前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
唐の徳宗(とくそう)皇帝(くわうてい)の時代、貞元十九年(八〇三年)の頃、一人の僧がいた。名前もわからず住所も不明。諸国を巡る修行に励む遊行僧だったのだろう。或る時、大山府君(たいざんぶくん)の廟堂(めうだう)に参詣した。そこで宿りを取ろうと思い、敬意を表するため不空(ふくう)の新訳による仁王経(にんわうきやう)の四無常(無常・苦・空・無我)の条を読んで差し上げた。
「大山府君(たいざんぶくん)ノ廟堂(めうだう)ニ行キ、宿(やどり)シテ、新訳ノ仁王経(にんわうきやう)ノ四無常(しむじやう)ノ偈(げ)ヲ誦(じゆ)ス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十二・P.111」岩波書店)
大山府君(たいざんぶくん)の廟堂(めうどう)のついては以前「巻第九・第三十五話・震旦庾抱(しんだんのゆはう)、被殺曾氏報怨語(ぞうしにころされてあたをほうぜること)」で触れた。「大山(たいざん=泰山)」。古くは古代中国の神仙思想から生じてきたものと考えられている。次第に儒教や道教、仏教などの諸神・諸仏と混合されてしまい、結果的に冥途の王である閻魔王の居城とされるようになった。しかし「泰山(たいざん)」はもともと「泰山府君(たいざんふくん)」の「府」に示されているように、あの世ではなくこの世の官庁街がモデルになっている。始めは高級官僚や大貴族を指しており、同時に先祖を敬うという意味を持っていた。それが次の段階になると「府君」は亡くなった親を指し示す言葉へとやや意味を変える。死去した先祖という意味が強調されるようになる。その頃、遣隋使に象徴されるように日本へも本格的に儒教や道教、仏教並びに中国の神仙思想などが伝来し始めた。小野篁(おののたかむら)は「野相公」と名乗り、「本朝文粋」の一節に「府君之恩」と書き残している。
「幸願蒙府君之恩許、共同穴偕老之義」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第七・一八六・奉右大臣・野相公・P.242」岩波書店)
その頃はまだ冥界とか地獄とかへ直結する思想ではなかった。あくまで本流としては先祖供養が主流だったように見える。ところが隋から唐へ移る過程で中国各地では大規模な戦乱や反乱が相次いだ。するともう何が何だか整理し切れないほど多様な宗教・思想が入り乱れて独特の冥界が描かれるようになる。十七世紀半ばから十八世紀に書かれた「聊斎志異(りょうさいしい)」ではほとんどまったく日本の地獄絵図と変わらない閻魔庁があり閻魔王が出てくる。そしてそこへ行くには「底知れぬ深い洞穴」があり、「一里ばかり行くと、ふっと灯が消え」、「行く手に広い道が開け、間口十余里もあろうかという広間があ」るという格好。
「鄷都(ほうと)県の城外に閻羅(えんら・閻魔)大王の法廷と伝えられてきた底知れぬ深い洞穴がある。中で使用される刑具はすべてこの世のもので、枷や鎖などが古くなって使えなくなると、外に投げ出される。知県がただちに新品と取り替えておくと、翌朝にはなくなっているので、要した費用はすべて記帳しておくのである。明のとき、按察御史(検察官)の華(か)公といいう人が、鄷都に回ってきたときこれを聞き、『そんな馬鹿なことが』と信ぜず、自ら中にはいって真相を究明しようと、人が止めるのも聞かず、下僕二人を従え、灯を持って奥にはいった。一里ばかり行くと、ふっと灯が消えた。頭を上げてみれば、行く手に広い道が開け、間口十余里もあろうかという広間があって、左右には官服に威儀を正した大官たちが、東側筆頭の席一つを残して居流れていた。そして華公が来たのを見ると、にこにこしながら降りてきた。『いらっしゃい。その後、お変わりありませんか』。『ここはどこですか』。『冥府(閻魔の庁)ですよ』」(「鄷都御史(ほうとぎよし)」『聊斎志異・上・四八・P.440~441』岩波文庫)
