前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
或る時、「民部ノ尚書(じやうじよ)」=「民部省長官」を務める載(さい)ノ索胄(さくちう)という人物がいた。武昌公(ぶしやうこう)という号を贈られていた。また、「舒洲(じよしう)」に沈裕(しんゆ)という「別駕(べつが)」=「補佐官」がいた。「舒洲(じよしう)」は今の中国安徽省懐寧県。索胄(さくちう)と沈裕(しんゆ)とはどこで馬が合ったのか大変仲が良く、二人の友情は何年間も途切れることがなかった。しかし貞観七年(六三三年)、索胄(さくちう)は突然死した。
翌貞観八年八月、沈裕が舒洲にいる時の夢に死んだはずの索胄が出てきた。夢で沈裕はなぜか長安の都にいて、義寧里(ぎねいり)の南の街区をふらふら歩いている。義寧里は長安城の東北部に実際にあった居住区。すると目の前に索胄が忽然と出現した。古くてよれよれになった服を着ており顔色は著しく衰弱している模様。
「我ガ身、京師(けいし)ニ有(あり)テ、義寧里(ぎねいり)ノ南ノ堺(さかひ)ヲ行クニ、忽ニ索胄、旧(ふる)ク弊(つたな)キ衣ヲ着テ、形(かた)チ甚ダ衰ヘタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第十六・P.203」岩波書店)
沈裕は索胄に問うた。「そなたは生前、仏法に則った供養を行い善根も積んでらした。しかし今の風貌はいかにも裏さびれて見るも無惨。何かあったのか」。索胄は答えた。
「わたしは生前、自分のミスで一人の人間を冤罪に仕立て上げ処刑してしまったことがあった。それが発覚したわけだ。さらにわたしが死んだ後、他人が別の宗教の慣例に従って羊を殺し、わたしの祭壇に供える祭祀を行なった。そのことがわたしに関する罪として加算され、今や言葉では到底言い尽くせない阿鼻叫喚の苦悶にもがき苦しんでいる。しかしその罪もようやく終わりに近づいているところだ」。
「我レ、生(いき)タリシ時、誤(あやまち)テ一(ひとり)ノ人ヲ公(おほやけ)ニ奏シテ殺セリキ。亦、我レ死(しに)テ後、他ノ人有テ、一ノ羊ヲ殺シテ祭ル事有リ。此ノ二ノ事ノ咎(とが)ニ依(より)テ、身ノ苦ビ不可云尽(いひつくすべから)ズ。然リト云ヘドモ、今其ノ罪畢(をはり)ナムトス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第十六・P.204」岩波書店)
少し息をついで索胄は沈裕にいう。「わたしが生きていた頃、そなたはわたしと大変仲良くしてくれた。一方、こう言ってはなんだが、そなたは今なおこれといった官位にまったく恵まれていないようだ。わたしとしては違和感を覚えずにはおれない。ただしそなた、気を落とすことはないよ。このたび、そなたが五位の位(くらい)に任命される文書が上がってくる。ちょうど天帝にお会いするところだ。お互い助け合ってきた仲だからそのことを知らせようと思ってやって来た」。
「我レ、生タリシ時、君ト中善カリキ。而(しか)ルニ、君、未(いま)ダ官位ニ遇フ事無シ。我レ、心ニ深ク恨ミトス。但シ、君、今五品(ごほん)ノ文書(もんじよ)ニ依テ、既ニ天曹(てんさう)ニ会ハムトス。相(あ)ヒ助ケテ慶(よろこび)トセム。此ノ故ニ相ヒ報ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第十六・P.204」岩波書店)
そこで沈裕の夢は覚め索胄の姿も消え失せた。沈裕は夢で見たことを親しい者らに話して聞かせるとともに、夢で索胄が教えてくれたように五位の官位が得られるよう願った。その年の冬、沈裕は長安での任官選考に当たって上京した。ところが選考過程で沈裕は一度禁錮刑を受けていることが選任官の目に止まって問題視され、出世の道はあっけなく閉ざされてしまった。長安からの帰り、沈裕は周囲の者らに向かい、夢のお告げのようにはいかないものだなと落胆の言葉を漏らした。
そして貞観九年の春を迎えた或る日。沈裕は「江南(かうなん)」=「長江(ちょうこう)・揚子江(ようすこう)から南の地域」へとぼとぼ帰途につき、ようやく勤め先の舒洲(じよしう)に到着した時、中央からの任命書を頂戴した。五位の位(くらい)への昇進が決まり「務洲(むしう)」(今の中国貴州省婺川県)の補佐官への登用を命じる通知だった。索胄が夢で言っていたことは本当だったと旧友の恩愛に思いを馳せた。
「而ル程ニ、同ジキ九年ノ春、沈裕、江南(かうなん)ト云フ所ニ帰(かへり)ナムトシテ行ク。舒洲(じよしう)ニ至ルニ、忽ニ詔書ヲ奉(うけたま)ハリテ、沈裕ニ五品(ごほん)ヲ授(さづけ)テ、務洲(むしう)ノ治中(ぢちう)ト成レリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第十六・P.204」岩波書店)
さて。第一に交換関係。生前の索胄は仏法に則り善根を積み供養に励む信者。にもかかわらず地獄行きになっている。理由は(1)国王に告げて冤罪者を処刑した件。(2)他人の行いとはいえ別の宗教に則り、殺した羊を祭壇に祭る祭祀が生前の索胄と無関係でないと見なされた件。
