前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
漢の時代、河内(かだい)に丁蘭(ていらん)という男性がいた。河内(かだい)は今の中国河南省の黄河以北を指す。
丁蘭は幼少期に母を亡くしていた。十五歳になったのを機に職人に頼んで亡き母そっくりの木製の像を造り、家の中に専用の帳台を設けてその中に祀った。生前同様、朝夕に食膳を備えて礼拝した。朝に出かける時はこれから出かけますと挨拶し、夕方に帰宅すれば帰ってきましたと言う。今日はこんなことがあったと話して聞かせ、世間ではこんなことが起こっているようだと知りうる限りのことをすべて報告した。
「朝(あした)ニ出(いで)行クトテモ、帳ノ前ニ行テ出(い)ヅル由ヲ告グ。夕(ゆふべ)ニ還リ来(きたり)テモ、還レル由ヲ語ル。今日有(あり)ツル事ヲ必ズ云ヒ令聞(きか)シム。惣(す)ベテ世ノ事不語(かたら)ズト云フ事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182」岩波書店)
そんなふうに手厚く取り扱い怠ることなく三年を経た。一方、嫁姑の確執はどこにでもある話でさして珍しくはないものの、丁蘭の妻は極めて嫉妬深い性格だったらしく、母の像に対する丁蘭の丁寧な態度が鬱陶しくてならない。もはや強烈な憎悪で凝り固まっていた。
「如此(かくのごと)ク懃(ねむごろ)ニ孝養(けうやう)シテ、不緩(おこたら)ズシテ既ニ三年ヲ経(へ)ヌルニ、丁蘭ガ妻(め)、悪(あしき)性ニシテ、常ニ此ノ事ヲ憎(そねま)シク悪(にく)ク思ヒケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182」岩波書店)
或る日、丁蘭の外出中、妻は火を用意して木彫りの母の像の顔面を焼いた。その日、丁蘭が帰宅したのはもう夜だったので帳台の中の母の像を覗くことなく寝てしまった。
「而(しか)ル間、丁蘭ガ外(ほか)ニ行キタル間ニ、妻(め)、火ヲ以テ木ノ母ノ形ヲ焼ク。丁蘭、夜ニ入(いり)テ帰来(かへりきたり)テ、木ノ母ノ顔(かたち)ヲ不見(み)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182」岩波書店)
その夜。丁蘭の夢の中に木彫りの母が出現した。そしていう。「そなたの妻はわたしの顔を火で焼いてしまいました」。夢から覚めた丁蘭は何か不審におもい、夜明けを待って母の像を見てみると本当に顔面が焼け焦げている。丁蘭は妻にただならぬ憎悪を覚え、それ以後、これまであった妻への愛情もすっかり消え失せてしまった。
「其ノ夜、丁蘭ガ夢ニ、木ノ母自ラ丁蘭ニ語(かたり)テ云ク、『汝ガ妻、我ガ面(かたち)ヲ焼ク』ト。夢覚(さめ)テ怪(あやし)ミ思(おもい)テ、明(あく)ル朝(あした)ニ行テ見レバ、実(まこと)ニ、木ノ母ノ面(かたち)焼ケタリ。此レヲ見テ後(のち)、丁蘭、其ノ妻ヲ永ク悪(にく)ムデ寵(ちやう)スル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182」岩波書店)
また或る日、隣人がやって来て丁蘭に斧を借してほしいという。丁蘭は母の像に相談してみた。語りかけられた木像の表情はあまり気が進まないように見える。そこで隣人の頼みを断った。すると隣人は激怒。丁蘭が外出している隙(すき)を伺ってこっそり家に忍び込み、持ってきた大刀(たち)で丁蘭の母像の一方の臂(ひじ)を切断した。そこから血が吹き出し、周囲は一面血の海と化した。
「亦、隣ノ人有(あり)テ、丁蘭ニ斧ヲ借ル。丁蘭、木ノ母ニ此ノ事ヲ申スニ、木ノ母ノ不喜(よろこび)ザル気色(けしき)ヲ見知(しり)テ斧ヲ不借(かさ)ズ。隣ノ人大(おほき)ニ忿(イカリ)テ、丁蘭ガ外(ほか)ニ行キタル隙(ひま)ヲ伺(うかがひ)テ蜜(ひそか)ニ来(きたり)テ、大刀(たち)ヲ以テ木ノ母ガ一ノ臂(ひぢ)ヲ斬ル。血流レテ地(ぢ)ニ満テリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182」岩波書店)
