南方熊楠は豊臣秀吉が築いた「耳塚(みみづか)」に関し、柳田國男を批判してこう述べている。
「『郷土研究』三巻に、柳田國男氏、耳塚の由来を論じ、人間の耳は容易に截り取り、はるばると輸送もできまじければ、耳塚というものは多くは人の耳を埋めたでなかろうということで、奥羽地方の伝説に獅子舞同士出会い争闘して耳を切られたというから、京都大仏の耳塚も獅子舞の喧嘩で取られた獅子頭の耳か、祭に神に献じた獣畜の耳を埋めたのを、後年太閤征韓に府会したのであろう、太閤は敵の耳や鼻を取って来いと命ずるような残忍な人ではない、諸方に存する鼻塚も人の鼻を取って埋めたでなく、花塚または突き出た端(ハナ)塚の意味であろう、というように言われた。これは実にはなはだしい牽強で、養子やその妻妾を殺して畜生塚を築き、武田を殺してその妻を妾とし、旧友だった佐々の娘九歳なるを磔殺にしたほどの人が、たといときとして慈仁の念を催すことなきにあらざりしにせよ、敵を殺しもしくは殺す代りにその耳鼻を取らしむるくらいのことは躊躇すべきや」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.251~252』河出文庫)
秀吉なら当然やるだろうと。戦国時代の武将らの間で「截耳割鼻」など日常茶飯事。秀吉ばかりが例外であろうはずがない。
「純友が藤原子高を捕え、截耳割鼻、その妻を奪い将り去り、平時忠が院使花方の頬に烙印し鼻を殺ぎ、これは法皇をかくし奉るという意を洩らせるなど、敵を耳刂劓(じぎ)することむかしよりあったので、戦国に至っては戦場で鼻切ること、すごぶる盛んなりしあまり、何の高名にもならぬ場合多かりしよう、『北条五代記』巻三に見え、信長、長島城を攻めし時、大鳥居累を陥れ斬首二千人、その耳鼻を城中へ贈り、斎藤道三はその臣下に討たれて鼻を殺がれた」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.252~253』河出文庫)
だが熊楠は秀吉が作った「耳塚」についてだけは、「耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあった」、と極めて微妙な論考を付け加えている。
「秀吉も時節なみに敵民を耳刂劓するを武道に取って尋常事と心得、諸将に命じて左様させたが、その耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあったと判る」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.254』河出文庫)
熊楠のいう「慈心」は「慈悲心」とはまた別種の性質のものであって、近現代のヒューマニズム思想とはまるで違う。なぜか。そもそも秀吉は「神」を恐れ敬う傾向が強かった。「神事」を蔑ろにすることを極端に怖がっていた。「耳塚」造営は秀吉の奇妙な信仰から来た「神事」の一つなのではと思われる。「日本書紀」にあるように新羅(しらき=神の坐す白い国)侵攻で有名な「神功皇后伝説」。秀吉は朝鮮侵攻の後、なぜわざわざ「耳塚」造営に当たらせたのか。むしろその企図は「神功皇后伝説」の秀吉による反復として捉えることができる。
造船技術を始め様々な点で新羅国(しらきのくに)が倭国を凌駕していた神話時代。素戔嗚尊(すさのをのみこと)はどのように振る舞ったか。「埴土(はに)を以て舟(ふね)に作(つく)りて、乗(の)りて東(ひむがしのかた)に渡(わた)り」。「埴土(はに)を以て舟(ふね)に作(つく)り」では工夫したとしても縄文土器を繋ぎ合わせて船を作っているようなもので航海するには危険極まりなかったろうと思う。
「一書に曰はく、素戔嗚尊の所行(しわざ)無状(あづき)し。故(かれ)、諸(もろもろ)の神(かみたち)、科(おほ)するに千座置戸(ちくらおきと)を以てし、遂(つひ)に逐(やら)ふ。是(こ)の時に、素戔嗚尊、其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)をを帥(ひき)ゐて、新羅国(しらきのくに)に降到(あまくだ)りまして、曾尸茂梨(そしもり)の処(ところ)に居(ま)します。