白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/八十歳の嫗(おうな)・山頂の卒堵婆の語り部

2021年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、高山の麓に八十歳くらいの嫗(おうな)が暮らしていた。山頂に一基の卒堵婆があった。嫗は毎日欠かさず麓の家から山を登り山頂の卒堵婆を拝んでいた。雨の日も風の日も雷鳴も恐れず、凍てつきそうな真冬も耐え難い真夏日も山頂まで登っていた。もう数年来そうしていた。麓の里に住んでいる人々もなぜ嫗が毎日登山するのか理由を知らなかった。だからただ単に変わり者の老人が卒堵婆を拝みに行くのだろうと思っていた。

真夏の或る日、麓の里に住む若い男子ら数人が登山して山頂の卒堵婆の日陰で涼んでいた。いつものように嫗が現われ卒堵婆を拝んだついでにその周囲をてくてくと巡っている。何をしているのかよくわからない。若者らは何度もその姿を見ているので、一体何をしているのか一度尋ねてみようと嫗に声をかけた。「婆さんよ、俺たち若い者でもここまで登ってくると日陰で涼むことにしているけれど、あんたはこんな暑い日にここに来ても一向に涼もうともせず卒堵婆の周囲をてくてく巡り歩いてそうしてそのまま帰っていく。理由があるならそれを教えてくれませんか」。若者らは老婆の行動を不審に思っているらしい。

「嫗ハ、何ノ心有(あり)テ、我等ガ若キソラ冷(すず)マムガ為ニ来(きた)ルソラ猶苦シキニ、冷マムガ為ナメリト思ヘドモ、冷ム事モ無シ。亦、為(す)ル事モ無キニ、老(おい)タル身ニ、毎日(ひごと)ニ上リ下(お)ルルゾ。極(きはめ)テ怪シキ事也。此(この)故令知(しらし)メ給ヘ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十六・P.374」岩波書店)

嫗は答える。山頂の卒堵婆を見に来るようになったのは何も最近のことではないのだよ。自分が物心ついた頃からかれこれもう七十年ばかり続けていることでな。毎日来ておるんじゃ。嫗がいうと若い男子らはますます不審に思い、なぜかなのかそのわけを知りたいという。嫗は説明し始めた。「それはこういうことじゃ。わしのお父さんは百二十歳で死んだ。おじいさんは百三十歳で死んだ。さらにその父や祖父は二百歳ばかりで死んだ。だから遠い昔から家に伝えられてきた話じゃ。この卒堵婆にもし血が付くことがあったら、この山は崩れて深い海になること間違いないとな。わしのお父さんがそう言うとった。家は山のすぐ麓にあるじゃろ。もし山崩れが起きたらわしの家も子や孫たちも死んでしまう。もうお父さんは亡くなってしもうとるけん、今は代わりにお婆のわしが卒堵婆に血が付いておらんかと見に来ることにしておるんじゃ」。

「己レガ父ハ百二十ニテナム死ニシ。祖父(おほぢ)ハ百三十ニシテナム死ニシ。亦、其レガ父ヤ祖父ナドハ二百余(にひやくにあまり)テナム死ニケリ。其等ガ云ヒ置キケルトテ、『此ノ卒堵婆ニ血ノ付カム時ゾ、此ノ山ハ崩レテ深キ海ト可成(なるべ)キ』ト父ノ申シ置(おき)シカバ、麓ニ住ム身ニテ、山崩レバ打チ襲ハレテ死ニモゾ為(す)ルトテ、『若(もし)血付カバ、逃(にげ)テ去ラム』ト思テ、カク毎日(ひごと)ニ卒堵婆ヲ見ル也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十六・P.374」岩波書店)

そう聞かされた里の若い男子らは余りに突拍子もない老婆の話に滑稽さを抑えきれず笑ってしまった。嘲(あざけ)りの調子が籠っている。「そうかそうか。もし山崩れが起きそうな時は俺たちにもしっかり教えてくれよな」。嫗は大真面目にいう。「もちろん。何ゆえわたし一人逃げて生き残り、そなたらに教えないことなどあろうか」。

「然(しか)也。何(いか)デカ、我レ独リ生カムト思テ、不告申(つげまうさ)ザラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十六・P.375」岩波書店)

