前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
或る時、「豫洲(よしう)」に一人の老女がいた。「豫(よ)」は旧字体で今は多く「予洲(よしう)」と表記する。予洲(よしう)は今の中国河南省・安徽省周辺。また説話では「預洲」となっているが単なる間違い。老女は若い頃から「神道(じんだう)」を信仰する一方、仏教を恐ろしく憎悪しており世間では「神母(じんも)」と呼ばれて有名だった。普段から仏教寺院のそばには決して近づかず、道を歩いている時たまたま僧侶に出会うと目を閉じてさっさと家に還るのが常だった。
もっとも、中国では近代共産党政権の樹立以降、それら乱立する諸神道を迷信として退けようとしたのは有名だが、そもそも古代から新しい皇帝が誕生するたびに幾つもの弾圧政策が取られてきた。にもかかわらず大山府君に象徴されるような「天帝」を始めとする様々な諸神道は根強く生き残り、中国共産党支配下でも、香港でも、さらには台湾でも種々の神道が信仰されている。その多くは仏教輸入以前から既に存在していたアニミズム・シャーマニズム系の土俗の神々。だが、それだけにかえって地域密着型の様相を呈しており、人類学研究の面だけでなく観光資源としても貴重であるため、特に共産党政権に軍事対立する事態でも起こらない限り公認され、乱立しつつも生き残っている。
或る日、神母(じんも)の家の門前に一頭の「黄牛(あめうじ)」(飴色の牛)が立ち止まった。三日経ってもそこにいる。飼主も名乗り出てこない。そこで神母は「これはきっと神様が下さった牛に違いない」と考え、黄牛を家の中に引き入れようとした。ところが牛ゆえ、とてもではないが老女の力ではどうにもならない。
「而(しか)ル間、一ノ黄牛(あめうじ)有(あり)テ、神母ガ門ノ外(ほか)ニ立テリ。三日ヲ経(へた)ルニ、更ニ牛ノ主(ぬし)ト云フ者無シ。然レバ、神母、『此レ、神ノ給ヘル也』ト思(おもひ)テ、自(みづ)カラ出(い)デテ、牛ヲ家ニ引キ入レムト為(す)ルニ、牛ノ力強クシテ不引得(ひきえ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三・P.97」岩波書店)
神母は服の帯を解き、それを牛の鼻に通して繋ぎ止めておこうとした。すると牛は帯を引きずったまま逃走。神母は牛を追いかけた。逃げた牛は何と仏教寺院の中に逃げ込んだ。神母は忌々しく思いながらも帯を取り戻すのと牛欲しさにしぶしぶ寺の中に入った。仏像が視界に入らないようしっかり目を閉じて背を向けている。
「神母、自(みづ)カラ衣ノ帯ヲ解(とき)テ、牛ノ鼻ニ繋グ程ニ、牛引(ひき)テ逃(にげ)ヌ。神母追(おひ)テ行クニ、牛、寺ニ入(いり)ヌ。神母、此ノ牛及ビ帯ヲ惜ムガ故ニ、目ヲ塞(ふさぎ)テ寺ニ入(いり)テ、面を背(そむけ)て立テリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三・P.97」岩波書店)
一方、僧侶たちはまさかの神母乱入にびっくり。とともに、神母が邪道の信仰者として有名なことを知っていたので慈悲心からどの僧も口々に「南無大般若波羅密多経(なもだいはんにやはらみつたきやう)」と唱えた。すると神母はとんでもない音を聞いてしまったと帯のことも牛のことも忘れてたちまち寺の外へ走り出た。そして水辺に赴き丁寧に耳を洗いながらこういう。「わたしはたった今、たいへん穢れた言葉を耳にしてしまった。例の南無大般若波羅密多経という忌まわしい言葉を」。怒りとも憎悪ともつかない感情にまみれながら帰宅の途についた神母。途中、こみ上げてくる失策の記憶。自己嫌悪が入り混じり後悔しながら「南無大般若波羅密多経」の声を聞いてしまったと三度も繰り返した。帰宅したがもはや牛の姿はどこにも見当たらない。寺に逃げ込んだところは目撃しているものの、その時すでに牛は消え失せていたと思われる。
