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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/延長された童児の寿命

2021年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

唐の玄宗(ぐゑんそう)の時代、開元(七一三年〜七四一年)の末頃、一人の相師(うらのし)=占い師がいた。人の寿命をぴたりと的中させることで有名だった。この相師(うらのし)が資聖寺(ししやうじ)という寺にいた時、寺の門の外から人の声が聞こえてきた。その声からするとその寿命はもう今日を残すばかりと判別できた。どきっとしつつ急いで門の外を見ると声の主は一人の童児。容姿はどこか神秘的に思えるほど端正な美童でもある。

「相師(うらのし)、資聖寺(ししやうじ)ト云フ寺ノ門ノ内ニ有(あり)テ聞クニ、門ノ外(ほか)ニ人ノ音(こゑ)有リ。其ノ音(こゑ)、只今日許(ばかり)ノ命有リ。即チ、相師驚(おどろき)テ、怱(いそ)ギ出(い)デテ見ルニ、一人ノ童児(どうに)有リ。形㒵端正(ぎやうめんたんじやう)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十八・P.90」岩波書店)

資聖寺は今の中国浙江省寧波市・雪寶山(せっちょうざん)資聖寺(ししょうじ)。相師は外に出てみるとまだ童子というにふさわしい少年。声をかけて年齢を尋ねた。少年は答える。「十三歳です」。相師は慈悲心の深い人物だったが、むしろそれゆえ、あどけなさの残る少年の顔を見ると相手の寿命が今日までとはとても口にできず、そのまま門の中へ戻るほか思いつかなかった。

「相師、此レヲ見テ問(とひ)テ云(いは)ク、『汝(なむぢ)ガ年幾ラゾ』ト。童児答(こたへ)テ云(いはく)、『年十三也』ト。相師、哀ミノ心深シト云ヘドモ、云フ事無クシテ門ノ内ニ入(いり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十八・P.90」岩波書店)

翌日、寺の近くで昨日見た童児に再び出会った。そしてその顔相を見ると寿命が延びて七十歳と出ている。

「明(あく)ル日、其ノ辺(ほとり)ニシテ彼ノ童児(どうに)ニ値(あひ)ヌ。其ノ年既ニ延(のび)テ七十余也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十八・P.90」岩波書店)

まずあり得ない事態。稀に見る変容なので相師は少年に向かい、何か自分のためにも他人のためにも成就するような良きことをした覚えがないかと尋ねてみた。同時に、実を言うとそなたの寿命は昨日限りと出ていたのだが、としゃべってしまった。

「昨日、汝(なむぢ)ヲ見シニ、命亦昨日許(ばかり)也キ。今日見ルニ、命既ニ七十余也。何(いか)ナル善根(ぜんごん)有(あり)テ、命ヲ延ベタルゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十八・P.90」岩波書店)

少年は特別なことなんて何一つしていないし善根といわれてもそもそも善根の意味を知らないので何とも覚えはないという。「ただ昨夜、僧房で宿泊させてもらったところ、お坊さんが寿命経(金剛寿命陀羅尼経)を読誦する声を聞いていました。それ以外に何かあったかと言われてもまったく思いつかないとしか言いようがありません」とのこと。

「我レ、今夜(こよひ)僧房(そうばう)ニ寄宿シタリツ。而(しか)ルニ、僧有(あり)テ、寿命経(じゆみやうきやう)ヲ転読(てんどく)スルヲ聞キツ。更ニ其ノ外(ほか)ノ事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十八・P.90」岩波書店)

相師は心の中で「それだな」と思い、仏の智というものは占いなどではわからないことがまだまだあるのだろうと感慨にふけりながらその場を立ち去った。

さて。古代から江戸時代一杯を通して卜占(うらない)は主に陰陽師の専業のようなものだった。しかし陰陽道の教えとはまた別に、寿命のように伸び縮みするものはもっと他にある。そもそも金銭を介した交換関係に基づく利子がそうだ。古代中国だけでなく古代ギリシアやヨーロッパのように交換体系が早く確立された地域では増大したり減少したりするものの代表的なものといえば何をおいても利子だった。資本主義という制度が確立されるのは近代に入ってからだが、ヨーロッパではその頃すでに登場する人物や物体が突然巨大化したり逆に収縮したりする多くの小説が出現していた。「ガリバー旅行記」はその典型といえる。しかしドイツなどでも様々なバリエーションが見られる。例えばハウフ「盗賊の森の一夜」では、深い森の中で一夜を過ごすことになった何人かの職人や学生らが順番に自分の手持ちの物語を語っていく。単純に読めばメルヘンのようなものだが他の一般的なメルヘンとは異なる顕著な特徴が見られる。

