前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
梁(りやう)の時代、道珍(だうちん)という僧がいた。念仏を専門に修行に励んだ。水想観といって極楽浄土をイメージしてひたすらその観想に専心する日々を送った。
在る時、道珍は夢を見た。一つの船に百人が乗船して西方(さいはう)に向かっている。道珍もその船に乗せてもらおうとすると先に乗っている者らは道珍の乗船を許可しようとしない。
「道珍、夢ニ水ヲ見ルニ、百人同船ニ乗(のり)テ西方(さいほう)ニ行カムト為(す)ルニ、道珍、其ノ船ニ乗ムラムト為(す)ルヲ、此ノ船ニ乗レル人不許(ゆるさ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79」岩波書店)
道珍が乗船拒否の理由を尋ねたところ、「そなたは西方の業(極楽浄土への道程)をまだすべて終えていない。というのは、阿弥陀経(あみだきやう)を読んでいないし、また温室(うんしつ)=沐浴(もくよく)も済ませていないのだから。
「法師ノ西方ノ業未(いま)ダ不満(みた)ズ。其ノ故ハ未(いまだ)阿弥陀経(あみだきやう)ヲ不読(よま)ズ、幷(ならびに)温室(うんしつ)ヲ不行(ぎやうぜ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79」岩波書店)
そう言うと百人を乗せた船は百人ごと消え失せた。同時に夢も覚めたようだ。そこで道珍はさっそく阿弥陀経を読み込んで学び、さらに多くの同行の僧らを集めて湯殿を開き沐浴させた。その後、道珍は再び夢を見た。今度はたった一人の人が、蓮台を現わす「白銀(しろかね)ノ楼台(らうたい)」に乗って出現した。そしていう。「そなたは既にすべての修行を終えた。極楽往生は間違いない」。
「汝(なむ)ヂ浄土ノ業既ニ満テリ。必ズ西方(さいはう)ニ可生(うまるべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79」岩波書店)
夢から覚めた道珍は夢で見た内容を他人に語ることはせず、記録して経筥(きやうはこ)に中に納めておいた。だから誰も道珍がそんな夢を見たことを知らない。
「其ノ後、此等ノ事ヲ人ニ不語(かたら)ズシテ、記(しる)シテ経筥(きやうはこ)ノ中ニ入レテ納メ置(おき)テケリ。然レバ、人知ル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79~80」岩波書店)
しばらくして遂に道珍の臨終が訪れた時、修行している山の頂上にあたかも数千の火を一度に灯したかのような、壮麗な光明が煌めき輝いた。また、この世のものとも思われない妙なる香りが一帯に打ち広がった。
「遂(つひに)道珍命終(みやうじう)ノ時ニ臨(のぞみ)テ、山ノ頂ニ数千(すせん)ノ火ヲ燃(とも)シタルガ如クニ光明(くわうみやう)有(あり)。異香(いきやう)寺ノ内ニ満(みち)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.80」岩波書店)
その光景を見て始めて周囲の人々は道珍が極楽往生を遂げたことを知った。その後弟子たちが、死去した道珍の遺品を整理していた時、亡き師の経筥を開いてみると生前に道珍が見た夢のことが記録してあるのに気づいた。道珍は夢のことは何一つ語らずただひたすら修行に専心して往生を達成した。それを思うと弟子たちは深い感慨に打たれた。
「後ニ弟子等、師ノ経筥(きやうはこ)ヲ開(みらき)テ見ルニ、此ノ記(しるし)有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.80」岩波書店)
さて。第一に異界への通路だが、それはここでもまた「夢」。第二に交換関係は「夢で提出された条件を満たすこと」と「極楽往生」との等価交換である。そしてそれは達成された。しかし注目したいのは、けっして大袈裟に振る舞うことのない道珍の態度とその専心性である。とりわけ人間は思春期を終えて成人を迎えるとたちまち一つのことに専心集中するのが極めて苦手になる。なぜそうなるのかはよくわからないが、逆に童子の頃はそうではない。「甲子夜話」に次の話が見える。