何も知らない丁蘭が帰宅すると帳台の中から苦痛にうめく声が聞こえてくる。びっくりして帳台を開いて見ると赤い血が床の上を流れている。奇怪に思って母の木像を確かめてみると一方の臂(ひじ)が斬り落とされている。
「丁蘭、帰来(かへりきたり)タルニ、帳(ちやう)ノ内ニ痛ム音(こゑ)聞(きこ)ユ。驚(おどろき)テ帳ノ内ヲ引キ開(ひらき)テ見レバ、現ニ赤キ血、床ノ上ニ流レタリ。怪(あやし)ムデ寄(より)テ見レバ、木ノ母ノ一ノ臂斬リ落サレタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182~183」岩波書店)
丁蘭はあまりの悲惨さに泣き崩れた。そしてこれはきっと、斧を借りるのを断られた隣人のしわざに違いないと考え、ただちに隣家に行って隣人の頭部を斬り落とし、その頭を母の墓前に捧げた。
「丁蘭、此レヲ見テ、泣キ悲(かなしみ)テ、『此レ、隣ノ人ノ所為(しよゐ)也』ト知テ、即チ行テ、隣ノ人ノ頭(かしら)ヲ斬(きり)テ、母ノ墓ニ祭ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.183」岩波書店)
この殺害事件は国王の耳に入った。王は丁蘭の復讐劇に関し、殺人罪に問われるべきとしつつ、それ以上に親孝行ゆえの側面を買って無罪とし、さらに「禄位」(俸給と官位)を与えた。
「其ノ時ニ、国王、此レヲ聞キ給テ、其ノ罪ヲ可行(おこなふべ)シト云ヘドモ、孝養(けうやう)ノ為ト有(ある)ニ依(より)テ、其ノ罪ヲ不問(とは)ズシテ、丁蘭ニ禄位ヲ加ヘタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.183」岩波書店)
さて。第一に見て取れるのは丁蘭による亡き母の神格化である。丁蘭は幼少期に母を亡くしており、その思い出はぼんやりしているため、多くの場合美化されているのが通例。また、故人に関する何か他の形見ではなく敢えて木像の建立が選ばれているのは、仏像あるいは観音像との同一化に似る。その上で始めて母は木彫りの像の姿形で夢に出現することが可能になり、従って説話では様々な予言者の役割を演じる。呪物崇拝〔フェティシズム〕についてマルクスはいう。
「その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の産物がそう見える。これを私は呪物崇拝(フェティシズム)と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第四節・P.136」国民文庫)
神格化の機構についてフロイトはいう。
「ほれこみの現象の中で、最初からわれわれの注意をひいたのは性的な過大評価という現象である。つまりそれは、愛の対象にたいしてある程度批判力を失ってしまって、その対象のすべての性質を、愛していない人物やあるいはその対象を愛していなかった時期に比べて、より高く評価するという事実である。感覚的な追求の抑圧、ないしその制御が少しでも効果があると、対象はその精神的な長所のために、感覚的にも愛されているというような錯覚が起こるが、事実はその反対で、感覚的な魅力がその対象にそんな長所をあたえたのかもしれないのである。
この場合、判断をあやまらせるものは《理想化》の努力である。もしそうだとすると、理論的な見とおしがつけやすくなる。われわれは対象が自分の自我と同じように扱われているために、ほれこみの状態では自己愛的リビドーが大量に対象にそそがれることを認めている。愛の選択の多くの場合に、その対象は自分が到達できない自我理想の代役をしていることさえあるのである。対象が愛されるのは、自分の自我のために獲得しようとつとめた完全さのためであって、この迂り路をへて自分から自己愛の満足のために、この完全さを得たいと願っていたのである。