神仙思想・儒教・道教など幾つもの宗教が乱立闘争に血道を上げていたこの頃は、仏教もまた他の宗派に負けず劣らず戦闘的だった。このような事態は或る地域(この場合はインド)から別の地域(この場合は古代中国)への仏教輸入の過程で起こった事態の象徴とされているが、中国の仏教にのみ限ったことではまったくなく、他の宗教・他の地域でも繰り返し血の海と化した地域は山ほどもある。仏教と一言で言ってみても始まらないし終わらない。そんな場合は「ブッダの言葉」を振り返ってみるのが良いかもしれない。
第一に「無常」とは何か。
「この世における人々の命は、定まった相(すがた)がなく、どれだけ生きられるか解(わか)らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている」(「ブッダのことば・第三・八・五七四・P.129」岩波文庫)
第二に「不羈独立」について。
「妻子も、父母も、財宝も穀物(こくもつ)も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め」(「ブッダのことば・第一・三・六十・P.20~21」岩波文庫)
「歯牙(しが)強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥(ざが)に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め」(「ブッダのことば・第一・三・七三・P.22」岩波文庫)
「親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵(ちり)が生ずる。親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者のさとりである」(「ブッダのことば・第一・十二・二〇七・P.47」岩波文庫)
「『諸々の従属の中に大きな危険がある』と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである」(「ブッダのことば・第三・十二・七五三・P.168」岩波文庫)
第三に「心身の衛生学」について。
「血統(けっとう)を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも己(おの)が親戚(しんせき)を軽蔑(けいべつ)する人がいる、ーーーこれは破滅への門である」(「ブッダのことば・第一・六・一〇四・P.30」岩波文庫)
「酒肉に荒(すさ)み、財を浪費する女、またはこのような男に、実権を託すならば、これは破滅への門である」(「ブッダのことば・第一・六・一一二・P.31」岩波文庫)
「修行者は時ならぬのに歩き廻るな。定(さだ)められたときに、托鉢(たくはつ)のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著(しゅうじゃく)に縛られるからである。それ故に諸々の<目ざめた人々>は時ならぬのに出て歩くことはない」(「ブッダのことば・第二・十四・三八六・P.80」岩波文庫)
第四に「復讐心(ルサンチマン)」について。
「人が生まれたときには、実に口の中には斧(おの)が生じている。愚者は悪口(わるくち)を言って、その斧によって自分を斬り割(さ)くのである」(「ブッダのことば・第三・十・六五七・P.146」岩波文庫)
「これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろな質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ」(「ブッダのことば・第四・十四・九一八・P.200」岩波文庫)
「ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。ーーー自分の道を堅(かた)くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、『愚かである』、『不浄の教えである』、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう」(「ブッダのことば・第四・十二・八九二~八九三・P.195~196」岩波文庫)
第五に人々が「武器を執って殺し合う」のはなぜかについて。
「殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執(と)って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭(いと)い離れたその衝撃を宣(の)べよう。ーーー水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。ーーー世界はどこも堅実(けんじつ)ではない。どの方角もすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。ーーー(生きとし生けるものは)終極においては違逆に会う(青春が終わったときには老いに襲われる)のを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜(ひそ)んでいるのを見た。ーーーこの(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を引き抜いたならば、(あちこち)を駈(か)けめぐることもなく、沈むこともない」(「ブッダのことば・第四・十五・九三五~九三九・P.203」岩波文庫)