平戸に快行院という名の密教系の僧がいた。夫婦で暮らしており子どもは上が十三、四歳、下は七、八歳と今でいう小学生くらいの年齢の子まで数人いた。快行院はしばしば長子を連れて湯立(ゆだて)の祈祷を行っていた。長子を連れて行っていた理由はゆくゆく長子を後継者にと考えていたためだろう。湯立の法は、湯を沸騰させていつもの「ヲンバロダヤソワカ」という呪文のような詞(ことば)を唱えながら煮え立った湯を体に浴びてもまったく火傷しないという密教独特の法。しょっちゅうやっているので自分の子どもだけでなく隣近所の子どもたちまでその真言=詞(ことば)を覚えてしまった。或る日、快行院が用事のため夫婦で外出したところ、留守のあいだに快行院の子どもたちばかりか隣近所の子どもたちが集まって湯立の真似事を始めた。日頃から興味津々だったのだろう。家の中に置いてあるごく普通の鍋に水を入れ薪を焚いて沸騰させ、耳で覚えただけの例の真言を皆で何度か唱えてみると沸騰させた湯が本当に水になった。ほんの児戯(いたずら)のつもりだったので、子どもたちは笑い合いそのまま別々に散っていった。一方ようやく帰宅した快行院夫婦。ご飯を炊こうと鍋を火にかけたが一向に煮え立ってこない。どうしたわけかと不審に思って右往左往していると、隣人が子どもたちの遊びの様子を見ていたので語って聞かせた。快行院夫婦は半信半疑ながらもそれならと逆に水が湯になる真言=詞(ことば)を唱えてみたところ、本当に湯が沸騰し出した。童子は遊びに対してもまた真剣である。たかが遊び。しかしもはや成人してしまうとこのように遊び一つ取っても専心集中することは極めて困難になるのだろう。
「平戸の下方と云(いふ)所に快行院と云(いへ)る修験あり。十三、四を長として七つ八つまでの子あまたあり。快行院時々その長子を従へ湯立(ゆだて)の祈祷をなす。其時湯の沸起するを持てこれを探り、或は物に潑(そそ)ぐに火傷せず。このとき専らヲンバロダヤソワカと云真言を誦す。然るをかの子児等聞覚て、或日、快行院の他行せしるすに、田舎のことなれば、ゐろりに鍋をかけある辺に、家児も隣児もあまた集り、炉辺をとり囲み、湯立を為るとて薪を焚て、湯沸くと同音の真言を数遍唱ゆるに、湯次第に水になりぬ。子児等戯咲(ぎせう)して散去れり。夫より快行院夫婦還り来て、飯をたかん迚火を焚つけたるに、何(い)かにしても湯わかず。不審に思ひて立廻るうち隣婦来れり。乃(すなはち)このことを語る。婦、児戯の状を告ぐ。夫婦始て驚き、快行院因て湯に返る真言を誦したれば、やがて水わきあがりて飯をたくこと成りたりと云。かの真言は水天の呪なり。児戯は誠一ゆゑに感応せしにや」(「甲子夜話2・巻二十一・二十八・P.28~29」東洋文庫)
フロイトは子供にとって「遊び・真剣・現実」とはどのような関係にあるかについてこう述べている。
「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院)
ところで快行院の一節に「水天」とあるのは「水神」のこと。今の日本では「水天宮」と呼ばれて全国各地にある。そもそもは古代インドの神々の中でも創造主のうちに入る「ヴァルナ」を指す。神としては次第に小さな存在になったがその後に描かれた「リグ・ヴェーダ讃歌」にも僅かだが幾つか記述が見える。
「十 固く掟を守るヴァルナは、水流の中に坐せり、賢明なる神は、完全なる主権を行使せんがために」(「リグ・ヴェーダ讃歌・1-25・P.123」岩波文庫)
「三 最高の君主・強力なる牡牛・天と地との主宰者として、ミトラとヴァルナとは諸民を統(す)ぶ。汝ら〔両神〕は、〔雷光に〕輝く雲を伴い、咆哮(雷鳴)に近づく。汝らは天をして雨降らしむ、アスラの幻力によりて。
五 マルト神群(暴風雨神)は、快速の車を装う、美観を呈せんがために、ミトラ・ヴァルナよ、勇士が牛の掠奪に際してなすごとくに。雷鳴は〔電光に〕輝く空間を馳せめぐる。最高の君主(ミトラ・ヴァルナ)よ、天の乳液(雨)をもってわれらを潤(うる)おせ」(「リグ・ヴェーダ讃歌・5-63・P.132~133」岩波文庫)
エリアーデはこういっている。
「インドにおいて、水は宇宙開闢の物質をもっともよく代表している」(エリアーデ「世界宗教史2・第九章・73・P.65」ちくま学芸文庫)