「神母、此レヲ聞(きき)テ、牛ヲ捨テテ走リ出(い)デテ逃ヌ。水ノ辺(ほとり)ニ臨(のぞみ)テ耳ヲ洗(あらひ)テ云(いは)ク、『我レ、今日、不祥(ふじやう)ノ事ヲ聞キツ。所謂(いはゆ)ル南無大般若波羅密多経(なもだいはんにやはらみつたきやう)也』ト嗔(いかり)テ、三度、此ノ言(こと)ヲ称シテ、家ニ還(かへり)ヌ。牛更ニ不見(みえ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三・P.98」岩波書店)
その後、神母は病気を患って死んだ。神母には嫡女(ちやくによ)=実の娘がいた。世間から狂女呼ばわりされていた母とはいえ、実の娘にとってはかけがえのない大切な母。その死を嘆き悲しんで日々過ごしていた。そんな或る夜、夢の中に亡き母が出てきた。そしていう。「娘よ、わたしは死んだ後、閻魔王の御前に召された。わたしの過去は悪さばかりで善根などちっともない。だが閻魔王はわたしの生前の記録に目を通してよく検証された。しばらくすると微妙ににやっととした表情を浮かべてこう仰る。そなた、般若経の名をお聞きなされたことがあっただろう。ただちに人間界に還って般若経を大切に身に付けておくがよい、と。とはいえ、わたしはもうこの年で寿命は尽きてしもうとるによって生き返ることはできぬ。だが忉利天(たうりてん)に生まれ変わることになった。だから娘よ、そんなぼろぼろになってまで嘆き悲しむ必要はもうないのだよ」。
「我レ、死シテ閻魔王(えんまわう)ノ御前ニ至レリ。我ガ身ニ悪業(あくごふ)ノミ有(あり)テ、全ク少分(せうぶん)ノ善根(ぜんごん)無シ。而(しか)ルニ、王、札ヲ撿(かむがへ)テ、咲(ゑみ)テ宣(のたま)ハク、『汝ヂ、般若(はんにや)ノ名ヲ聞キ奉レル善有リ。速(すみやか)ニ人間(にんげん)ニ還(かへり)テ般若ヲ受持(じゆぢ)シ可奉(たてまつるべ)シ』ト。然リト云ヘドモ、我レ、人業(にんごふ)既ニ尽(つき)テ活(よみがへ)ル事ヲ不得(え)ズシテ、忉利天(たうりてん)ニ生ゼムトス。汝ヂ強(あながち)ニ歎キ悲シム事無カレ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三・P.98」岩波書店)
さて。第一の注目点は「夢」。故人が夢に出てきて予言したり隠されてしまった策略の事実を語って聞かせるパターンが「今昔物語」では圧倒的に多く見られる。この説話もその一つ。また忉利天(たうりてん)について。仏教だけでなく古代インド発祥の様々な宗教でも須弥山(しゅみせん)は天界と同一視される。仏教で忉利天は須弥山の頂上にあるとされ帝釈天が住むといわれる。ガウタマ・シッダールタ(ブッダ・釈迦)の母・マーヤ(摩耶)が忉利天に転生したエピソードは有名。日本の兵庫県・六甲山系にも摩耶の名を持ってきた摩耶山がある。しかしマーヤ(摩耶)はそもそも古代インドのサンスクリット語で、ごく普通に「母」という意味の俗語。
第二にこの説話の読解に当たって、神母(母)は登場するが父は登場しない点に着目しなければならない。例えば早くに母を亡くした僧侶として中世日本で有名な明恵は次のような歌を詠んだ。
「ウキ世(ヨ)ゾト仏ノノリニトクノミカ見(ミ)ルコトゴトニナニカツネナル」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・三四」『中世和歌集・鎌倉編・P.229』岩波書店)
この世は憂き世だと仏が説いていらっしゃるからといってわれら僧もまたこの世は憂き世だと馬鹿の一つ覚えを繰り返していて何になるというのか。見るものすべて本当に常住なものがあろうか。すべて無常だと思い知らなくてはならない。という意味。