これらを参照しつつニーチェはこう述べた。
「仏教が実在性一般を《否定した》のは(仮象性=苦悩)完全に首尾一貫している。すなわち、『世界自体』が、証明されえず、到達されえず、範疇を欠くとされているのみならず、このものの全概念を獲得せしめる《手続きが誤っていることが洞察されている》。『絶対的実在性』、『存在自体』は、一つの矛盾なのである」(ニーチェ「権力への意志・下・五八〇・P.114」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいう「実在性一般の否定・実体というものは実はない」という指摘について、例えば「般若心教」冒頭部でもこう書かれている。
「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
(書き下し)色(しき)は空(くう)に異ならず。空(くう)は色(しき)に異ならず。色(しき)はすなわちこれ空(くう)、空(くう)はすなわちこれ色(しき)なり。
(サンスクリット原典からの邦訳)この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実態がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである」(「般若心教」『般若心経・金剛般若経・P.10〜11』岩波文庫)」
要するに、すべては常に流動し生成変化しているということ。次に。
「仏教は、客観的に冷静に問題を設定するという遺産を体内にもっており、何百年とつづいた哲学運動ののちにあらわれた。仏教があらわれたときには、『神』という概念はすでに除去されてしまっていた。仏教は、歴史が私たちに示す唯一の本来的に《実証主義的な》宗教である。その認識論(一つの厳密な現象主義ーーー)においてもやはりそうである。仏教はもはや『《罪》に対する闘争』ということを口にせず、現実の権利を全面的に認めながら、『《苦》に対する闘争』ということを主張する。仏教はーーーこれこそそれをキリスト教から深く分かつのだがーーー道徳概念の自己欺瞞をすでにおのれの背後におきざりにしている、仏教は、私の用語で言えば、善悪の《彼岸に》立っている。仏教がそれにもとづき、注視をおこたらない《二つ》の生理学的事実は、《第一には》感受性の過大な敏感さであって、これは苦痛を受けとる洗練された能力としてあらわれるものであり、《第二には》過度の精神化、概念や論理的手続きのうちであまりにも長く生きることであって、このことの影響で人格的本能は損傷を受けて『非人格的なもの』に有利となってしまったのである(ーーーこの両者とも、少なくとも私の読者のいく人かは、『客観的な者たち』は、私自身と同様、経験から知るようになる状態である)。こうした生理学的条件にもとづいて或る《抑鬱》が発生した、これに対して仏陀は衛生学的な処置をとるのである。仏陀はその対策として、戸外生活を、漂泊生活を適用する。飲食の節制と選択、すべての酒類に対する用心、同じく、癲癇をおこさせ、血をわかせるすべての欲情に対する用心、おのれに対しても他人に対しても《気遣い》しないことなど。仏陀は、休息をあたえるか快活ならしめるかの想念を要求するーーー彼は、これ以外の想念の悪習をやめさせる手段を発明する。彼は、善意を、善意をもつことを、健康を促進せしめるものと解している。《祈祷》は《禁欲》と同じく排斥されている。なんらの断言命令も、総じてなんらの《強制》も、僧団内においてすらない(ーーー人はふたたび還俗することができるのであるーーー)。すべてこれらは、あの過大な敏感さを強化するための手段となりかねない。まさしくこのゆえに仏陀はまた、見解を異にする者に対する闘争をもなんら要求することがない。彼の教えは何ものにも《まして》、復讐の、忌避の、ルサンチマンの感情におちいらないようにつとめる(ーーー『敵対によって敵対は終わらず』とは、全仏教の感動的な折り返し句であるーーー)。もっともなことだ。まさしくこれらの欲情こそ摂生上の主要な意図からすれば完全に不健康《なもの》であるはずであるからである。仏陀がまのあたりにし、過大な『客観性』(言いかえれば個人的関心の弱化、重心の、『利己主義』の喪失)のうちにあらわれている精神的倦怠に戦い勝つのに、彼は最も精神的な関心をも個人的人格へと厳しく還元することでもってする。仏陀の教えのうちでは利己主義は義務となる。すなわち、『無くてはならぬものは唯一つのみ』が、『いかにして《汝は》苦から解放されるか』が、全精神的摂生を規整し限界づける」(ニーチェ「反キリスト者・二〇」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.188~190』」ちくま学芸文庫)