日本神話では「古事記」冒頭に出てくる「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」がそれに当たる。
「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かみむすひのかみ)」(「古事記・上つ巻・P.18」岩波文庫)
またギリシア神話でも。一般的に「ウラノス=天空神」と呼ばれる。
「天空(ウーラノス)が最初に全世界を支配した」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.29」岩波文庫)
さらにウラノスの性格は女神として有名な「アプロディテ」に受け継がれている。
「スキュタイ人はそれからエジプトを目指して進んだ。彼らがパレスティナ・シリアまできたとき、エジプト王プサンメティコスが出向いていって、贈物と泣き落し戦術で、それより先へ進むことを思いとどまらせたのである。スキュタイ人は後戻りしてシリアの町アスカロンへきたとき、大方のスキュタイ人はおとなしく通過していったのに、少数のものが後へ残って『アプロディテ・ウラニア』の神殿を荒したのである。この社は私の調べたところでは、この女神の社としては最古のものである。キュプロスにある社もその起源はここに発していることは、キュプロス人が自らいっており、またキュテラの社は、シリアのこの地方からいったフェキニア人が創建したものである。さてアスカロンの社を荒したスキュタイ人とその子孫は後々まで、神罰を蒙り『おんな病』(性病・男色・陰萎等々)に罹った。スキュタイ人も、この連中の患いは右の原因によるものだとしており、スキュタイ人がエナレスと呼んでいるこれらの者たちの実状は、スキュタイへ来て見れば、自分の目で確かめられるといっている」(ヘロドトス「歴史・上・巻一・一〇五・P.97~98」岩波文庫)
ヘロドトスのいう「エナレス」は別の箇所で「おとこおんな」とされている。かつて「ふたなり」と呼ばれたケースを含め、今でいうLGBTに近い。
「スキュティアには多数の占師がいるが、彼らは多数の柳の枝を用い次のようにして占う。占師は棒をまとめた大きい束をもってくると、地上に置いて束を解き、一本一並べながら呪文を唱える。そして呪文を唱えつづけながら、再び棒を束ね、それからまた一本ずつ並べてゆく。この卜占術はスキュティア古来の伝統的なものであるが、例の『おとこおんな』のエナレエスたちは、アプロディテから授かったと自称する方法で占う。いずれにせよそれは菩提樹の樹皮を用いて占うもので、菩提樹の樹皮を三つに切り、これを指に巻きつけたりほどいたりしながら預言するのである」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・六七・P.47」岩波文庫)
古代ギリシア時代すでに特権的排除の構造が見られる。
「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)
ちなみに排除といっても、ヘリオガバルスの場合は下へではなく皇帝として上へ排除されたケース。
日本でも江戸時代、「辻君、白人(はくじん)、比丘尼」など女性の売春者らと並んで「野郎・影間」に熱中する同性愛者らは少なくなかった。横井也有「鶉衣(うづらごろも)」にこうある。
「波にうかるるうかれめ、草に音をなく辻君、白人(はくじん)、比丘尼、野郎・影間、それとも賣かふものはさらなり、御油・赤坂の留メ女さへ、おかしからぬ事もよくわらひて、ねよげにみゆる、旅人になじみの文よみてもらひ、さし足袋賣たるえにしより、七日つつしみし始末もやぶれて、一夜の露に落やすきは、いさ此道のならひならぬかは」(日本古典文学体系・横井也有「鶉衣・戀説」『近世俳句俳文集・P.374』岩波書店)
熊楠がいうように「野郎(やろう)」は「男色・衆道」で多くは歌舞伎若衆が目当て、「影間(かげま)」はもう少し若い少年が男色を売り物にする場合。そうしなければ食べていくのもやっと、という事情があったわけだが、何ら嫌々でなく出現し実践されるLGBTは遥か古代から広く世界中で認められた歴史的文化だった。
