで、自らを行使するのであって、しかも反対に、自分が服従させる当の相手の者には、可視性の義務の原則を強制する。規律・訓練では、見られるべきものは、こうした当の相手(部下であり、受験生である)のほうである。彼らに行使される権力の支配は、彼らを明るみに出すことで確保される。規律・訓練における個人を服従強制(臣民化、主体化でもある)の状態に保つのは、実は、たえず見られているという事態、つねに見られる可能性があるという事態である。しかも試験とは、権力が自らの強さの表徴を明らかにするかわりに、また自らの標識を当の相手〔=主体〕に押しつけるかわりに、ある客体化の機制のなかで当の相手をつかまえる場合の、そうした技術である」(フーコー「監獄の誕生・P.190」新潮社)
さらに、どのような方法で家庭は社会的最小単位の理念型として今なお起動しているのか。ドゥルーズ=ガタリはいう。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.151~152」河出書房新社)
ベイトソンに戻ろう。「父親」が登場する。
「3 そこには、母子関係の間に割り込み、矛盾のしがらみに捉えられた子供の支えになるような存在ーーー洞察力のある強い父親などーーーがいない」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)
というわけだがもはや「強い父親」というものは《いない》。もうどこにもいない。現代社会ではこの認識が余りにもなさ過ぎる。「神の死」を宣告したのはニーチェだが、それ以前すでに「強い父親」というものは死んでいた。失われていた。資本主義は資本以上に強力な存在者の出現を決して許さない社会であり、いないからこそ、十八世紀末から二十世紀いっぱいを通してあれほど代わる代わる「強い父親」を演じようとする人々が大量発生したのだ。強いかどうかは別にして、ただ、資本に服従する限りでなら、主体として認められる余地が与えられた。
「権力についての全く転倒したイメージを抱かない限りは、我々の文明においてあれほど久しい以前から、自分が何者であるのか、自分が何をしたのか、自分が何を覚えているのか、何を忘れたのか、隠しているもの、隠れているもの、考えも及ばないもの、考えなかったと考えるもの、こういうすべてが何かを語れという途方もない要請を執拗に繰り返すあれらすべての声が、我々に自由を語っているなどとは考えられないはずだ。西洋世界が幾世代もの人間をそれに従事させた、産出するための厖大な工事でありーーーその間に、他の形の作業が資本の蓄積を保証していたわけだがーーーそこに産み出されたのは、人間の《assujettissement》〔服従=主体-化〕に他ならなかった。人間を、語の二重の意味において《sujet》〔臣下=服従した者と主体〕として成立させるという意味においてである」(フーコー「知への意志・P.79」新潮社)
例えば、ヒットラー、スターリン、ルーズベルト、毛沢東。さらに、レーガン、サッチャー、中曽根康弘、等々。後者になればなるほど小物化していくのはマルクスが指摘した「利潤率の傾向的低下の法則」と「増大する絶対的利潤量」との相反傾向がより一層グローバルな広範囲にわたって浸透したことの証明になるだろう。後者では資本に服従する限りで疑似的な「強い父親像」を与えられた種々雑多な権力者が世界中にあふれ出した時期に当たっている。「種々雑多な権力者の世界的蔓延」は「増大する絶対的利潤量」に相当するためその一人一人を見れば「利潤率の傾向的低下」を現わしているように見え、実際にも力の配分が世界中で多岐にわたったため、一人一人の権力者はどれほど「強い父」を気取ろうとしてもその実質は逆に均質化していく傾向を見せつけるほかない。
そして国際社会の上位諸国からだんだん置き去りにされつつある日本では二〇二〇年になってようやく「強い父親」は実をいえば強くもなんともなく、むしろ所持金の多い少ないこそが「強い父親像」を演じるための必要最低条件だったことが暴露されるに至った。さらに、大物政治家と貨幣との深い関係についての追及は、先進諸国の中でいえば日本は随分遅いのである。世界の先進二十ヶ国が集まれば恐らく最も遅いだろう。いったん転げ落ち始めると早い。信じがたい社会へ舞い戻った。なぜ舞い戻るのか。未消化の部分があるからだ。日本の場合、近代を消化しきれないままどさくさ紛れに押し切ったがため、今でも何か社会的変動が起こるたびに、例えば今回の「感染=パンデミック」のような事態が起こるたびに、かつて未消化のまま棚上げしてきた箇所へ不可避的に押し返され「退行する」ほかない。
