遷延性鬱病並びにアルコール依存症治療とそのリハビリのため、これまで洋の東西を問わずほとんどの場合、主に古典文学を取り上げ論じてきた。もっと続けていきたい思いはあるのだが、一方、原文からの引用に関して広告収入などまるで得ていないにもかかわらず『著作権』との絡みがあるらしいとしばしば一部のマスコミで報道される。リハビリは毎日続けないと意味がない。だから引用する場合もその出典を明確にしてきたしそもそもほぼすべてのケースで古典しか取り上げていない。にもかかわらず何を考え出したのか今になって『著作権』がどうのこうのと一部マスコミが言い始めた。しかしリハビリとしての古典文学読解に当たりなぜブログに上げるのかという理由はそれこそリハビリのためである。
ハッシュタグを付けるわけでもなくブログが上位に上がってくるようわざわざブログ運営責任者の企画に参加するわけでもない。もしそうすればブログが上位に上がるか逆に下がるかはわからないけれども、知りたいのはそういうことではまったくなく、実質どれくらいの数の人々がブログに関心を示してくれたかということが問題だからである。それがリハビリにとっては大変重要。ブログに上げてみて、さてどれくらいの人々の目に止まったかがリハビリにとってフィードバック装置として機能する。一部マスコミ関係者が、広告収入を取ってなおかつ引用元未記載のブログを問題視するというのならわかりはしようものの、逆に広告収入を取らずなおかつ引用元記載のブログを問題視するような一方的かつ恫喝的態度の蔓延。精神医学・精神障害の基礎一つ知りもしないような、あるいは本音のところでは精神医療のことなどまるで知りたいとも思っていないような一部マスコミによる極めて理解に乏しい社会の中に身を置いていてはせっかく数十年をかけてきた一連の治療が無駄になってしまいかねない。
従って今後は、別の形態を模索しつつ出来る限りリハビリに資するよう、さらに新しいコンセプトを兼ね備えたブログをつくっていければと思っている。ようやく毎日上げることができるようになってきたブログではあるものの、一部マスコミ(日本での代表的番組はNHK)の利権主義的恫喝報道の煽りのため、またしても途切れ途切れのブログから始め直すほかなくなってしまった。このありさまでは遷延性鬱病に伴う低血圧状態が十年以上改善しないのも仕方ないと諦めざるを得ないというべきなのだが、それでもブログばかりは何とか毎日上げることができるようになってきた矢先だった。実に残念というほかない。これまで付き合って頂いた読者の皆さんには大変申し訳ありませんがご了承願いたいと思っています。
差し当たり種々の裁判で今なお顕著に見られる債権・債務関係への疑問。
「《刑量の決定における恣意性》。ーーーたいていの犯罪者には、ちょうど女たちに子供が与えられるような仕方で刑が与えられる。彼らは、それが悪い結果を招くなどとは夢おもずに、何十回、何百回と同じ行為をつづけてきたのであり、そして突然露顕のときがやってきて、そのあとに罰がくるというわけだ。しかし習慣性というものは、犯罪者が処罰される原因となる行為の罰を、それが習慣的でなかった場合よりも容赦できるものに思わせるはずのものだろう。そこには、抵抗しがたい性癖というものができてしまっているからである。しかし実際には反対に、犯罪者が常習犯の嫌疑をかけられるときは、そうでないときよりも過酷な刑を科せられ、習慣性は一切の情状酌量に対する反対事由と見なされてしまう。これとは逆に、ふだんは模範的な生活を送っている者が、それだけいっそうこれとおそろしい対照をなす犯罪を行なったときには、彼の有罪性はいっそう顕著に見えるはずであろう!しかし実際には、この場合かえって刑が緩和されるのが普通である。かくして、すべては犯罪者を基準に量られるのではなく、社会と社会のうける危害を基準に計られるのだ。そして、或る人間の過去における有益な行状が彼の一回の有害な行状とひきかえに計算され、過去の有害な行状が現在露顕した有害な行状に加算され、これによって計量は最高に計算されるのである。しかし、こうして或る人間の過去が同時に罰せられたりあるいは同時に報いられ(報いられる、といってもこれは罰せられるときのことで、つまり刑の軽減が報償となる場合である)たりするのであれば、もっとさかのぼって、あれやこれやの過去の原因を罰したり報いたりすべきではなかろうか。わたしが考えているのは、両親や教育者や社会などである。そうすれば、多くの場合《裁判官》自身も何らかの仕方で罪にあずかっているさまが見られることだろう。過去を罰すると言いながら犯罪者の過去だけしか問題にしないのは、恣意的である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二八・P.292~293」ちくま学芸文庫)
さらに日本国内でこのところ酷く少ない時間のうちに酷く多くの法律が国民の間に周知されないまま立ちどころに成立している件について。