性的な過大評価とほれこみがさらにすすむと、上記の解釈はますますはっきりしてくる。直接の性的満足をめざす追求は完全に押しこめられるが、それは、たとえば若者の熱狂的な愛にいつも見られるものである。そして、自我はますます無欲で、つつましくなり、対象はますます立派に、高貴なものになる。最後には、対象は自我の自己犠牲が、当然の結果として起こってくる。いわば対象が自我を食いつくしたのである。謙遜と自己愛の制限と自己の損傷、これらの特徴は、どんな場合のほれこみにもつきものなので、極端な場合にも、もっぱらこの特徴がつよめられ、感覚的な要求は後退してしまうために、ただそれだけが支配するようになる。
不幸な、満たされぬ愛の場合とくにそのようになりやすい。というのは、性的満足のたびごとに性的な過大評価は、いつも減じてゆくからである。対象にたいする自我の『献身』と同時にーーーもはやそれは、抽象的理念にたいする昇華された献身と区別されえないがーーー自我理想によって方向づけられていた機能は完全に働かなくなる。自我理想の機能が行使するはずの批判は沈黙し、対象がなすこと欲することは、すべて正当で非難の余地がないものになる。良心は、対象の利益になる一切のものごとには全然適用されなくなる。そのために、愛に目がくらんだ者は犯罪をおかしても悔いをのこさない。このような事態は、すべて、あますところなく次の公式に要約される。すなわち、《対象は自我理想のかわりになったと》」(フロイト「集団心理学と自我の分析」『フロイト著作集6・P.228~229』人文書院)
木彫りの像にしても通常なら無関係な他人がそれを見てもほとんど何ら特別な意味を持たない。だがラカンはいう。
「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.327」岩波書店)
他人が見て何一つ重要性を感じないものでも、或る別の人物にとっては計り知れない価値を持つもの。ラカンが「対象『a』」として上げているそれらは差し当たり「乳房、糞、眼差し、そして声」の四個。しかし身近なところを検討してみると「対象『a』」は意外に数多いことがわかるに違いない。さらに「対象『a』」はしばしば別のものに置き換えられることも考慮すべきかと思われる。そしてそれらはどれも一度は貨幣の位置を占める可能性を含む。
第二に母の像の一方の臂(ひじ)を切断したのが隣人だとなぜわかったのか。丁蘭の隣人が借りにきたのは「斧」。「斧」を借りられなかった隣人は「斧」との連想で「大刀」へと繋げる。いずれにしてもそれは切断するものでなくては意味がなく、切断するものであって始めて両者は繋がる機会を獲得する。そこに怨恨感情が割り込んでいるため、頼みを断られた隣人は丁蘭が普段から最も大切にしているもの・母の像の臂(ひじ)を切断する。臂の傷跡は仏教の場合、《スティグマ》(聖痕)として刻印されることが多い。「法華経」の一節から、七万二千年間、臂(ひじ)を燃やして供養したエピソードを以前引用したが、同じ「法華経」では身体に関する自己破壊行為が目立つ。
「我捨両臂。必当得佛。金色之身。若實不虚。令我両臂。還復如故。
(書き下し)われ両(ふたつ)の臂を捨てて、必ず当に仏の金色(こんじき)の身を得べし。若し実にして虚(むか)しからずんば、わが両つの臂(ひじ)を還復(げんぷく)すること故(もと)の如くならしめん」(「法華経・下・巻第七・薬王菩薩本事品・第二十三・P.192」岩波文庫)
臂だけでなく手足の場合も。
「若有発心。欲得阿耨多羅三藐三菩提者。能燃手指。乃至足一指。供養佛塔。
(書き下し)若し発心して阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得んと欲する者有らば、能く手の指、乃至、足の一指を燃(とも)して仏塔を供養せよ」(「法華経・下・巻第七・薬王菩薩本事品・第二十三・P.194」岩波文庫)
