前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
或る時、東宮(とうぐう)ノ右監門(うかんもん)兵曹参軍(ひやうさうさんぐん)を務める邵(せう)ノ師弁(しべん)という人物がいた。東宮(とうぐう)ノ右監門(うかんもん)は皇太子の宮殿警護のための役所。兵曹参軍(ひやうさうさんぐん)はそこで兵士を統率する参謀職。師弁(しべん)はまだ二十歳の時、突然死した。両親ともに生きており、息子の突然死に悲壮を極めた。ところが三日後の夜中、師弁は突然生き返った。父母ともに驚きながらもたいへん喜んだ。師弁は死んでいた間のことを覚えているらしく、次のように語り始めた。
師弁は死んだ後、気付くと自分の周囲にわっと人が集まってきて捕縛された。閻魔庁の大門へ連行されて中へ入れられた。見ると他に百人を越える者らと一緒にいて、みんな連なりあって歩いている。全員北方向を向いている。六列に並ばされており、誰も彼も痩せ細った体つきで首枷せと鉄の鎖に繋がれ、あるいは帯を締めないだらしなくみすぼらしげな風情で萎えている。周囲は冥途で死者の護送に当たる厳(いかめ)しそうな兵者(つはもの)に取り巻かれている。
師弁はその三列目の中にいて、東側から数えて三番目の位置。帯が締められておらず見るからに惨めな格好。我ながら恐ろしさに身震いしている。ただもう心の中ですがりつく思いで繰り返し念仏ばかり唱えていた。
「師弁ハ第三ノ行ニ至リ当(あたり)テ、東(ひむがし)ノ側(ほとり)ニ第三ニ立(たて)リ。亦、帯ヲ不令帯(おびしめ)ズシテ袖ヲ連ヌ。師弁、怖(おそろ)シキ事無限(かぎりな)シ。可為(すべ)キ方(はう)不思(おぼえ)ズシテ、只、心ヲ至シテ仏ヲ念ジ奉ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.166」岩波書店)
すると生きていた時に知り合った一人の僧の姿が目にとまった。僧は師弁の姿を見つけると冥途の獄卒らの間に割って入ってきて師弁を見て尋ねた。「そなた、生前は何らの功徳も行っていなかったな。今、どう思っているか」。師弁はいう。「お願いですからわたしに慈悲の心を向けてはもらえないでしょうか」、と答えになっていない返事を返した。僧はいう。「わたしはそなたを助けてやってもいいと思っている。ただし、もし本当にここから遁(のがれる)ことができれば、誠心誠意、本心から仏法修行者として戒律を守って生きていく覚悟があるか」。師弁はいう。「ここから遁(のがれる)ことができるのなら、それはもう、戒律を守り抜いて生きていくことを誓いましょう」。問答している間に冥官がやって来て師弁ら一団を引き連れて閻魔庁の官舎へ召喚した。行列の順に従って容赦ない尋問が始まった。師弁の番が回ってきた。するとそこへ先程の僧が尋問に立ち会って間に入り、冥官に向かって師弁に功徳を積む意志のあることを語って聞かせた。冥官はそれを聞くと師弁を放免してくれた。
「師弁ガ許(もと)ニ来(きたり)テ語(かたり)テ云(いは)ク、『汝(なむ)ヂ、生(いき)タリシ時、功徳(くどく)ヲ不修(しゆせ)ズ。今何(いかに)ゾ』ト。師弁答(こたへ)テ云(いは)ク、『願(ながは)クハ我レヲ憐(あはれび)テ助ケ給ヘ』ト。僧ノ云(いは)ク、『我レ、今、汝ヲ助ケム。遁(のが)ルル事ヲ得(え)テバ、心ヲ至シテ専(もはら)ニ戒ヲ可持(たもつべ)シ』ト。師弁ガ云(いは)ク、『我レ、遁ルル事ヲ得(え)テバ、専(もはら)ニ戒ヲ可持(たもつべ)シ』ト。而(しか)ル間、官人(くわんにん)有(あり)テ、此ノ被捕(とたへら)レタル者共(ども)ヲ引(ひき)テ官ノ内ニ入(いり)テ、次第ニ此等ヲ問フ。師弁、見レバ、前(さき)ニ有(あり)ツル僧尚有(なおあり)テ、官人ニ向(むかひ)テ師弁ガ業(ごふ)ノ福ヲ語ル。官人、此レヲ聞(きき)テ、師弁ヲ放(はな)チ免(ゆる)ス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.166~167」岩波書店)