乃ち興言(ことあげ)して曰(のたま)はく、『此の地(くに)は吾(われ)居(を)らまく欲(ほり)せじ』とのたまひて、遂に埴土(はに)を以て舟(ふね)に作(つく)りて、乗(の)りて東(ひむがしのかた)に渡(わた)りて、出雲国(いづものくに)の簸(ひ)の川上(かはかみ)に所在(あ)る、鳥上(とりかみ)の峯(たけ)に到(いた)る。時に彼処(そこ)に人(ひと)を呑(の)む大蛇(をろち)有り。素戔嗚尊(すさのをのみこと)、乃ち天蠅斫剣(あめのははきりのつるぎ)を以て、彼(そ)の大蛇を斬りたまふ。時に、蛇(をろち)の尾を斬りて刃(は)欠(か)けぬ。即ち擘(さ)きて視(みそなは)せば、尾の中(なか)に一(ひとつ)の神(あや)しき剣有り。素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『此(こ)は以て吾(わ)が私(わたくし)に用ゐるべからず』とのたまひて、乃ち五世(いつよ)の孫天之葺根神(みまあまのふきねのかみ)を遣(まだ)して、天(あめ)に上奉(たてまつりあ)ぐ。此(これ)今、所謂(いはゆる)草薙剣(くさなぎのつるぎ)なり。初(はじ)め五十猛神(いたけるのかみ)、天降(あまくだ)ります時に、多(さは)に樹種(こだね)を将(も)ちて下(くだ)る。然(しか)れども韓地(からくに)に殖(う)ゑずして、尽(ことごとく)に持(も)ち帰(かへ)る。遂に筑紫(つくし)より始(はじ)めて、凡(すべ)て大八洲国(おほやしまのくに)の内(うち)に、播殖(まきおほ)して青山(あをやま)に成(な)さずといふこと莫(な)し。所以(このゆゑ)に、五十猛命(いたけるのみこと)を称(なづ)けて、有功(いさをし)の神とす。即ち紀伊国(きのくに)に所坐(ましま)す大神(おほかみ)是(これ)なり」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.98~100」岩波文庫)
一方、新羅国はすでに木材を用いる造船技術が発達していた。さらに金銀財宝、少なくともその採掘技術も倭国の先を行っていたと思われる。素戔嗚尊がそれらを倭国にもたらした経緯についてこう見える。
「一書に曰はく、素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『韓郷(からくに)の嶋(しま)には、是(これ)金銀(こがねしろかね)有り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国(くに)に、浮宝(うくたから)有(あ)らずは、未(いま)だ佳(よ)からじ』とのたまひて、乃ち鬚髯(ひげ)を抜(ぬ)きて散(あか)つ。即(すなは)ち杉(すぎのき)に成(な)る。又(また)、胸(むね)の毛(け)を抜き散つ。是(これ)、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是柀(まき)に成る。眉(まゆ)の毛は是櫲樟(くす)に成る。已(すで)にして其(そ)の用ゐるべきものを定(さだ)む。乃ち称(ことあげ)して曰(のたま)はく、『杉及(およ)び櫲樟、此(こ)の両(ふたつ)の樹(き)は、以(も)て浮宝(うくたから)とすべし。檜(ひのき)は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材(き)にすべし。柀(まき)は以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへ)に将(も)ち臥(ふ)さむ具(そなへ)にすべし。夫(そ)の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆(みな)能(よ)く播(ほどこ)し生(う)う』とのたまふ。時に、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の子(みこ)を、号(なづ)けて五十猛命(いたけるのみこと)と曰(まう)す。妹(いろも)大屋津姫命(おほやつひめのみこと)。次(つぎ)に柧津姫命(つまつひめのみこと)。凡(すべ)て此の三(みはしら)の神(かみ)、亦(また)能(よ)く木種(こだね)を分布(まきほどこ)す。即ち紀伊国(きのくに)に渡(わた)し奉(まつ)る。然(しかう)して後(のち)に、素戔嗚尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居(い)まして、遂(つひ)に根国(ねのくに)に入(い)りましき」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.100~102」岩波文庫)
