前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
七世紀前半、韋(ゐ)ノ仲珪(ちうけい)といって父母だけでなく家族みんなに深い愛情を注ぐ少年がいた。郡里一円でも有名なほど。それだけ周囲は血縁者同士の間の揉め事や殺害事件、戦争などが頻繁だったため余計に貴く思われたのだろう。十七歳で既に「群ノ司(つかさ)」=郡司になった。一方、仲珪の父は資陽群(しやうぐん)の「丞(じよう)」=副官を長く務めており、高齢になっても里に戻ってこなかった。資陽郡(しやうぐん)は今の中国四川省資陽市。
武徳の頃(六一八年〜六二六年)、仲珪の老父は勤務先の資陽郡で病を患った。仲珪は官公庁から支給される制服を脱ぐ暇も惜しんで資陽郡に駆けつけ老父の看病に当たった。だが病状は厳しいようで長いあいだ老父を見守り対応に付いてもいたが遂に死去した。
「武徳(ぶとく)ノ間ニ、仲珪ガ父、資陽郡ニシテ身ニ病ヲ受(うけ)タリ。子ノ仲珪、帯ヲ不解(とか)ズシテ父ノ所ニ行(ゆき)テ、懇ろ(ねむごろに)此レヲ養ヒ繚(あつか)フ。父久ク悩ム間ニ遂ニ死(しに)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.139」岩波書店)
父の死後、仲珪は妻子のいる自分の家を離れた。亡き父の墓(つか)のそばに菴(いほり)を設け、仏教に専心し法華経を読誦して差し上げていた。墓の辺(ほとり・そば)に菴を造り墓守りをするのは古代中国の風習。もっとも、それすら出来ない貧困階級がぞろぞろいたことはここでは言及されていないが。
「其ノ後(のち)、仲珪、妻子ヲ離レテ、彼ノ父ガ墓(つか)ノ辺(ほとり)ヲ行(ゆき)テ、菴(いほり)ヲ造(つくり)テ其レニ居(ゐ)テ、専(もはら)ニ仏教ヲ信(しんじ)テ法花経(ほくゑきいやう)ヲ読誦(どくじゆ)シ奉ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.139」岩波書店)
ともかく仲珪は父の墓(つか)造りに取り掛かり、昼は土の運搬、夜は法華経の読誦に励んだ。ちっともさぼらないところに仲珪の真面目さが偲ばれる。けれども、それはそれとして家では妻子が待っている。通例として喪に服する期間は三年。その三年間を過ぎても仲珪は家に戻らなかった。
「昼ハ土を負(おひ)テ墓(つか)ヲ築(つ)キ、夜ハ専(もはら)ニ法花経ヲ読誦(どくじゆ)シ奉(たてまつり)テ、父ノ後世(ごせ)ヲ訪(とぶら)フ。更ニ誠ノ心不怠(おこたら)ズシテ、三箇年ヲ経(へたり)ト云(いへ)ドモ、家ニ不還(かへら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.139」岩波書店)
そんな時、夜になり仲珪がいつものように法華経を読誦していると菴(いほり)の前に一匹の虎がのっそり出てきてその場に蹲(うずくま)ってしまった。しばらく経っても立ち去ろうとしない。仲珪は虎に向かっていう。「そなた、私はお経を読んでいるのであって猛獣に立ち向かおうと願っているわけではない。虎よ、どんなわけがあってここへやって来たのか」。すると虎は何を思ったのかわからないが起き上がって立ち去っていった。
「其ノ程、一ノ虎有(あり)テ、夜(よる)菴(いほり)ノ前ニ来(きたり)テ蹲(うずくまりゐ)テ、経ヲ読誦(どくじゆ)スルヲ聞ク、久ク有(あり)テ不去(さら)ズ。仲珪、此レヲ見テ心ニ恐ルル事無クシテ云(いは)ク、『我レ、悪(あし)キ獣ニ向ハム事ヲ不願(ねがは)ズ。虎、何ノ故有(あり)テ来レルゾヤ』ト。虎、此レヲ聞(きき)テ、即チ立(たち)テ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.139」岩波書店)