僧は師弁を門の外へ連れ出すと五つの戒めをよくよく説き、瓶の水を師弁の額に灌(そそい)で灌頂の儀式を行い、「日が西に傾く時、そなたは生き返るだろう」といって黄色の衣を与え、「これを着て家に帰りなさい。帰ったら黄色の衣を家の中の清浄な場所に置いておくように」といって帰り道を教えてくれた。師弁は言われたとおりに動くと家に帰ってくることができた。
家では両親を始め家の者らが死んだ師弁を囲んでうつむいている。すると突然、師弁は目を見開き体をうごめかした。父も家人も驚嘆してのけぞり、あるいはすぐさまその場を去ろうとした。ただ母だけがそばから動かずに声をかけた。「そなた、生き返ったのですか」。師弁はいう。「日が西に傾く時、わたしは蘇るでしょう」。師弁はてっきり今は正午に違いないと思っている。母はいう。「今は真夜中ですよ」。とすれば死んでいる時と生きている時とでは昼夜逆転しているのか、と師弁はわかった気がした。しばらくすると徐々に気持ちも落ち着きを取り戻し、さらに日が西に傾いた頃、ようやく食事を取った。この世で食事を取って始めて師弁は生き返った実感が湧いた。また、生き返るに当たって持たせてもらった黄色の衣だが確かに床の端に置いてある。師弁が起き上がれるようになるとなぜかその衣はうっすらと消え失せていく。ただ、冥途で見た時のように黄金色の光は放たれたまま。しかしその黄金色の光も生き返って七日ほど経つと消え失せた。
「師弁ガ云(いは)ク、『日、西ニテ当(まさ)ニ我レ可活(よみがへるべ)シ』ト。師弁ガ心ニ、日午(ひのうま)ノ剋(とき)ト疑(うたがひ)テ母ニ問フ。母ノ云(いは)ク、『只今ハ半夜(はんや)也』ト。然レバ、死(しに)テ生(いく)ル事及ビ昼夜(よるひる)ヲ知ル。其ノ後(のち)漸(やうや)ク心付(つき)テ、既ニ日、西ニ至ルニ、遂ニ飲食(おんじき)シテ例ノ如ク成(なり)ヌ。尚(なお)、有(あり)ツル衣ヲ見ルニ、床ノ端ニ有リ。師弁起(おく)ル時ニ成(なり)テ、有(あり)ツル衣漸ク失(うせ)ヌ。但シ、光リ有(あり)テ、七日ト云フニナム其ノ光リ失畢(うせをはり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.167」岩波書店)
それから師弁は冥途で約束したとおり五戒を守り、仏法の作法に則って日常生活を取り戻した。やがて数年が経った。そんな或る日、家に友人が訪ねてきた。友人はしきりに猪の肉でもどうかと進める。師弁は肉食禁止の身だったからか猪の肉塊をむしゃむしゃと食った。
その夜、師弁は夢を見た。自分の全身が羅刹(らせつ)=鬼神に変身している。爪も歯も三十センチばかりの長さ、生きたままの猪を口に咥えてむさぼり喰っている。夜明け前に夢から覚めた。夢はなるほど夢だったわけだがどこか違和感がある。唾を吐いてみると生臭い。唾と思って吐いたのだがその実は血。ただちに家の従者を呼んで口の中を調べさせた。すると口の中いっぱいに血の塊が詰まっている。その生臭さは言いようがない。師弁は戦慄してもう二度と肉は食うまいと心に誓った。