また、泰山は「岱宗(たいそう)」とも書く。杜甫が「岱山を望む」という詩を残している。しかし杜甫の場合、詩人だけあってというべきか、どちらかというとご当地案内のためのキャッチ・コピーの色合いが濃い。
「岱宗夫如何 斉魯青未了 造化鍾神秀 陰陽割昏暁 盪胸生曾雲 決眥入帰鳥 会当凌絶頂 一覧衆山小
(書き下し)岱宗(たいそう)夫(そ)れ如何(いかん) 斉魯(せいろ)青(せい)未(いま)だ了(おわ)らず 造化(ぞうか)は神秀(しんしゅう)を鍾(あつ)め 陰陽(いんよう)は昏暁(こんぎょう)を割(さ)く 胸(むね)を盪(うごか)して曾雲(そううん)生(しょう)じ 眥(まなじり)を決(けっ)して帰鳥(きちょう)入(い)る 会(かなら)ず当(まさ)に絶頂(ぜっちょう)を凌(しの)ぎて 一(ひと)たび衆山(しゅうざん)の小(しょう)なるを覧(み)るべし
(現代語訳)泰のみやまは一体いかなる山であるかといえば、斉のくに魯のくにまでその山の青さが終わろうとはしない。万物のつくり主が神妙な霊気をあつめ、陰気と陽気がこの山に働いて昼と夜とを分割する。重なった雲が湧きたってわがこころをとどろかせ、山に帰りゆく鳥をまぶたも裂けよと目をこらす。いつかはきっと絶頂によじのぼり、足もとに山々の小さくみえるのを眺めるであろう」(「望岳」『杜甫詩選・P.14~16』岩波文庫)
ところで宿を取るに当たり、礼儀として仁王経の新訳を読誦・奉納した遊行僧。夜になった。眠っていると夢に大山府君が出現した。そしていう。「私は昔、仏の前でありありと仁王経を聞いたことがある。鳩摩羅什(くまらじゅう)が翻訳したもので文章は大変深い意味内容を如実に伝えているものであった。それを聞いていると、心身ともに浄化されていくような喜びを感じたものだ。それはそうと〔不空による〕新訳だが、なるほど文章はさらに美しく整えられているとはいえ、意味内容はかえって淡白で薄められているような感じがする。そこでそなた、今後も旧訳を忘れないでほしいものだ」。
「我レ、昔(むか)シ、仏前ニ有(あり)テ、面(まのあた)リ此ノ経ヲ聞(きき)シニ、此レ、羅什(らじふ)ノ翻訳ノ詞(ことば)及ビ義理ニ等シクシテ違(たが)フ事無シ。我レ、此ノ読誦(どくじゆ)ノ音(こゑ)ヲ聞クニ、身心清涼(しんじんしやうりやう)ナル事ヲ得タリ、喜ブ所也。然レドモ、新訳ノ経ハ猶、文詞(もんし)甚ダ美也(なり)ト云ヘドモ、義理淡ク薄シ。然レバ、(なむ)ヂ猶、旧訳(くやく)ノ経ヲ可持(たもつべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十二・P.111~112」岩波書店)
すると仁王経の守護神・毘沙門天が現れて僧に経典をお与え下さった。新旧どちらを選択するのかというやや難儀な問いが含まれているわけだが、ともかく僧は新旧ともに携えて公平に取り扱うことにし、いつも両者を暗唱・読誦するよう務めることにした。なお、鳩摩羅什の漢訳を「仁王般若波羅蜜教」、不空の漢訳を「仁王護国般若波羅蜜多教」という。しかしそもそも両者ともに漢訳であり、サンスクリット原典を日本語に直訳したものではない。また前者の鳩摩羅什活躍期と後者の不空活躍期との間には約三五〇年の隔たりがある。いずれにせよ同時代人が自分の生前によく聞いた側を贔屓にしたい気持ちは遥か古代から今に至るまで変わっていないというべきか。
「其ノ後(のち)ハ、僧、旧訳(くやく)ノ経ヲモ並(な)ベテ同ク誦持(じゆぢ)シケリトナム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十二・P.112」岩波書店)