さらに明恵はしばしば夢に触れる。
「夢ノ世ノウツツナリセバイカガセムサメユクホドヲマテバコソアレ」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・三五」『中世和歌集・鎌倉編・P.229』岩波書店)
脆(もろ)く儚(はかな)い夢の世が現実であり現実とはまた同時に夢にほかならないのなら、夢幻の世界から覚醒するためには仏の道をじっくり歩んでその時を待つほかない。という意味。
明恵が母を亡くしたのは八歳の時。しばらくして父は戦死。高山寺で修行に励むが名高い寺院の内部は世俗的な空気が充満していた。高僧らは俗塵にまみれて坊主臭く、世間から高い評判を得ることばかり気にしていて仲間同士で陰口を叩き合い、党派闘争に熱中し同僚を叩き落とし嘲笑を浴びせかけて喜んでいる始末。どこへ行っても転がっているのは失望ばかり。厠(かわや)=便所で静寂のうちに心を落ち着けているほうがずっと清浄でいられる気がすると言っている。その意味で明恵は自分の心境を歌にしたためることができた、あるいは歌を詠むことで救われたとも言える。もし仏教施設と内部の党派闘争だけしかなかったとしたら本当にもっと早く自害していたに違いない。
第三に「牛」。古代ギリシア神話に見られるように「牛」はとても重要な動物であり鍵言葉でもある。東アジアでも「牛頭(ごず)天王」というように始めは「神」だった。地獄の鬼へ転化してからもなおスサノオとともに牛頭天王を祀る神社は全国どこにでもある。
第四にこの説話で貨幣の役割を演じているのは間違いなく言語である。「南無大般若波羅密多経」という言葉が閻魔王の記録に載っていた。それを機に神母の忉利天への転生が決まった。
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或る時、「豫洲(よしう)」に一人の老女がいた。「豫(よ)」は旧字体で今は多く「予洲(よしう)」と表記する。予洲(よしう)は今の中国河南省・安徽省周辺。また説話では「預洲」となっているが単なる間違い。老女は若い頃から「神道(じんだう)」を信仰する一方、仏教を恐ろしく憎悪しており世間では「神母(じんも)」と呼ばれて有名だった。普段から仏教寺院のそばには決して近づかず、道を歩いている時たまたま僧侶に出会うと目を閉じてさっさと家に還るのが常だった。
もっとも、中国では近代共産党政権の樹立以降、それら乱立する諸神道を迷信として退けようとしたのは有名だが、そもそも古代から新しい皇帝が誕生するたびに幾つもの弾圧政策が取られてきた。にもかかわらず大山府君に象徴されるような「天帝」を始めとする様々な諸神道は根強く生き残り、中国共産党支配下でも、香港でも、さらには台湾でも種々の神道が信仰されている。その多くは仏教輸入以前から既に存在していたアニミズム・シャーマニズム系の土俗の神々。だが、それだけにかえって地域密着型の様相を呈しており、人類学研究の面だけでなく観光資源としても貴重であるため、特に共産党政権に軍事対立する事態でも起こらない限り公認され、乱立しつつも生き残っている。
或る日、神母(じんも)の家の門前に一頭の「黄牛(あめうじ)」(飴色の牛)が立ち止まった。三日経ってもそこにいる。飼主も名乗り出てこない。そこで神母は「これはきっと神様が下さった牛に違いない」と考え、黄牛を家の中に引き入れようとした。ところが牛ゆえ、とてもではないが老女の力ではどうにもならない。