BGM1
BGM2
BGM3
梁(りやう)の時代、道珍(だうちん)という僧がいた。念仏を専門に修行に励んだ。水想観といって極楽浄土をイメージしてひたすらその観想に専心する日々を送った。
在る時、道珍は夢を見た。一つの船に百人が乗船して西方(さいはう)に向かっている。道珍もその船に乗せてもらおうとすると先に乗っている者らは道珍の乗船を許可しようとしない。
「道珍、夢ニ水ヲ見ルニ、百人同船ニ乗(のり)テ西方(さいほう)ニ行カムト為(す)ルニ、道珍、其ノ船ニ乗ムラムト為(す)ルヲ、此ノ船ニ乗レル人不許(ゆるさ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79」岩波書店)
道珍が乗船拒否の理由を尋ねたところ、「そなたは西方の業(極楽浄土への道程)をまだすべて終えていない。というのは、阿弥陀経(あみだきやう)を読んでいないし、また温室(うんしつ)=沐浴(もくよく)も済ませていないのだから。
「法師ノ西方ノ業未(いま)ダ不満(みた)ズ。其ノ故ハ未(いまだ)阿弥陀経(あみだきやう)ヲ不読(よま)ズ、幷(ならびに)温室(うんしつ)ヲ不行(ぎやうぜ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79」岩波書店)
そう言うと百人を乗せた船は百人ごと消え失せた。同時に夢も覚めたようだ。そこで道珍はさっそく阿弥陀経を読み込んで学び、さらに多くの同行の僧らを集めて湯殿を開き沐浴させた。その後、道珍は再び夢を見た。今度はたった一人の人が、蓮台を現わす「白銀(しろかね)ノ楼台(らうたい)」に乗って出現した。そしていう。「そなたは既にすべての修行を終えた。極楽往生は間違いない」。
「汝(なむ)ヂ浄土ノ業既ニ満テリ。必ズ西方(さいはう)ニ可生(うまるべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79」岩波書店)
夢から覚めた道珍は夢で見た内容を他人に語ることはせず、記録して経筥(きやうはこ)に中に納めておいた。だから誰も道珍がそんな夢を見たことを知らない。
「其ノ後、此等ノ事ヲ人ニ不語(かたら)ズシテ、記(しる)シテ経筥(きやうはこ)ノ中ニ入レテ納メ置(おき)テケリ。然レバ、人知ル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79~80」岩波書店)
しばらくして遂に道珍の臨終が訪れた時、修行している山の頂上にあたかも数千の火を一度に灯したかのような、壮麗な光明が煌めき輝いた。また、この世のものとも思われない妙なる香りが一帯に打ち広がった。
「遂(つひに)道珍命終(みやうじう)ノ時ニ臨(のぞみ)テ、山ノ頂ニ数千(すせん)ノ火ヲ燃(とも)シタルガ如クニ光明(くわうみやう)有(あり)。異香(いきやう)寺ノ内ニ満(みち)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.80」岩波書店)
その光景を見て始めて周囲の人々は道珍が極楽往生を遂げたことを知った。その後弟子たちが、死去した道珍の遺品を整理していた時、亡き師の経筥を開いてみると生前に道珍が見た夢のことが記録してあるのに気づいた。道珍は夢のことは何一つ語らずただひたすら修行に専心して往生を達成した。それを思うと弟子たちは深い感慨に打たれた。
「後ニ弟子等、師ノ経筥(きやうはこ)ヲ開(みらき)テ見ルニ、此ノ記(しるし)有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.80」岩波書店)
さて。第一に異界への通路だが、それはここでもまた「夢」。第二に交換関係は「夢で提出された条件を満たすこと」と「極楽往生」との等価交換である。そしてそれは達成された。しかし注目したいのは、けっして大袈裟に振る舞うことのない道珍の態度とその専心性である。とりわけ人間は思春期を終えて成人を迎えるとたちまち一つのことに専心集中するのが極めて苦手になる。なぜそうなるのかはよくわからないが、逆に童子の頃はそうではない。「甲子夜話」に次の話が見える。