「或るシナ人が言った、国家が没落にひんするとき、多くの法律がしかれるということを聞いたことがあると」(ニーチェ「権力への意志・下巻・七四五・P.262」ちくま学芸文庫)
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ハッシュタグを付けるわけでもなくブログが上位に上がってくるようわざわざブログ運営責任者の企画に参加するわけでもない。もしそうすればブログが上位に上がるか逆に下がるかはわからないけれども、知りたいのはそういうことではまったくなく、実質どれくらいの数の人々がブログに関心を示してくれたかということが問題だからである。それがリハビリにとっては大変重要。ブログに上げてみて、さてどれくらいの人々の目に止まったかがリハビリにとってフィードバック装置として機能する。一部マスコミ関係者が、広告収入を取ってなおかつ引用元未記載のブログを問題視するというのならわかりはしようものの、逆に広告収入を取らずなおかつ引用元記載のブログを問題視するような一方的かつ恫喝的態度の蔓延。精神医学・精神障害の基礎一つ知りもしないような、あるいは本音のところでは精神医療のことなどまるで知りたいとも思っていないような一部マスコミによる極めて理解に乏しい社会の中に身を置いていてはせっかく数十年をかけてきた一連の治療が無駄になってしまいかねない。
従って今後は、別の形態を模索しつつ出来る限りリハビリに資するよう、さらに新しいコンセプトを兼ね備えたブログをつくっていければと思っている。ようやく毎日上げることができるようになってきたブログではあるものの、一部マスコミ(日本での代表的番組はNHK)の利権主義的恫喝報道の煽りのため、またしても途切れ途切れのブログから始め直すほかなくなってしまった。このありさまでは遷延性鬱病に伴う低血圧状態が十年以上改善しないのも仕方ないと諦めざるを得ないというべきなのだが、それでもブログばかりは何とか毎日上げることができるようになってきた矢先だった。実に残念というほかない。これまで付き合って頂いた読者の皆さんには大変申し訳ありませんがご了承願いたいと思っています。
差し当たり種々の裁判で今なお顕著に見られる債権・債務関係への疑問。
「《刑量の決定における恣意性》。ーーーたいていの犯罪者には、ちょうど女たちに子供が与えられるような仕方で刑が与えられる。彼らは、それが悪い結果を招くなどとは夢おもずに、何十回、何百回と同じ行為をつづけてきたのであり、そして突然露顕のときがやってきて、そのあとに罰がくるというわけだ。しかし習慣性というものは、犯罪者が処罰される原因となる行為の罰を、それが習慣的でなかった場合よりも容赦できるものに思わせるはずのものだろう。そこには、抵抗しがたい性癖というものができてしまっているからである。しかし実際には反対に、犯罪者が常習犯の嫌疑をかけられるときは、そうでないときよりも過酷な刑を科せられ、習慣性は一切の情状酌量に対する反対事由と見なされてしまう。これとは逆に、ふだんは模範的な生活を送っている者が、それだけいっそうこれとおそろしい対照をなす犯罪を行なったときには、彼の有罪性はいっそう顕著に見えるはずであろう!しかし実際には、この場合かえって刑が緩和されるのが普通である。かくして、すべては犯罪者を基準に量られるのではなく、社会と社会のうける危害を基準に計られるのだ。そして、或る人間の過去における有益な行状が彼の一回の有害な行状とひきかえに計算され、過去の有害な行状が現在露顕した有害な行状に加算され、これによって計量は最高に計算されるのである。しかし、こうして或る人間の過去が同時に罰せられたりあるいは同時に報いられ(報いられる、といってもこれは罰せられるときのことで、つまり刑の軽減が報償となる場合である)たりするのであれば、もっとさかのぼって、あれやこれやの過去の原因を罰したり報いたりすべきではなかろうか。わたしが考えているのは、両親や教育者や社会などである。そうすれば、多くの場合《裁判官》自身も何らかの仕方で罪にあずかっているさまが見られることだろう。過去を罰すると言いながら犯罪者の過去だけしか問題にしないのは、恣意的である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二八・P.292~293」ちくま学芸文庫)
さらに日本国内でこのところ酷く少ない時間のうちに酷く多くの法律が国民の間に周知されないまま立ちどころに成立している件について。
「或るシナ人が言った、国家が没落にひんするとき、多くの法律がしかれるということを聞いたことがあると」(ニーチェ「権力への意志・下巻・七四五・P.262」ちくま学芸文庫)
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