次に「神功皇后新羅侵攻」について、その「神事性」が全面的に描かれている点に注目したいとおもう。なぜ「神事性」に重点が置かれて見えるのか。「日本書紀」では帰国後の「ミソギ」に関する記述に重点が置かれているためより一層「神事」へのこだわりが謎めいて見えるわけだが。
第一に「鎮石伝説」。後の応神天皇を身籠った時に海上を航行中に行われた行為。
「時に、適(たまたま)皇后(きさき)の開胎(うむがつき)に当(あた)れり。皇后、則ち石(いし)を取(と)りて腰(みこし)に挿(さしはさ)みて、祈(いの)りたまひて曰(まう)したまはく、『事(こと)竟(を)へて還(かえ)らむ日に、茲土(ここ)に産(あ)れたまへ』ともうしたまふ。其の石は、今(いま)伊覩県(いとのあがた)の道(みち)の辺(ほとり)に在(あ)り。既(すで)にして則ち荒魂(あらみたま)を撝(を)ぎたまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)とし、和魂(にぎみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎮(しずめ)としたまふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.146~148」岩波文庫)
第二に「紀伊国(きのくに)」への「ミソギ」行。戦場で血を浴びることが「穢(けが)れ」とされた古代。血そのものも身体の外へ流れ出ると「穢(けが)れ」とされただけでなく、女性の場合、生理の期間中は「対屋(たいや)」といっていつもと向き合って造られた建物で七日間、物忌みとして中に籠っていなければならなかった。ゆえに女性は身体自体がそもそも「穢(けが)れている」とされ信じて疑われていなかった。そこでミソギの聖地とされた紀伊国=熊野へ直行することになる。
「時(とき)に皇后(きさき)、忍熊王師(おしくまのみこいくさ)を起(おこ)して待(ま)てりと聞(きこ)しめして、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことおほ)せて、皇子(みこ)を懐(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)に泊(とま)らしむ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.158~160」岩波文庫)
さらに「日高(ひたか)・小竹宮(しののみや)」と紀州周辺をうろうろする。
「皇后、南(みなみのかた)紀伊国(きのくに)に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ)に日高(ひたか)に会(あ)ひぬ。群臣(まへつきみ)と議及(はか)りて、遂(つひ)に忍熊王を攻(せ)めむとして、更(さら)に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)ります」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.160」岩波文庫)
そして始めて都入りが許された。秀吉が「耳塚」を築かせたわけは、柳田が後に差し障りのない穏当な解釈へ置き換えたものではなく、既に熊楠が見抜いていたように、神に対する底知れない「畏怖」があったと思われる。だから他の戦国武将らが勝利した時にしょっちゅうやっていた単純な「截耳割鼻」とはまた意味の異なる「神事」あるいは「祭祀」として色濃く映るに違いない。
ところで、勝利した側が敗北した敵軍の屍骸を集めて「大きな塚」を造り戦勝記念とする風習の発生はずいぶん古くから見られる。古代中国で楚が晋を破った時、楚子の臣下・潘党が「京観(けいかん)」=「巨大な塚」を造ってはどうかと進言している。
「晋軍の屍骸を集めて、〔戦勝記念の〕京観(けいかん=大きな築山)を築き、標識を立てられてはいかがですか。敵を撃破したときは、子孫に記念を残して、武功を忘れぬようにする、と臣(わたくし)は聞いております」(「春秋左氏伝・上・宣公十二年・P.453」岩波文庫)