さて。置き換えについて。第一に「サンスクリット原典」から「旧訳(鳩摩羅什訳)」への転化。第二に「サンスクリット原典」から「新訳(不空訳)」への転化。説話の夢の中で大山府君がいうには、文面は旧約に比べて新訳は洗練されたといえようが、その内容は淡白で薄っぺらいものになったと指摘する。言い換えれば、シニフィアン(意味するもの・文面)は形式を整えられて美しいものに変換された。反面、シニフィエ(意味されるもの・意味内容)はあまり手答えが感じられないものに変換された、ということを示している。諸商品の無限の系列が延々と続いていくばかりといった様相を呈する。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
食べ物でいえば、牛肉がパンに置き換えられたような気がするというわけだ。或いはウイスキーが缶ジュースに置き換えられたようなものか。ところがシニフィアン(意味するもの・価格)が同じならシニフィエ(意味されるもの・価値)も同じと見なされるため、内容が明らかに異なっていたとしても、にもかかわらずこの系列はどこまでも延長可能となってしまう。例えば内閣は「人類の(平和と勝利そして福祉の)ための五輪」という。しかしヘーゲルはいう。
「だから人類の福祉を願って脈うつこころは、狂った自負の狂暴へと、自己の破滅に逆らって、身を保とうとする意識の狂熱へと移って行く。そうなるのは、意識が自分自身の姿である転倒を、自分の外に投げ出して、この転倒をどこまでも自分とは別のものと見なし、言い張るためである。だから、一般的秩序は、こころとこころの幸福との法則を、転倒させるものであるが、それは、狂信的な僧侶や飽食した暴君や、この両方から受けた屈辱を、自分より下のものを辱(はずか)しめ抑圧することによって、つぐなっている両者の僕やなどによって、捏造されたものであり、いつわられた人類の、名づけようもない不幸のために、使われたものであると、意識は言明する。ーーー意識は、このような狂乱状態にいながら、《個人》性がこの狂いをひき起し、転倒しているのだと、言明はするものの、その個人性は《他人》のものであり、《偶然》であるとするのである。しかし、こころ、言いかえれば、《そのままで一般的であろうとする、意識の個別状態》は、このように、狂いをひき起し転倒したものそのものであり、その行為が生み出すものは、この矛盾が《自分の》意識になるということにほかならないのである。なぜならば、このこころにとって真実であるものは、こころの法則であり、ーーーこの法則は、ただ《思いこまれた》だけのものであるが、これは存立している秩序のように、日の光に堪えたものではなく、日の光に出会うときには、むしろ亡びるものだからである。こころのこの法則は、《現実》となるはずであった。この点から言えば、こころにとって法則は、《現実》であり、《妥当する秩序》であるため、同時に目的であり本質である。だがこころにとっては、《現実》すなわち、ほかならぬ《妥当する秩序》としての法則は、むしろそのまま空しいものである。ーーーこれと同じように、こころ《自身の》現実は、つまり意識の個別態である《こころ自身》が、こころにとって本質である。けれども、この個別態を《存在する》ものとして立てることが、こころの目的である。だから、こころにとっては、直接的には、むしろ個別的ならぬものであるこころの自己が、本質である、つまり目的であることになる。が、それは法則として、まさにこの点で、こころがその意識自身に対してあるような一般性としてのことである。ーーーこのようなこころの概念は、自らの行為によって一つの対象となる。こころは己れの自己を、むしろ非現実的なものとして経験する、そして、非現実を、自らの現実として経験する。だから、偶然の見知らぬ個人性がではなく、まさにこのこころこそが、あらゆる側面から、自らのうちで転倒したものであり、転倒して行くものである」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.425~426」平凡社ライブラリー)
行うべきミソギを国民に押し付ける内閣のようなものだ。