「ペーターが言い終わるか終わらないうちに、ガラス職人の小人はむくむくと大きくなって、目はスープ皿ほどにも大きくなり、口は熱したパン焼き窯のようになって、炎を吐き出した。ペーターはぱったりとひざまずいた。さしもの石の心臓も、体がポプラの葉のようにわなわなふるえてくるのをどうしようもなかった」(ハウフ「盗賊の森の一夜・P.277」岩波文庫)

さらに死者の心臓の保管場所があったりする。死者の心臓なので動くはずはない。にもかかわらず再び動き出すシーン。

「ミヒェルはどんどんちいさくなって倒れ伏した。芋虫のようにころげまわり、うなり声をあげている。すると、ミヒェルを取り巻く心臓という心臓がぴくぴくと動き出し、どっきんどっきんと脈搏ちはじめた。時計職人の仕事場さながらの音があたりを満たす。ペーターは恐ろしくなった。ぞっとして、手前の部屋へ、家の外へと走り出た」(ハウフ「盗賊の森の一夜・P.288」岩波文庫)

生命保険を例に取ると、最初は掛け捨てで契約したものが次には次元を置き換えて生きた掛け金での契約に転化したに等しい。時間が経てば経つほど借金の額が増えていくという考えは古代ギリシアの昔からあった。伸び縮みするもの。それはニーチェのいうように債権・債務の意識はそもそも交換・取引・売買・交易の習慣から生じたに違いない。そしてそれは小林秀雄がマルクス=エンゲルスから引用しているようにノアの方舟以前からあった。

「交換価値はノアの洪水以前からある。だから意識にとっては、ーーーしかも哲学的意識は、概念する思考が実際の人間であり、したがって概念された世界そのものこそがはじめて実際の世界である、というように規定されている、ーーー諸カテゴリーの運動が実際の生産行為ーーー残念ながらそれは刺戟だけは外部からうけるーーーとしてあらわれ、その結果が世界なのである、そしてこのことは、ーーーこれもまた同義反復ではあるがーーー具体的な総体が、思考された総体として、ひとつの思考された具体物として、in fact《事実上》思考の、概念作用の産物であるかぎりでは正しい、しかしそれは、けっして直観と表象とのそとで、あるいはまたそれらをこえて思考して自分自身をうみだす概念の産物ではなくて、直観と表象とを概念へ加工することの産物なのである。あたまのなかに思考された全体としてあらわれる全体は、思考するあたまの産物である、そしてこのあたまは自分だけにできる仕方で世界をわがものにするが、その仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的・精神的にわがものにする仕方とはちがうひとつの仕方である。現実の主体は、いままでどおりあたまのそとがわに、その自立性をたもちつつ存在しつづける、つまり、あたまがただ思弁的にだけ、ただ理論的にだけふるまうかぎり、そうなるのである。だから理論的方法においてもまた、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなければならない」(マルクス「経済学批判序説」『経済学批判・P.311~314』岩波文庫)

また、占いに関して重要なのは、それが当たる当たらないという賭博的な次元にあるのではない。占いは占い師が古代ギリシアのテイレシアスのように盲目であろうとなかろうと《言語》によってしか伝達することができないという物質的条件に拘束されている点にある。日本近代文学でも漱石「彼岸過迄」の敬太郎は占いなど信じていない典型的近代人。ところが占い師のところへ行く場面がある。

「さあ一生涯(いっしょうがい)のことを一度に聞いておいても損はないが、それよりか今ここでどうしたら可(よ)いか、そのほうを極(き)めて懸(かか)るほうが僕にはたいせつらしいから、まあそれをひとつ願おう」(夏目漱石「彼岸過迄・停留所・P.83」角川文庫)