楚子はその提案を退けたとする。軍事の終わりは戦勝記念碑の建立にあるのではなく、むしろそんなことをすれば敵だった国の民を治めていくのに逆効果だというのがその理由。そしていう。
「その昔、聖明なる王は不敬の国を攻め、その首魁を捕えるや、上に塚を盛り上げて処刑を果された。この時以来、不敬の輩(やから)を懲(こ)らしめるための京観(大きな築山)が始まったのである」(「春秋左氏伝・上・宣公十二年・P.455」岩波文庫)
しかしこの「聖明なる王」が誰を指すのかわからない。「宣公十二年」は紀元前五九七年。百済(くだら)の聖王(紀元後六世紀前半)とは無関係。ともかく、「耳塚・鼻塚」以前はもっと巨大な「首塚・死骸塚」が先行していたようだ。そしてもし「神事」あるいは「祭祀」としてであればそれにともなって巨大な光明の出現が見られるのが古代説話の常なのだが。「今昔物語・巻第六・震旦道珍(しんだんのだうちん)、始読阿弥陀経語(はじめてあみだきやうをよめること)・第四十話」でこうあったように。
「遂(つひに)道珍命終(みやうじう)ノ時ニ臨(のぞみ)テ、山ノ頂ニ数千(すせん)ノ火ヲ燃(とも)シタルガ如クニ光明(くわうみやう)有(あり)。異香(いきやう)寺ノ内ニ満(みち)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.80」岩波書店)
さらに「山海経」にこう見える。
「吉神(めでたきかみ)・泰逢(たいほう)これを司る。その状(すがた)は人の如くで虎の尾、ーーー出入りするときは光を放つ」(「山海経・第五・中山経・P.86」平凡社ライブラリー)
一方、これほど神と光明とが崇拝された理由は言うまでもなく、人々の日常生活全体が巨大な暗闇に包み込まれて出口の見えない苦悩の日々の連続だったからに違いない。秀吉が築かせた「耳塚」の場合はどうだったのだろう。例えば秀吉は大規模な花見を好んだ。しかしそれがただ単なる年中行事だったのかそれとも「神事」あるいは「祭祀」として挙行されたものだったのか。今となっては藪の中というほかない。
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「『郷土研究』三巻に、柳田國男氏、耳塚の由来を論じ、人間の耳は容易に截り取り、はるばると輸送もできまじければ、耳塚というものは多くは人の耳を埋めたでなかろうということで、奥羽地方の伝説に獅子舞同士出会い争闘して耳を切られたというから、京都大仏の耳塚も獅子舞の喧嘩で取られた獅子頭の耳か、祭に神に献じた獣畜の耳を埋めたのを、後年太閤征韓に府会したのであろう、太閤は敵の耳や鼻を取って来いと命ずるような残忍な人ではない、諸方に存する鼻塚も人の鼻を取って埋めたでなく、花塚または突き出た端(ハナ)塚の意味であろう、というように言われた。これは実にはなはだしい牽強で、養子やその妻妾を殺して畜生塚を築き、武田を殺してその妻を妾とし、旧友だった佐々の娘九歳なるを磔殺にしたほどの人が、たといときとして慈仁の念を催すことなきにあらざりしにせよ、敵を殺しもしくは殺す代りにその耳鼻を取らしむるくらいのことは躊躇すべきや」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.251~252』河出文庫)
秀吉なら当然やるだろうと。戦国時代の武将らの間で「截耳割鼻」など日常茶飯事。秀吉ばかりが例外であろうはずがない。
「純友が藤原子高を捕え、截耳割鼻、その妻を奪い将り去り、平時忠が院使花方の頬に烙印し鼻を殺ぎ、これは法皇をかくし奉るという意を洩らせるなど、敵を耳刂劓(じぎ)することむかしよりあったので、戦国に至っては戦場で鼻切ること、すごぶる盛んなりしあまり、何の高名にもならぬ場合多かりしよう、『北条五代記』巻三に見え、信長、長島城を攻めし時、大鳥居累を陥れ斬首二千人、その耳鼻を城中へ贈り、斎藤道三はその臣下に討たれて鼻を殺がれた」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.252~253』河出文庫)
だが熊楠は秀吉が作った「耳塚」についてだけは、「耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあった」、と極めて微妙な論考を付け加えている。
