白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/幼少の皇子・ひょうたん型の瓶子の頸(くび)斬り

2021年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、互いに互角の戦いを何度も繰り返している二つの国家があった。国力・軍事力ともに両者は同程度であり優劣をつけることのできないまま何年もが過ぎた。そのうち一方の国王が死去した。国王には一人の皇子がいたが、まだ幼く、とてもではないが隣国との戦争状態に関わって国を支えていく責務を果たせるとは思えなかった。国内の兵士たちは動揺し始めた。

「われらは国王を失くしたままこの国にいて命をむだにしてしまうよりは、この際、敵国に服従することにして生きながらえるに越したことはない。国王がいらっしゃった頃はなるほどその勢威のもとで庇護されてきた。敗北してしまうこともなかった。だが今は太子がいらっしゃるとはいえ、まだまだ幼いがゆえ、一つ一つの物事に関する判断力を十分に身に付けてはおられまい。われらがもし敵国に従順でない態度を続けていけばそのうち間違いなく殺されてしまうだろう。とすれば、攻撃を受けて服従するよりはその前に進んで降伏しよう。後から追従するよりは少しでも早く降参して敵国の軍門に下ったほうが目をかけてもらえるかも知れない」。

「我等、カク此ノ国ニ居(ゐ)テ、命ヲ徒(いたづら)ニ失ハムヨリハ、只不如(しか)ジ、敵(かたき)ノ国ニ随ヒナム。此ノ国ニ王ノ在(ましまし)ツル時コソ、其ノ羽ニ隠レテ不被破(やぶら)レズシテ有ツル。太子在(まし)マスト云ヘドモ、未(いま)ダ幼稚ニシテ者ノ心ヲ不知給(しりたま)ハジ。我等不随(したがは)ズハ、被殺(ころさ)レム事疑ヒ不有(あら)ジ。然レバ、責メヲ蒙(かうぶり)テ随ハムヨリハ、只進ミテ行キ向ヒナム。後(のち)ニ随ハム人ヨリハ、今、少シモ前立(さきだち)タラバ、賞モ蒙リナム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十一・P.351」岩波書店)

そんな話が広がり始めると多くの兵士らは他人に先んじて敵国に寝返ってしまった。国内に残っているのは長く先王に仕えてきた大臣・公卿ばかり。それも既に敗北の訪れを思い描き、その時にはみんな頸(くび)を並べて投降することになるだろうと心はまるで上の空の風情。高級官僚らは太子に申し述べる。

「御子殿、国を治めるためには何より生きながらえなければなりません。命を失ってしまえば、国王といえども意味がなくなってしまいます。また、国の皇子として立っていかれるとしましても、今の我が国の兵士は先を争ってあちら側に走ってしまい、こちら側はからっぽでございます。たとえ我が国に千人の軍勢がいたとしても相手の兵士1人にもかなわないに等しい状態でございます。かれらは包丁をふりかざした俎(まないた)、われらは俎(まないた)の上に載せられた魚の肉も同然。もし包丁をふりかざされてしまえば正面から迎え撃つことはもはや不可能。であれば、速やかに彼(か)の国に参上なされまして、御身をまっとうし、国をお預けになられましたならば、命ばかりは保障されようはずでございます」。

「君、国ヲ治メムトナラバ、先ヅ命ヲ可持給(たもちたまふべ)キ也。命失(うせ)ヌレバ、国王ノ位モ益無シ。亦、国ノ王子トシテ在(まし)マサムト思(おぼ)ストモ、国ノ内透徹(すきとほ)リテ、譬(たと)ヒ此ノ国ニ軍(いくさ)千人有リト云フトモ、彼ノ国ノ軍(いくさ)一人ニ可当(あたるべ)キニ非(あら)ズ。彼レハ俎(まないた)ト有リ。我レハ魚ノ肉村(ししむら)トシテハ、被下(くださ)レムニヒタ迎ヘ可為(すべ)キ方(ほう)無シ。然レバ、速ニ敵(かたき)ノ国ニ参リ向ヒ給テ、身ヲ全(また)クシテ国ニ被預(あづけら)レバ、可持給(たもちたまふべ)キ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十一・P.351~352」岩波書店)