「以上はひとつの形式的記述であって、母親が子供に対してなぜそうした心理を抱くのかという具体的な点は考察から除外されている。理由を考えるとすれば、いろいろあるだろう。単に子供を持ったということから、自分自身について、また自分と家族の関係について、不安が生じるケースもあるだろう。その子が男であること、また女であることが理由で不安をつのらせる母親もいるだろうし、またその子の誕生日が誰か身内の命日と重なっていることに大きな意味を付与する母親もいるだろう。また家庭内でその子の占める位置が自分の位置と重なることを感じて神経を滅入らせるというケースもあるだろうし、その他の感情的な問題との関わりから、その子を特別視するケースもあるだろう」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)
もっと幾つもの条件を勘案していけば無数と言っていいほど多種多様な様相を呈するとベイトソンはいう。もっともな話だ。しかし多種多様な個々のケースを取り上げれば取り上げるほどどれがダブルバインド状況から生じた症例なのかますますわからなくなるのは言うまでもない。だから差し当たり三つの条件に絞り込んだわけである。またこれらの三つの条件が最も一般的に妥当するのは確かだ。さらに。
「ともかく、右の三つの特徴をもった家庭状況では、分裂症者の母親は、少なくとも二つの等級にまたがったメッセージを発しつづけている、とわれわれは考える。議論を簡単にするため、ここでは等級を二つだけに限定しておこう。その二つとは、大まかに、次のようにまとめることができる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302』新思索社)
「aー子供が彼女に近づくたびに生じる敵意に満ちた、あるいは子供から身を遠ざけるような行動。
bー彼女の敵意に満ちた、子供から身を引くような行動を、子供がそのまま受け止めたとき、自分が子供を避けていることを否定するためにとられる、愛の装い、あるいは子供へ近寄っていくそぶり」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302』新思索社)
このような母親の両義的な矛盾した態度について気づいていたのは何もニーチェだけでなく、それ以前にヘーゲルが指摘していた。その結果、子供の精神においてもたらされる統一を得ることのない「不幸な意識」という言い回しで。
「ここで彼女の問題は、自分の不安を、子供との距離の調節によって制御しているという点にある。言い換えればこういうことだ。子供に愛情のこもった親密な気持ちを抱き始めた瞬間、母親は危機を感じ、その子から身を引かなければならなくなる。ところが彼女はそうした“敵対的”な行動を受け入れることができず、それを否定するために、子供に対して愛情あふれる親密さを装うことになる。重要なのは、そのときの母親の子供に対する優しいそぶりが、敵対的な行動の埋め合わせをするという点で、後者に対するコメントになっているというところだ。すなわちここで『愛』のメッセージは、『敵意』のメッセージに《ついて》言及するメッセージになっている。両者は《メッセージの等級を異にする》。と同時に、この高次のメッセージは、その言及対象である低次のメッセージ(敵対者に身を引く態度)の存在を否定するものである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302』新思索社)
ベイトソンのいう「《メッセージの等級を異にする》」態度が同時に発せられダブルバインド状況が作り上げられるとき、当事者の間でどのような事態が生じるかについて、マルクスもまた次のような形で気づいていた人々の一人である。
「キリスト教国家は、みずからを《国家として》完成するために、キリスト教を必要としている。民主的な国家、現実的な国家は、みずからの政治的完成のために、宗教を必要としない。この国家はむしろ宗教を度外視することができる。というのは、この国家においては、宗教の人間的基礎が現世的なかたちで仕上げられているからである。それとは反対に、いわゆるキリスト教国家は、宗教に対しては政治的な態度を、政治に対しては宗教的な態度を、とるのである。この国家は、国家諸形態を見せかけのものに引きおとすが、それと同様に、宗教をも見せかけのものに引きおとす」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.30~31』岩波文庫)
次の部分では「解決できない葛藤におちいる」という言葉が見られる。