「秀吉も時節なみに敵民を耳刂劓するを武道に取って尋常事と心得、諸将に命じて左様させたが、その耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあったと判る」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.254』河出文庫)
熊楠のいう「慈心」は「慈悲心」とはまた別種の性質のものであって、近現代のヒューマニズム思想とはまるで違う。なぜか。そもそも秀吉は「神」を恐れ敬う傾向が強かった。「神事」を蔑ろにすることを極端に怖がっていた。「耳塚」造営は秀吉の奇妙な信仰から来た「神事」の一つなのではと思われる。「日本書紀」にあるように新羅(しらき=神の坐す白い国)侵攻で有名な「神功皇后伝説」。秀吉は朝鮮侵攻の後、なぜわざわざ「耳塚」造営に当たらせたのか。むしろその企図は「神功皇后伝説」の秀吉による反復として捉えることができる。
造船技術を始め様々な点で新羅国(しらきのくに)が倭国を凌駕していた神話時代。素戔嗚尊(すさのをのみこと)はどのように振る舞ったか。「埴土(はに)を以て舟(ふね)に作(つく)りて、乗(の)りて東(ひむがしのかた)に渡(わた)り」。「埴土(はに)を以て舟(ふね)に作(つく)り」では工夫したとしても縄文土器を繋ぎ合わせて船を作っているようなもので航海するには危険極まりなかったろうと思う。
「一書に曰はく、素戔嗚尊の所行(しわざ)無状(あづき)し。故(かれ)、諸(もろもろ)の神(かみたち)、科(おほ)するに千座置戸(ちくらおきと)を以てし、遂(つひ)に逐(やら)ふ。是(こ)の時に、素戔嗚尊、其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)をを帥(ひき)ゐて、新羅国(しらきのくに)に降到(あまくだ)りまして、曾尸茂梨(そしもり)の処(ところ)に居(ま)します。乃ち興言(ことあげ)して曰(のたま)はく、『此の地(くに)は吾(われ)居(を)らまく欲(ほり)せじ』とのたまひて、遂に埴土(はに)を以て舟(ふね)に作(つく)りて、乗(の)りて東(ひむがしのかた)に渡(わた)りて、出雲国(いづものくに)の簸(ひ)の川上(かはかみ)に所在(あ)る、鳥上(とりかみ)の峯(たけ)に到(いた)る。時に彼処(そこ)に人(ひと)を呑(の)む大蛇(をろち)有り。素戔嗚尊(すさのをのみこと)、乃ち天蠅斫剣(あめのははきりのつるぎ)を以て、彼(そ)の大蛇を斬りたまふ。時に、蛇(をろち)の尾を斬りて刃(は)欠(か)けぬ。即ち擘(さ)きて視(みそなは)せば、尾の中(なか)に一(ひとつ)の神(あや)しき剣有り。素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『此(こ)は以て吾(わ)が私(わたくし)に用ゐるべからず』とのたまひて、乃ち五世(いつよ)の孫天之葺根神(みまあまのふきねのかみ)を遣(まだ)して、天(あめ)に上奉(たてまつりあ)ぐ。此(これ)今、所謂(いはゆる)草薙剣(くさなぎのつるぎ)なり。初(はじ)め五十猛神(いたけるのかみ)、天降(あまくだ)ります時に、多(さは)に樹種(こだね)を将(も)ちて下(くだ)る。然(しか)れども韓地(からくに)に殖(う)ゑずして、尽(ことごとく)に持(も)ち帰(かへ)る。遂に筑紫(つくし)より始(はじ)めて、凡(すべ)て大八洲国(おほやしまのくに)の内(うち)に、播殖(まきおほ)して青山(あをやま)に成(な)さずといふこと莫(な)し。所以(このゆゑ)に、五十猛命(いたけるのみこと)を称(なづ)けて、有功(いさをし)の神とす。即ち紀伊国(きのくに)に所坐(ましま)す大神(おほかみ)是(これ)なり」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.98~100」岩波文庫)
一方、新羅国はすでに木材を用いる造船技術が発達していた。さらに金銀財宝、少なくともその採掘技術も倭国の先を行っていたと思われる。素戔嗚尊がそれらを倭国にもたらした経緯についてこう見える。