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唐の徳宗(とくそう)皇帝(くわうてい)の時代、貞元十九年(八〇三年)の頃、一人の僧がいた。名前もわからず住所も不明。諸国を巡る修行に励む遊行僧だったのだろう。或る時、大山府君(たいざんぶくん)の廟堂(めうだう)に参詣した。そこで宿りを取ろうと思い、敬意を表するため不空(ふくう)の新訳による仁王経(にんわうきやう)の四無常(無常・苦・空・無我)の条を読んで差し上げた。
「大山府君(たいざんぶくん)ノ廟堂(めうだう)ニ行キ、宿(やどり)シテ、新訳ノ仁王経(にんわうきやう)ノ四無常(しむじやう)ノ偈(げ)ヲ誦(じゆ)ス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十二・P.111」岩波書店)
大山府君(たいざんぶくん)の廟堂(めうどう)のついては以前「巻第九・第三十五話・震旦庾抱(しんだんのゆはう)、被殺曾氏報怨語(ぞうしにころされてあたをほうぜること)」で触れた。「大山(たいざん=泰山)」。古くは古代中国の神仙思想から生じてきたものと考えられている。次第に儒教や道教、仏教などの諸神・諸仏と混合されてしまい、結果的に冥途の王である閻魔王の居城とされるようになった。しかし「泰山(たいざん)」はもともと「泰山府君(たいざんふくん)」の「府」に示されているように、あの世ではなくこの世の官庁街がモデルになっている。始めは高級官僚や大貴族を指しており、同時に先祖を敬うという意味を持っていた。それが次の段階になると「府君」は亡くなった親を指し示す言葉へとやや意味を変える。死去した先祖という意味が強調されるようになる。その頃、遣隋使に象徴されるように日本へも本格的に儒教や道教、仏教並びに中国の神仙思想などが伝来し始めた。小野篁(おののたかむら)は「野相公」と名乗り、「本朝文粋」の一節に「府君之恩」と書き残している。
「幸願蒙府君之恩許、共同穴偕老之義」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第七・一八六・奉右大臣・野相公・P.242」岩波書店)
その頃はまだ冥界とか地獄とかへ直結する思想ではなかった。あくまで本流としては先祖供養が主流だったように見える。ところが隋から唐へ移る過程で中国各地では大規模な戦乱や反乱が相次いだ。するともう何が何だか整理し切れないほど多様な宗教・思想が入り乱れて独特の冥界が描かれるようになる。十七世紀半ばから十八世紀に書かれた「聊斎志異(りょうさいしい)」ではほとんどまったく日本の地獄絵図と変わらない閻魔庁があり閻魔王が出てくる。そしてそこへ行くには「底知れぬ深い洞穴」があり、「一里ばかり行くと、ふっと灯が消え」、「行く手に広い道が開け、間口十余里もあろうかという広間があ」るという格好。
「鄷都(ほうと)県の城外に閻羅(えんら・閻魔)大王の法廷と伝えられてきた底知れぬ深い洞穴がある。中で使用される刑具はすべてこの世のもので、枷や鎖などが古くなって使えなくなると、外に投げ出される。知県がただちに新品と取り替えておくと、翌朝にはなくなっているので、要した費用はすべて記帳しておくのである。明のとき、按察御史(検察官)の華(か)公といいう人が、鄷都に回ってきたときこれを聞き、『そんな馬鹿なことが』と信ぜず、自ら中にはいって真相を究明しようと、人が止めるのも聞かず、下僕二人を従え、灯を持って奥にはいった。一里ばかり行くと、ふっと灯が消えた。頭を上げてみれば、行く手に広い道が開け、間口十余里もあろうかという広間があって、左右には官服に威儀を正した大官たちが、東側筆頭の席一つを残して居流れていた。そして華公が来たのを見ると、にこにこしながら降りてきた。『いらっしゃい。その後、お変わりありませんか』。『ここはどこですか』。『冥府(閻魔の庁)ですよ』」(「鄷都御史(ほうとぎよし)」『聊斎志異・上・四八・P.440~441』岩波文庫)