側近の勧めを聞いた上で、しかし皇子はこう答えた。「恥の何たるかを知って始めて人は人なりという。延命するといってもいずれ死なぬものはどこにもない。世に名高き賢者・孔子は死んだ。剛勇で名を成した盗跖も死んだ。いずれにせよ人間に生まれた以上、死は逃れられない宿命である。わたしが世間で生き延びたとしても、敵国の連中に侵略されてしまったとしたら、一体どんな意味があるというのだろう。ならばただ、われらの側から降伏するようなことはせず、わたしが頸(くび)を刎ねられて殺されるその日のその時始めて皇子としての位(くらい)を棄てようとおもう」。

「恥ヲ知ルヲ人トス。命ヲ持(たも)ツト云テ、遂ニ不死(しな)ザル物無シ。孔子(くじ)ノ賢カリシモ死ニキ。盗跖(たうしやく)ガ諫(いさ)メリシモ死ニキ。然レバ、死ヌル事ハ人トシテ遂ニ不遁(のがれ)ヌ道也。我レ、世ニ生キ留(とどまり)テ、祖(おや)ノ墓ヲ人ニ踏(ふみにじら)セテ何ノ為ニカセム。然レバ只、不随(したがは)ズシテ、被殺(ころさ)レム日ヲ待(まち)テ国(くにの)位ヲ棄テム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十一・P.352」岩波書店)

側近の大臣・公卿らはそれを聞いて思った。「われらの皇子殿はなるほど幼稚な年齢ではあるものの、その心構えは大国の治政者に勝るとも劣らない。われらは長年先王に仕えてきたがゆえその心持ちに偽りはないといえども、今やわれらの気持ちは恐怖の余りあられもなくぐらついていて、幼い皇子殿に及んでもいないのではなかろうか。人生これからという皇子殿でさえ既に覚悟を持っておられる。にもかかわらずわれら長年側近として仕え奉ってきた者がこのようにぐらついた心境では恥ずかしい」。しかし命がけである以上行き場をなくしておののき、恐怖に震えてばかりの者も少なからずいた。

一方、太子は敵国から降伏を呼びかけにやって来た使者を呼び出し、従者に頸(くび)斬り用の剣を持ってこさせた。敵国の使者にいう。「ここでそなたの頸(くび)を斬るのが筋だとはいえ、そなたが死んでしまえば彼(か)の国へ帰って事の次第を説明する人間がいなくなる。まずはそなた、今からやることを見ていてほしい」。そして太子は草を取り集めて作った人形=形代(かたしろ)に相手国の国王の名を付け、太子は自分の名を名乗りあげ、「我が国の太子、敵国の国王の頸(くび)を斬る」と絶叫しつつ人形=形代(かたしろ)の頸(くび)を斬り飛ばした。さらに自軍の将軍に命じて使者の首を剣で刎ねる真似を演じさせた。使者は仰天して帰っていった。

「太子、敵(かたき)ノ国ヨリ来(きたり)タル使ヲ召出(めしいだ)シテ、一(ひとり)ノ人ニ頸斬(くびき)リノ剣(つるぎ)ヲ命持(もたしめ)テ、使ニ仰セテ云ク、『此(ここ)ニシテ汝ガ頸ヲ可斬(きるべ)シト云ヘドモ、汝ヂ、此ニテ死ナバ、彼(か)ノ国ノ王ニ此ノ事ヲ可語(かたるべ)キ人不有(あら)ジ。然レバ、汝ヂ、生キテ見ヨ』ト云テ、草ヲ取(とり)テ人形(ひとかた)ヲ造(つくり)テ、彼ノ国ノ王ノ名ヲ付テ、太子自(みづから)ノ名ヲ呼テ、『其(それ)ノ国ノ太子ノ、敵ノ国ノ王ノ頸斬ル』ト叫(さけび)テ、此ノ草ノ人形ヲ斬リツ。使ヲモ、軍(いくさ)ノ将軍ヲ召テ、頸ヲ斬ル様(やう)ニ学(まねび)テ、追ヒ還シツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十一・P.353」岩波書店)