こうして言葉を持って帰り、金銭と交換に、結果へ直進する代わりに遠回りする口実を手に入れて帰宅する。東京の街路をうろうろするばかりである。占い師の言葉の中に敬太郎が求めているのはどこまでも引き伸ばし可能な事情の猶予=未決であり、逆に、ともすれば直面してしまうかもしれない事態の結果=決済ではない。或る種の恋愛関係を巡って延々と決済を引き伸ばすことができる理由を、他人の言葉を借りて代弁させようとする。占い師に未来の予測を求めるのではなく逆に迂回の口実として《言語》を手にするのだ。

さらに江戸時代末に書かれた奇談怪談集「伽婢子」を見ると、占い師は、実際にあった細川政元(まさもと)暗殺事件と屏風に描かれた人形が屏風の中から出てきて踊り出す怪異との《あいだ》を繋ぎ合わせて短縮する不吉な語り部の役割を演じている。

「細川右京太夫政元(まさもと)は、源の義高公(よしたかこう)をとりたて征夷(せいゐ)将軍に拝任(はいにん)せしめたてまつり、みずから権(けん)をとり、其威(い)をたくましくす。

ある日、大(おほき)に酒に酔(えい)て家にかへり、臥(ふし)たりしに、物音をかしげに聞えてねふりをさまし、かしらもたげて見れば、枕本に立(たて)たる屏風に古き絵(ゑ)あり。誰人(たれびと)の筆ともしれず、うつくしき女房・少年おほくあそぶ所を、極彩色(ごくざいしき)にしたる也。其(その)女房も少年も屏風をはなれて立(たち)ならび、身のたけ五寸ばかりなるが足をふみ手をうちて、歌うたひ、おもしろくをどりをいたす。政元つらつらその歌をきけば、ささやかなるこゑにて、

世の中に、うらみはのこるあり明(あけ)の、月にむら雲春の暮、花にあらしはものうきに、あらひばしすな玉水に、うつる影さへきえて行(ゆく)

と、くり返しくり返しうたふてをどりけるを、政元(まさもと)声たかくしかりて、『くせもの共の所為(しわざ)なか』といはれて、はらはらと屏風にのぼりて、もとの絵(ゑ)となれり。あやしき事かぎりなし。陰陽師(をんやうじ)康方(やすかた)をよびてうらなはせければ、『屏風の絵にある女の風流(ふういう)のをどりに、花に風とうたふ。すべて風の字(じ)つつしみあり。かたがたもつておもきつつしみなり』といふ。永正四年六月の事也。

その次の日政元精進潔斎(しやうじんけつさい)して愛宕(あたご)山に参籠(さんろう)し、ひとへに武運(ぶうん)の長久を勝軍地蔵(せうぐんぢざう)にいのり申されたり。廿三日の下向道(げかうだう)に乗たる馬、すでに坂口にしてたをれたり、明(あく)れば、廿四日、わが家におひて風呂(ふろ)に入りけるに、その家人(けにん)右筆(ゆうひつ)せしもの敵に内通(ないつう)して、俄(にはか)に突(つき)入つつ政元をさしころしたり。康方(やすかた)が『風の字(じ)つつしみあり』とひいしが、果(はた)して風呂にいりてころされしも、兆(うらかた)のとるところそのゆへあるにや」(新日本古典文学体系「伽婢子・巻之八・五・屏風の絵の人形踊歌・P.250~252」岩波書店)

なぜ屏風の絵が出てきて踊ったか。陰陽師(占い師)は「花に風(あらし)」は花を散らしてしまう忌み言葉であり、ましてや「屏風・風流・花に風(あらし)」と重なるケースなので厳重な物忌みの必要性を説く。政元は愛宕山に参籠するものの帰ってきたその日に風呂場で殺害される。また、説話前半の典拠では、屏風から出てきて踊ったのは女性ばかりとなっている一方、説話では「うつくしき女房・少年おほくあそぶ」と、《童子》とともに踊ったことになっているのも童子に与えられた両性具有的神秘性の強調に一役買っている点が見える。

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