「其ノ夜、師弁ガ夢ニ、我ガ身忽(たちまち)ニ変ジテ羅刹(らせつ)ト成(なり)ヌ。爪・歯長クシテ、生(いき)タル猪ヲ捕ヘテ食(じき)スト見テ、暁方(あかつきがた)ニ夢覚(さめ)ヌ。其後(そののち)、口ノ中ヨリ腥(なまぐさ)キ唾(つばき)ヲ咄(は)キ、血ヲ出(あや)ス。忽(たちまち)ニ従者(とものもの)ヲ呼(よび)テ此レヲ令見(みしむ)ルニ、口ノ中ニ凝(こほれ)ル血満(みち)テ、極(きはめ)テ腥(なまぐさ)シ。師弁、驚キ恐レテ、其ノ後、亦肉食(にくじき)ヲ断ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.168」岩波書店)
一方、師弁には数年連れ添った妻がいた。或る日、妻は妻なりに夫の体力を案じてかもしれない、やたらに肉食を進めた。師弁はまた肉をむさぼり喰った。しかしこの時は特に何らの異変も起こらなかった。それから五、六年ほど過ぎただろうか、師弁の鼻に皮膚病のような大きな腫瘍ができた。数日経っても治るどころか逆に患部はおびただしく爛れて鼻は巨大化するばかり。戒を破った罪なのかと昼夜を問わず恐怖におののき続けたが、鼻に出現した腫瘍は一向に癒えることなく今度こそ師弁は死んでしまった。
「而(しか)ルニ、亦、師弁ガ年来(としごろ)ノ妻(め)有(あり)テ、強(あながち)ニ肉食(にくじき)ヲ勧ムルニ依(より)テ、亦食(じき)シツ。其ノ度(たび)ハ久ク其ノ咎(とが)無シト云ヘドモ、遂ニ其ノ後(のち)五、六年ヲ過(すぎ)テ、師弁ガ鼻ニ大キナル瘡(かさ)出(いで)ヌ。日来(ひごろ)ヲ経(へた)ルニ、大(おほき)ニ乱(ただ)レテ、死(し)ヌルニ及ブマデ愈(いゆ)ル事無シ。此レ、偏(ひとへ)ニ戒ヲ破レル咎(とが)也ト知(しり)テ、昼夜朝暮ニ恐レ迷(まど)フト云ヘドモ、更ニ愈(いゆ)ル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.168」岩波書店)
さて。生き返る説話は多いが、ここで考えたいのは後半の「夢」。肉食厳禁を誓ったにもかかわらず友人から進められた猪肉を思わず食ってしまった。その夢はただ単なる罰ではなく、むしろもう一度与えられたチャンスだった。ただし予兆としてのそれである。次に妻の薦めで肉食した時には何も起こらなかったし不吉な夢も見ていない。ところがその五、六年後、いきなり鼻に巨大な腫瘍が出現する。それは一方的かつおびただしく爛れていくばかりで治癒の見込みも見られないまま遂に師弁は死去する。しかし問題はなぜ「鼻」なのか。本朝部で何度も繰り返し出てきたように、それはおそらく「天狗の鼻」。「今昔物語」では、仏教と対立する宗教勢力あるいは仏教以前からあった諸々の土着の神々は仏教と敵対して敗北を喫した時、なぜか「天狗化」されるパターンが圧倒的に多い。それが余りにも驚異的な強敵だった場合は「酒呑童子」とか「玉藻前」のように特権的に祀られたりしている。
師弁の転化について。第一に「死者・師弁」から「修行者・師弁」への転化。第二に「修行者・師弁」から「天狗・師弁」への転化。
また、そうでなくても朝廷内の権力闘争の敗者の場合。崇徳院を祭る白峯神宮、早良親王を祭る崇道社、菅原道真を祭る北野天満宮など。なかでも崇徳院の天狗姿への変貌は「保元物語」の次の箇所がよく知られる。師弁の予言的な夢の中で「爪・歯長ク」とあるが崇徳院の場合は「御舌ノ崎(さき)ヲ食切(くひきら)セ座(ましまし)テ、其(その)血ヲ以テ、御経ノ奥ニ此御誓状(ごせいじやう)ヲゾアソバシタル。其後(そののち)ハ御(み)グシモ剃(そら)ズ、御爪(おんつめ)モ切(きら)セ給ハデ、生(いき)ナガラ天狗(てんぐ)ノ御姿ニ成(なら)セ給(たまひ)テ」とある。