「而(しか)ル間、一ノ黄牛(あめうじ)有(あり)テ、神母ガ門ノ外(ほか)ニ立テリ。三日ヲ経(へた)ルニ、更ニ牛ノ主(ぬし)ト云フ者無シ。然レバ、神母、『此レ、神ノ給ヘル也』ト思(おもひ)テ、自(みづ)カラ出(い)デテ、牛ヲ家ニ引キ入レムト為(す)ルニ、牛ノ力強クシテ不引得(ひきえ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三・P.97」岩波書店)
神母は服の帯を解き、それを牛の鼻に通して繋ぎ止めておこうとした。すると牛は帯を引きずったまま逃走。神母は牛を追いかけた。逃げた牛は何と仏教寺院の中に逃げ込んだ。神母は忌々しく思いながらも帯を取り戻すのと牛欲しさにしぶしぶ寺の中に入った。仏像が視界に入らないようしっかり目を閉じて背を向けている。
「神母、自(みづ)カラ衣ノ帯ヲ解(とき)テ、牛ノ鼻ニ繋グ程ニ、牛引(ひき)テ逃(にげ)ヌ。神母追(おひ)テ行クニ、牛、寺ニ入(いり)ヌ。神母、此ノ牛及ビ帯ヲ惜ムガ故ニ、目ヲ塞(ふさぎ)テ寺ニ入(いり)テ、面を背(そむけ)て立テリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三・P.97」岩波書店)
一方、僧侶たちはまさかの神母乱入にびっくり。とともに、神母が邪道の信仰者として有名なことを知っていたので慈悲心からどの僧も口々に「南無大般若波羅密多経(なもだいはんにやはらみつたきやう)」と唱えた。すると神母はとんでもない音を聞いてしまったと帯のことも牛のことも忘れてたちまち寺の外へ走り出た。そして水辺に赴き丁寧に耳を洗いながらこういう。「わたしはたった今、たいへん穢れた言葉を耳にしてしまった。例の南無大般若波羅密多経という忌まわしい言葉を」。怒りとも憎悪ともつかない感情にまみれながら帰宅の途についた神母。途中、こみ上げてくる失策の記憶。自己嫌悪が入り混じり後悔しながら「南無大般若波羅密多経」の声を聞いてしまったと三度も繰り返した。帰宅したがもはや牛の姿はどこにも見当たらない。寺に逃げ込んだところは目撃しているものの、その時すでに牛は消え失せていたと思われる。
「神母、此レヲ聞(きき)テ、牛ヲ捨テテ走リ出(い)デテ逃ヌ。水ノ辺(ほとり)ニ臨(のぞみ)テ耳ヲ洗(あらひ)テ云(いは)ク、『我レ、今日、不祥(ふじやう)ノ事ヲ聞キツ。所謂(いはゆ)ル南無大般若波羅密多経(なもだいはんにやはらみつたきやう)也』ト嗔(いかり)テ、三度、此ノ言(こと)ヲ称シテ、家ニ還(かへり)ヌ。牛更ニ不見(みえ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三・P.98」岩波書店)
その後、神母は病気を患って死んだ。神母には嫡女(ちやくによ)=実の娘がいた。世間から狂女呼ばわりされていた母とはいえ、実の娘にとってはかけがえのない大切な母。その死を嘆き悲しんで日々過ごしていた。そんな或る夜、夢の中に亡き母が出てきた。そしていう。「娘よ、わたしは死んだ後、閻魔王の御前に召された。わたしの過去は悪さばかりで善根などちっともない。だが閻魔王はわたしの生前の記録に目を通してよく検証された。しばらくすると微妙ににやっととした表情を浮かべてこう仰る。そなた、般若経の名をお聞きなされたことがあっただろう。ただちに人間界に還って般若経を大切に身に付けておくがよい、と。とはいえ、わたしはもうこの年で寿命は尽きてしもうとるによって生き返ることはできぬ。だが忉利天(たうりてん)に生まれ変わることになった。だから娘よ、そんなぼろぼろになってまで嘆き悲しむ必要はもうないのだよ」。