翌朝、墓(つか)の周囲を見渡してみると七十二本の蓮花がずらりと生い続いている。整然たるもの。人間が植え整えたかのようだ。赤い茎、紫の花、花の直径は十五センチほど。色も輝きも趣き深い美しさを湛え、ふつうの蓮花とは明らかに異なっている。
「亦、其ノ明(あく)ル朝(あした)ニ墓(つか)ヲ巡(めぐり)テ見ルニ、蓮花(れんぐゑ)七十二茎(きやう)生(おひ)タリ。墓(つか)ノ前ニ当(あたり)テハ次第ニ直(ただ)シク生ヒ次(つづ)ケリ。人ノ態(わざ)ト殖(うゑ)タルガ如キ也。茎ハ赤クシテ花ハ紫也。花ノ広サ五寸也。色及ビ光リ妙(たへ)ニシテ例ノ花ニ異(こと)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.139」岩波書店)
隣の里人がそのことを聞き付けて見に来た。異例の光景に驚いたのか内外の洲や県へもあっという間に噂が広がった。とうとう洲の長官・辛君(しんくん)とその補佐官・沈裕(しんゆ)が連れ立って墓(つか)を見にやって来た。そのとき、一羽の鳥が出現した。鴨に似ている。
「刺史(しし)辛君(しんくん)、及ビ別駕(べつが)沈裕(しんゆ)ト云フ人等、此ノ事ヲ聞(きき)テ、共ニ墓(つか)ノ所ニ来(きたり)テ此レヲ見ル間、忽(たちまち)ニ一ノ島出来(いできた)レリ。鴨(かも)ニ似タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.140」岩波書店)
鳥は三十センチほどの鯉(こい)を口に咥えて墓のそばへ飛び来たった。そして辛君の前まで飛んで来ると運んできた鯉を地面に置いて再び飛び去った。
「其ノ鳥、一尺許(ばかり)ノ二ノ鯉ヲ含(ふふみ)テ飛ビ来(きたり)テ、刺史(しし)君昌(くんしやう)ノ前ニ来(きたり)テ、魚ヲ地(ぢ)ニ置(おき)テ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.140」岩波書店)
さて。交換様式について。まず前提として「仲珪の父の墓(つか)造営並びに法華経読誦」がある。それと交換関係に入ったのが(1)「虎の出現と退散」、(2)「異例の蓮花園出現」、(3)「洲の長官・辛君(しんくん)の来訪と謎の鳥による鯉の献上」。そこで「仲珪の父の墓(つか)造営並びに法華経読誦」を仲珪が費やした一連の労働力とすると、それは一定量の貨幣に等しく、その限りで三つの商品へ変換されたと考えることは容易である。
また、墓所のそばに菴(いほり)を設ける風習に関し、以前取り上げた「巻第九・第八話・欧尚(おうしやう)、恋死父墓造庵居住語(しにけるちちをこひてはかにいほりをつくりてきよぢうせること)」でも虎の出現が見られた。その時の虎は山から郷(さと)へ出てきたため武装した郷人らに追い立てられ、喪に服している欧尚の廬(いほり)の中へ逃げ込んだ。欧尚は自分が着ている衣を脱いで虎に着せてやり、虎を匿って命を救ってやった。その後、助けられた虎は欧尚の廬を訪れるようになり、いつも捕えた鹿を置いていくようになった。食用ばかりでなく特に鹿皮は高級品だったのでしばらくして欧尚は富豪になったという説話。その時もまた出現したのは虎である。父の死後に虎が出現し、猛獣である虎にどのように向き合ったかによってその後の展開が決まってくる構造を取っている。では一体このように、いつも決まって墓のすぐそばの庵に出現する虎とは何なのか。親の死によって残された子が、その後、どのような身の振る舞い方を選択するのか、試しに出現していることは明らかと言わねばならない。とすればいかにも不用意に出現し、わざわざ喪に服している子の庵まで近づき、しばらく様子を見に来る虎は亡き親の変容した姿なのかもしれない。