平戸に快行院という名の密教系の僧がいた。夫婦で暮らしており子どもは上が十三、四歳、下は七、八歳と今でいう小学生くらいの年齢の子まで数人いた。快行院はしばしば長子を連れて湯立(ゆだて)の祈祷を行っていた。長子を連れて行っていた理由はゆくゆく長子を後継者にと考えていたためだろう。湯立の法は、湯を沸騰させていつもの「ヲンバロダヤソワカ」という呪文のような詞(ことば)を唱えながら煮え立った湯を体に浴びてもまったく火傷しないという密教独特の法。しょっちゅうやっているので自分の子どもだけでなく隣近所の子どもたちまでその真言=詞(ことば)を覚えてしまった。或る日、快行院が用事のため夫婦で外出したところ、留守のあいだに快行院の子どもたちばかりか隣近所の子どもたちが集まって湯立の真似事を始めた。日頃から興味津々だったのだろう。家の中に置いてあるごく普通の鍋に水を入れ薪を焚いて沸騰させ、耳で覚えただけの例の真言を皆で何度か唱えてみると沸騰させた湯が本当に水になった。ほんの児戯(いたずら)のつもりだったので、子どもたちは笑い合いそのまま別々に散っていった。一方ようやく帰宅した快行院夫婦。ご飯を炊こうと鍋を火にかけたが一向に煮え立ってこない。どうしたわけかと不審に思って右往左往していると、隣人が子どもたちの遊びの様子を見ていたので語って聞かせた。快行院夫婦は半信半疑ながらもそれならと逆に水が湯になる真言=詞(ことば)を唱えてみたところ、本当に湯が沸騰し出した。童子は遊びに対してもまた真剣である。たかが遊び。しかしもはや成人してしまうとこのように遊び一つ取っても専心集中することは極めて困難になるのだろう。
「平戸の下方と云(いふ)所に快行院と云(いへ)る修験あり。十三、四を長として七つ八つまでの子あまたあり。快行院時々その長子を従へ湯立(ゆだて)の祈祷をなす。其時湯の沸起するを持てこれを探り、或は物に潑(そそ)ぐに火傷せず。このとき専らヲンバロダヤソワカと云真言を誦す。然るをかの子児等聞覚て、或日、快行院の他行せしるすに、田舎のことなれば、ゐろりに鍋をかけある辺に、家児も隣児もあまた集り、炉辺をとり囲み、湯立を為るとて薪を焚て、湯沸くと同音の真言を数遍唱ゆるに、湯次第に水になりぬ。子児等戯咲(ぎせう)して散去れり。夫より快行院夫婦還り来て、飯をたかん迚火を焚つけたるに、何(い)かにしても湯わかず。不審に思ひて立廻るうち隣婦来れり。乃(すなはち)このことを語る。婦、児戯の状を告ぐ。夫婦始て驚き、快行院因て湯に返る真言を誦したれば、やがて水わきあがりて飯をたくこと成りたりと云。かの真言は水天の呪なり。児戯は誠一ゆゑに感応せしにや」(「甲子夜話2・巻二十一・二十八・P.28~29」東洋文庫)
フロイトは子供にとって「遊び・真剣・現実」とはどのような関係にあるかについてこう述べている。
「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院)
ところで快行院の一節に「水天」とあるのは「水神」のこと。今の日本では「水天宮」と呼ばれて全国各地にある。そもそもは古代インドの神々の中でも創造主のうちに入る「ヴァルナ」を指す。神としては次第に小さな存在になったがその後に描かれた「リグ・ヴェーダ讃歌」にも僅かだが幾つか記述が見える。
「十 固く掟を守るヴァルナは、水流の中に坐せり、賢明なる神は、完全なる主権を行使せんがために」(「リグ・ヴェーダ讃歌・1-25・P.123」岩波文庫)
「三 最高の君主・強力なる牡牛・天と地との主宰者として、ミトラとヴァルナとは諸民を統(す)ぶ。汝ら〔両神〕は、〔雷光に〕輝く雲を伴い、咆哮(雷鳴)に近づく。汝らは天をして雨降らしむ、アスラの幻力によりて。
五 マルト神群(暴風雨神)は、快速の車を装う、美観を呈せんがために、ミトラ・ヴァルナよ、勇士が牛の掠奪に際してなすごとくに。雷鳴は〔電光に〕輝く空間を馳せめぐる。最高の君主(ミトラ・ヴァルナ)よ、天の乳液(雨)をもってわれらを潤(うる)おせ」(「リグ・ヴェーダ讃歌・5-63・P.132~133」岩波文庫)
エリアーデはこういっている。
「インドにおいて、水は宇宙開闢の物質をもっともよく代表している」(エリアーデ「世界宗教史2・第九章・73・P.65」ちくま学芸文庫)