また、泰山は「岱宗(たいそう)」とも書く。杜甫が「岱山を望む」という詩を残している。しかし杜甫の場合、詩人だけあってというべきか、どちらかというとご当地案内のためのキャッチ・コピーの色合いが濃い。
「岱宗夫如何 斉魯青未了 造化鍾神秀 陰陽割昏暁 盪胸生曾雲 決眥入帰鳥 会当凌絶頂 一覧衆山小
(書き下し)岱宗(たいそう)夫(そ)れ如何(いかん) 斉魯(せいろ)青(せい)未(いま)だ了(おわ)らず 造化(ぞうか)は神秀(しんしゅう)を鍾(あつ)め 陰陽(いんよう)は昏暁(こんぎょう)を割(さ)く 胸(むね)を盪(うごか)して曾雲(そううん)生(しょう)じ 眥(まなじり)を決(けっ)して帰鳥(きちょう)入(い)る 会(かなら)ず当(まさ)に絶頂(ぜっちょう)を凌(しの)ぎて 一(ひと)たび衆山(しゅうざん)の小(しょう)なるを覧(み)るべし
(現代語訳)泰のみやまは一体いかなる山であるかといえば、斉のくに魯のくにまでその山の青さが終わろうとはしない。万物のつくり主が神妙な霊気をあつめ、陰気と陽気がこの山に働いて昼と夜とを分割する。重なった雲が湧きたってわがこころをとどろかせ、山に帰りゆく鳥をまぶたも裂けよと目をこらす。いつかはきっと絶頂によじのぼり、足もとに山々の小さくみえるのを眺めるであろう」(「望岳」『杜甫詩選・P.14~16』岩波文庫)
ところで宿を取るに当たり、礼儀として仁王経の新訳を読誦・奉納した遊行僧。夜になった。眠っていると夢に大山府君が出現した。そしていう。「私は昔、仏の前でありありと仁王経を聞いたことがある。鳩摩羅什(くまらじゅう)が翻訳したもので文章は大変深い意味内容を如実に伝えているものであった。それを聞いていると、心身ともに浄化されていくような喜びを感じたものだ。それはそうと〔不空による〕新訳だが、なるほど文章はさらに美しく整えられているとはいえ、意味内容はかえって淡白で薄められているような感じがする。そこでそなた、今後も旧訳を忘れないでほしいものだ」。
「我レ、昔(むか)シ、仏前ニ有(あり)テ、面(まのあた)リ此ノ経ヲ聞(きき)シニ、此レ、羅什(らじふ)ノ翻訳ノ詞(ことば)及ビ義理ニ等シクシテ違(たが)フ事無シ。我レ、此ノ読誦(どくじゆ)ノ音(こゑ)ヲ聞クニ、身心清涼(しんじんしやうりやう)ナル事ヲ得タリ、喜ブ所也。然レドモ、新訳ノ経ハ猶、文詞(もんし)甚ダ美也(なり)ト云ヘドモ、義理淡ク薄シ。然レバ、(なむ)ヂ猶、旧訳(くやく)ノ経ヲ可持(たもつべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十二・P.111~112」岩波書店)
すると仁王経の守護神・毘沙門天が現れて僧に経典をお与え下さった。新旧どちらを選択するのかというやや難儀な問いが含まれているわけだが、ともかく僧は新旧ともに携えて公平に取り扱うことにし、いつも両者を暗唱・読誦するよう務めることにした。なお、鳩摩羅什の漢訳を「仁王般若波羅蜜教」、不空の漢訳を「仁王護国般若波羅蜜多教」という。しかしそもそも両者ともに漢訳であり、サンスクリット原典を日本語に直訳したものではない。また前者の鳩摩羅什活躍期と後者の不空活躍期との間には約三五〇年の隔たりがある。いずれにせよ同時代人が自分の生前によく聞いた側を贔屓にしたい気持ちは遥か古代から今に至るまで変わっていないというべきか。
「其ノ後(のち)ハ、僧、旧訳(くやく)ノ経ヲモ並(な)ベテ同ク誦持(じゆぢ)シケリトナム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十二・P.112」岩波書店)