「『我願(ねがはく)ハ五部大乗経ノ大善根(だいぜんごん)ヲ三悪道(さんあくだう)ニ抛(なげうつ)テ、日本国(につぽんごく)ノ大悪魔(だいあくま)ト成ラム』ト誓ハセ給テ、御舌ノ崎(さき)ヲ食切(くひきら)セ座(ましまし)テ、其(その)血ヲ以テ、御経ノ奥ニ此御誓状(ごせいじやう)ヲゾアソバシタル。其後(そののち)ハ御(み)グシモ剃(そら)ズ、御爪(おんつめ)モ切(きら)セ給ハデ、生(いき)ナガラ天狗(てんぐ)ノ御姿ニ成(なら)セ給(たまひ)テ、中(なか)二年有テ、平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月九日(ここのかの)夜、丑剋(うしのこく)ニ、右衛門督信頼(うゑもんのかみのぶより)ガ左馬頭義朝(さまのかみよしとも)ヲ嘩(かたらつ)テ、院ノ御所三条殿ヘ夜討(ようち)ニ入(いり)テ、火ヲ懸(かけ)テ、少納言入道信西(せうなごんにふだうしんせい)ヲ亡(ほろぼ)シ、院ヲモ内(うち)ヲモ取進(とりまゐらせ)テ、大内(おほうち)ニ立テ籠(ごもつ)テ、叙位除目(じよゐぢもく)行フ。少納言入道ハ山ノ奥ニ埋(うづま)レタルヲ、堀リ興(おこ)サレテ、首(かうべ)ヲ被切(きられ)、大路(おほち)ヲ渡サレ、獄門(ごくもん)ノ木ニ被懸(かけられ)シ事、保元ノ乱ニ多(おほく)ノ人ノ頸(くび)ヲ切(きら)セ、宇治ノ左府ノ死骸ヲ堀興(ほりおこ)シタリケル其報(そのむくい)トゾ覚ヘタル。信頼卿(のぶよりのきやう)軍(いくさ)ニ負(まけ)テ、六条川原ニテ被切(きられ)ヌ。義朝方ノ負シテ、都ヲ落(おち)テ、尾張国(をはりのくに)野間(のま)ト云所(いふところ)ニテ、長田四郎忠致(をさだのしらうただむね)ガ為ニ被討(うたれ)ニケリ。一年(ひとと)セ保元ノ乱ニ乙若(おとわか)ガ云(いひ)シ詞(ことば)ニ少(すこし)モ違(たがは)ズ」(新日本古典文学体系「保元物語・下・新院血ヲ以テ御経ノ奥ニ御誓状ノ事付崩御ノ事」『保元物語/平治物語/承久記・P.133』岩波書店)
ところで今度の東京五輪を巡るマスコミ報道を見ていると、「現場」と「数字」とが入り乱れていて視聴者としては限りなく理解不可能というに近い。どの「現場」のどの「数字」なのか。「賛成・反対・よくわからない」といういずれの陣営がどの「現場」を指しどの「数字」をどんな意味で取り上げて何を主張しその責任はどこにあるのか、もはやさっぱり。ちなみに韓非子に次の説話が見える。靴のサイズ(数字)と自分の足で履いて確かめてみて(現場)はどうかという有名なエピソード。
「鄭人有且買履者、先自度其足、而置之其坐、至之而忘操之、已得履、乃曰、吾忘持度、反帰取之、及反市罷、遂不得履、人曰、何不試之以足、曰、寧信度、無自信也
(書き下し)鄭人、且(まさ)に履(くつ)を買わんとする者有り。先ず自ら其の足を度(はか)りて、これを其の坐に置き、市に之(ゆ)くに至りてこれを操(と)るを忘る。已(すで)に履を得、乃ち曰わく、吾れ度(ど)を持つを忘れたりと。反(かえ)り帰りてこれを取る。反るに及べば市罷(や)み、遂に履を得ず。人曰わく、何ぞこれを試むるに足を以てせざると、曰わく、寧(むし)ろ度を信ずるも、自ら信ずる無きなりと。
(現代語訳)鄭の人で鞋(くつ)を買おうとする者がいた。まず自分で足をはかって、その寸法書きを傍(そば)に置いたが、市場にゆくときになってそれを持って出るのを忘れた。鞋(くつ)を手にしてから、そこで『わしは寸法書きを持ってくるのを忘れた』と言って、とって返して家に取りに帰ったが、戻ってくると市場は終わっていて、そのまま鞋(くつ)は買えなかった。人が『どうして自分の足に合わせてみなかったのです』とたずねると、『寸法書きは信用できても、自分の足は信用できないからだ』と答えた」(「韓非子3・外儲説左上・第三十二・P.55~58」岩波文庫)
思わずこのエピソードが横切らない日はないというほかない。
BGM1