使者から話を聞かされた敵国の国王は激怒。すべての軍勢を動員、国境線を越えて押し寄せてきた。すると、恭順するのが賢明だと説得に当たっていた大臣・公卿らも逃げてしまった。残ったのはほんの僅かで数えるほど。それも天を仰いで気の抜けた様子でしかない。ところが太子は何一つ慌てることなく敵陣に赴いた。ただ、出向くに当たって幾つかの道具類を持って出た。脚付きの椅子、瓶子(へいじ=とっくり型の水差し)、硯・墨・筆。それらを二人の童子に持たせ、敵陣の前にやって来た。一つの椅子に腰掛け、その前の椅子の一方に瓶子を、もう一方に硯を置いて墨を摺らせた。

「太子、既ニ出向(いでむか)ハムト為(す)ル時ニ、具セル物共(ども)有リ。足高ク付(つけ)タル床子(しやうじ)二ツ、瓶子(へいじ)一ツ、硯・墨・筆、此等ヲ鬘(みづら)結(ゆひ)タル童子二人ニ令持(もたし)メテ出向(いでむかひ)テ、一(ひとつ)ノ床子ヲ立テテ、太子、其レニ尻ヲ懸(かけ)テ坐シヌ。其ノ前ニ二(ふたつ)ノ床子ヲ立テテ、一ニハ瓶子ヲ置ク。一ニハ硯ヲ置テ墨ヲ令摺(すらし)ム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十一・P.353~354」岩波書店)

敵陣は意味がわからず嘲笑している。敵の国王は黙って様子を見ることにした。太子は墨をよく摺らせると筆に墨を吸わせ、ひょうたん型の瓶子の頸(くび)の部分に墨でぐるりと輪を書いた。

「太子、墨ヲ濃ク令摺(すらし)メテ、筆ヲ塗(ぬら)シテ瓶子ノ頸ニ書キ廻(めぐら)ス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十一・P.354」岩波書店)

そして敵国の王に向かっていう。「そなたが連れてきた大軍だが、わたしの持っているたった一つの剣に狙いを付けても的外れでしかない。それより国王自身から始めて多くの軍勢全員に至るまで、みんな自分の頸(くび)をよく見てみるがいい。わたしが手に持っているひょうたん型の瓶子の頸(くび)に墨で書き廻らした輪だが、そなたたちの頸(くび)はどうだ。頸(くび)に墨で書き廻らされた輪が見えるはずだがな。そこで、わたしが手に持っている瓶子の頸(くび)を刀で斬り落とすとどうなるか。墨で輪が書き廻らされたそなたたちの、その頸(くび)はすべて刎ね飛ぶ」。

「汝ガ若干(そこばく)ノ軍(いくさ)ハ我ガ一ノ剣ニ可当(あたるべ)キニ非ズ。汝ヂ王ヨリ始メテ軍(いくさ)等、皆、其ノ頸ヲ見ヨ。此ノ瓶子ノ頸ニ書キ廻(めぐら)シタル墨ハ、皆、汝等ガ頸ニ廻(めぐり)タラム。我レ、此ノ瓶子ノ頸ヲ一刀ニ打落(うちおと)シテバ、墨ノ汝等ガ頸ニ廻(めぐ)リタラムモ皆落チナムトス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十一・P.354」岩波書店)

敵軍はみんなで互いの首を確認し合った。国王も例外なく、首に輪を書きつけられていない者は誰一人としていない。敵の陣営がざわついていると太子はいきなり目をかっと見開いた。鬼神の顔相に変わっている。躊躇なく瓶子の頸(くび)を斬り落とそうとしたその時、敵の国王はただちに馬から降り、両手を合わせて許しを請い、恭順の意を表した。敵の軍勢もすべて弓箭(ゆみや)をはずし、大刀(たち)を地面に棄てて土下座した。降伏した王はいう。「わたしはただ今から太子を君として丁寧にお仕えすることにいたします。できますれば、頸(くび)を斬り取るのだけは、何卒お許し願いたいとおもいます」。