嫗はそういうと、またてくてくと麓の家へ帰っていった。その後、若者たちは老婆を怖がらせてからかってやろうと相談し、それぞれわざと自分の血を絞り出して卒堵婆にべとべと塗り付けしたたらせておいた。若者らは笑いをこらえながら言う。明日ここに婆さんが来たら仰天して山から降りてきて里をじたばたと走りながら馬鹿馬鹿しい警告を触れ回るに違いない。そして下山すると、里の人々にもこの話を語って聞かせた。

「此ノ麓ナル嫗ノ、毎日(ひごと)ニ上(のぼり)テ峰ノ卒堵婆ヲ見ルガ怪シケレバ、其ノ故ヲ問フニ、然々(しかしか)ナム云ヒツレバ、明日怖(お)ドシテ令走(はしらし)メムトテ、卒堵婆ニ血ヲナム塗(ぬり)テ下(おり)ヌル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十六・P.375」岩波書店)

すると里の他の人々も呆れた顔で、それはそれは、きっと大変な山崩れが起きるだろうよと言って笑い合った。一方、嫗は自分が笑いものにされてしまっていることを知らない。翌日も老体に鞭打ってあえぎながら山頂まで登った。いつもの卒堵婆を見ると濃い色の血が塗りつけられてべっとりしたたり落ちている。驚いた嫗は転がるように里に戻り皆に呼びかけた。「みんな、一刻も早くここから逃げなされ。そうでないと命がない。山が崩れて海に代わってしまうから!」。

「此ノ里ノ人、速(すみやか)ニ此ノ里ヲ去(さり)テ、命ヲ可生(いくべ)シ。此ノ山、忽(たちまち)ニ崩レテ深キ海ト成(なり)ナムトス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十六・P.375」岩波書店)

そう告げて廻ると嫗はさっそく家にいる子・孫に逃げるようにいい、家財道具など荷物を持たせてとっとと里から離れたところへ去って行った。それを眺めていた若い男子らは嘲り笑いが止まらない。げたげた笑い合っていると、しかし、どこがどうということもないのだが、周囲にざざあっと気味の悪い音が響いた。風か雷だろうと思っていると暗雲が立ち込め、空一面たちまち真っ暗になった。男子らの笑いがやんだ。その途端、山が揺れた。里の人々も何事かと思って見ると、ただただ猛烈な勢いでどんどん山が崩れてくる。「婆さんが言っていたことは本当だったのか」と喚きののしりながら皆は逃げようと慌てた。その時、偶然逃げることができた者がいたとはいえ、親は行方不明、子はどの道へ逃げたのかもわからない。言うまでもなく家財道具を持ち出している暇などない。里は阿鼻叫喚の巷と化した。

「而(しか)ルニ、此ノ山動(ゆる)ギ立タリ。『此レハ何々(いかにいか)ニ』ト罵(ののし)リ合タル程ニ、山(やま)只崩レニ崩レ行ク。其ノ時ニ、『嫗、実(まこと)ヲ云ヒケル物ヲ』ナド云テ、適(たまたま)ニ逃得(にげえ)タル輩(ともがら)有リト云ヘドモ、祖(おや)ノ行キケム方(かた)ヲ不知(しら)ズ、子ノ逃(にげ)ケム道ヲ失ヘリ。況(いはむ)ヤ、家ノ財(たから)・物ノ具知ル事無クシテ、音(こゑ)ヲ挙(あげ)テ叫ビ合タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十六・P.376」岩波書店)

嫗は子・孫を引き連れて家財道具もあらかじめ準備していたため事前に逃げ去り、他の里へ移住して無事に暮らしていく余裕があった。逆に老婆の言動を嘲笑っていた人々は余裕などまったくなく、気持ちの準備も出来ていなかったため逃げ遅れ、全員死亡した。

「此ノ嫗一人ハ、子・孫引キ具シテ、家ノ物ノ具共(ども)一ツ失フ事無クシテ、兼(かね)テ逃ゲ去テ、他ノ里ニ静(しづか)ニ居タリケル。此ノ事ヲ咲(わら)ヒシ者共(ども)ハ、不逃敢(にげあへ)ズシテ、皆死(し)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十六・P.376」岩波書店)