BGM2
BGM3
或る時、東宮(とうぐう)ノ右監門(うかんもん)兵曹参軍(ひやうさうさんぐん)を務める邵(せう)ノ師弁(しべん)という人物がいた。東宮(とうぐう)ノ右監門(うかんもん)は皇太子の宮殿警護のための役所。兵曹参軍(ひやうさうさんぐん)はそこで兵士を統率する参謀職。師弁(しべん)はまだ二十歳の時、突然死した。両親ともに生きており、息子の突然死に悲壮を極めた。ところが三日後の夜中、師弁は突然生き返った。父母ともに驚きながらもたいへん喜んだ。師弁は死んでいた間のことを覚えているらしく、次のように語り始めた。
師弁は死んだ後、気付くと自分の周囲にわっと人が集まってきて捕縛された。閻魔庁の大門へ連行されて中へ入れられた。見ると他に百人を越える者らと一緒にいて、みんな連なりあって歩いている。全員北方向を向いている。六列に並ばされており、誰も彼も痩せ細った体つきで首枷せと鉄の鎖に繋がれ、あるいは帯を締めないだらしなくみすぼらしげな風情で萎えている。周囲は冥途で死者の護送に当たる厳(いかめ)しそうな兵者(つはもの)に取り巻かれている。
師弁はその三列目の中にいて、東側から数えて三番目の位置。帯が締められておらず見るからに惨めな格好。我ながら恐ろしさに身震いしている。ただもう心の中ですがりつく思いで繰り返し念仏ばかり唱えていた。
「師弁ハ第三ノ行ニ至リ当(あたり)テ、東(ひむがし)ノ側(ほとり)ニ第三ニ立(たて)リ。亦、帯ヲ不令帯(おびしめ)ズシテ袖ヲ連ヌ。師弁、怖(おそろ)シキ事無限(かぎりな)シ。可為(すべ)キ方(はう)不思(おぼえ)ズシテ、只、心ヲ至シテ仏ヲ念ジ奉ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.166」岩波書店)
すると生きていた時に知り合った一人の僧の姿が目にとまった。僧は師弁の姿を見つけると冥途の獄卒らの間に割って入ってきて師弁を見て尋ねた。「そなた、生前は何らの功徳も行っていなかったな。今、どう思っているか」。師弁はいう。「お願いですからわたしに慈悲の心を向けてはもらえないでしょうか」、と答えになっていない返事を返した。僧はいう。「わたしはそなたを助けてやってもいいと思っている。ただし、もし本当にここから遁(のがれる)ことができれば、誠心誠意、本心から仏法修行者として戒律を守って生きていく覚悟があるか」。師弁はいう。「ここから遁(のがれる)ことができるのなら、それはもう、戒律を守り抜いて生きていくことを誓いましょう」。問答している間に冥官がやって来て師弁ら一団を引き連れて閻魔庁の官舎へ召喚した。行列の順に従って容赦ない尋問が始まった。師弁の番が回ってきた。するとそこへ先程の僧が尋問に立ち会って間に入り、冥官に向かって師弁に功徳を積む意志のあることを語って聞かせた。冥官はそれを聞くと師弁を放免してくれた。
「師弁ガ許(もと)ニ来(きたり)テ語(かたり)テ云(いは)ク、『汝(なむ)ヂ、生(いき)タリシ時、功徳(くどく)ヲ不修(しゆせ)ズ。今何(いかに)ゾ』ト。師弁答(こたへ)テ云(いは)ク、『願(ながは)クハ我レヲ憐(あはれび)テ助ケ給ヘ』ト。僧ノ云(いは)ク、『我レ、今、汝ヲ助ケム。遁(のが)ルル事ヲ得(え)テバ、心ヲ至シテ専(もはら)ニ戒ヲ可持(たもつべ)シ』ト。師弁ガ云(いは)ク、『我レ、遁ルル事ヲ得(え)テバ、専(もはら)ニ戒ヲ可持(たもつべ)シ』ト。而(しか)ル間、官人(くわんにん)有(あり)テ、此ノ被捕(とたへら)レタル者共(ども)ヲ引(ひき)テ官ノ内ニ入(いり)テ、次第ニ此等ヲ問フ。師弁、見レバ、前(さき)ニ有(あり)ツル僧尚有(なおあり)テ、官人ニ向(むかひ)テ師弁ガ業(ごふ)ノ福ヲ語ル。官人、此レヲ聞(きき)テ、師弁ヲ放(はな)チ免(ゆる)ス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.166~167」岩波書店)