仲珪の場合、亡き父の墓(つか)を仲珪が造りさらに庵を構えて仏教に深く帰依している姿を確認するや虎はどこかへ消え失せた。翌朝、墓(つか)の周囲は満面の蓮花の園へ転化していた。そしてさらに高級官僚の到着に合わせて鴨に似た謎の鳥が二匹の鯉を咥えて献上しに来るというアレンジが施されている。この場合、謎の鳥は虎の変化したものであっても何ら構わないことを考慮に入れることができる。
なお、謎の鳥が「鯉」を持ってきた点には多少注意が必要かもしれない。本朝部掲載の説話に、天狗の技を途中まで習った宮中警護の滝口所属の侍が、古藁沓(ふるわらぐつ)を「鯉」に変えて生きながら踊らせる芸を披露するシーンがある。これも以前に取り上げた。
「滝口(たきぐち)の陣(じん)にして、滝口共の履置(はきおき)たる沓(くつ)共を、諍(あらそ)ひ事をして、皆犬の子に成して這(はわ)せけり。亦(また)、古藁沓(ふるわらぐつ)を、三尺許(ばかり)の鯉に成して、大盤(だいばん)の上にして、生乍(いきながら)踊(おどら)せなど為(な)す事をなむしける」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.168」岩波文庫)
どこで習ったかというと「信濃国(しなののくに)=長野県」の山奥。そもそも鬼や天狗は仏教伝来以前から列島各地で暮らしていた様々な先住民の末裔で、朝廷の配下に入ったものの時々は中央政権に叛旗を翻して抗議を訴えた勢力を指す。京(みやこ)のすぐ近くに居城を構えて恐れられた「酒呑童子」については何度か述べた。また「沓(くつ)共を、諍(あらそ)ひ事をして、皆犬の子に成して這(はわ)せ」たり、あるいは「古藁沓(ふるわらぐつ)を、三尺許(ばかり)の鯉に成」などの「目くらまし」の芸は、平安時代から戦国末期にかけて「傀儡師(くぐつ)」が用いる芸能として有名だった。
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七世紀前半、韋(ゐ)ノ仲珪(ちうけい)といって父母だけでなく家族みんなに深い愛情を注ぐ少年がいた。郡里一円でも有名なほど。それだけ周囲は血縁者同士の間の揉め事や殺害事件、戦争などが頻繁だったため余計に貴く思われたのだろう。十七歳で既に「群ノ司(つかさ)」=郡司になった。一方、仲珪の父は資陽群(しやうぐん)の「丞(じよう)」=副官を長く務めており、高齢になっても里に戻ってこなかった。資陽郡(しやうぐん)は今の中国四川省資陽市。
武徳の頃(六一八年〜六二六年)、仲珪の老父は勤務先の資陽郡で病を患った。仲珪は官公庁から支給される制服を脱ぐ暇も惜しんで資陽郡に駆けつけ老父の看病に当たった。だが病状は厳しいようで長いあいだ老父を見守り対応に付いてもいたが遂に死去した。
「武徳(ぶとく)ノ間ニ、仲珪ガ父、資陽郡ニシテ身ニ病ヲ受(うけ)タリ。子ノ仲珪、帯ヲ不解(とか)ズシテ父ノ所ニ行(ゆき)テ、懇ろ(ねむごろに)此レヲ養ヒ繚(あつか)フ。父久ク悩ム間ニ遂ニ死(しに)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.139」岩波書店)
父の死後、仲珪は妻子のいる自分の家を離れた。亡き父の墓(つか)のそばに菴(いほり)を設け、仏教に専心し法華経を読誦して差し上げていた。墓の辺(ほとり・そば)に菴を造り墓守りをするのは古代中国の風習。もっとも、それすら出来ない貧困階級がぞろぞろいたことはここでは言及されていないが。
「其ノ後(のち)、仲珪、妻子ヲ離レテ、彼ノ父ガ墓(つか)ノ辺(ほとり)ヲ行(ゆき)テ、菴(いほり)ヲ造(つくり)テ其レニ居(ゐ)テ、専(もはら)ニ仏教ヲ信(しんじ)テ法花経(ほくゑきいやう)ヲ読誦(どくじゆ)シ奉ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.139」岩波書店)