さて。古くから言い伝えられてきた事態が現実に起こったわけだが、そもそも卒堵婆がなぜ高山の山頂にあるのか。卒堵婆というと誰しも思い浮かべるのは墓のことだが、この説話では明らかに石塔である。しかもそれは高山の山頂に設けられた特別なものだ。おそらく古くは祭祀場だったに違いない。百年二百年を経るうちになぜその場所に祭祀場としての卒堵婆が建立されたかという理由はすっかり忘れ去られた。ただ、老婆の家にのみ伝承として細々と伝えられてきた昔話になってしまっていた。古代人の思想というのはニーチェが指摘するようにそう安易に単純化して笑って済ませることができない場合が少なくない。ニーチェは古代から現代を見ること、並びに現代から古代を見ること、両方とも大事だという。もっとも、説話では「卒堵婆に血が付いていれば逃げること」という条件に変換されている。それは老婆の家にのみ伝えられることになった一種のサインであって、本来は別の文章に翻訳することが出来るものだったのだろう。ところが長い年月を経るうちにそもそもその場に特別な意味を帯びた卒堵婆が建立された実際の理由は忘れ去られてしまい、伝承だけが語り継がれることになった。結果的に老婆の家のみ村の歴史の語り部の役割を果たす家として唯一残されたのである。また、しかしなぜ「血」なのか。卒堵婆は大惨事があったり怨霊の鎮魂のために建立されるのが通例。だから悪戯であろうとなかろうと卒堵婆に「血」を付けることはタブーだった。今でもそうだ。盆休みに帰省して墓参りに出かけたとしよう。墓が血塗れにされていたとしたらどう思うだろうか。山崩れは起こらないとしてもそれ以前に一体誰がそのような質(たち)のよくない悪戯(いたずら)を仕掛けたのか、或いは知らないうちに凄惨な事件現場になっていたのか。社会不安を煽る悪質な行為であることは間違いない。

しかし重要なのは、第一に、墓所でもないのになぜか高山の山頂に設けられた卒堵婆があるとすれば、それは明らかに何らかのシニフィアン(意味するもの)であると同時に貨幣と同じく覆い隠すものでもある。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

伝承という形式でしか残されないし、伝承としてすらもはや効果を失っている場合が少なくないだろう。シニフィアン(意味するもの)ばかりが目に見えていて、シニフィエ(意味されるもの)はとっくの昔に記憶の彼方へ消え失せているという状態。柳田國男は「飯盛山」について言っている。

「飯盛(いいもり)山は、通例山の形が飯を盛り上げた形に似ているからこの名があるというが、それだけでは命名の理由の不明な飯盛山が、自分の集めているだけでも、全国にわたって百以上もある。いずれも形の整った孤峰であるが、一方には、飯盛塚というものが無数にある。単に形似の偶然によって、気軽に命名したとはとうてい考えられないほど無数にある。自分等の推測では、平野の中に起った村で神を祀る場合、山村で神を祀ると同じように、特に高く土を盛ったものと見る。山の名と塚の名と共通しているのは、飯盛山ばかりではない。茶臼(ちゃうす)山、茶臼岳が多いと同時に、茶臼塚が無数にある。かめ塚とかめ山ともまた非常に数が多い。一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚という風に、神様がある所には、同名の塚のある例がたくさんある。そこで、天然に存在する嶺も、人工によって成ったところの一丈二丈の塚も、信仰上共通の要素を有しておったと想像することができる」(柳田國男「民俗学上における塚の価値・飯盛山と飯盛塚」『柳田國男全集15・P.555』ちくま文庫)

柳田の頭にあるのは多分、山神と生贄の風習である。今でもご飯を盛ったお椀の上に箸を刺してはいけないと言われる。そこに先祖の魂が留まるからとされ、先祖ならまだしもどこの何とも知れない悪霊が引っかかるとかいう。もっとも、迷信には違いないとはいえ、人々は迷信から逃れることがなかなかできない。できるのならとっくの昔に葬儀の風習は消え失せていたに違いない。そうでなければなぜ葬儀の風習が残り続けているのか説明がつかない。「けじめ・節(ふし)・ミソギ」など、ただ単に金銭だけでは片付けにくい入り組んだ複数の事情があったのは確実といえそうだ。実際、例えば京都にはたくさんの御霊社が密集している。地方でもまた古代から江戸末期まで幼児を大量殺戮した場所や繰り返し自然災害に見舞われた地域にはそのようなシニフィアン(意味するもの)が残されているところは幾らもある。古代のおかしな伝説が現代の科学的研究結果で実は事実だったというケースは少し前に紹介した。東南アジアに棲息する或る種の鳥の羽から毒物を抽出することができる。「鴆毒(ちんどく)」の場合。