僧は師弁を門の外へ連れ出すと五つの戒めをよくよく説き、瓶の水を師弁の額に灌(そそい)で灌頂の儀式を行い、「日が西に傾く時、そなたは生き返るだろう」といって黄色の衣を与え、「これを着て家に帰りなさい。帰ったら黄色の衣を家の中の清浄な場所に置いておくように」といって帰り道を教えてくれた。師弁は言われたとおりに動くと家に帰ってくることができた。
家では両親を始め家の者らが死んだ師弁を囲んでうつむいている。すると突然、師弁は目を見開き体をうごめかした。父も家人も驚嘆してのけぞり、あるいはすぐさまその場を去ろうとした。ただ母だけがそばから動かずに声をかけた。「そなた、生き返ったのですか」。師弁はいう。「日が西に傾く時、わたしは蘇るでしょう」。師弁はてっきり今は正午に違いないと思っている。母はいう。「今は真夜中ですよ」。とすれば死んでいる時と生きている時とでは昼夜逆転しているのか、と師弁はわかった気がした。しばらくすると徐々に気持ちも落ち着きを取り戻し、さらに日が西に傾いた頃、ようやく食事を取った。この世で食事を取って始めて師弁は生き返った実感が湧いた。また、生き返るに当たって持たせてもらった黄色の衣だが確かに床の端に置いてある。師弁が起き上がれるようになるとなぜかその衣はうっすらと消え失せていく。ただ、冥途で見た時のように黄金色の光は放たれたまま。しかしその黄金色の光も生き返って七日ほど経つと消え失せた。
「師弁ガ云(いは)ク、『日、西ニテ当(まさ)ニ我レ可活(よみがへるべ)シ』ト。師弁ガ心ニ、日午(ひのうま)ノ剋(とき)ト疑(うたがひ)テ母ニ問フ。母ノ云(いは)ク、『只今ハ半夜(はんや)也』ト。然レバ、死(しに)テ生(いく)ル事及ビ昼夜(よるひる)ヲ知ル。其ノ後(のち)漸(やうや)ク心付(つき)テ、既ニ日、西ニ至ルニ、遂ニ飲食(おんじき)シテ例ノ如ク成(なり)ヌ。尚(なお)、有(あり)ツル衣ヲ見ルニ、床ノ端ニ有リ。師弁起(おく)ル時ニ成(なり)テ、有(あり)ツル衣漸ク失(うせ)ヌ。但シ、光リ有(あり)テ、七日ト云フニナム其ノ光リ失畢(うせをはり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.167」岩波書店)
それから師弁は冥途で約束したとおり五戒を守り、仏法の作法に則って日常生活を取り戻した。やがて数年が経った。そんな或る日、家に友人が訪ねてきた。友人はしきりに猪の肉でもどうかと進める。師弁は肉食禁止の身だったからか猪の肉塊をむしゃむしゃと食った。
その夜、師弁は夢を見た。自分の全身が羅刹(らせつ)=鬼神に変身している。爪も歯も三十センチばかりの長さ、生きたままの猪を口に咥えてむさぼり喰っている。夜明け前に夢から覚めた。夢はなるほど夢だったわけだがどこか違和感がある。唾を吐いてみると生臭い。唾と思って吐いたのだがその実は血。ただちに家の従者を呼んで口の中を調べさせた。すると口の中いっぱいに血の塊が詰まっている。その生臭さは言いようがない。師弁は戦慄してもう二度と肉は食うまいと心に誓った。
「其ノ夜、師弁ガ夢ニ、我ガ身忽(たちまち)ニ変ジテ羅刹(らせつ)ト成(なり)ヌ。爪・歯長クシテ、生(いき)タル猪ヲ捕ヘテ食(じき)スト見テ、暁方(あかつきがた)ニ夢覚(さめ)ヌ。其後(そののち)、口ノ中ヨリ腥(なまぐさ)キ唾(つばき)ヲ咄(は)キ、血ヲ出(あや)ス。忽(たちまち)ニ従者(とものもの)ヲ呼(よび)テ此レヲ令見(みしむ)ルニ、口ノ中ニ凝(こほれ)ル血満(みち)テ、極(きはめ)テ腥(なまぐさ)シ。師弁、驚キ恐レテ、其ノ後、亦肉食(にくじき)ヲ断ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.168」岩波書店)