「仏教は、繰り返し言えば、百倍も冷静で、誠実で、客観的である。仏教はもはや、おのれの苦を、おのれの受苦能力を、罪の解釈によって《礼節あるもの》たらしめる必要がない、ーーー仏教はその考えるところを率直に言う、『私は苦しい』と」(ニーチェ「反キリスト者・二三」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.193』」ちくま学芸文庫)
ニーチェはブッダを評価する理由として「私は苦しい」と率直に言うからだという。どういうことかというと、ブッダ自身が「欲望に執着している・煩悩を捨て去ることは途轍もなく困難である・欲望の除去は容易でない」と、次のように隠さず言うからである。
「窟(いわや=身体)のうちにとどまり、執著し、多くの<煩悩(ぼんのう)>に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、ーーーこのような人は、実に<遠ざかり離れること>=<厭離(おんり)>から遠く隔たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである」(「ブッダのことば・第四・一・七七二・P.175」岩波文庫)
ニーチェが欧米で発展したキリスト教と東アジアで発展したブッダの言葉とを区別するのは、商取引に象徴される債権・債務関係とは無縁の傾向が古代仏教に見られるからである。債権・債務関係は次の通り。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
一方、東アジアで発展したブッダの言葉は驚くべき革新性を持ってニーチェの目に映った。次の箇所は象徴的。
「他人から与えられたもので生活し、〔容器の〕上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることもなく、またおとしめて罵(ののし)ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る」(「ブッダのことば・第一・十二・二一七・P.49」岩波文庫)
なお第二に地上と冥土との境界線について。メインに置かれているのは沈裕と索胄との友情だが、その導入に用いられている説話独特の回路はここでもまた「夢」。「夢・夕方・暁方・河原・橋・坂・墓地・中洲・廃屋・山林・暗い街道・藪の中」など、ずいぶん出揃ってきたのではと思われる。
BGM1
BGM2
BGM3
或る時、「民部ノ尚書(じやうじよ)」=「民部省長官」を務める載(さい)ノ索胄(さくちう)という人物がいた。武昌公(ぶしやうこう)という号を贈られていた。また、「舒洲(じよしう)」に沈裕(しんゆ)という「別駕(べつが)」=「補佐官」がいた。「舒洲(じよしう)」は今の中国安徽省懐寧県。索胄(さくちう)と沈裕(しんゆ)とはどこで馬が合ったのか大変仲が良く、二人の友情は何年間も途切れることがなかった。しかし貞観七年(六三三年)、索胄(さくちう)は突然死した。
翌貞観八年八月、沈裕が舒洲にいる時の夢に死んだはずの索胄が出てきた。夢で沈裕はなぜか長安の都にいて、義寧里(ぎねいり)の南の街区をふらふら歩いている。義寧里は長安城の東北部に実際にあった居住区。すると目の前に索胄が忽然と出現した。古くてよれよれになった服を着ており顔色は著しく衰弱している模様。
「我ガ身、京師(けいし)ニ有(あり)テ、義寧里(ぎねいり)ノ南ノ堺(さかひ)ヲ行クニ、忽ニ索胄、旧(ふる)ク弊(つたな)キ衣ヲ着テ、形(かた)チ甚ダ衰ヘタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第十六・P.203」岩波書店)
沈裕は索胄に問うた。「そなたは生前、仏法に則った供養を行い善根も積んでらした。しかし今の風貌はいかにも裏さびれて見るも無惨。何かあったのか」。索胄は答えた。
「わたしは生前、自分のミスで一人の人間を冤罪に仕立て上げ処刑してしまったことがあった。それが発覚したわけだ。さらにわたしが死んだ後、他人が別の宗教の慣例に従って羊を殺し、わたしの祭壇に供える祭祀を行なった。そのことがわたしに関する罪として加算され、今や言葉では到底言い尽くせない阿鼻叫喚の苦悶にもがき苦しんでいる。しかしその罪もようやく終わりに近づいているところだ」。
「我レ、生(いき)タリシ時、誤(あやまち)テ一(ひとり)ノ人ヲ公(おほやけ)ニ奏シテ殺セリキ。亦、我レ死(しに)テ後、他ノ人有テ、一ノ羊ヲ殺シテ祭ル事有リ。此ノ二ノ事ノ咎(とが)ニ依(より)テ、身ノ苦ビ不可云尽(いひつくすべから)ズ。然リト云ヘドモ、今其ノ罪畢(をはり)ナムトス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第十六・P.204」岩波書店)
