白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/後漢の高鳳(かうほう)・大貧民から大富豪へ

2021年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

後漢の時代、高鳳(かうほう)という男性がいた。字は文通(ぶんつう)、南陽(なんよう)葉出身。南陽は今の中国河南省中部から湖北省北部一帯。幼少期から学問を志しその道で身を立てようと日夜勉学に励んだ。一方、それ以外のことにはまるで無頓着だった。

学問一筋といえば聞こえは良いかもしれない。だが他のことにはさっぱり関心がないというのではこれまた乗るか反るかという人生を選択しているわけであり毎日が綱渡りに等しい。当然のように貧乏で、家の中は高鳳の他にたった一人の妻がいるだけ。俗世間のことに感心がなさ過ぎるため何年かするうちと次第に貧乏暮らしも底をつくほど。仕方なしに妻が夕食の用意に奔走しなくてはならなくなっていた。或る日、妻は隣の家に行って麦を分けて貰ってきた。夕食の準備に間に合わせようと麦を満遍なく庭に広げて置いておいた。さらに調理のために火種がいるのでそれを調達してこなくてはならない。帰ってくるまで庭に広げた麦を鶏に食われないよう注意していて欲しいと高鳳にいうと、妻は火種の調達に出かけていった。

「我レ、夕サリノ食物(じきもつ)無(なき)ニ依(より)テ、隣(となりの)家ニ行テ麦ヲ求(もとめ)テ持来(もてきたり)テ庭ニ曝(さら)ス。若(も)シ鶏出来(いできたり)テ此ノ麦ヲ食(くら)ハバ、遠ク可令追去(おひさらしむべ)シ。我レハ、火ヲ取テ来ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十五・P.342」岩波書店)

その間、鶏が歩いて庭に出てきた。高鳳は学問に余念がない。鶏は庭に広げてある麦を食べ始めた。目の前で起こっている事態なのだが高鳳の眼中にはまるでない。鶏は何にも邪魔されず思うがまま麦を全部平らげてしまった。

「其ノ後、鶏、出来(いできたり)テ此ノ庭ノ麦ヲ食(くら)フ。然レドモ、高鳳、文ヲ学スルニ他(ほか)ノ心無(なき)ガ故ニ、此レヲ不見入(みいれ)ズシテ、鶏、心ニ任セテ麦ヲ皆食(くら)ヒツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十五・P.342」岩波書店)

しばらくして妻が家に戻ってきた。庭を見ると隣の家から貰ってきた麦が消え失せている。妻はどうしてすべての麦が消えてなくなっているのかと理由を尋ねた。すると高鳳はさっぱりわからないという。その時、長年連れ添ってきた妻ではあったが、とうとう堪忍袋の緒が切れた。そしていう。「そなたの学問の志はなるほど立派なのでしょう。でも俗世間を生きていく以上は必要な細々とした雑事に関して余りにも知らないことが多過ぎます。もう我慢も限界だわ。別れましょう」。

「汝、文ヲ学スト云フトモ、世間ノ事ヲ不知(しら)ズシテ、極(きはめ)テ愚(おろか)也。今ヨリ我レ、汝ニ不相副(あひそは)ジ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十五・P.342」岩波書店)

高鳳はいう。「あと三年経てばきっと富貴な身分に就けるだろうと思う。そなた、あと三年待てそうにないか」。

「我レハ、今三年有テ、富貴(ふつき)ノ身ト可成(なるべ)シ。汝、其ノ時ヲ可待(まつべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十五・P.342」岩波書店)

予測不可能な期限を告げられても実際問題、生活は日に日に苦しくなる。妻はとてもではないが信じる気になれそうにない。その後、妻は算洲(さんしう)へ去り、他の男性と結婚した。

「其ノ妻、算洲(さんしう)ト云フ所ニ行テ、夫ニ嫁(とつぎ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十五・P.342」岩波書店)

その後四年が経った。学問一筋に研鑽を積んだ高鳳はとうとう算洲の長官に就任することになった。かつて言っていた通り富貴な身分になったのである。そして算洲の国に入る日がやって来た。ハレの日のパレードに備えて大通りは浄めの儀式を済ませ沿道はたいそう賑やかに飾り立てられている。

「而(しか)ル間、四年ヲ経テ、高鳳、遂ニ算洲ノ刺史(しし)ニ任ゼリ。然レバ、高鳳、富貴(ふつき)ノ身ト成テ、彼ノ洲(くに)ニ下ル間ニ、算洲挙(こぞり)テ道ヲ揮(はら)ヒ所ヲ浄メ、騒ギ営ム事無限(かぎりな)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十五・P.342」岩波書店)