一方、師弁には数年連れ添った妻がいた。或る日、妻は妻なりに夫の体力を案じてかもしれない、やたらに肉食を進めた。師弁はまた肉をむさぼり喰った。しかしこの時は特に何らの異変も起こらなかった。それから五、六年ほど過ぎただろうか、師弁の鼻に皮膚病のような大きな腫瘍ができた。数日経っても治るどころか逆に患部はおびただしく爛れて鼻は巨大化するばかり。戒を破った罪なのかと昼夜を問わず恐怖におののき続けたが、鼻に出現した腫瘍は一向に癒えることなく今度こそ師弁は死んでしまった。
「而(しか)ルニ、亦、師弁ガ年来(としごろ)ノ妻(め)有(あり)テ、強(あながち)ニ肉食(にくじき)ヲ勧ムルニ依(より)テ、亦食(じき)シツ。其ノ度(たび)ハ久ク其ノ咎(とが)無シト云ヘドモ、遂ニ其ノ後(のち)五、六年ヲ過(すぎ)テ、師弁ガ鼻ニ大キナル瘡(かさ)出(いで)ヌ。日来(ひごろ)ヲ経(へた)ルニ、大(おほき)ニ乱(ただ)レテ、死(し)ヌルニ及ブマデ愈(いゆ)ル事無シ。此レ、偏(ひとへ)ニ戒ヲ破レル咎(とが)也ト知(しり)テ、昼夜朝暮ニ恐レ迷(まど)フト云ヘドモ、更ニ愈(いゆ)ル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.168」岩波書店)
さて。生き返る説話は多いが、ここで考えたいのは後半の「夢」。肉食厳禁を誓ったにもかかわらず友人から進められた猪肉を思わず食ってしまった。その夢はただ単なる罰ではなく、むしろもう一度与えられたチャンスだった。ただし予兆としてのそれである。次に妻の薦めで肉食した時には何も起こらなかったし不吉な夢も見ていない。ところがその五、六年後、いきなり鼻に巨大な腫瘍が出現する。それは一方的かつおびただしく爛れていくばかりで治癒の見込みも見られないまま遂に師弁は死去する。しかし問題はなぜ「鼻」なのか。本朝部で何度も繰り返し出てきたように、それはおそらく「天狗の鼻」。「今昔物語」では、仏教と対立する宗教勢力あるいは仏教以前からあった諸々の土着の神々は仏教と敵対して敗北を喫した時、なぜか「天狗化」されるパターンが圧倒的に多い。それが余りにも驚異的な強敵だった場合は「酒呑童子」とか「玉藻前」のように特権的に祀られたりしている。
師弁の転化について。第一に「死者・師弁」から「修行者・師弁」への転化。第二に「修行者・師弁」から「天狗・師弁」への転化。
また、そうでなくても朝廷内の権力闘争の敗者の場合。崇徳院を祭る白峯神宮、早良親王を祭る崇道社、菅原道真を祭る北野天満宮など。なかでも崇徳院の天狗姿への変貌は「保元物語」の次の箇所がよく知られる。師弁の予言的な夢の中で「爪・歯長ク」とあるが崇徳院の場合は「御舌ノ崎(さき)ヲ食切(くひきら)セ座(ましまし)テ、其(その)血ヲ以テ、御経ノ奥ニ此御誓状(ごせいじやう)ヲゾアソバシタル。其後(そののち)ハ御(み)グシモ剃(そら)ズ、御爪(おんつめ)モ切(きら)セ給ハデ、生(いき)ナガラ天狗(てんぐ)ノ御姿ニ成(なら)セ給(たまひ)テ」とある。