「一書に曰はく、素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『韓郷(からくに)の嶋(しま)には、是(これ)金銀(こがねしろかね)有り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国(くに)に、浮宝(うくたから)有(あ)らずは、未(いま)だ佳(よ)からじ』とのたまひて、乃ち鬚髯(ひげ)を抜(ぬ)きて散(あか)つ。即(すなは)ち杉(すぎのき)に成(な)る。又(また)、胸(むね)の毛(け)を抜き散つ。是(これ)、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是柀(まき)に成る。眉(まゆ)の毛は是櫲樟(くす)に成る。已(すで)にして其(そ)の用ゐるべきものを定(さだ)む。乃ち称(ことあげ)して曰(のたま)はく、『杉及(およ)び櫲樟、此(こ)の両(ふたつ)の樹(き)は、以(も)て浮宝(うくたから)とすべし。檜(ひのき)は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材(き)にすべし。柀(まき)は以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへ)に将(も)ち臥(ふ)さむ具(そなへ)にすべし。夫(そ)の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆(みな)能(よ)く播(ほどこ)し生(う)う』とのたまふ。時に、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の子(みこ)を、号(なづ)けて五十猛命(いたけるのみこと)と曰(まう)す。妹(いろも)大屋津姫命(おほやつひめのみこと)。次(つぎ)に柧津姫命(つまつひめのみこと)。凡(すべ)て此の三(みはしら)の神(かみ)、亦(また)能(よ)く木種(こだね)を分布(まきほどこ)す。即ち紀伊国(きのくに)に渡(わた)し奉(まつ)る。然(しかう)して後(のち)に、素戔嗚尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居(い)まして、遂(つひ)に根国(ねのくに)に入(い)りましき」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.100~102」岩波文庫)
次に「神功皇后新羅侵攻」について、その「神事性」が全面的に描かれている点に注目したいとおもう。なぜ「神事性」に重点が置かれて見えるのか。「日本書紀」では帰国後の「ミソギ」に関する記述に重点が置かれているためより一層「神事」へのこだわりが謎めいて見えるわけだが。
第一に「鎮石伝説」。後の応神天皇を身籠った時に海上を航行中に行われた行為。
「時に、適(たまたま)皇后(きさき)の開胎(うむがつき)に当(あた)れり。皇后、則ち石(いし)を取(と)りて腰(みこし)に挿(さしはさ)みて、祈(いの)りたまひて曰(まう)したまはく、『事(こと)竟(を)へて還(かえ)らむ日に、茲土(ここ)に産(あ)れたまへ』ともうしたまふ。其の石は、今(いま)伊覩県(いとのあがた)の道(みち)の辺(ほとり)に在(あ)り。既(すで)にして則ち荒魂(あらみたま)を撝(を)ぎたまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)とし、和魂(にぎみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎮(しずめ)としたまふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.146~148」岩波文庫)
第二に「紀伊国(きのくに)」への「ミソギ」行。戦場で血を浴びることが「穢(けが)れ」とされた古代。血そのものも身体の外へ流れ出ると「穢(けが)れ」とされただけでなく、女性の場合、生理の期間中は「対屋(たいや)」といっていつもと向き合って造られた建物で七日間、物忌みとして中に籠っていなければならなかった。ゆえに女性は身体自体がそもそも「穢(けが)れている」とされ信じて疑われていなかった。そこでミソギの聖地とされた紀伊国=熊野へ直行することになる。