「唯母為后、而子為王、則令無不行、禁無不止、男女之楽不滅於先君、而万乗不疑、此鴆毒扼昧之所以用也

(書き下し)唯(た)だ母は后と為りて子は王と為らば、則ち令は行なわれざる無く、禁は止(や)まざる無く、男女の楽しみは先君に減ぜず。而して万乗を擅(ほしい)ままにして疑わず。此れ鴆毒(ちんどく)扼(やく)昧(まい)の用いらるる所以なり。

(現代語訳)母が太后となり、子が君主となりさえすれば、命令はすべて行なわれ、禁令はすべて守られて、男女の間の楽しみごとも先君の生前よりも自由になり、大国を思いのままにあやつってはばかることもない。それこそ、君主に対して鴆毒(ちんどく)の暗殺や絞殺・首斬りが行なわれる理由である」(「韓非子1・備内・第十七・二・P.313~315」岩波文庫)

第二に変化について。(1)父・祖父(男性)の系列から嫗(女性)の系列への語り部の転移。(2)「宇治拾遺物語」にこうある。「あざけりわらひし物どもは、みな死(しに)にけり」(「宇治拾遺物語・巻第二・十二・P.71」角川文庫)。昔話ではよくあるパターン。笑う側が笑われる側へ転倒する。(3)象徴的な伝承。「山」から「海」への転化。(4)一方に「若者」。もう一方に「老人」。顕著な両極性。

ところで趣向は変わるが、西鶴は「好色五人女・巻四・恋草からげし八百屋物語」(八百屋お七)の中で、お七が処刑された後、病の癒えた愛人の吉三郎が寺の境内でお七の卒塔婆を見つけるシーンがある。どのようにして見つけたか。「卒塔婆の新しきに心を付けて見しに、その人の名に驚きて」始めてわかった。お七の健気さを思うとさっそく切腹せずにはいられなくなった。その寸前で住職が止めに入る。しかしその理由は吉三郎個人の自害のみではなく、吉三郎にはもう一人の愛人=「兄弟契約(けいやく)の御方(おんかた)」がいたため、勝手なことをしてもらっては困るというものだった。吉三郎には同性愛(男色)の兄分がいた。

「中々(なかなか)死ぬれば、恨みを恋もなかりしに、百ヶ日に当(あた)る日、枕始めて上(あが)り、杖竹(つゑだけ)を便(たよ)りに、寺中静かに初立(うひだ)ちしけるに、卒塔婆の新しきに心を付けて見しに、その人の名に驚きて、『さりとては、知らぬ事ながら、人はそれとはいはじ。おくれたるやうに取沙汰(とりざた)も口惜し』と。腰の物に手を掛けしに、法師取りつき、さまざま留(とど)めて、『とても死すべき命ならば、年月語りし人に暇乞(いとまごひ)をもして、長老様(ちやうろうさま)にもその断(ことわ)りを立て、最後(さいご)を極(きは)め給へかし。子細(しさい)は、そなたの兄弟契約(けいやく)の御方(おんかた)より、当寺へ預け置き給へば、その御手前への難儀(なんぎ)、かれこれ思召(おぼしめ)し合(あは)させられ、この上ながら憂名(うきな)の立たざるやうに』と、諫(いさ)めしに、この断(ことわ)り至極(しごく)して、自害思ひとどまりて、とかくは、世にながらへる心ざしにはあらず」(日本古典文学全集「好色五人女・巻四・五・様子あつての俄坊主」『井原西鶴集1・P.399~400』小学館)

一旦自害は留まった吉三郎だが生きていく気持ちはもはやなかった。出家してしまう。すると今度は男色の兄分も故郷の松前(まつまえ)に帰り、出家して法師になった。

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