新しい長官の姿を一目見ようと洲の人々は貴賤男女を問わず大挙して沿道に溢れた。見物にやって来た人々の中に、高鳳の前妻がいた。貧乏時代の高鳳に愛想が尽きて離婚したあと算洲で別の男性と再婚して暮らしていた。しかし前妻は沿道の明るい場所ではなく今の夫を連れて「薮ノ中」から覗いていた。ふつうに考えると大通りから沿道のそのまた奥の「薮ノ中」の様子は見えないはず。だが高鳳は大通りの真ん中を行く輿(みこし)の中から見て、「薮ノ中」に隠れるように自分を見ている前妻の姿を認めた。そこで従者に命じて「私はそなたの前の夫ではないか。そしてそなたは私の前の妻ではないか」と確かめてくるように言った。従者の言葉を聞いた前妻は奇妙にこみ上げてくる喜びを感じ、「薮ノ中」から出てみた。高鳳が近くに呼んで確かめてみると見間違いようのない前妻である。別れて既に四年。高鳳もまた言いようのない感慨深いものを覚えた。

「其ノ中ニ、刺史ノ旧(ふる)キ妻(め)有(あり)テ、今ノ夫ト相共ニ薮ノ中ニ入(いり)テ此レヲ見ルニ、刺史、髣(ほのか)ニ旧(ふるき)妻ノ薮ノ中ニ有ルヲ見テ、輿(みこし)ヲ止(とど)メテ、人ヲ以テ告(つげ)テ云ク、『我レハ、汝ガ旧キ夫ニハ非(あら)ズヤ。汝ハ、我ガ本ノ妻ニハ非ズヤ』ト云ヒ遣(やり)タレバ、妻、此レヲ聞テ大キニ喜(よろこび)テ、薮(やぶ)ノ中ヨリ出来(いできたり)タリ。近ク召シ寄セテ見ルニ、実(まこと)ナレバ、哀レニ思フ事無限(かぎりな)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十五・P.343」岩波書店)

さて。四字熟語「高鳳漂麦」で有名なエピソードだが、類話は無数にあり、どれが正しい正しくないは余り問題でないように思う。むしろそれほど多くの書き手に注目されたのはなぜなのか。言い換えれば、この説話にはなぜ多くの類話を創作可能にする要素があるのか。その点を考えたい。第一に整然たる置き換え。(1)高鳳にとっての妻の変化。「妻」から「前妻」への転化。「前妻」から「本妻」への再転化。(2)前妻にとっての高鳳の変化。「夫」から「前夫」への転化。「前夫」から「再婚相手」への再転化。第二に高鳳の社会的立場の変化。「貧乏夫」から「算洲長官」への転化。これらの置き換えはいずれも身分や役割を指し示す言語で現されることに注目しておこう。要するに、「前妻」から「本妻」、「貧乏夫」から「算洲長官」、といったふうに問題は《仮面の置き換え》なのだ。この置き換えは諸商品の無限の系列として、次のようにどこまでも延長することができる。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

さらに「今昔物語」で顕著なパターンとして、この説話でも重要な機能を演じているのは「薮ノ中」。本朝部で取り上げた際、しばしば見られたように、「薮ノ中」に入る前と後とでは事態ががらりと変わってしまう。この説話も同様で、そもそも日陰に隠れており明るい場所からは見えないはずの前妻の姿がなぜか大通りから、逆に「薮ノ中」の前妻の姿が浮き上がって見える。そして「薮ノ中」から出てきた前妻は過去(大貧民の妻)から現在(大富豪の妻)へものの見事に転倒するという経過を辿る。

なお、高鳳も前妻も二人とも再婚していた。ところが二人は再び寄りを戻すことになったため、高鳳の今の妻は去り、前妻の今の夫も去ることになる。常識的にはそうなるのだろうが、日本の江戸時代には民間人の間で変則的な生活を送ることになった家族もあった。以前取り上げた「厠(かわや)」から忽然と消え失せた夫が二十年後に同じ「厠(かわや)」から出現した話。

「しかるに二十年ほど過ぎて、或日かのかわやにて人を呼び候声聞えしゆえ、至りて見れば、右市兵衛、行方なくなりし時の衣服に少しも違いなく坐し居しゆえ、人々大きに驚き、『しかじかの事なり』と申しければ、しかと答えもなく、空腹の由にて、食を好む。さっそく食事などすすめけるに、暫くありて着し居候衣類も、ほこりのごとくなりて散りうせて裸になりしゆえ、さっそく衣類を与え薬などあたえしかど、何かいにしえの事覚えたある様子にもこれなく、病気或いは痛む所などの呪(まじない)などなしける由」(根岸鎮衛「二十年を経て帰りし者の事」『耳袋1・巻の五・P.407~408』平凡社ライブラリー)

妻は二十年も失踪したままただ単にぼうっと待っているわけにはいかず再婚していた。そして夫が再び現れたわけだが、どうなったかというと、再婚相手の男性と共に再出現した夫とも一緒に暮らすことになった。

「妻も後夫もおかしきつき合いならんと一笑なしぬ」(根岸鎮衛「二十年を経て帰りし者の事」『耳袋1・巻の五・P.408』平凡社ライブラリー)

とあるように、なるほど何とも言い難い「おかしきつき合い」になっただろう。しかし重要なのは、耳袋に出てくる「厠」の機能は「今昔物語」のこの説話に出てくる「薮ノ中」と同じ境界領域を演じているという点でなくてはならない。

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