「国家が『守っていないばかりか、《国家が国家として完全に解体してしまう意思がない以上は、けっして守ることができない》』ような福音書の言葉が引き合いにだされるとき、この国家も、その基礎となっている《塵のような人間たち》も、宗教的意識の立場からは克服することができない痛ましい矛盾におちいることになる。では、なぜ国家は完全に解体してしまう意思をもたないのであろうか?国家自身このことについて、自分にも他人にも答えることができない。この国家《自身の意識》にとっては、公式のキリスト教国家は、実現不可能な《当為》なのであり、ただ自分自身を欺瞞することによってしかその存在の《現実性》を確かめることができず、それゆえに国家自身にとって、つねに疑惑の対象に、あてにならず、いかがわしい対象にとどまっている。したがって、批判が聖書に根拠を求める国家を強制して意識の錯乱におちいらせ、もはや国家自身、自分が《空想されたもの》か《現実のもの》か判らないようにして、宗教の仮面をかぶっている国家の《現世的》諸目的の醜悪さと、宗教を現世の目的と思っている国家の《宗教的》意識の高潔さとが、解決できない葛藤におちいるようにさせるとき、この批判はまったく正当なのである」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.33~34』岩波文庫)
さらにエンゲルスは国家と個人との関係についてこう述べる。
「国家はけっして外部から社会におしつけられた権力ではない。同様にそれは、ヘーゲルの主張するような、『人倫的理念が現実化したもの』でも『理性が形象化し現実化したもの』でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決しえない矛盾にまきこまれ、自分ではらいのける力のない、和解しえない諸対立に分裂したことの告白である。ところで、これらの諸対立が、すなわち相対抗する経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会をほろぼさないためには、外見上社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』のわくのなかにたもつべき権力が必要となった。そして、社会からうまれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」(エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源・P.221」国民文庫)
そして犠牲者はいつも一般市民(羊、家畜、子供)である。ところでマルクスがそのようなダブルバインド状況において出現してくる上位者に特徴的な「見せかけ」という態度について述べている点はたいへん重要である。近現代を貫いて、とりわけ戦後に入って顕著になった点だが、それはオリジナルなものの消滅ということではもはやない。ありとあらゆるものが商品化される資本主義社会においてオリジナルなものはすでに存在せずすべては「見せかけ(シミュラクル)」となっていて、「オリジナル(起源)/見せかけ(シミュラクル)」という区別は判断不可能となり、この種の問いが遂に無効化したという極めて今日的な社会状況についての言及となっていることに注目したい。
「シミュラクルは、劣化したコピーではなく、《オリジナルとコピー》、《モデルと再現を》否定する積極的な力能を隠匿している。シミュラクルに内在化される少なくとも二つのセリーについて、どちらかをオリジナルやコピーとして指定することはできない。<他なるもの>のモデルを呼び出しても足りない。どんなモデルもシミュラクルの眩暈には抗えないからである。あらゆる観点に共通の対象がないように、特権的な観点もない。階層も可能ではない。二番目もなく、三番目もなくーーー類似性は存続しているが、類似性は、発散するセリーがシミュラクルを構築してシミュラクルを共鳴させる分だけ、シミュラクルの外部効果として生産される。同一性は存続しているが、同一性は、あらゆるセリーを巻き込んで強制運動の際に各セリーを各セリーに回帰させる法則として生産される。プラトニズムが転倒されると、類似性は内化された差異について語られ、同一性は一次的力能としての<差異あるもの>について語られるのである。同と同類の本質は、《見せかけ》であること、言いかえるなら、シミュラクルの作動を表現すること以外ではない。もはや選別は可能ではない。階層化されない作品は、共存の縮約、出来事の同時性である。これは、偽の請求者の勝利である。偽の請求者は、仮面を重ねて、父の振り、求婚者の振り、婚約者の振りをする。しかし、偽の請求者について、真理と想定されるモデルに比して偽と語ることはできないし、シミュレーションについて仮象・錯覚と語ることはできない。シミュレーションは幻想そのものである。