ともかく仲珪は父の墓(つか)造りに取り掛かり、昼は土の運搬、夜は法華経の読誦に励んだ。ちっともさぼらないところに仲珪の真面目さが偲ばれる。けれども、それはそれとして家では妻子が待っている。通例として喪に服する期間は三年。その三年間を過ぎても仲珪は家に戻らなかった。
「昼ハ土を負(おひ)テ墓(つか)ヲ築(つ)キ、夜ハ専(もはら)ニ法花経ヲ読誦(どくじゆ)シ奉(たてまつり)テ、父ノ後世(ごせ)ヲ訪(とぶら)フ。更ニ誠ノ心不怠(おこたら)ズシテ、三箇年ヲ経(へたり)ト云(いへ)ドモ、家ニ不還(かへら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.139」岩波書店)
そんな時、夜になり仲珪がいつものように法華経を読誦していると菴(いほり)の前に一匹の虎がのっそり出てきてその場に蹲(うずくま)ってしまった。しばらく経っても立ち去ろうとしない。仲珪は虎に向かっていう。「そなた、私はお経を読んでいるのであって猛獣に立ち向かおうと願っているわけではない。虎よ、どんなわけがあってここへやって来たのか」。すると虎は何を思ったのかわからないが起き上がって立ち去っていった。
「其ノ程、一ノ虎有(あり)テ、夜(よる)菴(いほり)ノ前ニ来(きたり)テ蹲(うずくまりゐ)テ、経ヲ読誦(どくじゆ)スルヲ聞ク、久ク有(あり)テ不去(さら)ズ。仲珪、此レヲ見テ心ニ恐ルル事無クシテ云(いは)ク、『我レ、悪(あし)キ獣ニ向ハム事ヲ不願(ねがは)ズ。虎、何ノ故有(あり)テ来レルゾヤ』ト。虎、此レヲ聞(きき)テ、即チ立(たち)テ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.139」岩波書店)
翌朝、墓(つか)の周囲を見渡してみると七十二本の蓮花がずらりと生い続いている。整然たるもの。人間が植え整えたかのようだ。赤い茎、紫の花、花の直径は十五センチほど。色も輝きも趣き深い美しさを湛え、ふつうの蓮花とは明らかに異なっている。
「亦、其ノ明(あく)ル朝(あした)ニ墓(つか)ヲ巡(めぐり)テ見ルニ、蓮花(れんぐゑ)七十二茎(きやう)生(おひ)タリ。墓(つか)ノ前ニ当(あたり)テハ次第ニ直(ただ)シク生ヒ次(つづ)ケリ。人ノ態(わざ)ト殖(うゑ)タルガ如キ也。茎ハ赤クシテ花ハ紫也。花ノ広サ五寸也。色及ビ光リ妙(たへ)ニシテ例ノ花ニ異(こと)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.139」岩波書店)
隣の里人がそのことを聞き付けて見に来た。異例の光景に驚いたのか内外の洲や県へもあっという間に噂が広がった。とうとう洲の長官・辛君(しんくん)とその補佐官・沈裕(しんゆ)が連れ立って墓(つか)を見にやって来た。そのとき、一羽の鳥が出現した。鴨に似ている。
「刺史(しし)辛君(しんくん)、及ビ別駕(べつが)沈裕(しんゆ)ト云フ人等、此ノ事ヲ聞(きき)テ、共ニ墓(つか)ノ所ニ来(きたり)テ此レヲ見ル間、忽(たちまち)ニ一ノ島出来(いできた)レリ。鴨(かも)ニ似タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.140」岩波書店)
鳥は三十センチほどの鯉(こい)を口に咥えて墓のそばへ飛び来たった。そして辛君の前まで飛んで来ると運んできた鯉を地面に置いて再び飛び去った。
「其ノ鳥、一尺許(ばかり)ノ二ノ鯉ヲ含(ふふみ)テ飛ビ来(きたり)テ、刺史(しし)君昌(くんしやう)ノ前ニ来(きたり)テ、魚ヲ地(ぢ)ニ置(おき)テ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十七・P.140」岩波書店)