第三にどの事件も丁蘭の不在時に発生している点。普段は「丁蘭・母像・妻」か「丁蘭・母像・隣人」かである。そもそも先に三角関係が出来上がっている。その条件のもとで改めて「丁蘭の不在」という隙間が生じる。例えば、漱石「それから」の中で代助が三千代の中に本当の愛を見出すのは、旧友・平岡の出現によって三角関係が生じたその瞬間である。
「自分と平岡の隔離は、今の自分の眼(まなこ)に訴えてみて、尋常一般の経路を、ある点まで進行した結果に過ぎないと見做(みな)した。けれども、同時に、両人(ふたり)の間に横たわる一種の特別な事情の為、この隔離が世間並よりも早く到着したと云う事を自覚せずにはいられなかった。それは三千代の結婚であった。三千代を平岡に周旋したものは元来が自分であった。それを当時に悔(くゆ)る様な薄弱な頭脳ではなかった。今日に至って振り返ってみても、自分の所作は、過去を照らす鮮やかな名誉であった。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人(ににん)の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てて、その前に頭を下げなければならなかった。そうして平岡は、ちらりちらりと何故(なぜ)三千代を貰ったかと思うようになった。代助は何処かしらで、何故三千代を周旋したかと云う声を聞いた」(夏目漱石「それから・P.120」新潮文庫)
それ以前に代助が三千代を愛していた証拠は毫も見られない。何度読んでも出てこない。出てくるはずもない。代助が三千代の中に愛を見出したのはあくまで平岡が出現して三角関係が生じたからだ。三千代に対する代助の愛は始めからあったわけではまったくなく、逆に三角関係が生じたその瞬間、始めて《見出された》ものだからである。
「今昔物語」所収の説話で丁蘭の不在時に事件が発生するのもまた、「丁蘭・妻」か「丁蘭・隣人」かしかなかった頃ではなく、「丁蘭・母像・妻」か「丁蘭・母像・隣人」かという三角関係が生じて以降、神格化された母像が貨幣のように滑り込んできた後で、という条件のもとにおいてである。
第四に交換関係。(1)「妻による丁蘭の母像の顔面放火」と「丁蘭による妻への愛情の撤収」。(2)「隣人による丁蘭の母像の臂の切断」と「丁蘭が切断した隣人の頭部の母の墓前への奉納」。
なお、香港民主化運動について。問題は諸大国によるマイノリティの管理社会化であり、日本政府も例外なく軍事基地や原発周辺地区の常時監視と強引なプライバシー無視に乗り出した。
「社会のタイプが違えば、当然ながらそれぞれの社会に、ひとつひとつタイプの異なる機械を対応させることができます。君主制の社会には単純な力学的機械を、規律型にはエネルギー論的機械を、そして管理社会にはサイバネティクスとコンピューターをそれぞれ対応させることができるのです。しかし機械だけでは何の説明にもなりません。機械をあくまでも部分として取り込んだ集合的アレンジメントを分析しなければならないのです。近い将来、開放環境に不断の管理という新たな管理の形態が生まれることは確実ですが、これに比べるなら苛酷このうえない監禁ですら甘美で優雅な過去の遺産に見えるかもしれません。『コミュニケーションの普遍相』を追求する執念には慄然とさせられるばかりです」(ドゥルーズ「記号と事件・政治・P.351~352」河出文庫)
世界的な規模で推進される個人情報のダータバンク化、マーケティング。そしてそれらを政治機構が集約し独善的に判断するという新しい全体主義の到来。今の米中だけでなくスターリンやヒトラーといった歴史的人物でさえ泣いて喜ぶに違いない。昨今ではこれら極めて重要かつ多種多様な政治的案件が東京五輪によって覆い隠されようとしている。
BGM1
BGM2