「時(とき)に皇后(きさき)、忍熊王師(おしくまのみこいくさ)を起(おこ)して待(ま)てりと聞(きこ)しめして、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことおほ)せて、皇子(みこ)を懐(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)に泊(とま)らしむ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.158~160」岩波文庫)
さらに「日高(ひたか)・小竹宮(しののみや)」と紀州周辺をうろうろする。
「皇后、南(みなみのかた)紀伊国(きのくに)に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ)に日高(ひたか)に会(あ)ひぬ。群臣(まへつきみ)と議及(はか)りて、遂(つひ)に忍熊王を攻(せ)めむとして、更(さら)に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)ります」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.160」岩波文庫)
そして始めて都入りが許された。秀吉が「耳塚」を築かせたわけは、柳田が後に差し障りのない穏当な解釈へ置き換えたものではなく、既に熊楠が見抜いていたように、神に対する底知れない「畏怖」があったと思われる。だから他の戦国武将らが勝利した時にしょっちゅうやっていた単純な「截耳割鼻」とはまた意味の異なる「神事」あるいは「祭祀」として色濃く映るに違いない。
ところで、勝利した側が敗北した敵軍の屍骸を集めて「大きな塚」を造り戦勝記念とする風習の発生はずいぶん古くから見られる。古代中国で楚が晋を破った時、楚子の臣下・潘党が「京観(けいかん)」=「巨大な塚」を造ってはどうかと進言している。
「晋軍の屍骸を集めて、〔戦勝記念の〕京観(けいかん=大きな築山)を築き、標識を立てられてはいかがですか。敵を撃破したときは、子孫に記念を残して、武功を忘れぬようにする、と臣(わたくし)は聞いております」(「春秋左氏伝・上・宣公十二年・P.453」岩波文庫)
楚子はその提案を退けたとする。軍事の終わりは戦勝記念碑の建立にあるのではなく、むしろそんなことをすれば敵だった国の民を治めていくのに逆効果だというのがその理由。そしていう。
「その昔、聖明なる王は不敬の国を攻め、その首魁を捕えるや、上に塚を盛り上げて処刑を果された。この時以来、不敬の輩(やから)を懲(こ)らしめるための京観(大きな築山)が始まったのである」(「春秋左氏伝・上・宣公十二年・P.455」岩波文庫)
しかしこの「聖明なる王」が誰を指すのかわからない。「宣公十二年」は紀元前五九七年。百済(くだら)の聖王(紀元後六世紀前半)とは無関係。ともかく、「耳塚・鼻塚」以前はもっと巨大な「首塚・死骸塚」が先行していたようだ。そしてもし「神事」あるいは「祭祀」としてであればそれにともなって巨大な光明の出現が見られるのが古代説話の常なのだが。「今昔物語・巻第六・震旦道珍(しんだんのだうちん)、始読阿弥陀経語(はじめてあみだきやうをよめること)・第四十話」でこうあったように。
「遂(つひに)道珍命終(みやうじう)ノ時ニ臨(のぞみ)テ、山ノ頂ニ数千(すせん)ノ火ヲ燃(とも)シタルガ如クニ光明(くわうみやう)有(あり)。異香(いきやう)寺ノ内ニ満(みち)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.80」岩波書店)
さらに「山海経」にこう見える。
「吉神(めでたきかみ)・泰逢(たいほう)これを司る。その状(すがた)は人の如くで虎の尾、ーーー出入りするときは光を放つ」(「山海経・第五・中山経・P.86」平凡社ライブラリー)
一方、これほど神と光明とが崇拝された理由は言うまでもなく、人々の日常生活全体が巨大な暗闇に包み込まれて出口の見えない苦悩の日々の連続だったからに違いない。秀吉が築かせた「耳塚」の場合はどうだったのだろう。例えば秀吉は大規模な花見を好んだ。しかしそれがただ単なる年中行事だったのかそれとも「神事」あるいは「祭祀」として挙行されたものだったのか。今となっては藪の中というほかない。
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