「『我願(ねがはく)ハ五部大乗経ノ大善根(だいぜんごん)ヲ三悪道(さんあくだう)ニ抛(なげうつ)テ、日本国(につぽんごく)ノ大悪魔(だいあくま)ト成ラム』ト誓ハセ給テ、御舌ノ崎(さき)ヲ食切(くひきら)セ座(ましまし)テ、其(その)血ヲ以テ、御経ノ奥ニ此御誓状(ごせいじやう)ヲゾアソバシタル。其後(そののち)ハ御(み)グシモ剃(そら)ズ、御爪(おんつめ)モ切(きら)セ給ハデ、生(いき)ナガラ天狗(てんぐ)ノ御姿ニ成(なら)セ給(たまひ)テ、中(なか)二年有テ、平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月九日(ここのかの)夜、丑剋(うしのこく)ニ、右衛門督信頼(うゑもんのかみのぶより)ガ左馬頭義朝(さまのかみよしとも)ヲ嘩(かたらつ)テ、院ノ御所三条殿ヘ夜討(ようち)ニ入(いり)テ、火ヲ懸(かけ)テ、少納言入道信西(せうなごんにふだうしんせい)ヲ亡(ほろぼ)シ、院ヲモ内(うち)ヲモ取進(とりまゐらせ)テ、大内(おほうち)ニ立テ籠(ごもつ)テ、叙位除目(じよゐぢもく)行フ。少納言入道ハ山ノ奥ニ埋(うづま)レタルヲ、堀リ興(おこ)サレテ、首(かうべ)ヲ被切(きられ)、大路(おほち)ヲ渡サレ、獄門(ごくもん)ノ木ニ被懸(かけられ)シ事、保元ノ乱ニ多(おほく)ノ人ノ頸(くび)ヲ切(きら)セ、宇治ノ左府ノ死骸ヲ堀興(ほりおこ)シタリケル其報(そのむくい)トゾ覚ヘタル。信頼卿(のぶよりのきやう)軍(いくさ)ニ負(まけ)テ、六条川原ニテ被切(きられ)ヌ。義朝方ノ負シテ、都ヲ落(おち)テ、尾張国(をはりのくに)野間(のま)ト云所(いふところ)ニテ、長田四郎忠致(をさだのしらうただむね)ガ為ニ被討(うたれ)ニケリ。一年(ひとと)セ保元ノ乱ニ乙若(おとわか)ガ云(いひ)シ詞(ことば)ニ少(すこし)モ違(たがは)ズ」(新日本古典文学体系「保元物語・下・新院血ヲ以テ御経ノ奥ニ御誓状ノ事付崩御ノ事」『保元物語/平治物語/承久記・P.133』岩波書店)
ところで今度の東京五輪を巡るマスコミ報道を見ていると、「現場」と「数字」とが入り乱れていて視聴者としては限りなく理解不可能というに近い。どの「現場」のどの「数字」なのか。「賛成・反対・よくわからない」といういずれの陣営がどの「現場」を指しどの「数字」をどんな意味で取り上げて何を主張しその責任はどこにあるのか、もはやさっぱり。ちなみに韓非子に次の説話が見える。靴のサイズ(数字)と自分の足で履いて確かめてみて(現場)はどうかという有名なエピソード。
「鄭人有且買履者、先自度其足、而置之其坐、至之而忘操之、已得履、乃曰、吾忘持度、反帰取之、及反市罷、遂不得履、人曰、何不試之以足、曰、寧信度、無自信也
(書き下し)鄭人、且(まさ)に履(くつ)を買わんとする者有り。先ず自ら其の足を度(はか)りて、これを其の坐に置き、市に之(ゆ)くに至りてこれを操(と)るを忘る。已(すで)に履を得、乃ち曰わく、吾れ度(ど)を持つを忘れたりと。反(かえ)り帰りてこれを取る。反るに及べば市罷(や)み、遂に履を得ず。人曰わく、何ぞこれを試むるに足を以てせざると、曰わく、寧(むし)ろ度を信ずるも、自ら信ずる無きなりと。
(現代語訳)鄭の人で鞋(くつ)を買おうとする者がいた。まず自分で足をはかって、その寸法書きを傍(そば)に置いたが、市場にゆくときになってそれを持って出るのを忘れた。鞋(くつ)を手にしてから、そこで『わしは寸法書きを持ってくるのを忘れた』と言って、とって返して家に取りに帰ったが、戻ってくると市場は終わっていて、そのまま鞋(くつ)は買えなかった。人が『どうして自分の足に合わせてみなかったのです』とたずねると、『寸法書きは信用できても、自分の足は信用できないからだ』と答えた」(「韓非子3・外儲説左上・第三十二・P.55~58」岩波文庫)
思わずこのエピソードが横切らない日はないというほかない。
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