BGM3
漢の時代、河内(かだい)に丁蘭(ていらん)という男性がいた。河内(かだい)は今の中国河南省の黄河以北を指す。
丁蘭は幼少期に母を亡くしていた。十五歳になったのを機に職人に頼んで亡き母そっくりの木製の像を造り、家の中に専用の帳台を設けてその中に祀った。生前同様、朝夕に食膳を備えて礼拝した。朝に出かける時はこれから出かけますと挨拶し、夕方に帰宅すれば帰ってきましたと言う。今日はこんなことがあったと話して聞かせ、世間ではこんなことが起こっているようだと知りうる限りのことをすべて報告した。
「朝(あした)ニ出(いで)行クトテモ、帳ノ前ニ行テ出(い)ヅル由ヲ告グ。夕(ゆふべ)ニ還リ来(きたり)テモ、還レル由ヲ語ル。今日有(あり)ツル事ヲ必ズ云ヒ令聞(きか)シム。惣(す)ベテ世ノ事不語(かたら)ズト云フ事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182」岩波書店)
そんなふうに手厚く取り扱い怠ることなく三年を経た。一方、嫁姑の確執はどこにでもある話でさして珍しくはないものの、丁蘭の妻は極めて嫉妬深い性格だったらしく、母の像に対する丁蘭の丁寧な態度が鬱陶しくてならない。もはや強烈な憎悪で凝り固まっていた。
「如此(かくのごと)ク懃(ねむごろ)ニ孝養(けうやう)シテ、不緩(おこたら)ズシテ既ニ三年ヲ経(へ)ヌルニ、丁蘭ガ妻(め)、悪(あしき)性ニシテ、常ニ此ノ事ヲ憎(そねま)シク悪(にく)ク思ヒケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182」岩波書店)
或る日、丁蘭の外出中、妻は火を用意して木彫りの母の像の顔面を焼いた。その日、丁蘭が帰宅したのはもう夜だったので帳台の中の母の像を覗くことなく寝てしまった。
「而(しか)ル間、丁蘭ガ外(ほか)ニ行キタル間ニ、妻(め)、火ヲ以テ木ノ母ノ形ヲ焼ク。丁蘭、夜ニ入(いり)テ帰来(かへりきたり)テ、木ノ母ノ顔(かたち)ヲ不見(み)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182」岩波書店)
その夜。丁蘭の夢の中に木彫りの母が出現した。そしていう。「そなたの妻はわたしの顔を火で焼いてしまいました」。夢から覚めた丁蘭は何か不審におもい、夜明けを待って母の像を見てみると本当に顔面が焼け焦げている。丁蘭は妻にただならぬ憎悪を覚え、それ以後、これまであった妻への愛情もすっかり消え失せてしまった。
「其ノ夜、丁蘭ガ夢ニ、木ノ母自ラ丁蘭ニ語(かたり)テ云ク、『汝ガ妻、我ガ面(かたち)ヲ焼ク』ト。夢覚(さめ)テ怪(あやし)ミ思(おもい)テ、明(あく)ル朝(あした)ニ行テ見レバ、実(まこと)ニ、木ノ母ノ面(かたち)焼ケタリ。此レヲ見テ後(のち)、丁蘭、其ノ妻ヲ永ク悪(にく)ムデ寵(ちやう)スル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182」岩波書店)
また或る日、隣人がやって来て丁蘭に斧を借してほしいという。丁蘭は母の像に相談してみた。語りかけられた木像の表情はあまり気が進まないように見える。そこで隣人の頼みを断った。すると隣人は激怒。丁蘭が外出している隙(すき)を伺ってこっそり家に忍び込み、持ってきた大刀(たち)で丁蘭の母像の一方の臂(ひじ)を切断した。そこから血が吹き出し、周囲は一面血の海と化した。
「亦、隣ノ人有(あり)テ、丁蘭ニ斧ヲ借ル。丁蘭、木ノ母ニ此ノ事ヲ申スニ、木ノ母ノ不喜(よろこび)ザル気色(けしき)ヲ見知(しり)テ斧ヲ不借(かさ)ズ。隣ノ人大(おほき)ニ忿(イカリ)テ、丁蘭ガ外(ほか)ニ行キタル隙(ひま)ヲ伺(うかがひ)テ蜜(ひそか)ニ来(きたり)テ、大刀(たち)ヲ以テ木ノ母ガ一ノ臂(ひぢ)ヲ斬ル。血流レテ地(ぢ)ニ満テリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182」岩波書店)