少し息をついで索胄は沈裕にいう。「わたしが生きていた頃、そなたはわたしと大変仲良くしてくれた。一方、こう言ってはなんだが、そなたは今なおこれといった官位にまったく恵まれていないようだ。わたしとしては違和感を覚えずにはおれない。ただしそなた、気を落とすことはないよ。このたび、そなたが五位の位(くらい)に任命される文書が上がってくる。ちょうど天帝にお会いするところだ。お互い助け合ってきた仲だからそのことを知らせようと思ってやって来た」。
「我レ、生タリシ時、君ト中善カリキ。而(しか)ルニ、君、未(いま)ダ官位ニ遇フ事無シ。我レ、心ニ深ク恨ミトス。但シ、君、今五品(ごほん)ノ文書(もんじよ)ニ依テ、既ニ天曹(てんさう)ニ会ハムトス。相(あ)ヒ助ケテ慶(よろこび)トセム。此ノ故ニ相ヒ報ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第十六・P.204」岩波書店)
そこで沈裕の夢は覚め索胄の姿も消え失せた。沈裕は夢で見たことを親しい者らに話して聞かせるとともに、夢で索胄が教えてくれたように五位の官位が得られるよう願った。その年の冬、沈裕は長安での任官選考に当たって上京した。ところが選考過程で沈裕は一度禁錮刑を受けていることが選任官の目に止まって問題視され、出世の道はあっけなく閉ざされてしまった。長安からの帰り、沈裕は周囲の者らに向かい、夢のお告げのようにはいかないものだなと落胆の言葉を漏らした。
そして貞観九年の春を迎えた或る日。沈裕は「江南(かうなん)」=「長江(ちょうこう)・揚子江(ようすこう)から南の地域」へとぼとぼ帰途につき、ようやく勤め先の舒洲(じよしう)に到着した時、中央からの任命書を頂戴した。五位の位(くらい)への昇進が決まり「務洲(むしう)」(今の中国貴州省婺川県)の補佐官への登用を命じる通知だった。索胄が夢で言っていたことは本当だったと旧友の恩愛に思いを馳せた。
「而ル程ニ、同ジキ九年ノ春、沈裕、江南(かうなん)ト云フ所ニ帰(かへり)ナムトシテ行ク。舒洲(じよしう)ニ至ルニ、忽ニ詔書ヲ奉(うけたま)ハリテ、沈裕ニ五品(ごほん)ヲ授(さづけ)テ、務洲(むしう)ノ治中(ぢちう)ト成レリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第十六・P.204」岩波書店)
さて。第一に交換関係。生前の索胄は仏法に則り善根を積み供養に励む信者。にもかかわらず地獄行きになっている。理由は(1)国王に告げて冤罪者を処刑した件。(2)他人の行いとはいえ別の宗教に則り、殺した羊を祭壇に祭る祭祀が生前の索胄と無関係でないと見なされた件。
神仙思想・儒教・道教など幾つもの宗教が乱立闘争に血道を上げていたこの頃は、仏教もまた他の宗派に負けず劣らず戦闘的だった。このような事態は或る地域(この場合はインド)から別の地域(この場合は古代中国)への仏教輸入の過程で起こった事態の象徴とされているが、中国の仏教にのみ限ったことではまったくなく、他の宗教・他の地域でも繰り返し血の海と化した地域は山ほどもある。仏教と一言で言ってみても始まらないし終わらない。そんな場合は「ブッダの言葉」を振り返ってみるのが良いかもしれない。
第一に「無常」とは何か。
「この世における人々の命は、定まった相(すがた)がなく、どれだけ生きられるか解(わか)らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている」(「ブッダのことば・第三・八・五七四・P.129」岩波文庫)
第二に「不羈独立」について。
「妻子も、父母も、財宝も穀物(こくもつ)も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め」(「ブッダのことば・第一・三・六十・P.20~21」岩波文庫)
「歯牙(しが)強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥(ざが)に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め」(「ブッダのことば・第一・三・七三・P.22」岩波文庫)
「親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵(ちり)が生ずる。親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者のさとりである」(「ブッダのことば・第一・十二・二〇七・P.47」岩波文庫)
「『諸々の従属の中に大きな危険がある』と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである」(「ブッダのことば・第三・十二・七五三・P.168」岩波文庫)
第三に「心身の衛生学」について。
「血統(けっとう)を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも己(おの)が親戚(しんせき)を軽蔑(けいべつ)する人がいる、ーーーこれは破滅への門である」(「ブッダのことば・第一・六・一〇四・P.30」岩波文庫)