さて。交換様式について。まず前提として「仲珪の父の墓(つか)造営並びに法華経読誦」がある。それと交換関係に入ったのが(1)「虎の出現と退散」、(2)「異例の蓮花園出現」、(3)「洲の長官・辛君(しんくん)の来訪と謎の鳥による鯉の献上」。そこで「仲珪の父の墓(つか)造営並びに法華経読誦」を仲珪が費やした一連の労働力とすると、それは一定量の貨幣に等しく、その限りで三つの商品へ変換されたと考えることは容易である。
また、墓所のそばに菴(いほり)を設ける風習に関し、以前取り上げた「巻第九・第八話・欧尚(おうしやう)、恋死父墓造庵居住語(しにけるちちをこひてはかにいほりをつくりてきよぢうせること)」でも虎の出現が見られた。その時の虎は山から郷(さと)へ出てきたため武装した郷人らに追い立てられ、喪に服している欧尚の廬(いほり)の中へ逃げ込んだ。欧尚は自分が着ている衣を脱いで虎に着せてやり、虎を匿って命を救ってやった。その後、助けられた虎は欧尚の廬を訪れるようになり、いつも捕えた鹿を置いていくようになった。食用ばかりでなく特に鹿皮は高級品だったのでしばらくして欧尚は富豪になったという説話。その時もまた出現したのは虎である。父の死後に虎が出現し、猛獣である虎にどのように向き合ったかによってその後の展開が決まってくる構造を取っている。では一体このように、いつも決まって墓のすぐそばの庵に出現する虎とは何なのか。親の死によって残された子が、その後、どのような身の振る舞い方を選択するのか、試しに出現していることは明らかと言わねばならない。とすればいかにも不用意に出現し、わざわざ喪に服している子の庵まで近づき、しばらく様子を見に来る虎は亡き親の変容した姿なのかもしれない。
仲珪の場合、亡き父の墓(つか)を仲珪が造りさらに庵を構えて仏教に深く帰依している姿を確認するや虎はどこかへ消え失せた。翌朝、墓(つか)の周囲は満面の蓮花の園へ転化していた。そしてさらに高級官僚の到着に合わせて鴨に似た謎の鳥が二匹の鯉を咥えて献上しに来るというアレンジが施されている。この場合、謎の鳥は虎の変化したものであっても何ら構わないことを考慮に入れることができる。
なお、謎の鳥が「鯉」を持ってきた点には多少注意が必要かもしれない。本朝部掲載の説話に、天狗の技を途中まで習った宮中警護の滝口所属の侍が、古藁沓(ふるわらぐつ)を「鯉」に変えて生きながら踊らせる芸を披露するシーンがある。これも以前に取り上げた。
「滝口(たきぐち)の陣(じん)にして、滝口共の履置(はきおき)たる沓(くつ)共を、諍(あらそ)ひ事をして、皆犬の子に成して這(はわ)せけり。亦(また)、古藁沓(ふるわらぐつ)を、三尺許(ばかり)の鯉に成して、大盤(だいばん)の上にして、生乍(いきながら)踊(おどら)せなど為(な)す事をなむしける」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.168」岩波文庫)
どこで習ったかというと「信濃国(しなののくに)=長野県」の山奥。そもそも鬼や天狗は仏教伝来以前から列島各地で暮らしていた様々な先住民の末裔で、朝廷の配下に入ったものの時々は中央政権に叛旗を翻して抗議を訴えた勢力を指す。京(みやこ)のすぐ近くに居城を構えて恐れられた「酒呑童子」については何度か述べた。また「沓(くつ)共を、諍(あらそ)ひ事をして、皆犬の子に成して這(はわ)せ」たり、あるいは「古藁沓(ふるわらぐつ)を、三尺許(ばかり)の鯉に成」などの「目くらまし」の芸は、平安時代から戦国末期にかけて「傀儡師(くぐつ)」が用いる芸能として有名だった。
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