何も知らない丁蘭が帰宅すると帳台の中から苦痛にうめく声が聞こえてくる。びっくりして帳台を開いて見ると赤い血が床の上を流れている。奇怪に思って母の木像を確かめてみると一方の臂(ひじ)が斬り落とされている。
「丁蘭、帰来(かへりきたり)タルニ、帳(ちやう)ノ内ニ痛ム音(こゑ)聞(きこ)ユ。驚(おどろき)テ帳ノ内ヲ引キ開(ひらき)テ見レバ、現ニ赤キ血、床ノ上ニ流レタリ。怪(あやし)ムデ寄(より)テ見レバ、木ノ母ノ一ノ臂斬リ落サレタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.182~183」岩波書店)
丁蘭はあまりの悲惨さに泣き崩れた。そしてこれはきっと、斧を借りるのを断られた隣人のしわざに違いないと考え、ただちに隣家に行って隣人の頭部を斬り落とし、その頭を母の墓前に捧げた。
「丁蘭、此レヲ見テ、泣キ悲(かなしみ)テ、『此レ、隣ノ人ノ所為(しよゐ)也』ト知テ、即チ行テ、隣ノ人ノ頭(かしら)ヲ斬(きり)テ、母ノ墓ニ祭ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.183」岩波書店)
この殺害事件は国王の耳に入った。王は丁蘭の復讐劇に関し、殺人罪に問われるべきとしつつ、それ以上に親孝行ゆえの側面を買って無罪とし、さらに「禄位」(俸給と官位)を与えた。
「其ノ時ニ、国王、此レヲ聞キ給テ、其ノ罪ヲ可行(おこなふべ)シト云ヘドモ、孝養(けうやう)ノ為ト有(ある)ニ依(より)テ、其ノ罪ヲ不問(とは)ズシテ、丁蘭ニ禄位ヲ加ヘタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第三・P.183」岩波書店)
さて。第一に見て取れるのは丁蘭による亡き母の神格化である。丁蘭は幼少期に母を亡くしており、その思い出はぼんやりしているため、多くの場合美化されているのが通例。また、故人に関する何か他の形見ではなく敢えて木像の建立が選ばれているのは、仏像あるいは観音像との同一化に似る。その上で始めて母は木彫りの像の姿形で夢に出現することが可能になり、従って説話では様々な予言者の役割を演じる。呪物崇拝〔フェティシズム〕についてマルクスはいう。
「その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の産物がそう見える。これを私は呪物崇拝(フェティシズム)と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第四節・P.136」国民文庫)
神格化の機構についてフロイトはいう。
「ほれこみの現象の中で、最初からわれわれの注意をひいたのは性的な過大評価という現象である。つまりそれは、愛の対象にたいしてある程度批判力を失ってしまって、その対象のすべての性質を、愛していない人物やあるいはその対象を愛していなかった時期に比べて、より高く評価するという事実である。感覚的な追求の抑圧、ないしその制御が少しでも効果があると、対象はその精神的な長所のために、感覚的にも愛されているというような錯覚が起こるが、事実はその反対で、感覚的な魅力がその対象にそんな長所をあたえたのかもしれないのである。
この場合、判断をあやまらせるものは《理想化》の努力である。もしそうだとすると、理論的な見とおしがつけやすくなる。われわれは対象が自分の自我と同じように扱われているために、ほれこみの状態では自己愛的リビドーが大量に対象にそそがれることを認めている。愛の選択の多くの場合に、その対象は自分が到達できない自我理想の代役をしていることさえあるのである。対象が愛されるのは、自分の自我のために獲得しようとつとめた完全さのためであって、この迂り路をへて自分から自己愛の満足のために、この完全さを得たいと願っていたのである。