「酒肉に荒(すさ)み、財を浪費する女、またはこのような男に、実権を託すならば、これは破滅への門である」(「ブッダのことば・第一・六・一一二・P.31」岩波文庫)
「修行者は時ならぬのに歩き廻るな。定(さだ)められたときに、托鉢(たくはつ)のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著(しゅうじゃく)に縛られるからである。それ故に諸々の<目ざめた人々>は時ならぬのに出て歩くことはない」(「ブッダのことば・第二・十四・三八六・P.80」岩波文庫)
第四に「復讐心(ルサンチマン)」について。
「人が生まれたときには、実に口の中には斧(おの)が生じている。愚者は悪口(わるくち)を言って、その斧によって自分を斬り割(さ)くのである」(「ブッダのことば・第三・十・六五七・P.146」岩波文庫)
「これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろな質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ」(「ブッダのことば・第四・十四・九一八・P.200」岩波文庫)
「ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。ーーー自分の道を堅(かた)くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、『愚かである』、『不浄の教えである』、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう」(「ブッダのことば・第四・十二・八九二~八九三・P.195~196」岩波文庫)
第五に人々が「武器を執って殺し合う」のはなぜかについて。
「殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執(と)って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭(いと)い離れたその衝撃を宣(の)べよう。ーーー水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。ーーー世界はどこも堅実(けんじつ)ではない。どの方角もすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。ーーー(生きとし生けるものは)終極においては違逆に会う(青春が終わったときには老いに襲われる)のを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜(ひそ)んでいるのを見た。ーーーこの(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を引き抜いたならば、(あちこち)を駈(か)けめぐることもなく、沈むこともない」(「ブッダのことば・第四・十五・九三五~九三九・P.203」岩波文庫)
これらを参照しつつニーチェはこう述べた。
「仏教が実在性一般を《否定した》のは(仮象性=苦悩)完全に首尾一貫している。すなわち、『世界自体』が、証明されえず、到達されえず、範疇を欠くとされているのみならず、このものの全概念を獲得せしめる《手続きが誤っていることが洞察されている》。『絶対的実在性』、『存在自体』は、一つの矛盾なのである」(ニーチェ「権力への意志・下・五八〇・P.114」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいう「実在性一般の否定・実体というものは実はない」という指摘について、例えば「般若心教」冒頭部でもこう書かれている。
「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
(書き下し)色(しき)は空(くう)に異ならず。空(くう)は色(しき)に異ならず。色(しき)はすなわちこれ空(くう)、空(くう)はすなわちこれ色(しき)なり。
(サンスクリット原典からの邦訳)この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実態がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである」(「般若心教」『般若心経・金剛般若経・P.10〜11』岩波文庫)」
要するに、すべては常に流動し生成変化しているということ。次に。