日本神話では「古事記」冒頭に出てくる「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」がそれに当たる。
「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かみむすひのかみ)」(「古事記・上つ巻・P.18」岩波文庫)
またギリシア神話でも。一般的に「ウラノス=天空神」と呼ばれる。
「天空(ウーラノス)が最初に全世界を支配した」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.29」岩波文庫)
さらにウラノスの性格は女神として有名な「アプロディテ」に受け継がれている。
「スキュタイ人はそれからエジプトを目指して進んだ。彼らがパレスティナ・シリアまできたとき、エジプト王プサンメティコスが出向いていって、贈物と泣き落し戦術で、それより先へ進むことを思いとどまらせたのである。スキュタイ人は後戻りしてシリアの町アスカロンへきたとき、大方のスキュタイ人はおとなしく通過していったのに、少数のものが後へ残って『アプロディテ・ウラニア』の神殿を荒したのである。この社は私の調べたところでは、この女神の社としては最古のものである。キュプロスにある社もその起源はここに発していることは、キュプロス人が自らいっており、またキュテラの社は、シリアのこの地方からいったフェキニア人が創建したものである。さてアスカロンの社を荒したスキュタイ人とその子孫は後々まで、神罰を蒙り『おんな病』(性病・男色・陰萎等々)に罹った。スキュタイ人も、この連中の患いは右の原因によるものだとしており、スキュタイ人がエナレスと呼んでいるこれらの者たちの実状は、スキュタイへ来て見れば、自分の目で確かめられるといっている」(ヘロドトス「歴史・上・巻一・一〇五・P.97~98」岩波文庫)
ヘロドトスのいう「エナレス」は別の箇所で「おとこおんな」とされている。かつて「ふたなり」と呼ばれたケースを含め、今でいうLGBTに近い。
「スキュティアには多数の占師がいるが、彼らは多数の柳の枝を用い次のようにして占う。占師は棒をまとめた大きい束をもってくると、地上に置いて束を解き、一本一並べながら呪文を唱える。そして呪文を唱えつづけながら、再び棒を束ね、それからまた一本ずつ並べてゆく。この卜占術はスキュティア古来の伝統的なものであるが、例の『おとこおんな』のエナレエスたちは、アプロディテから授かったと自称する方法で占う。いずれにせよそれは菩提樹の樹皮を用いて占うもので、菩提樹の樹皮を三つに切り、これを指に巻きつけたりほどいたりしながら預言するのである」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・六七・P.47」岩波文庫)
古代ギリシア時代すでに特権的排除の構造が見られる。
「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)
ちなみに排除といっても、ヘリオガバルスの場合は下へではなく皇帝として上へ排除されたケース。
日本でも江戸時代、「辻君、白人(はくじん)、比丘尼」など女性の売春者らと並んで「野郎・影間」に熱中する同性愛者らは少なくなかった。横井也有「鶉衣(うづらごろも)」にこうある。
「波にうかるるうかれめ、草に音をなく辻君、白人(はくじん)、比丘尼、野郎・影間、それとも賣かふものはさらなり、御油・赤坂の留メ女さへ、おかしからぬ事もよくわらひて、ねよげにみゆる、旅人になじみの文よみてもらひ、さし足袋賣たるえにしより、七日つつしみし始末もやぶれて、一夜の露に落やすきは、いさ此道のならひならぬかは」(日本古典文学体系・横井也有「鶉衣・戀説」『近世俳句俳文集・P.374』岩波書店)
熊楠がいうように「野郎(やろう)」は「男色・衆道」で多くは歌舞伎若衆が目当て、「影間(かげま)」はもう少し若い少年が男色を売り物にする場合。そうしなければ食べていくのもやっと、という事情があったわけだが、何ら嫌々でなく出現し実践されるLGBTは遥か古代から広く世界中で認められた歴史的文化だった。
BGM1
BGM2
BGM3