性的な過大評価とほれこみがさらにすすむと、上記の解釈はますますはっきりしてくる。直接の性的満足をめざす追求は完全に押しこめられるが、それは、たとえば若者の熱狂的な愛にいつも見られるものである。そして、自我はますます無欲で、つつましくなり、対象はますます立派に、高貴なものになる。最後には、対象は自我の自己犠牲が、当然の結果として起こってくる。いわば対象が自我を食いつくしたのである。謙遜と自己愛の制限と自己の損傷、これらの特徴は、どんな場合のほれこみにもつきものなので、極端な場合にも、もっぱらこの特徴がつよめられ、感覚的な要求は後退してしまうために、ただそれだけが支配するようになる。
不幸な、満たされぬ愛の場合とくにそのようになりやすい。というのは、性的満足のたびごとに性的な過大評価は、いつも減じてゆくからである。対象にたいする自我の『献身』と同時にーーーもはやそれは、抽象的理念にたいする昇華された献身と区別されえないがーーー自我理想によって方向づけられていた機能は完全に働かなくなる。自我理想の機能が行使するはずの批判は沈黙し、対象がなすこと欲することは、すべて正当で非難の余地がないものになる。良心は、対象の利益になる一切のものごとには全然適用されなくなる。そのために、愛に目がくらんだ者は犯罪をおかしても悔いをのこさない。このような事態は、すべて、あますところなく次の公式に要約される。すなわち、《対象は自我理想のかわりになったと》」(フロイト「集団心理学と自我の分析」『フロイト著作集6・P.228~229』人文書院)
木彫りの像にしても通常なら無関係な他人がそれを見てもほとんど何ら特別な意味を持たない。だがラカンはいう。
「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.327」岩波書店)
他人が見て何一つ重要性を感じないものでも、或る別の人物にとっては計り知れない価値を持つもの。ラカンが「対象『a』」として上げているそれらは差し当たり「乳房、糞、眼差し、そして声」の四個。しかし身近なところを検討してみると「対象『a』」は意外に数多いことがわかるに違いない。さらに「対象『a』」はしばしば別のものに置き換えられることも考慮すべきかと思われる。そしてそれらはどれも一度は貨幣の位置を占める可能性を含む。
第二に母の像の一方の臂(ひじ)を切断したのが隣人だとなぜわかったのか。丁蘭の隣人が借りにきたのは「斧」。「斧」を借りられなかった隣人は「斧」との連想で「大刀」へと繋げる。いずれにしてもそれは切断するものでなくては意味がなく、切断するものであって始めて両者は繋がる機会を獲得する。そこに怨恨感情が割り込んでいるため、頼みを断られた隣人は丁蘭が普段から最も大切にしているもの・母の像の臂(ひじ)を切断する。臂の傷跡は仏教の場合、《スティグマ》(聖痕)として刻印されることが多い。「法華経」の一節から、七万二千年間、臂(ひじ)を燃やして供養したエピソードを以前引用したが、同じ「法華経」では身体に関する自己破壊行為が目立つ。
「我捨両臂。必当得佛。金色之身。若實不虚。令我両臂。還復如故。
(書き下し)われ両(ふたつ)の臂を捨てて、必ず当に仏の金色(こんじき)の身を得べし。若し実にして虚(むか)しからずんば、わが両つの臂(ひじ)を還復(げんぷく)すること故(もと)の如くならしめん」(「法華経・下・巻第七・薬王菩薩本事品・第二十三・P.192」岩波文庫)
臂だけでなく手足の場合も。
「若有発心。欲得阿耨多羅三藐三菩提者。能燃手指。乃至足一指。供養佛塔。
(書き下し)若し発心して阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得んと欲する者有らば、能く手の指、乃至、足の一指を燃(とも)して仏塔を供養せよ」(「法華経・下・巻第七・薬王菩薩本事品・第二十三・P.194」岩波文庫)