「仏教は、客観的に冷静に問題を設定するという遺産を体内にもっており、何百年とつづいた哲学運動ののちにあらわれた。仏教があらわれたときには、『神』という概念はすでに除去されてしまっていた。仏教は、歴史が私たちに示す唯一の本来的に《実証主義的な》宗教である。その認識論(一つの厳密な現象主義ーーー)においてもやはりそうである。仏教はもはや『《罪》に対する闘争』ということを口にせず、現実の権利を全面的に認めながら、『《苦》に対する闘争』ということを主張する。仏教はーーーこれこそそれをキリスト教から深く分かつのだがーーー道徳概念の自己欺瞞をすでにおのれの背後におきざりにしている、仏教は、私の用語で言えば、善悪の《彼岸に》立っている。仏教がそれにもとづき、注視をおこたらない《二つ》の生理学的事実は、《第一には》感受性の過大な敏感さであって、これは苦痛を受けとる洗練された能力としてあらわれるものであり、《第二には》過度の精神化、概念や論理的手続きのうちであまりにも長く生きることであって、このことの影響で人格的本能は損傷を受けて『非人格的なもの』に有利となってしまったのである(ーーーこの両者とも、少なくとも私の読者のいく人かは、『客観的な者たち』は、私自身と同様、経験から知るようになる状態である)。こうした生理学的条件にもとづいて或る《抑鬱》が発生した、これに対して仏陀は衛生学的な処置をとるのである。仏陀はその対策として、戸外生活を、漂泊生活を適用する。飲食の節制と選択、すべての酒類に対する用心、同じく、癲癇をおこさせ、血をわかせるすべての欲情に対する用心、おのれに対しても他人に対しても《気遣い》しないことなど。仏陀は、休息をあたえるか快活ならしめるかの想念を要求するーーー彼は、これ以外の想念の悪習をやめさせる手段を発明する。彼は、善意を、善意をもつことを、健康を促進せしめるものと解している。《祈祷》は《禁欲》と同じく排斥されている。なんらの断言命令も、総じてなんらの《強制》も、僧団内においてすらない(ーーー人はふたたび還俗することができるのであるーーー)。すべてこれらは、あの過大な敏感さを強化するための手段となりかねない。まさしくこのゆえに仏陀はまた、見解を異にする者に対する闘争をもなんら要求することがない。彼の教えは何ものにも《まして》、復讐の、忌避の、ルサンチマンの感情におちいらないようにつとめる(ーーー『敵対によって敵対は終わらず』とは、全仏教の感動的な折り返し句であるーーー)。もっともなことだ。まさしくこれらの欲情こそ摂生上の主要な意図からすれば完全に不健康《なもの》であるはずであるからである。仏陀がまのあたりにし、過大な『客観性』(言いかえれば個人的関心の弱化、重心の、『利己主義』の喪失)のうちにあらわれている精神的倦怠に戦い勝つのに、彼は最も精神的な関心をも個人的人格へと厳しく還元することでもってする。仏陀の教えのうちでは利己主義は義務となる。すなわち、『無くてはならぬものは唯一つのみ』が、『いかにして《汝は》苦から解放されるか』が、全精神的摂生を規整し限界づける」(ニーチェ「反キリスト者・二〇」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.188~190』」ちくま学芸文庫)
「仏教は、繰り返し言えば、百倍も冷静で、誠実で、客観的である。仏教はもはや、おのれの苦を、おのれの受苦能力を、罪の解釈によって《礼節あるもの》たらしめる必要がない、ーーー仏教はその考えるところを率直に言う、『私は苦しい』と」(ニーチェ「反キリスト者・二三」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.193』」ちくま学芸文庫)
ニーチェはブッダを評価する理由として「私は苦しい」と率直に言うからだという。どういうことかというと、ブッダ自身が「欲望に執着している・煩悩を捨て去ることは途轍もなく困難である・欲望の除去は容易でない」と、次のように隠さず言うからである。
「窟(いわや=身体)のうちにとどまり、執著し、多くの<煩悩(ぼんのう)>に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、ーーーこのような人は、実に<遠ざかり離れること>=<厭離(おんり)>から遠く隔たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである」(「ブッダのことば・第四・一・七七二・P.175」岩波文庫)
ニーチェが欧米で発展したキリスト教と東アジアで発展したブッダの言葉とを区別するのは、商取引に象徴される債権・債務関係とは無縁の傾向が古代仏教に見られるからである。債権・債務関係は次の通り。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
一方、東アジアで発展したブッダの言葉は驚くべき革新性を持ってニーチェの目に映った。次の箇所は象徴的。
「他人から与えられたもので生活し、〔容器の〕上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることもなく、またおとしめて罵(ののし)ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る」(「ブッダのことば・第一・十二・二一七・P.49」岩波文庫)
なお第二に地上と冥土との境界線について。メインに置かれているのは沈裕と索胄との友情だが、その導入に用いられている説話独特の回路はここでもまた「夢」。「夢・夕方・暁方・河原・橋・坂・墓地・中洲・廃屋・山林・暗い街道・藪の中」など、ずいぶん出揃ってきたのではと思われる。
BGM1
BGM2
BGM3