「其ノ時ニ、敵(かたき)ノ国ノ王、忽(たちまち)ニ馬ヨリ下(おり)テ、二(ふたつ)ノ手ヲ合セテ太子ニ向(むかひ)テ居タリ。若干(そこばく)ノ軍ハ、皆弓ヲハヅシ、大刀(たち)棄テテ面(おもて)ヲ土ニ付テ臥セリ。王ノ云ク、『我、今日ヨリ後、太子ヲ君トシテ傅(かしづ)キ奉ラム。願(ねがは)クハ、太子ハ頸ヲ免(ゆる)シ給ヘ』ト請フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十一・P.354~355」岩波書店)

そう聞くと太子は柴を焼いて手に付けた。そして「わたしは皇帝である」と名乗った。敵国の王は「仕(つかまつ)リ人」=「臣下としてお仕えいたします」と名乗り、太子に随行した。

「其ノ時ニ、太子、シバヲ焼(やき)テ手ニ付テ、『天皇ノ位ニ昇(のぼり)ヌ』ト名乗ル。敵ノ国ノ王ハ、『仕(つかまつ)リ人』ト名乗(なのり)テ、随(したがひ)テ還リニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十一・P.355」岩波書店)

さて。柴を焼く行為は古代中国の祭祀の一つ。この説話では即位式の場面で用いられている。かなり古くから行われていた神事のようで「燔柴(はんさい)」と呼ばれる。

また脚注によれば、出典は不明だが天竺の物語を原拠とした可能性が示唆されている。なるほど象徴的なシーンがある。一方に「ひょうたん型の瓶子の頸(くび)に墨で書き廻らした輪」。もう一方に「敵国の大軍の全員の頸(くび)に墨で書き廻らした輪」が出現する。とはいえ、遠く古代のアニミズムの時代には何ら不思議な行為ではなかった。フレイザーはいう。

「スマトラの奥地では、種米は女たちによって蒔かれるが、このとき女たちは髪を束ねず背中に垂らす。これは稲が豊かに実り、長い稲穂となるようにである」(フレイザー「金枝篇・上・第一章・第二節・P.31」ちくま学芸文庫)

このようなアニミズム的儀式性は世界中で見られる。

「呪術的共感関係は、人間と、その髪や爪のように身体から切り離されたものとの間に、存在すると考えられている。そのため、人の髪や爪を獲得した者はだれでも、どれほど離れていようと、その切り離された当の人間の身体に対して、自らの意志を行使することができると考える。この迷信は世界中に見られる。さらにこの共感関係は、とりわけ危機的な時期に、友人間や親族間に存在する。たとえば友人の一団が漁や狩猟や敵の討伐に出かけている場合、家に残された人々には、行動を規程する事細かな掟がある。残された人々がこの掟を犯せば不在の友人たちは、おのずとその違反に応じて危害を被ることになる」(フレイザー「金枝篇・上・第一章・第二節・P.31~32」ちくま学芸文庫)

次のような事例も。

「ダヤク族〔ボルネオ島内陸部に分布する非イスラーム諸種族〕の者が敵の首狩りに出かけると、その妻もしくは未婚の場合姉妹が、昼も夜も剣を身につけていなければならない。彼が武器のことを忘れないようにである。女たちは昼間眠ってはならず、また夜も二時までは床に入ってはならない。夫や兄弟が、眠っている間に敵に奇襲されないようにである。ラオスでは、象狩りに出かける猟師は、妻に、自分の不在中髪を切ったり身体に油を塗ったりしないよう警告する。妻が髪を切れば象は捕獲の網を破るだろうし、油を塗れば象は網の間からすり抜けてしまうだろうからである」(フレイザー「金枝篇・上・第一章・第二節・P.32」ちくま学芸文庫)

これらはどれもアナロジー(類似・類推)に基づく。熊楠が上げている「燕石」の神話化。

「安産の子安貝(カウリー)に関する日本の物語は、その貝の特異な形態に由来している。その形態ゆえに、この貝はヴィーナスに捧げられたのである。そして、邪視に対するお守り、惚れ薬、多産や安産などの効能がこの貝にあるというのは、高感(シンパシー)理論が一般に信じられたからである。これに加えて、古代に広く貨幣として使われたことが、それにほとんど無限の徳目を付与することになった」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.391』河出文庫)

アナロジーに加えてかつて「貨幣」として用いられた過去が、迷信であるにもかかわらず、ほとんど問答無用の信仰を獲得することになった事例である。

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