さて。置き換えについて。第一に「サンスクリット原典」から「旧訳(鳩摩羅什訳)」への転化。第二に「サンスクリット原典」から「新訳(不空訳)」への転化。説話の夢の中で大山府君がいうには、文面は旧約に比べて新訳は洗練されたといえようが、その内容は淡白で薄っぺらいものになったと指摘する。言い換えれば、シニフィアン(意味するもの・文面)は形式を整えられて美しいものに変換された。反面、シニフィエ(意味されるもの・意味内容)はあまり手答えが感じられないものに変換された、ということを示している。諸商品の無限の系列が延々と続いていくばかりといった様相を呈する。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
食べ物でいえば、牛肉がパンに置き換えられたような気がするというわけだ。或いはウイスキーが缶ジュースに置き換えられたようなものか。ところがシニフィアン(意味するもの・価格)が同じならシニフィエ(意味されるもの・価値)も同じと見なされるため、内容が明らかに異なっていたとしても、にもかかわらずこの系列はどこまでも延長可能となってしまう。例えば内閣は「人類の(平和と勝利そして福祉の)ための五輪」という。しかしヘーゲルはいう。
「だから人類の福祉を願って脈うつこころは、狂った自負の狂暴へと、自己の破滅に逆らって、身を保とうとする意識の狂熱へと移って行く。そうなるのは、意識が自分自身の姿である転倒を、自分の外に投げ出して、この転倒をどこまでも自分とは別のものと見なし、言い張るためである。だから、一般的秩序は、こころとこころの幸福との法則を、転倒させるものであるが、それは、狂信的な僧侶や飽食した暴君や、この両方から受けた屈辱を、自分より下のものを辱(はずか)しめ抑圧することによって、つぐなっている両者の僕やなどによって、捏造されたものであり、いつわられた人類の、名づけようもない不幸のために、使われたものであると、意識は言明する。ーーー意識は、このような狂乱状態にいながら、《個人》性がこの狂いをひき起し、転倒しているのだと、言明はするものの、その個人性は《他人》のものであり、《偶然》であるとするのである。しかし、こころ、言いかえれば、《そのままで一般的であろうとする、意識の個別状態》は、このように、狂いをひき起し転倒したものそのものであり、その行為が生み出すものは、この矛盾が《自分の》意識になるということにほかならないのである。なぜならば、このこころにとって真実であるものは、こころの法則であり、ーーーこの法則は、ただ《思いこまれた》だけのものであるが、これは存立している秩序のように、日の光に堪えたものではなく、日の光に出会うときには、むしろ亡びるものだからである。こころのこの法則は、《現実》となるはずであった。この点から言えば、こころにとって法則は、《現実》であり、《妥当する秩序》であるため、同時に目的であり本質である。だがこころにとっては、《現実》すなわち、ほかならぬ《妥当する秩序》としての法則は、むしろそのまま空しいものである。ーーーこれと同じように、こころ《自身の》現実は、つまり意識の個別態である《こころ自身》が、こころにとって本質である。けれども、この個別態を《存在する》ものとして立てることが、こころの目的である。だから、こころにとっては、直接的には、むしろ個別的ならぬものであるこころの自己が、本質である、つまり目的であることになる。が、それは法則として、まさにこの点で、こころがその意識自身に対してあるような一般性としてのことである。ーーーこのようなこころの概念は、自らの行為によって一つの対象となる。こころは己れの自己を、むしろ非現実的なものとして経験する、そして、非現実を、自らの現実として経験する。だから、偶然の見知らぬ個人性がではなく、まさにこのこころこそが、あらゆる側面から、自らのうちで転倒したものであり、転倒して行くものである」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.425~426」平凡社ライブラリー)
行うべきミソギを国民に押し付ける内閣のようなものだ。
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