第三にどの事件も丁蘭の不在時に発生している点。普段は「丁蘭・母像・妻」か「丁蘭・母像・隣人」かである。そもそも先に三角関係が出来上がっている。その条件のもとで改めて「丁蘭の不在」という隙間が生じる。例えば、漱石「それから」の中で代助が三千代の中に本当の愛を見出すのは、旧友・平岡の出現によって三角関係が生じたその瞬間である。
「自分と平岡の隔離は、今の自分の眼(まなこ)に訴えてみて、尋常一般の経路を、ある点まで進行した結果に過ぎないと見做(みな)した。けれども、同時に、両人(ふたり)の間に横たわる一種の特別な事情の為、この隔離が世間並よりも早く到着したと云う事を自覚せずにはいられなかった。それは三千代の結婚であった。三千代を平岡に周旋したものは元来が自分であった。それを当時に悔(くゆ)る様な薄弱な頭脳ではなかった。今日に至って振り返ってみても、自分の所作は、過去を照らす鮮やかな名誉であった。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人(ににん)の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てて、その前に頭を下げなければならなかった。そうして平岡は、ちらりちらりと何故(なぜ)三千代を貰ったかと思うようになった。代助は何処かしらで、何故三千代を周旋したかと云う声を聞いた」(夏目漱石「それから・P.120」新潮文庫)
それ以前に代助が三千代を愛していた証拠は毫も見られない。何度読んでも出てこない。出てくるはずもない。代助が三千代の中に愛を見出したのはあくまで平岡が出現して三角関係が生じたからだ。三千代に対する代助の愛は始めからあったわけではまったくなく、逆に三角関係が生じたその瞬間、始めて《見出された》ものだからである。
「今昔物語」所収の説話で丁蘭の不在時に事件が発生するのもまた、「丁蘭・妻」か「丁蘭・隣人」かしかなかった頃ではなく、「丁蘭・母像・妻」か「丁蘭・母像・隣人」かという三角関係が生じて以降、神格化された母像が貨幣のように滑り込んできた後で、という条件のもとにおいてである。
第四に交換関係。(1)「妻による丁蘭の母像の顔面放火」と「丁蘭による妻への愛情の撤収」。(2)「隣人による丁蘭の母像の臂の切断」と「丁蘭が切断した隣人の頭部の母の墓前への奉納」。
なお、香港民主化運動について。問題は諸大国によるマイノリティの管理社会化であり、日本政府も例外なく軍事基地や原発周辺地区の常時監視と強引なプライバシー無視に乗り出した。
「社会のタイプが違えば、当然ながらそれぞれの社会に、ひとつひとつタイプの異なる機械を対応させることができます。君主制の社会には単純な力学的機械を、規律型にはエネルギー論的機械を、そして管理社会にはサイバネティクスとコンピューターをそれぞれ対応させることができるのです。しかし機械だけでは何の説明にもなりません。機械をあくまでも部分として取り込んだ集合的アレンジメントを分析しなければならないのです。近い将来、開放環境に不断の管理という新たな管理の形態が生まれることは確実ですが、これに比べるなら苛酷このうえない監禁ですら甘美で優雅な過去の遺産に見えるかもしれません。『コミュニケーションの普遍相』を追求する執念には慄然とさせられるばかりです」(ドゥルーズ「記号と事件・政治・P.351~352」河出文庫)
世界的な規模で推進される個人情報のダータバンク化、マーケティング。そしてそれらを政治機構が集約し独善的に判断するという新しい全体主義の到来。今の米中だけでなくスターリンやヒトラーといった歴史的人物でさえ泣いて喜ぶに違いない。昨今ではこれら極めて重要かつ多種多様な政治的案件が東京五輪によって覆い隠されようとしている。
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