言いかえるなら、機械設備、ディオニュソス的な機械としてのシミュラクルの作動の効果である。眼目は、力能としての偽、ニーチェが偽の最高の力と語る意味でのプセウドス〔=偽〕である。表面に上昇して、シミュラクルは、<同>と<相似>、モデルとコピーを偽の力能(幻想)の下に置く。シミュラクルは、分有の秩序、配分の固定、階層の決定を不可能にする。シミュラクルはノマド的配分と戴冠せるアナーキーの世界を創設する。シミュラクルは新たな基礎であるどころか、シミュラクルはすべての基礎を呑み込む。シミュラクルは、全般的基礎崩壊を確かなものにするが、それを、肯定的で喜ばしい出来事として、《脱基礎化》として行なう。『各洞窟の背後には、もっと深い別の洞窟が開けている。各地面の下には、もっと巨大で奇妙で豊かな地下世界が開けている。あらゆる地底の下に、あらゆる基礎の下に、もっと深い深奥が開かれている』」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.148~150」河出文庫)
ニーチェからの引用部分。「各洞窟の背後には〜」について。
「隠遁者の著作のうちには、常に何かしら荒野の谺(こだま)のようなもの、孤独の囁(ささや)きと自分の周囲を物怖(ものお)じしながら見廻す眼のようなものが開かれる。彼の極めて強い言葉から、彼の叫びそのものから、なお一種の新しい、より危険な種類の沈黙が響き出る。年々歳々、そして昼も夜も、ひとり自分の魂とのみ対座して親しく係争し対話して来た者が、自分の洞窟ーーーそれは迷宮でもあれば、金抗でもありうるーーーのうちで穴熊か宝掘りか宝守(も)りか竜になった者、ーーーこういう者の概念そのものは、ついに或る固有の薄明の色調を帯び、深所と黴(かび)の臭いを放ち、傍(そば)を通り過ぎるあらゆる人々に冷たく吹きつける何か打ち明けがたいものと嫌悪すべきものをもっている。隠遁者は、かつて哲学者ーーー哲学者は常にまず隠遁者であったとすればーーーが自己の本来の究極の意見を著書のうちに表現した、とは信じない。自分のうちに秘めていることを隠すためにこそ書物が書かれるのではないか。ーーー実に彼はこう疑うであろう。およそ哲学者は『究極的かつ本来的な』意見をもち《うる》か、彼にあってはあらゆる洞窟の背後になお一層深い洞窟が存し、存しなければならないのではないか、ーーー皮相的なものを越えた一つのより広汎な未知の豊かな世界があり、あらゆる根拠の背後に、あらゆる『根拠づけ』の背後に一つの深淵があるのではないか、と。あらゆる哲学は一つの前景の哲学であるーーーこれが隠遁者の判断である。すなわち、『哲学者が《ここ》で立ち停(ど)まり、後を振り返り、周囲を見廻したということ、彼が《ここ》で更に一層深く掘り下げず、鋤(すき)を棄てたということには、何かしら恣意的なものがある、ーーーこれには何となく不信なものさえある』と。あらゆる哲学は更に一つの哲学を《隠している》。あらゆる意見もまた一つの隠れ場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二八九・P.301~302」岩波文庫)
もはやすべては仮面である。さらに「なお一層深い洞窟」へ、「より広汎な未知の豊かな世界」へ、どんどん掘り下げていくとすればどういうことになるだろうか。
「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)
ドゥルーズのいうように「シミュラクルは、分有の秩序、配分の固定、階層の決定を不可能にする」。ダブルバインドをただ単なる悲劇的状況として捉えればそうなる。統合失調者の中でも解体型に顕著なように、実にしばしば文脈にそった論理階梯を無視することでかろうじて生きていく戦略を選択するほかない。けれどもドゥルーズはここでニーチェのいう「運命愛」概念を導入することで危機を逆に悦ばしき「チャンス」として捉えることも忘れていない。
「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・下巻・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)
全的肯定の態度。といってもそれは漫然としたものではけっしてなく、当然のことながら、生の各瞬間において「然り、然り、然りーーー」と積極的に引き受ける態度である。危険なニヒリズムに陥らないために。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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