「我レ、死シテ閻魔王(えんまわう)ノ御前ニ至レリ。我ガ身ニ悪業(あくごふ)ノミ有(あり)テ、全ク少分(せうぶん)ノ善根(ぜんごん)無シ。而(しか)ルニ、王、札ヲ撿(かむがへ)テ、咲(ゑみ)テ宣(のたま)ハク、『汝ヂ、般若(はんにや)ノ名ヲ聞キ奉レル善有リ。速(すみやか)ニ人間(にんげん)ニ還(かへり)テ般若ヲ受持(じゆぢ)シ可奉(たてまつるべ)シ』ト。然リト云ヘドモ、我レ、人業(にんごふ)既ニ尽(つき)テ活(よみがへ)ル事ヲ不得(え)ズシテ、忉利天(たうりてん)ニ生ゼムトス。汝ヂ強(あながち)ニ歎キ悲シム事無カレ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三・P.98」岩波書店)
さて。第一の注目点は「夢」。故人が夢に出てきて予言したり隠されてしまった策略の事実を語って聞かせるパターンが「今昔物語」では圧倒的に多く見られる。この説話もその一つ。また忉利天(たうりてん)について。仏教だけでなく古代インド発祥の様々な宗教でも須弥山(しゅみせん)は天界と同一視される。仏教で忉利天は須弥山の頂上にあるとされ帝釈天が住むといわれる。ガウタマ・シッダールタ(ブッダ・釈迦)の母・マーヤ(摩耶)が忉利天に転生したエピソードは有名。日本の兵庫県・六甲山系にも摩耶の名を持ってきた摩耶山がある。しかしマーヤ(摩耶)はそもそも古代インドのサンスクリット語で、ごく普通に「母」という意味の俗語。
第二にこの説話の読解に当たって、神母(母)は登場するが父は登場しない点に着目しなければならない。例えば早くに母を亡くした僧侶として中世日本で有名な明恵は次のような歌を詠んだ。
「ウキ世(ヨ)ゾト仏ノノリニトクノミカ見(ミ)ルコトゴトニナニカツネナル」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・三四」『中世和歌集・鎌倉編・P.229』岩波書店)
この世は憂き世だと仏が説いていらっしゃるからといってわれら僧もまたこの世は憂き世だと馬鹿の一つ覚えを繰り返していて何になるというのか。見るものすべて本当に常住なものがあろうか。すべて無常だと思い知らなくてはならない。という意味。
さらに明恵はしばしば夢に触れる。
「夢ノ世ノウツツナリセバイカガセムサメユクホドヲマテバコソアレ」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・三五」『中世和歌集・鎌倉編・P.229』岩波書店)
脆(もろ)く儚(はかな)い夢の世が現実であり現実とはまた同時に夢にほかならないのなら、夢幻の世界から覚醒するためには仏の道をじっくり歩んでその時を待つほかない。という意味。
明恵が母を亡くしたのは八歳の時。しばらくして父は戦死。高山寺で修行に励むが名高い寺院の内部は世俗的な空気が充満していた。高僧らは俗塵にまみれて坊主臭く、世間から高い評判を得ることばかり気にしていて仲間同士で陰口を叩き合い、党派闘争に熱中し同僚を叩き落とし嘲笑を浴びせかけて喜んでいる始末。どこへ行っても転がっているのは失望ばかり。厠(かわや)=便所で静寂のうちに心を落ち着けているほうがずっと清浄でいられる気がすると言っている。その意味で明恵は自分の心境を歌にしたためることができた、あるいは歌を詠むことで救われたとも言える。もし仏教施設と内部の党派闘争だけしかなかったとしたら本当にもっと早く自害していたに違いない。
第三に「牛」。古代ギリシア神話に見られるように「牛」はとても重要な動物であり鍵言葉でもある。東アジアでも「牛頭(ごず)天王」というように始めは「神」だった。地獄の鬼へ転化してからもなおスサノオとともに牛頭天王を祀る神社は全国どこにでもある。
第四にこの説話で貨幣の役割を演じているのは間違いなく言語である。「南無大般若波羅密多経」という言葉が閻魔王の記録に載っていた。それを機に神母の忉利天への転生が決まった。
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